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還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―  作者: 吉原タシ


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第3章1節 タクラマカン砂漠 245年(正始6年)9月 旅立ちから3ヶ月

敦煌とんこうの城壁を背に、夕陽が砂漠の地平線に沈みきった頃、私は一人、砂地の道を歩き出していた。旅籠「緑洲楼りょくしゅうろう」の門をくぐった瞬間から、家族の声は背後で小さくなり、すぐに風に飲み込まれた。親父さんの太い励まし、女将さんの優しい笑顔、小明の涙目——みんなの温かさが、まだ胸の奥にじんわり残っている。でも、後ろを振り返るのはやめた。振り返ったら、きっと足が止まってしまうから。


巾着袋の底をそっと探ってレーザーガンの存在を再度確かめて、巾着袋を肩にかけ直した。荷物は親父さんの助言通り、八十(きん)(約20kg)以内に抑えたはずなのに、すでに足にずしりと響く。

「準備したから大丈夫……だよね」自分に言い聞かせて、西の空を見上げた。星が一つ、また一つと瞬き始める。


夜間移動が始まった。一ヶ月半ぶりの旅の再開——敦煌の旅籠で働き、情報を集め、路銀を貯め、物資を揃えた、忙しいながらも穏やかだった日々はもう終わり。

砂漠の旅は、日が沈んだら移動を開始し、日が出てきたら休憩場所を探しながら歩き、日が高くなる前に体を休めるのが鉄則と、親父さんからの助言を頭の中で繰り返す。世界は墨のような闇に包まれ、星を頼りにしか方向を定められない。北斗七星を目印に、ゆっくりと足を進める。

砂が靴底を滑り、時折小さな石が転がる音だけが響く。荷物の重さが、すぐに足の裏に染みてきた。特に水袋三つが満杯で、背中が軋む。山岳部で縦走したときは一日一回補給できたけど、ここは違う。五日分しか持てないから、砦で必ず補給しなきゃ。夜の冷気が心地いいはずなのに、汗が額を伝う。

「はあ……はあ……」息が少し上がる。星空は日本では見たことのない満天。見慣れた星座を探すのも大変で、なんだか世界が広すぎて、自分がちっぽけに感じる。

「へへ……一人で歩くの、意外と静かだね」声に出して自分を励ます。でも、返ってくるのは自分の足音だけ。敦煌の旅籠で、小明と井戸端で星を見上げた夜。つい先月のことなのに、急に遠く感じた。


夜通し歩いて、夜明けが近づくと、空が薄明るくなり始めた。日が出てきたら休憩場所を探しながら歩く——そのルーティンを意識して、周囲を注意深く見回す。まだ本格的な砂海には入っていないけど、地平線はすでに黄金色の波のようにうねっている。岩陰や低木の影を探しながら数里を進み、ようやく小さな窪地を見つけた。

「ここで……夕方まで休まなきゃ」親父さんの言葉を思い出す。日が高くなる前に休憩に入らなければ、命取りになる。岩陰はなかった。ただの砂と低木の影だけ。仕方なく、私は砂を両手で掘り始めた。

「うわ……熱い」指先が砂に触れた瞬間、びっくりするほど熱かった。まだ朝なのに、もう太陽の熱が染み込んでいる。膝をついて、必死に掘る。穴を深くして、体を横たえられるくらいの窪みを作った。荷物を脇に置き、上着を脱いで体を覆い、砂を自分の上に被せる。

「これで……熱を防げるはず……」


でも、想像を遥かに超えていた。

日が高くなってくると、背中、太もも、首筋……どこもかしこもじわじわと炙られているようだ。大きく息を吸うと、喉の奥がカラカラに乾く。汗が一瞬で蒸発して、肌がぴりぴりする。目を開けていると、砂埃が睫毛まつげに張り付く。

口を布で覆い、呼吸を、浅く、小さくする。心臓の音が、耳の中でどくどくと鳴る。唇がすぐに乾き始め、視界の端が少しぼやける気がした。


昔、本で読んだ言葉が、不意に頭の中に浮かんだ。

沙河中さかちゅう、多く悪鬼熱風あり。一も全く者なし。上に飛鳥ひちょうなく、下に走獣そうじゅうなく、遍望極目へんぼうきょくもくわたところを求めんと欲して、すなわする所を知るなし。ただ日をって東西になぞらえ、死人の骨を以て行路こうろを標するのみ』

法顕ほっけんだっけ……? この時代は、まだ生まれてないのかな? この言葉だけは印象深くて覚えていた……本当なんだね……」

周りを見回しても、鳥の影も、獣の足跡も、ない。ただ、果てしない砂と、揺らぐ陽炎だけ。昨夜も見かけたのと同じような白い骨が、道標のように転がっている……獣の骨だろうか。飛鳥も走獣もいないのに?でも、人骨だなんて思いたくない……。


私は砂の中で体を丸めた。荷物の重さ、孤独、灼熱。すべてが一気にのしかかってくる。敦煌の旅籠で、みんなに笑顔で送り出されたときの余韻と「しっかり準備したから大丈夫」という気持ちが、砂漠の熱で蒸発していく。

星空の下で歩いた夜の静けさすら、昼の灼熱の中で、急に遠く感じる。

「葵さん……私、ちゃんとここまで来たよ。でも……これから、どうしよう……」


砂に埋もれたまま、熱に苛まれながらも、一晩歩き続けた疲れで私はゆっくりと目を閉じた。息は一層浅く、意識がぼんやりと溶けていく……。

やがて、気を失うように深い眠りに落ちた。


お読みいただきありがとうございました。

本作はカクヨムで先行連載中です。続きを気にしていただける方は、そちらもご利用ください。


【カクヨム版】還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―

https://kakuyomu.jp/works/2912051604743494473


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