銀砂降る夜の誓い
その夜、北の空は、天の高みから銀の砂をこぼしたようだった。
流れ星がひとつ、またひとつ。尾を長く引いては凍てた闇に溶け、溶けたそばから次の光が生まれる。まるで、遠い星々がこの小さな離宮の窓辺を目指して、ひそやかな祝福を降らせているかのように。
眠りの底にいたリリアは、ふと、まぶたの裏が淡く明るむのを感じて目を覚ました。
シエルが帰ってきたのだと気づいて、ベッドから身を起こす。
「シエル様……」
柔らかな黒い髪を揺らし、少しまぶしそうに目を細めながら、リリアは心底安心したように微笑んだ。
「おかえりなさい、シエル様……」
「……起こしてしまったかい? ごめんね」
シエルは包み込むようなやさしい笑みを浮かべ、彼女のそばに腰を下ろした。リリアは少し照れくさそうに視線を伏せ、上体を起こそうとする。
「ううん……おかえりなさいって言えるのが、うれしいから……」
消え入りそうなその声と、夜着の布越しに透ける細すぎる肩や手首。華奢な身体は、風にそよぐ花びらのように頼りない。シエルはいつか自分の腕からすり抜けて消えてしまうのではないかと怖くなり、確かな温もりを確かめるように彼女の頬をそっと撫でた。
「俺も、君にただいまと言えるのが、何よりも幸せだよ……」
あたたかな掌の感触に胸を和ませ、リリアは小さく頷いてから、彼の胸元へ身を預けた。
「起きたなら、少しだけ、付き合ってほしいんだ」
耳元でほどけたシエルの声は、蜜のように甘かった。
夜着のままのリリアを毛布で包み込んで、シエルは羽根を抱くような軽やかさで腕に抱き上げる。彼女が何かを言う前に、離宮の長い回廊を抜け、広いテラスへと歩き出した。
扉が開く。
星明かりに満ちた世界が、静かに広がった。けれど、肌を刺すはずの極寒の気配は、どこにもない。床にも手すりにも、目に見えないほど繊細な氷の魔法が幾重にも編まれ、その一角だけが、風の止んだ小さな部屋のように、あたたかく守られていた。この夜のために、彼がひとつずつ、祈るように築いたものだった。
シエルはリリアを、大きなクッションへそっと降ろした。それから、湯気の立つカップを持ってきて、細い指先を包みこませるように持たせる。
「どうぞ。熱いから気を付けて」
「あ……ありがとうございます」
ひと口含んだ瞬間、やさしい香りが胸の奥へ流れこんだ。花と草の甘い余韻。遠い日の記憶の扉が、静かに開く。リリアは思わず息をのんで、頬をほころばせた。
「ふふ……なんだか、南の神殿にいた頃を思い出します。懐かしい香り……」
あの頃の自分は、窓辺から切り取られた空ばかり見ていた。こんなにも広い星空の下で、湯気の向こうに愛しい人の顔がある日が来るなんて、思いもしなかった。
「薬湯でもよかったけど、今日のは飲みやすいハーブティーだよ。……最近、つわりで食欲がないと聞いている。体調はどうだい? 熱は? 聖灼の揺り戻しは起きていないか……?」
彼は隣に深く腰を下ろし、彼女の顔をのぞきこんだ。アイスブルーの瞳が、星の光を映して揺れている。それはもう、国を背負う摂政の目ではなかった。ただひとりの人を気遣う、ひとりの男の目だった。
その過保護なほどの真剣さが胸に染みて、リリアはくすくすと鈴のように笑った。
「もう、そんなに心配しないでください。シエル様がこうして毎日帰ってきてくださるから、私は、とっても元気です。……ただ、最近はどうしても眠気が抜けなくて。ずっと寝てばかりで、ごめんなさい」
笑いながら、ほんの少しだけ睫毛を伏せる。
眠りに落ちるたび、体のどこかから、さらさらと何かが零れていく気がする。そんな音が聞こえるはずもないのに。それはきっと、ただの眠気。ただの、冬の疲れ。遠くから聞こえる優しい声も、きっと夢。リリアは自分にそう言い聞かせて、湯気の向こうに微笑みを戻した。
「謝ることなんて、ひとつもないよ。俺たちの小さな命をこうして育んで、君はもう十分すぎるほど頑張ってくれているんだ」
胸が痛むほどの愛しさに押されるまま、シエルは顔を寄せ、彼女のおでこにそっと己の額を重ねた。
ふたり分の白い吐息が、夜気に溶けて静かに重なる。
そっと視線を伏せ、毛布に包まれた彼女のお腹を見つめるシエルの瞳の奥に、言葉にならない葛藤と焦りが、薄い影となって揺れた。
「……シエル様?」
リリアは、彼の沈黙の底にあるものを、そっとすくい上げるように見つめる。
シエルは気まずそうに目を伏せ、やがて、胸にしまいこんでいた弱さを、ぽつりとこぼした。
「本当なら今すぐにでも国中に披露して、世界中で一番誇らしい結婚式を挙げてあげたいのに。……戦後処理や政務に追われてばかりで、すぐには何ひとつ贈ることすらできていないのが、悔しくて情けない」
シエルは一度深く息を吐き、静かに視線を落とした。
「それに……俺の妃になるということは、君に義務と重責を背負う覚悟を求めるということだ。それがどれほど君の心身の負担になるか。……それを考えると、君をこの立場に巻き込むのが怖くて、ずっと踏み出せずにいたんだ」
リリアの胸の奥が、甘い痛みと愛おしさでぎゅっと締めつけられた。
摂政として常に気を張り、重責を背負ってきたシエル。けれどいま、目の前にいるのは、己の弱さを隠そうともしないひとりの男だった。完璧に見える彼の瞳の奥で揺れる恐れが、あまりにも愛おしい。
彼女はそっと手を伸ばし、彼の頬を小さな掌で包みこむ。伝わってくる微かな震えを、慈しむように撫でた。
「……私のことを守ろうとしてくださっていたんですね」
「リリア……」
「そんなに自分を責めないでください、シエル様。私、シエル様のお手伝いができるなら、どんな重責だって少しも怖くありません。……それに、豪華な式や立派な贈り物がなくても、私には、もうもったいないほどの幸せをいただいています」
リリアは心からの柔らかな笑顔を浮かべた。
「私はただ、こうして毎日『おかえりなさい』と言って、あなたのおそばにいられるだけで、充分なんです。だから……私のことで、悩まないで……」
その無欲な愛に、シエルの胸は、狂おしいほどの想いで満たされていった。
彼は一度、唇を噛みしめて。
それから決意を込めた眼差しで、彼女の前にゆっくりと膝をつく。震える手を伸ばし、リリアの華奢な両手をそっとその掌の中に包み込んだ。
「こんな不甲斐ない俺だけど……それでも、君のいない未来なんて、絶対に選べないんだ」
アイスブルーの瞳が、まっすぐに彼女を映す。
「南の神殿のあの暗がりで、身分を隠して、君の手を握っていた、ただの『シエル』として。……君に、乞わせてほしい」
重ねた手に、わずかな震えと、切実な熱がこもる。
頭上では、数えきれない星が、夜空を駆けていく。ひとつ流れては消え、消えてはまた生まれる。ふたりの影が、青い光に淡く浮かび上がった。
「あの日からずっと、俺の心も命も、君だけのものだった。……北の摂政としてではなく、一人の男として、君を生涯愛させてくれないか。……俺の妻になってほしい、リリア」
――つま。
その二文字が、胸の奥でゆっくりとほどけていく。
リリアは、息をするのを忘れた。
聖域の窓辺で、幼い自分は何度も書物の頁をめくった。そこには、食卓を囲む家族がいた。「おかえりなさい」と迎える声があった。「ただいま」と応える声があった。ひとつ残らず、自分とは遠い世界の物語だった。ページを閉じるたび、指先に残るのは、インクの匂いと、触れられない温もりへの小さな痛みだけ。
女神の娘。聖女様。
そう呼ばれる自分に、与えられるものは祈りばかりで、手を握って「一緒に生きよう」と言ってくれる人は、どこにもいないのだと思っていた。
それなのに。
いま、冷たい星明かりの下で、この人は自分の手を握っている。国を背負う人が、ひとりの男の顔で、震えるほどの真剣さで、自分を選んでくれている。
私でいいのかという静かな疑念は、握りしめられた指先の熱に解かされるように、喉の奥で溶けて消えた。
視線を上げれば、アイスブルーの瞳がそこにある。星の光を映して揺れながら、ただ自分だけを見つめている。答えを待つ彼の指先が、わずかにふるえているのが、重ねた掌から伝わってきた。
ああ、この人も恐ろしいのだ。断られることが。己のすべてを差し出し、失ってしまうかもしれないことが。それでもこの人は、逃げずにまっすぐ手を差し伸べてくれた。
その勇気ごと、愛おしかった。
気づけば、頬を熱いものが伝っていた。長い長い孤独の底に、ずっと降り積んでいた雪が、いちどに春の水になって溢れ出すような、そんな涙だった。
膝をついたまま、シエルはそっと手を伸ばし、その指先で彼女の頬の雫を優しく拭っていく。何度も、何度も。
「……はい」
声にならないくらいの声で、リリアは頷いた。
「はい、シエル様。……私を、あなたの妻にしてください」
言葉にした途端、胸の奥で、小さな鐘が鳴った気がした。
神殿にしか居場所がないと思っていた自分に、帰る場所ができた。「おかえりなさい」と言える人ができた。そして、おなかの中には、ふたりの愛の証が息づいている。
この出会いをもたらしてくれた神と女神へ、幾重もの感謝を捧げる。その祈りは、いつもの祈りとはまるで違っていた。何かを乞うのではなく、ただ、胸に満ちるありったけの感謝だけを、静寂の星空へ捧げていく。
この人の隣で、生まれた子どもと一緒に、一日でも長く笑い合えますように。
捧げた祈りの最後のひとしずくに、さらさらと零れ落ちる砂の音が、かすかに、けれど確かに混ざり込んでいるけれど。
リリアはそっと目を閉じて、その音を胸の底へ沈めた。いまは、まだ。この幸せだけを、両手いっぱいに抱きしめていたかった。
シエルは引き寄せるようにリリアを強く抱きしめた。重なり合うふたつの胸元で、氷の花のペンダント同士が澄んだ音を立てて触れ合う。
その衝撃に呼応するように、透きとおった結晶が、ふわりと温かな光を灯した。
星屑を溶かしたようなやわらかな輝きが、透きとおった花びらの奥からあふれ出す。光はテラスの端々まで広がり、冬の離宮を、甘やかな愛の気配でひそやかに満たしていった。
魔法の光が静かに落ち着いていくなかで、リリアは彼の腕の中でそっと息をついた。それは神の祝福でも、聖域の祈りでもない。ただ、愛する人に選ばれた――凍てつく夜のただなかで胸が熱くなるほどの、確かな人間のぬくもりだった。
「愛しているよ、リリア」
「私も……愛しています、シエル様」
吐息が、重なる。
流れ星が降りしきる空の下、ふたりは永遠を誓うように、深く、やさしく、くちづけを交わした。
その誓いを、いつまでも見守るように。星はひとつ、またひとつと、祝福の光を夜に描きつづけていた。




