いちばん眩しい光
秋の夜は、音がなかった。
窓の外では、冷えた風が裸になった白樺の枝を鳴らしている。その音さえ、重い寝室の扉の前では、遠い世界の出来事のように思えた。
その日、廊下の灯りは、夜が深まっても、ひとつも消されなかった。
シエルは、扉の前を歩いていた。
三歩進んで、止まる。耳を澄ます。また三歩戻る。足音を殺しているつもりなのに、石の床は容赦なくその硬い音を返してくる。何度目かも、もう数えていなかった。
扉の向こうから、ときおり、リリアの声が漏れる。
息を詰めるような、堪えるような、細い声。
そのたびに、胸の奥が冷たく引き攣った。扉へ駆け寄り、取っ手に指がかかる。けれど、押せない。ここに入っても、自分にできることなど何もない。邪魔になるだけだ。わかっている。わかっているのに、足が勝手に扉へ向かってしまう。
シエルは両手で顔を覆い、深く息を吐いた。指先が氷のように冷たい。
――母は、俺を産んで死んだ。
苦い過去が、静寂に押しつぶされそうな今夜に限って浮かび上がってくる。
自分が生まれた夜、この国の誰かが、同じように扉の前で、祈っていたのだろうか。その祈りは、届かなかったのだろうか。
(頼む)
(俺の命なら、いくらでもやる)
(だから……どうか、どうか、二人とも無事で)
静寂のなか、声にならない祈りだけが、冷たい壁へ吸い込まれていく。
握りしめた拳は固く結ばれたまま、解けることはなかった。
夜が、ゆっくりと薄らいでいく。
窓の外の闇が、やがて深い藍に変わり、冷たい蒼へとほどけていく。回廊の床に、淡い光がひとすじ、伸びてきた。
その光が、シエルの足元へ届いた、ちょうどそのとき――
扉の向こうで、声がした。
高く、細く、まっすぐな声。
泣き声だった。生まれたばかりの命が、世界に向かって、精一杯に上げた最初の声。
シエルは、息をするのを忘れた。
音が、世界から消えた。聞こえるのは、扉の向こうから響く小さな泣き声と、自分の胸の奥で、割れそうなほど鳴る鼓動だけ。
扉が、静かに開く。
年配の産婆が、涙で濡れた目を細めて、深々と頭を下げた。
「おめでとうございます、殿下。健やかな姫君でございます。……妃殿下も、ご無事で」
最後のひとことが、夜の間ずっと胸を打ち据えていた不安を押し流していく。
足を踏み入れた寝室には、あたたかな灯りと、湯の匂い、そしてかすかな血と花の香りが満ちていた。
リリアは、かろうじて息を繋ぐように寝台へ身をあずけていた。
黒髪は汗で頬に貼りつき、顔は雪のように白い。長い苦痛を耐え抜いた彼女は、息を整えることすらおぼつかない様子だった。
けれど、その腕の中には――
白い布に包まれた、小さな小さな命があった。
「……シエル様」
かすれ、途切れるような声が、呼んだ。
紺碧の瞳が、まっすぐに自分を見ている。弱々しいのに、どこまでも澄んで、あたたかかった。
「リリア……」
名前を呼ぶのが、やっとだった。
すがりつくように近づいたシエルの頬を、一筋の雫が伝い落ちる。それを拭うこともせず、彼はただ、目の前の光景に魂を奪われていた。
リリアの唇に、やわらかな笑みがこぼれた。
「ご覧になって。……抱いてあげてください」
「俺が……」
「あなたの、娘ですもの」
シエルは、おそるおそる、手を伸ばした。
けれど、その指先は小さな布の端にすら触れられず、震えたまま宙をさまよった。
一国の命運を背負う男が、目の前の小さな命の前に、完全に立ちつくしている。どこに指を添えればいいのか、どのくらいの力なら許されるのか、皆目見当もつかない。力加減をひとつ間違えれば、それだけで消えてしまいそうな危うさに、シエルは指先ひとつ動かすことすら怯えていた。
差し出した手のやり場に困り、助けを求めるようにリリアを見つめるのが精一杯だった。
「頭の下に、腕を……そう。上手です」
リリアの声に導かれて、ゆっくりと、その命を腕の中に迎え入れた。
白い布のあいだにのぞく顔は、驚くほど小さかった。
透き通るような肌に、うっすらと光を透かす、シエルと同じ淡い白銀色の産毛。
「……こんなに、小さい」
「はい」
「こんなに小さいのに……ちゃんと、生きている」
胸の奥から、熱いものがこみあげてきた。
誰かを守りたいと思ったことは、何度もある。国を、民を、愛する人を。けれど、この感情は、そのどれとも違った。
自分の命よりも大切なものが、また、ひとつ増えた。
そのことが、怖いほどに、嬉しかった。
赤ん坊が、ふにゃ、と小さく声を上げた。そして、まだ見えているのかもわからない瞳を、ゆっくりとこちらへ向ける。小さな手が、宙をさまよい、やがて、シエルの指先にふれた。
きゅ、と、握られた。
信じられないほど弱く、信じられないほど確かな力で。
「……っ」
喉が詰まって、声にならなかった。ぽたり、と、白い布に雫が落ちる。
「ルチア」
気づけば、その名を呼んでいた。
「ルチア……光の子」
赤ん坊の口元が、かすかに動いた。まるで、聞こえているかのように。
「俺たちの、いちばん眩しい光だ」
寝台の上で、リリアが静かに涙を零した。頬を伝った雫が、枕の上で、小さく光る。
「……ルチア。……素敵な、お名前です」
シエルはゆっくりとひざまずき、枕元に顔を寄せた。腕の中の温もりをふたりのあいだにそっと重ね、壊れ物を扱うようにして、大切にリリアの腕へともどした。
「リリア」
「はい」
呼べば、応えてくれる。その当たり前のことが、いまは奇跡のように胸にしみた。
「……ありがとう」
「お礼を言うのは、私のほうですのに……」
リリアがかすれた声でそっと微笑むと、シエルは首を振った。
「ううん、俺だ。……俺は扉の向こうで、ただ落ち着きなく、祈ることしかできなかった」
喉の奥を詰まらせ、情けなさそうに顔を伏せるシエルの手へ、リリアは疲れた腕をそっと伸ばして触れた。
「そんなことありません。シエル様は、ずっと私と一緒に戦ってくださっていました。
……聞こえていましたもの。扉の向こうで、あなたの足音がずっと行ったり来たりしていたのが」
「……聞こえて、いたのか」
シエルが泣き笑いのような声を漏らすと、リリアは目を細めてやさしく笑った。
「ふふ、とっても心強かったです。ああ、シエル様が待っていてくださるんだから頑張らなきゃって……」
「リリア……っ」
「私とこの子を、ずっと待っていてくださって……ありがとうございます、シエル様」
「――ああ。君が無事で、こうして笑ってくれて……ただそれだけで、俺は世界一幸せだ。本当に、ありがとう……」
苦しい夜をひとりで越えてくれたこと。命がけで、この光を連れてきてくれたこと。出会ってくれたこと。笑ってくれたこと。すべてに。
窓の外で、夜が、完全に明けていく。
部屋のなかに、淡い光が満ちはじめた。リリアの黒髪に、シエルの白銀に、赤ん坊の小さな頬に、やわらかな朝の色が降りてくる。
シエルの大きな手に支えられ、リリアは疲れ果てた身体を深く深く沈めるように枕へあずけた。
腕の中にあるルチアの小さな体温と重みを、溢さぬように大事に抱きしめる。
血の気の薄い頬に、ほのかな紅が差していた。満ち足りた微笑みが、その唇にそっと浮かぶ。
それは、聖女と讃えられた少女が、ひとりの母として愛しい命を腕に抱く、はじめて見せる『母』の笑みだった。
その微笑みは、朝の光のなかで、やさしく、やさしく輝いていた。
「ルチア」
リリアは、何度も、何度も、その名を呼んだ。
「ルチア。……ルチア」
宝物を数えるように、ひとつずつ。愛おしく。大切に。
その愛おしい光景を、シエルはじっと見つめていた。
二人とも無事でいてくれた。自分の腕の中に届いた奇跡と、愛する妻の微笑みが、ここにある。
胸の奥から溢れ出す感情を確かめるように、シエルは震える指先を伸ばし、リリアの汗に濡れた髪をそっと撫で上げた。
「二人を……君とこの子を、俺が絶対に幸せにする。……誓うよ」
強く言い切る彼の声に、もう迷いはなかった。
「はい」
リリアは紺碧の瞳をやわらかく緩め、やさしく頷いた。
腕の中で、ルチアが、ふわりとあくびをする。
その小さな口元に浮かんだ微かな笑みに引かれるように、シエルとリリアは顔を見合わせ、静かに微笑みを交わした。




