祝福の花が舞う庭で
長い冬の果てに、ようやく北の空が青を取り戻した、初夏の朝。
離宮は、夜明けからどこか浮き立っていた。回廊を行き交う侍女たちの足音は、まるで小鳥の群れのように軽やかで、扉の向こうからは、くすくすと抑えきれない笑い声がこぼれてくる。窓の外では、朝露をまとった若葉が、陽をうけてきらめいていた。
「一体、なにが……?」
鏡の前で眉をひそめるシエルに、侍女たちは「今日ばかりは、摂政様のお申し付けでも秘密にございます」と、いたずらっぽく微笑むばかり。
されるがままに礼服に袖を通し、不審に思いながらも促されるまま回廊を進む。案内されたのは、離宮の中央広間へ続く、重厚な観音扉の前だった。侍女たちが微笑みを交わして、恭しく扉に手をかける。
重厚な木扉が、ゆっくりと押し開かれた。
光が、こぼれだす。
大きく開いた窓から、初夏の朝の陽が、斜めに差しこんでいた。舞いあがる細かな塵が、金の粉のようにきらめいて、その光の中心に、ひとつの白い影が立っている。
それは、純白のドレスに身を包んだリリアだった。
降り積もったばかりの新雪を、そのまま絹に織りあげたような、澄んだ白。胸元から腰へ、やわらかな襞が、水のようにほどけて落ち、裾は、朝の光をふくんで、淡く透けている。腰まで流れる黒髪には、小さな野の花がひとつずつ編みこまれ、白と、空色と、淡い桃色が、夜空の星のように散っていた。
その胸元で、氷の花のペンダントが、静かに光を揺らしている。
息を呑むほど愛おしく美しい姿。
彼女が、ゆっくりと、こちらを振り向いた。
紺碧の瞳が、光を宿して、まっすぐにシエルを映す。
「……シエル様?」
その声で、はじめて、息を吸うことを思い出した。
(あぁ……綺麗だ……)
国政の難題ならどれほど入り組んでいても解きほぐしてきた頭が、まっさらな白に染まっていく。
言葉が、ひとつも結べない。ただ、愛しいひとが、光のなかに立っている。それだけで、胸がいっぱいになった。
一方、リリアもまた、息を止めていた。
扉の向こうから現れた人は、いつもと、まるで違って見えた。
仕立ての良い、純白の礼装。きちんと整えられた襟元。いつも政務に追われているその背中が、今朝は、王家の血筋にふさわしい気品をまとって、まっすぐに伸びている。白銀の髪が光を透かして、きらきらと揺れ、アイスブルーの瞳が、ただ自分だけを、見つめていた。
(シエル様……)
朝も夜も、そばにいるのに。それなのに、いま光のなかに立つ姿は、まるで物語のなかの王子様のようで、少しだけ、遠く見えた。
けれど、その瞳が自分を見つけた途端、ふっとほどけて、いつもの、あたたかな色になる。
胸が、とくんと跳ねた。
どちらからともなく、足が動いた。吸い寄せられるように歩み寄る。リリアが胸に抱いた小さな花束から、野バラとハーブの甘い香りが立ちのぼり、ふわりと風にほどけて、ふたりを包みこんだ。
ふたりだけの、やわらかな時間が流れようとした、そのとき。
抑えきれない忍び笑いとともに、広間の奥からふたりの男が姿を現した。大司教と、宰相のレオンだった。
「……ふふ、実に絵になるお二人ではありませんか」
「ええ、寝る間も惜しんで衣装を仕立てさせた甲斐がありました。……驚かせてしまってすみません、シエル殿下、リリア様。実は、お二人には内緒で、結婚式の準備を進めさせていただいていたのです」
「結婚式……!?」
シエルの目が、大きく見開かれる。
「わが国に、そんな余裕は……」
「豪奢な式典など、必要ございませんよ」
大司教の声は、深い森の泉のように、穏やかだった。
「日夜身を削って国を支えてこられた摂政殿下に、心からの祝福を届けたい。……そう声をあげているのは、ほかならぬ、この国の民なのですよ」
「ええ。なにしろ、我が国の村々には、どれほど貧しくとも、愛し合う二人の門出には、人々が野に咲く小さな花を持ち寄り、村をあげて祝う風習がございますから」
レオンが、柔らかく目を細めて続ける。
「自分を削って国を守り抜いた摂政殿下と、この凍てついた北の地に希望の芽吹きをもたらしてくださったリリア様。……そんなお二人に、ささやかな花束を贈りたいと、民が望んだのです」
その言葉を合図のように、庭園へ続く大きなガラス窓が、一斉に開け放たれた。
初夏の風が、さあっと吹きこむ。
カーテンが、白い翼のようにふくらみ、花の香りが、広間いっぱいに流れこんだ。
その風に乗って、地鳴りのような歓声と、胸を打つ拍手が、ふたりのもとへ届く。
「――シエル殿下――っ! 聖女様――っ!」
賑やかな歓声と手拍子に、ふたりはハッと我に返り、テラスの向こう、門の外へと視線を向けた。
そこに広がっていた光景を、リリアは、きっと一生忘れない。
離宮のテラスには、上質な外套を羽織った貴族たちが、静かに立ち並んでいた。
その下の広場から門の外の坂道までは、旅の埃を払う暇もなく駆けつけた商人や農夫、老人や幼子たちで、隙間なく埋め尽くされている。
北国の厳しい日々を生き抜いてきた誰もが、いまはただ満面の笑みでふたりを見上げていた。
そして、その手には、花があった。空色のワスレナグサ。深い藍のヤグルマギク。素朴なカモミール。淡く頬を染めたような野バラ。雪解けの野山を駆けまわって、みんなが一輪ずつ摘み集めてくれたのだろう。掲げられた無数の手の中で、小さな花々が、波のように揺れている。
「……俺たちに内緒で、みんなが……こんなにも……」
シエルの声が、かすかに震えた。
過酷な時代をともに耐え抜いてきた民は、シエルが己を削り、大きな重責を背負って自分たちを守り抜いてくれた恩を、決して忘れてはいない。
彼らが溢れんばかりに届けてくれたのは、何よりも美しく、何よりも力強い、野に咲く命だった。
シエルの胸に、熱いものが込みあげる。
背負うばかりだと思っていた。守るばかりだと思っていた。けれど、自分も、こんなにも多くの人に愛され、守られていたのだと。
リリアの瞳からも、静かに、けれど耐えきれずに涙が溢れ出していた。
(ああ、これが……私たちの、愛すべき国なのですね)
窓辺から切り取られた空ばかり見つめていた聖域の日々。民との触れ合いなど、どこか遠い世界の出来事だった。
そんな自分をも、こんなにも大勢の人が、いまあたたかく迎え入れてくれている。まるですぐそばで暮らしてきた隣人のように、笑顔で名を呼んでくれている。
シエルの隣で、リリアの視界もまた、ゆらゆらとにじんでいった。
シエルは胸の奥の熱さを静かに噛み締めると、リリアの手を包み込むようにエスコートし、庭園へ向かってゆっくりと一歩を踏み出した。
その後ろを少し開けて、大司教が温かな眼差しで見守りながら続いていく。
テラスから庭園へと続く広やかな石段。両脇には上質な外套を纏った貴族たちが整然と並び、静かに道をひらいて二人へ敬意の礼を捧げている。
その先にある庭園の中央には、かつてリリアが芽吹かせた古代樹の若木が、この冬を越えて青く澄んだ新芽を空へと広げていた。
降り注ぐ歓声と花々の波の中へ、一歩ずつ降りていく。
足もとの若草が、やわらかく沈む。朝露が、ドレスの裾に触れて、小さな虹をいくつも作った。
道の両側では、民たちが、花を抱きしめるようにして、息を詰めて二人を見守っている。
庭園の中央、古代樹の麓に設けられた小さな祭壇の前で、ふたりはゆっくりと向かい合った。
後ろからついてきていた大司教が静かに傍らへ進み出ると、目元を慈愛にゆるめて二人へと向き直る。
老聖職者は優しくリリアの手を取り、その華奢な手のひらを、シエルの掌の上へとそっと重ね合わせた。
「聖女としてではなく、ひとりの愛しい娘の晴れ姿を、見届けさせてください。……シエル殿下、いや、我が婿どの。娘を、よろしく頼みますぞ」
慈愛に満ちた瞳で見つめる大司教へ、シエルは重ねられた手をしっかりと包み込み、まっすぐ視線を受け止めた。
「……はい。あなたが大切に育み、守ってこられた至宝を、命に代えても、生涯護り抜きます」
その言葉と手に込められた真摯な強さに、大司教はどこか誇らしげに目元を緩め、満足そうに深く頷いて一歩退いた。
そして、風が、ふっと止んだ。
木々のざわめきも、人々の歓声も、遠い潮騒のように静かにほどけていく。世界がひととき息をひそめて、あとに残ったのは、朝の光と、花の香りと、目の前のひとだけだった。
リリアの黒髪に編みこまれた野の花が、光を透かして、小さな星のように揺れている。うすいヴェールの向こうから、紺碧の瞳が、まっすぐにシエルを見つめていた。
涙の名残を宿して潤みながらも、ほんのひとかけらも逸らされない眼差し。
言葉は、なかった。
ただ、見つめあう。
冬のあいだじゅう、胸の奥で、ずっと探していた色が、いま、ここにある。
その時間は、永遠のように長く、ひとひらの花びらが舞い降りるほどに短かった。
柔らかな風が、ふたりのあいだを静かに通り抜けていく。
リリアの胸元で、氷の花のペンダントが、ふたりの鼓動に合わせるようにかすかな光を揺らす。
リリアが、小さく、微笑んだ。
朝の光のなかで、その微笑みは、ほどけたばかりの花のように、淡く、やわらかく、あまりにも美しくて。
シエルは、この瞬間を、胸の奥深くに、そっと仕舞いこんだ。
どれほど季節が巡り、時が二人を追い越していっても。たとえ、どんな夜が来ても。
きっと、この朝の光だけは、忘れない。
やがて、大司教が、静かに息を吸う音がした。
「――新郎、シエル。新婦、リリア」
大司教の声が、静寂に、朗々と響いた。
「いかなる苦難のときも、喜びのときも、互いを支え、慈しみ、命ある限り共に歩むことを、ここに誓いますか」
離宮じゅうが、息をひそめる。
ふたりは、互いの手を、いっそう強く握りしめた。
「――誓います」
重なった声は、ひとつの祈りのように、初夏の青空へと吸いこまれていった。
シエルは愛おしさに静かに目を細めると、そっと手を伸ばし、彼女を覆う薄いヴェールを、ゆっくりと持ち上げた。
光を孕んだ薄布がふわりと宙にほどけ、その下から現れたリリアの瞳は、朝の光をうけて、水面のようにきらめいていた。睫毛の先で、涙の名残が小さな星になって揺れている。
「……リリア。俺だけの愛しい花」
指先で、そっと彼女の頬を撫でる。壊れ物に触れるように、けれど二度と離さないという想いをこめて。
リリアが、ほんのわずかに顔を傾け、その手のひらへ頬を寄せた。
吐息が、重なる距離まで近づく。
やわらかな唇が、そっと重なった。
はじめは、羽根がふれるように静かに。それから、確かめるように、慈しむように、ゆるやかに深まっていく。
神への誓いであると同時に、どんな未来が待っていようとも、ふたりで歩んでいくと決めた魂の約束。
もう周囲の景色も、周囲の声も意識から遠ざかり、互いの鼓動と触れあう温もりだけが胸を満たしていく。深く、甘いその熱が、あの日の凍てついた記憶を、ひとつずつ溶かしていった。
リリアのまぶたから、ひとすじ涙が零れ落ちる。それは頬を伝い、重なった唇の端で、そっと二人の温もりに溶けた。
――その瞬間。
庭園じゅうが、弾けたような歓喜の渦に包まれた。
人々の手から、いっせいに花々が放たれる。ワスレナグサの空色、ヤグルマギクの藍、カモミールの白、野バラの薄紅。数えきれない花びらが、きらめく光の帯となって青い空へ舞い上がっていく。
初夏の風がそれをやさしく攫い、ふたりのまわりへ、ふわりふわりと降らせた。まるで天から降る祝福の雪のように。けれどその雪は、決して凍えることのない、あたたかな花の雪だった。
花びらが、リリアの黒髪に、ドレスの白に、シエルの白銀の髪に、そっと舞い降りる。
ゆっくりとくちづけをほどいたシエルの肩越しに、リリアの視界が開けていく。
舞い散る花の雪の向こう側で、人々が晴れやかな笑顔を浮かべ、大きく手を振っていた。
そっと、お腹に手を添える。
そこには、ふたりの愛の証が、小さな鼓動を刻んでいた。とくん、とくん、と、確かな、けれどまだ見ぬ未来の足音で。
(聞こえますか。こんなにもたくさんの愛の中で、あなたは生まれてくるのですよ)
額を寄せ合ったまま、ふたりは小さく笑った。
シエルの腕が、しっかりとリリアを抱き寄せる。リリアは、その温もりに身をあずけて、空を見上げた。
どこまでも澄みわたる、初夏の青。それは、窓辺から切り取られていた空とは、まるで違う、果てのない空だった。




