来ぬ春を数えて
北国の夏は、あまりにも短い。
長い冬の眠りから覚めた生きとし生けるものが、堰を切ったように一斉に命を芽吹かせ、光を貪るように輝く、奇跡のような季節。
どこまでも続く白樺の深い森と、鏡のように静けさを湛える湖。その畔にひっそりと佇む「湖畔の館」は、北の地の短くも眩しい季節を慈しむために建てられた、避暑の館だった。
つわりが落ち着いてからも、眠りに落ちている時間が長くなっていくリリアを案じ、シエルは山積みの政務を力ずくでこじ開け、このささやかな休日をもぎ取ってきたのだった。
湖を一望するテラス。広やかな長椅子のうえで、リリアはシエルの隣に腰かけ、肩を寄せ合いながら傾いていく陽をただ見つめていた。
黄金色の陽光がゆっくりと傾き、沈みきらない陽の名残が、空の端に淡い紫苑色と茜色をいつまでも滲ませている。天の高みからは深い紺碧がそっと降りてきて、まるで一枚の薄絹に、絵の具をひと刷毛ずつ染み重ねていくかのようだった。
聖灼の熱に苦しんでいたころには考えられなかった、穏やかな時間。
「……きれい……」
うっとりと目を細め、リリアはため息のようにささやいた。
目に映るものすべてが愛おしい。愛おしいからこそ、このまま夕闇に溶けて、指の間からすり抜けていってしまいそうな気がして、怖かった。
「……ああ、本当に綺麗だね。……ずっと君に、こんな景色を見せてあげたかったんだ」
リリアの黒髪に唇を寄せ、シエルが優しく囁く。
「見せたい景色は、もっとあるよ。果てのない海も見せたいし、南の花を君の髪に飾ってあげたい。西の街の商人たちに『俺の妻です』って自慢しに行きたい」
おどけた響きの奥に、祈りにも似た熱が滲んでいる。
リリアの胸が、甘く、そして鋭く痛んだ。
(海も、南の花も……一緒に、見に行けたなら)
心から、そう願う。けれど同時に、体の奥深くで、さらさら、さらさらと、砂時計の砂が落ちていくような音がしていた。眠るたびに頼りなくなっていく自分の身体。彼の腕に預けた重みが、日ごとに軽くなっていくことに、この人はきっと気づいている。気づいていて、それでも笑ってくれているのだ。
自分の命さえ差し出して構わないとでもいうように、惜しみなく注がれる愛情。そのひたむきさが、泣きたくなるほど胸に痛かった。
そこへ、足音を忍ばせて、館の老侍女がやってきた。
「摂政殿下、妃殿下。館の近くで果樹園を営む者が、とれたての果物を届けてくれましたよ」
銀の籠には、冷たい湧き水で冷やされたばかりの甘桃と、瑞々しい野いちごが、こぼれんばかりに詰まっていた。
「みんなが……この子の無事な誕生を、願ってくれているのですね……」
リリアがそっとお腹に手を当てて微笑むと、シエルは慈しむように彼女の頬をひと撫でし、銀の籠から熟した甘桃をひとつ摘み上げた。
小さなナイフを取り出し、甘桃に刃を当てる。驚くほど器用な指先が滑るたび、途切れることのない一筋の皮がスルスルと美しく剥がれ落ちていく。果汁をしたたらせる柔らかな実を、傷つけぬようそっと切り分けていく動作は、息をのむほど美しかった。
「……シエル様の手、まるで魔法みたい……」
目を丸くして感心するリリアが、「私もお手伝いを……」と次の果物へ手を伸ばそうとする。
シエルは切り分けたばかりの柔らかな実をそっと皿に置くと、傍らの布巾で優しく指先を拭い、彼女の小さな手を包み込むように重ねた。そのまま吸い寄せるように、自らの膝の上へと引き寄せる。
「だめ。ここではリリアを、徹底的に甘やかすって決めているんだから」
悪戯っぽく、けれどどこか蕩けるような眼差しで囁くと、シエルは手際よく切り分けた瑞々しい甘桃のひと切れを、自らの指先でそっと摘み上げた。
「ほら、口を開けて。あ――ん」
ほんのり頬を朱に染めながら、リリアはおずおずと小さな口を開く。
シエルは果汁を滴らせる果肉を、彼女の唇へと優しく運んだ。
彼の指先から直接それを含み受けると、甘く瑞々しい果肉の味わいが口いっぱいに広がり、身体の奥まで染みわたっていく。
「……すごく美味しいです。シエル様」
「そう? よかった……あ、待って。こぼれてる」
満足そうに目を細めるリリアの唇の端に、シエルはそっと親指を添えた。拭い取るフリをして、彼女の柔らかな唇へ自分の唇をほんの短く重ね合わせる。
「……ん、本当に甘い」
「シ、シエル様……っ」
顔を真っ赤にして固まるリリアに、シエルは心底嬉しそうに低く笑い、彼女の頭を愛おしそうに胸元へ引き抱いた。
――その、甘く幸福な抱擁のさなか。
リリアの視界の端で、世界がほんの一瞬だけ、ぐらりと歪んだ。
黄金色に輝いていた夕焼けの茜色が音もなく退き、すべてを清めるような青白い光に世界が沈んでゆく。口の中に残っていた甘桃の瑞々しい甘みすら、静かな無の中へ溶けて、失われていく。
(あっ……)
人の世界の輪郭が、静かに解けてゆくような恐怖。
けれど次の瞬間、強く抱きしめるシエルの腕の温もりと「どうしたの?」という声で、世界は再び鮮やかな夕焼けの色彩を取り戻した。
「ううん……なんでもありません。シエル様が、あんまり優しいから……」
リリアは彼の胸に顔をうずめ、必死にその体温を確かめた。自分の感覚を失ったとしても、この人の温もりだけは手放したくなかった。
そのとき――
お腹の奥で、ぽこん、と小さく、あたたかな揺らぎが跳ねた。
「……あっ」
「どうした?」
「いま、この子が……お腹の中で動きました。シエル様が切ってくださった果物が美味しいって、喜んでいるみたいです」
「そうか……ふふ、食いしん坊な子になりそうだね」
二人は顔を見合わせ、ふわりとほどけるように笑い合った。
風の音。果実の香り。シエルの腕のぬくもり。そして、お腹の中で少しずつ育っていく、かけがえのない命。
しばらくのあいだ、二人は何も言わず、ただ寄り添っていた。胸いっぱいに満ちてくる柔らかなぬくもりを、ひとつも取りこぼさないように、そっと確かめ合うように。
――ああ、私は今、間違いなく世界で一番しあわせだ。
そう思えることが、うれしくて。そして、どうしようもなく、哀しかった。
夕闇が静かに湖を包み込み、北国の冷たい風が立ちはじめると、シエルがゆっくりと立ち上がった。
「……さあ、風が冷たくなってきたね。部屋へ戻ろうか」
壊れ物に触れるような慎重さで、シエルは彼女の背と膝裏へ、そっと腕を差し入れる。ふたつの命を宿しているとは思えないほど軽い身体が、ふわり、と彼の腕の中に浮かび上がった。
「あ……シエル様、私……自分で歩けます……」
「だーめ。今は、俺のわがままを聞いて」
弱々しい抵抗をやさしく封じ、シエルはリリアを胸元へ深く抱き寄せた。観念したリリアは、そっと彼の首へ腕を回す。
シエルが、一歩、踏み出した。
沈みきらぬ太陽の名残と、東の空にそっとのぼった月影。茜色と青白い月光が溶け合う館の回廊を、シエルは一歩、また一歩と、足もとを確かめるように歩いていく。まるでこの時間そのものを、落さぬように抱えて歩くかのように。
「子どもが大きくなったら、三人で旅をしよう。この夏が過ぎても、鮮やかな秋が来る。静かな雪の冬を越えて、あたたかい春が来たら……満開の花のなかを、この子と一緒に歩こう」
秋。冬。そして、春。
来る季節をひとつずつ指折り数えていく、その声。あまりにも愛おしくて、胸が裂けるほど切なかった。
(私は……その春を、ふたりと一緒に迎えられるのでしょうか)
「ねえ、リリア。……この子に、どんな名前をあげようか」
耳元で、シエルが優しく問いかける。
「この北の地に満ちる静かな光や……何より、俺の心を照らしてくれる君の優しさをそのまま映したような、温かな名前を贈ってあげたいんだ」
その言葉に込められた深い愛おしさと、自分を包み込むシエルの体温。そのすべてが胸に満ちてきて、リリアは彼の胸元へそっと顔を埋めた。
「はい……一緒に、いっぱい考えましょうね。この子が生まれたら、一番最初に……ふたりで考えた素敵な名前を、呼んであげたいの」
「ふふ、そうだね」
「……たくさん、呼びたいです。この子の名前を……たくさん、たくさん……」
今ある幸せがあまりにも大きく、あまりにも愛おしいからこそ、あふれ出す想いを抑えきれない。言葉の端が、静かに震えた。
「呼べるさ。毎日、飽きるほど。……俺と一緒に」
強く言い切るシエルの腕が、きしむほどに固くなる。その力と、かすかな震えのすべてが、どんな言葉よりも切実に、彼の声にならない願いを物語っていた。
――どこにも、いかないでくれ。
抱きしめる腕の中に感じる、頼りなさ。まるで粉雪を抱いているかのような、残酷なまでの軽さ。気づかない振りなど、できるはずがなかった。それでも、彼は微笑みを崩さない。未来の希望をひとつ、またひとつと語り続けることで、二人で過ごす「いま」を、必死に繋ぎとめようとしていた。
「明日は果樹園に、甘桃を買い付けに行こうか。ほかにも、いろんな果物があるそうだよ。……だから今夜は、ゆっくりお休み」
「うん……」
リリアは甘えるように、シエルの胸へ頬をすり寄せ、ゆっくりと、まぶたを閉じた。
瞼の裏の暗がりに、歌うようなやさしい声が、かすかに響く。
――『還っておいで――愛しい娘』
(お願い……私を、呼ばないで……)
この愛おしい人の隣で、生まれてくる我が子を、いつまでも一緒に愛していけますように。「おかえりなさい」と言える日が、明日も、あさっても、秋の終わりを越えても、ずっと、ずっと続いていきますように。
睫毛の端で、小さな光がひとつ、月の光を受けてきらりと揺れた。
それは頬をつたい、音もなく彼の胸元へ落ちて――静かに、消えていった。




