束の間の安寧
離宮の寝室には、澄んだ冬の空気と、生まれたばかりの命だけが連れてくる、甘く、ミルクのようにやわらかな香りが満ちていた。
天蓋から重厚なカーテンの垂れる大きなベッドの上で、リリアは体を横たえたまま、胸元に抱いた宝物を見つめている。
産後の経過は順調とはいえ、もともと繊細な彼女の身体を案じたシエルや城の者たちから、「絶対に無理をしてはならない」と厳重に言い渡された療養の日々。
窓の外では、冬を待つ空が淡い鈍色に沈み、暖炉の火だけが、ぱちりと小さく息をしていた。
「うー……」
小さなレースのおくるみの中から、ルチアが、ぶかぶかの袖口を揺らして、ふっくらとした手を伸ばした。
キュッと握られたかと思えば、今度はパタパタと空を泳ぎ、リリアの頬へ、羽根のように触れる。その無邪気な仕草に、彼女の目元が、ふんわりとほどけた。
「ふふ、ルチア……お腹がすきましたか? それとも、お父様に会いたい……?」
人差し指を握らせてやると、ルチアは満足そうに「ふにゃ……」と小さな声をこぼし、リリアの胸元へ、小さな顔をすり寄せてくる。
その重みが、あたたかさが、あまりにもいとしくて。
「ねえ、ルチア……貴女が大きくなったら、どんな女の子に育つのかしらね」
腕の中の小さな我が子を見つめながら、リリアはそっと目を細めた。
「私に似て、少し内気でおとなしい子になるかしら。それとも……お父様のように、凛として強くて、誰からも愛される、素敵な子になるかしら……」
白銀の髪を揺らして笑う少女の姿が、まぶたの裏に、ふわりと浮かぶ。
「お庭に綺麗な花が咲く頃には、お父様と一緒に、三人で手をつないでお散歩しましょうね……。おそろいのドレスも、着たいですね……」
自分だけおそろいじゃないと眉をひそめるシエルの顔まで思い浮かんで、くすりと笑ってしまう。
まだ見ぬ、幸福な未来。
あまりにしあわせで、しあわせすぎて、ぽろりと、涙がこぼれた。
そのとき、重厚な木の扉が、静かな音を立てて開いた。
あわてて指先で涙を拭うリリア。
執務の合間を縫って離宮へ戻ってきたシエルが、長身を滑り込ませるように入ってくる。冷たい外気を、この部屋にも、彼女にも持ち込まないように。暖炉の前でしばらく手を温め、外套を脱いでから、彼はベッドの脇に、そっと腰を下ろした。
「ただいま、リリア」
いつものように、髪を撫でてくれる、大きな手。
「……ルチアも起きてるんだね、元気そうだ」
「おかえりなさい、シエル様。ルチアはご機嫌に手足を動かしていたところです。ちょうど今、大きくなったらどんなお洋服を着ましょうか、……なんて、二人でお話ししていたの」
シエルはやわらかく微笑むと、壊れものを扱うような手つきで、ルチアの頬を人差し指の背でそっと撫でた。そのまま視線の高さを合わせ、まだほんのり蒼白さの残るリリアの頬へ、手が添えられる。指先からじんわりと伝わる夫の体温に、リリアはうっとりと目を細めた。
シエルはゆっくりと身をかがめ、リリアの額に、深く唇を寄せた。
「君の顔色も、昨日よりずっといいね。安心した」
「……ええ。こうしてシエル様に触れていただいていると、とても安心するんです」
ふと思い出したように、リリアは表情を明るくする。
「ルチアのお誕生日の準備、もう進んでいるのでしょうか? 中庭や地下の魔術回路まで使って、なんだかすごく大掛かりな飾り付けの準備をしているって、おっしゃっていましたが……」
問いかけた瞬間、シエルの表情が、一瞬だけ強張ったような気がした。
――けれど、きっと気のせいだったのだろう。彼はすぐに、いつもの穏やかな微笑みに戻って頷いたから。
「ああ……そうだね。ルチアにとって初めての誕生祭だ。北の大地を護る防寒結界の点検も兼ねて、庭園や地下の回路を少し大掛かりに調整しているんだよ。君とルチアに、一番綺麗な景色を見せたくてね」
「まあ……そんなに張り切ってくださっているんですね」
嬉しさに目を細めたものの、リリアはすぐに、申し訳なさそうに眉を下げた。
シエルの指先に自分の手を重ね、その袖口を、ぎゅっと小さくつまむ。
「でも、シエル様……私、なんだか申し訳なくて。母親の私だって、ルチアのお祝いのために、お料理を選んだり、準備をお手伝いしたりしなければいけないのに……。ずっとベッドに横になっているばかりで、何もできなくて……」
自分の無力さに、小さく唇を噛むリリア。その頭を、シエルは包み込むように撫でた。
「そんなことを気にする必要はないよ、リリア。君が体を休めて、無事でいてくれること。それ以上に大切な仕事はないんだから。ルチアにとっても、俺にとってもね」
いつの間にか、リリアの腕の中のルチアは、すっかり心地よい眠りに落ちていた。小さな胸を上下させ、規則正しい寝息を立てている。
「……おいで、ルチア。俺が寝かせよう」
シエルが、そっと両腕を差し出した。
少し緊張を含んだ手つきで我が子を受け取ると、彼はベッドの脇の透かし彫りのゆりかごへ、息を殺すようにして、静かに寝かせた。おくるみの端を整え、小さな額に、指先でそっと触れる。
「おやすみ、俺たちの光」
囁くような小さな声。その横顔を、リリアは、胸をあたたかくしながら見つめていた。
ゆりかごから戻ってきた彼の手に、リリアはそっと自分の手を重ねた。
――触れた指先に、わずかな違和感が走る。
「……シエル様? 手を見せていただけますか?」
「え……?」
リリアがシエルの大きな手をそっとすくい上げると、白く美しいはずの指先や手のひらに、刃で刻んだような傷が、無数に走っていた。
「こんなに傷だらけ……。お仕事で……? それとも、飾り付けの準備で……?」
痛ましさに息をのむリリアを見て、シエルは慌てて手を引こうとした。
「大した傷じゃないよ、リリア。気にするようなことでは――」
けれど、リリアは、その手を放さなかった。
そっと目を閉じ、両手で彼の傷ついた手を包み込む。胸元から、淡く、あたたかな光が零れ出した。リリアの聖力が、シエルの指先を、やさしく、やさしく包んでいく。
見る見るうちに、痛々しい傷跡が、光に溶けるように消えていった。ひとつ、またひとつ。やがて、なめらかな肌だけが戻ってくる。
「リリア、駄目だ……っ! こんなことに聖力を使うなんて……!」
顔を蒼白にして、切迫した声で制止しようとするシエル。彼女の命を削らせてしまうという焦燥が、瞳を大きく揺らした。
だが、光が収まると、リリアは、ふわりと花がほころぶような笑顔を向けた。
「大丈夫です、シエル様。だって私、今、シエル様にいっぱい愛されていて、魔力もわけてもらえていますから……」
「……リリア……」
「シエル様のお手伝いはできなくても……こうして、シエル様の痛みを治して差し上げることくらいは、させてくださいね」
自分の手で傷を消せたことに、ほっと胸を撫で下ろすリリア。
その無垢な笑みに、シエルの胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
「……ありがとう、リリア」
掠れた声で呟いて、彼は彼女の手を握り返す。
綺麗に戻った夫の手のひらを、リリアは、そっと両手で包み直した。それから、シエルの胸元へ、ことりと額を預ける。
「……本当はね、シエル様。ルチアのお祝いのために、そこまで頑張ってくださるお気持ちは、すごく嬉しいのですけれど……。でも……最近、シエル様が夜に居ないことが多くて……。私、本当は……ちょっとだけ……寂しいです」
言葉にした瞬間、シエルがわずかに息を詰めたのを、リリアは肌越しに感じ取った。
「……リリア」
強い力で、腕の中に閉じ込められる。華奢な背中を包み込み、首筋に深く顔をうずめたシエルは、まるで彼女の存在そのものを確かめるように、深く、深く息を吸い込んだ。
背中に回された手が、かすかに震えているのが伝わってくる。
彼の沈黙と、張りつめた空気に息をのみながらも、リリアは、そっと腕を回し返し、その背中を優しく撫でた。
「……困らせてしまいましたね。ごめんなさい、わがままを言って……」
「……謝らないでくれ。君にそんな顔をさせているのは俺だ」
顎を優しく指ですくい上げられ、視線が交差する。
唇が重なる。切なく、熱く。
触れ合うだけの口づけから、少しずつ角度を変え、吐息を甘く奪っていく。一度離れても、すぐに二度、三度と、想いを確かめ合うように重なって、リリアの心まで、熱く痺れさせていった。
「ん……シエル様……」
胸が高鳴り、熱を帯びたリリアの手が、自然と彼の首元へ回って、強くすがりつく。
吐息の混じり合うほどの距離で、シエルは、低く掠れた声で、約束するように囁いた。
「あと少しだ。……すべてが終わったら、ずっと君の側にいる。片時も離れず、どこへも行かない」
シエルがゆっくりと身を離し、残った仕事に向かうために立ち上がろうとする。
頬や唇に残っていた熱が、すうっと遠ざかっていく。
その温もりと、離れていく寂しさに耐えかねて、リリアの手は、咄嗟に動いていた。
「……シエル様」
リリアの指先が、離れかけたシエルの手のひらを、縋るような強さで、ぎゅっと握り返す。
さきほど自分が綺麗に治したばかりの、あたたかな手のひらを。
「……お願いです。今夜は……もう少しだけ、一緒にいてくれませんか……?」
上気した顔を持ち上げ、潤んだ瞳で見つめてくるリリア。その声は微かに震え、愛しい夫に甘えるような、混じりけのない切なさに満ちていた。
「リリア……?」
「わかっています……ルチアのため、私のために頑張ってくださっているのは、分かります。でも……っ」
握りしめたシエルの手のひらを、両手で包み込むように、自分の胸元へと引き寄せる。
「お願いです……私を、置いていかないで……」
それは、彼女なりの精いっぱいの甘えであり、理由のない不安を紛らわせたいがための、言葉だった。
けれど、その「置いていかないで」という響きは、「いつか彼女を失う恐怖」に囚われているシエルの心を、容赦なく撃ち抜いた。
(違う……離れたくないのは、俺の方だ)
喉まで出かかった叫びを、シエルは、必死に飲み込む。
「……シエル様……駄目、でしょうか……?」
縋るような瞳に見つめられ、彼の冷徹な理性は、音を立てて崩れ去った。
「……駄目なわけがないだろう……っ」
シエルは力任せにリリアを抱き締め直し、包み込むようにして、ベッドへ倒れ込んだ。
掛け布団ごと彼女を引き寄せ、妻の髪に、何度も、何度も、想いを込めたキスを落とす。
「ごめんね……ごめん、リリア……。ここにいる。今夜はどこにも行かない……君の側にいるよ」
「シエル様……」
夫のあたたかな腕の中で、リリアは安堵の吐息をこぼし、彼の胸元へ、深く顔を埋めた。
暖炉の火が、ぱちりと、小さくはぜる。
ゆりかごの中の寝息と、シエルの鼓動と、自分の呼吸。三つの音がひとつに重なって、冬の夜のなかへ、静かに溶けていく。
さっきまで思い描いていた「三人で中庭を歩く未来」が、この腕の中の温もりのまま、ずっと続いていくのだと信じながら。
リリアは、ふわりと心地よい眠気に、いざなわれていった。
きっと今夜は、あの呼び声は聞こえない。




