指先からほどける冬
北の雪原に突如として立ち現れた、青々と芽吹く古代樹の若木。
周囲の白銀の世界を塗り替えるように佇むその若樹は、まるで天と地を繋ぐ光の柱のようだった。
レオンが「神意による新聖域の顕現」として南の王家と神殿へ即座に働きかけた策は、狙い通り双方の陣営に凄まじい激震を走らせた。
商談や工作の前に――その「奇跡」を自らの目で確かめるべく、最高権威である大司教自らが北の地へと赴いてきたのだった。
頭上を覆う翡翠色の枝葉から、温かな光粒が静かに舞い降りる庭園。
雪を踏みしめて進む老聖職者の前へ、ノルディスの摂政としてシエルが歩み出た。
「大司教猊下、ご無沙汰しております」
かつて南の神殿で密かに神官として手元に置いていた男の姿に、大司教は深く刻まれた目元のシワをわずかに緩めた。
「シエル……いや、北の摂政殿下。北国の元王太子の暴走により聖域が壊滅したことには今も憤りを禁じ得ませんが……聖女様を最後まで守り抜いてくださったこと、心より感謝いたしますぞ」
言葉の端々に、立場上の怒りと同時に、ひとりの庇護者としての切実な謝意が見え隠れする。
大司教の視線は、シエルのすぐ隣に寄り添うリリアへと向けられた。かつて南の神殿で見た、死を待つだけだった蒼白な面影はない。その頬にはほのかな温もりが差し、瞳には静かで美しい光が宿っていた。
「……聖女様、顔色が実によろしい。ですが……聖灼の熱は、一体どうなっておられるのですか?」
驚きを隠せない大司教の問いに、シエルがまっすぐな眼差しで答える。
「この地に芽吹いた古代樹の聖気と、私の氷の魔力によって、一時的に聖灼の熱を抑え込むことに成功しております」
「おお……神よ……! 痛みが抑えられたと……。なんという奇跡……!」
大司教は感極まったように胸の前で十字を切り、深く神に感謝を捧げた。
その隙を逃さず、静かに歩み出たのは宰相レオン・ヴァルハイトだった。
「お初にお目にかかります、大司教猊下。北国ノルディスが宰相、レオン・ヴァルハイトと申します。神殿の頂に戴くお方にこのような極寒の地までご足労をかけましたこと、恐縮に存じます。ご拝顔の栄を賜り、光栄の極みにございます」
胸元に手を当てた完璧な礼から優雅に顔を上げたレオンの眼光には、隙のない切れ者の鋭さが宿っていた。
眼鏡の奥の瞳を柔らかな微笑みの裏に隠し、洗練された静かな声音で滑らかに本題へと切り込む。
「猊下……まずは此度の奇跡と、神殿の広大なご威徳を称え、我が国より慎んでご相談申し上げたい儀がございます」
レオンは広がる白銀のただ中にそびえる古代樹の若木へと、しなやかな手つきで視線を促した。
「ご覧の通り、この極寒の北の地に古代樹が根を下ろし、聖なる暖かな光をもたらしました。これは紛れもなく、猊下が奉じる神のご加護と導きに他なりません。南の聖域への手厚い復興支援と賠償はお約束した上で……我が国としては、この神聖なる地を新たな『第二の聖域』として神殿の傘下に公式認定していただき、神の栄光を全土に示す礎といたしたく存じます」
「……第二の、聖域だと……?」
思いがけない大提案に、大司教の威厳ある顔にわずかな動揺が走る。
南の神殿にとっても、北国に自らの影響力が及ぶ新たな聖域が誕生することは、神の御心を全土に知らしめ、神殿の威光を揺るぎないものとする至高の栄誉だ。レオンはその有利なカードを「神の偉業を称える」という恭順な器に盛って提示し、老練な大司教の思考を外交の計算へと引きずり込んでいく。
相手がその価値と政治的思惑を噛み締めた絶妙な間を置き、レオンはさらに深々と頭を垂れた。
「――つきましては、その尊き新聖域を治め、神の奇跡を維持するためにも。聖女様にはこの地にて聖域を守護していただくことが、もっとも神の御心に叶うかと推察いたします」
「なっ……聖女様を北にとどめ置くというのか!?」
眉をひそめ、不快感を露わにする大司教に対し、レオンは微風にすら揺らがぬ静かな微笑みをたたえたまま、畳みかけるように決定的な対価を提示する。
「左様にございます。聖灼の影響が抑えられたとは申せ、今後のご健康を維持するためには定期的に摂政殿下の魔力をお分けする必要がございます。……ですが、決して猊下のお顔を潰すような真似はいたしません。復興賠償金の継続支払いはもちろんのこと――この地に芽吹いた古代樹より賜る『分枝』を、南の神殿へと献呈することをお約束いたしましょう。さすれば南の聖域もかつて以上の輝きを早急に取り戻すはずです」
「分枝を……南の神殿へ、捧ぐと……?」
大司教の心が、大きく揺れはじめた。
南の聖域の完全な再建、莫大な復興資金、そして北国に誕生する『第二の聖域』という神殿の権威拡大。大司教が背負う南の宗教界にとっても、これ以上のない、まさに至高の果実であった。
シエルが、一歩前に踏み出した。
空気が、ぴんと張り詰める。
握りしめられた拳には強く力がこもり、背筋は刃のように伸びていた。愛する者を二度と手放さぬため、己の持つ最後のカードを切る直前の、静かな覚悟がそこにある。
――そのとき、そっと重なった温かなぬくもりに、シエルは息をのんだ。
リリアが彼の強張った手を優しく解き、自らの手をしっかりとかさねたのだ。
指先からじわじわと染み込んでくる、愛おしいぬくもり。自分を案じ、寄り添おうとしてくれるその健気な温もりが、凍りついていたシエルの胸奥を優しく溶かしていく。シエルは繋がれた手を握り返すと、深く息を吐き出し、迷いの消えた瞳で大司教をまっすぐに見つめた。
「……大司教猊下。私には、国家の利益とは別に、どうしても譲れない望みがあります」
一度言葉を切り、シエルは呼吸を整えた。冷徹な摂政の仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の男として、覚悟をその全身に纏う。
「……リリアを、私の妻に迎えたいのです」
庭園の空気が凍りついた。
「『国のためではない』と言っても、今の状況では説得力がないことは重々承知しております。ですが……もし、北の摂政という私の立場が南との和平の障害となり、彼女との婚姻の妨げになるというのであれば――」
シエルは微かな迷いすらなく、誓うように胸に手を当て、断固とした声で言葉を紡ぐ。
「――北の国の内政が落ち着き次第、私は王籍を捨て、ただの男としてリリアの傍らに立つ覚悟があります」
「っ!?」
背後に立つ宰相レオンの、完璧に仕立てられた笑みが、ぴくりと凍りついた。
「断れない好条件」を、きっちり揃えさせたうえで、最後に「男としての覚悟」を、情に叩きつける。
その手は使わないと自分に誓ったはずの言葉をあっさり反故にし、勝ち目があるとみるや躊躇なく最凶の王手に使ってみせた主君の容容赦のなさに頭痛を禁じえず、レオンは静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
一方、シエルの眼差しは、微塵も揺らがず、大司教を射抜いている。
重い沈黙が、雪の庭園を支配した。
光の粒が、はらはらと、四人のあいだに降りつづける。
やがて、大司教は、静かに目を閉じ、深く、深く、溜息を吐き出した。
「……神殿におられた頃から、あなたは聖女様の快癒のために、ただ一人必死になっておられましたな」
ゆっくりと、目を開ける。
そこに宿っていたのは、厳しい聖職者の眼差しではなかった。かつて、ふたりの姿を、静かに見守っていた、恩師のあたたかさだった。
「……それに、聖女様もまた、あなたと共にいる時だけは、一人の少女として真に嬉しそうに微笑んでおられた」
大司教の視線が、寄りそう二人の、固く結ばれた手へ落ちる。そして、最後に、リリアの顔をじっと見つめた。
リリアは、シエルの腕にそっと身を寄せた。許しを乞うように潤んだ瞳を向け、この人のそばにいさせてほしいという声にならない切なる願いを、その瞳いっぱいに溢れさせながら、大司教をじっと見つめ返した。
「……ハァ、仕方ありませんね」
老聖職者は参ったように首を振り、毒気の抜けた苦笑を漏らした。
「そこまでの覚悟と愛を見せられては、神もお二人を裂くことなどお望みにはならないでしょう。……聖女様の婚姻、我が全権をもって認めさせていただきます」
「大司教猊下……!」
シエルの瞳に、驚きと喜びが、ぱっと灯る。リリアの目尻からも、ほろりと、雫が零れた。
けれど、大司教は、すぐさま表情を引き締めて、隣で頭痛に眉をひそめていたレオンへ向き直った。
「しかし、ヴァルハイト宰相。南の王家や保守派の貴族どもを黙らせるには、一筋縄ではいきませんぞ。『強奪された聖女が北の摂政と結婚する』など、奴らが簡単に呑むはずがない」
大司教が投げかけた政治的懸念を聞いた、瞬間。
レオンは頭痛も忘れ、眼鏡の奥に冷徹で邪悪なまでの知略の光を宿らせた。
「ええ、重々承知しております。……ですが『神の奇跡により芽吹いた新聖域の聖女が、神意によって北の地を治める王族と結ばれた』という……筋の通った『神聖なる叙事詩』を作り上げ、南の王家へ圧力をかければ――大司教猊下が神殿としての公式なお墨付きを下さるだけで、奴らに一切の反論を許さぬ完璧な『詰み』を形作れるはずです」
「くくっ、言いますな。よろしい、南の信徒どもを心酔させる最高級の神託を用意して遣わしましょう。王家への現実的な工作は、貴殿のその優秀な手腕に委ねます」
「最高のお言葉、恐悦至極にございます。猊下の神聖なるお膳立てさえあれば、あの強欲な王家の企みなど、ことごとく盤上から叩き落としてみせましょう」
どのような文面なら南の王家に一切の反論を許さないか、いかに聖職者層を味方に巻き込むか――まるで長年連れ添った悪友のように滑らかな連携で「神聖なる筋書き」を練り上げていく二人を前に、シエルとリリアは思わず顔を見合わせた。
「……なんだか、少し南の王家がかわいそうに思えてきました」
「ああ……我が宰相の知略に大司教猊下の権威が加われば、もはや南の王家に抗う術はないな」
くすり、と、どちらからともなく、笑みがこぼれる。
笑ったあとの、ふっとできた静けさのなかで、シエルは、手もとに目を落とした。
繋いだ手。
冷えきっていた己の指先を、そっと包んでくれたのは、ほかならぬ彼女のぬくもりだった。
またひとりですべてを背負おうとしていた自分に、彼女は、「一緒に歩む」という答えを、くれたのだ。
視線に気づいたリリアが、顔を上げる。頬に、淡い朱がさしていた。睫毛の先が、陽をうけて、きらりと光る。
「……シエル様」
「うん」
リリアは、すぐには続けなかった。
若木の梢を見上げる。葉のあいだから、金色の欠片が、ひとつ、ふたつ、頬に落ちて、消えた。
「私、いま」
小さく、息を吸う。
「生まれてきてよかったって、心から思っています」
声は、ささやくように小さかった。けれど、光の粒に溶けてしまうには、あまりにまっすぐだった。
シエルは、答えられなかった。
唇が、何かを言おうとして、わずかにふるえ、そっと閉じる。
かわりに、繋いだ手を、ゆっくりと持ち上げた。
寒さにほんのり赤らんだ、彼女の指先。細くて、小さくて、驚くほど、あたたかい。
そこへ、静かに、唇を寄せる。
目を閉じる。まぶたの裏が、じんと熱い。
触れたのは、ほんの一瞬だった。それなのに、その一瞬に、言葉にできなかったものが、すべてこもっていた。
リリアの頬が甘やかに染まり、花のような笑みを浮かべる。
握りかえす指に、ほんの少し、力がこもった。それが、彼女の返事だった。
古代樹の梢から、光の粒が降りつづける。舞い散る粉雪と混じりあって、庭を、やわらかな黄金色にけぶらせていく。
風が吹いた。もう、肌を刺さない風だった。
頭上の枝に宿っていた雪が、ひとひら、溶けて、雫になる。
ぽつり。
足もとの若草に、小さな音をたてて、落ちた。
それは、この冬はじめて聞く、春の音だった。




