宰相の頭痛は終わらない
離宮の庭園は、見渡すかぎりの白銀に眠っていた。
その静けさのなかで、ただ一角だけが、まるで別の季節から切り取られたように、やわらかな息づかいを湛えている。
降り積もった雪を、そっと押しのけるようにひろがる、瑞々しい深緑の円。足もとには、芽吹いたばかりの若草が、小さな露をまとって揺れていた。凍てついた北の空気は、その縁で、ふと角を失い、頬をなでる風さえも、どこか春の名残を帯びている。
円の中央に、一本の若木が立っていた。
リリアの祈りから生まれ、またたく間に、冷たい北の土へ深く根を下ろした、古代樹の若木。幾重にも重なる葉の一枚一枚が、淡く青みがかった光をまとい、呼吸をするように、ゆるやかに明滅している。
その光は、雪の白に映えて、水底から見上げた空のように澄んでいた。
枝葉のあいだから、ひとつ、またひとつ、光の粒がこぼれ落ちる。粒は、舞い降りる粉雪と寄りそい、触れ合い、きらめきながら、音もなく雪原へ溶けていった。
それは、凍てついた大地に灯った、小さな祈りの名残のようだった。
宰相レオンは少し離れた場所にたたずみ、白銀の中に広がる神秘的な光景を、ただ静かに見つめていた。
「……信じがたい光景だ」
低く静かな呟きが、凍てつく空気にそっと溶けていく。
かつて神殿へ潜入する際、主君である摂政シエルは大司教に対し「北への行幸後は聖女を無事に聖域へお返しする」と約束を交わしていた。
戦後処理と国政の安定を見届けた後、自らも王籍を捨てて彼女とともに南へ渡り、生涯をかけて聖域の復興と守護に身を捧げる――本気でそんな捨て身の責任を果たそうとしていた主君の、青臭くも一途すぎる愚直さに、レオンは密かに胃を痛め続けてきたのだ。
自分が王の器と認めた主を、この北の国ノルディスから手放すわけにはいかない。
しかし、大司教との約束も、南の国との外交上の義理も、生半可な妥協では反故にできない。
(……待てよ)
レオンは目の前で力強く天へと梢を伸ばす、古代樹の若木へと視線を走らせた。
北の極寒の土に根を張り、その足元だけに南の暖かな陽光と野花を咲かせている異質な奇跡。
(何も、復興した南の聖域だけが聖域である必要はないのではないか……?)
レオンの頭脳の中で、複雑に絡み合っていた外交と国政の盤面が一気に繋がり始める。
この地に芽吹いた古代樹を中心に、ノルディスに新たな『聖域』を定義し、築き上げてしまえばいい。南の聖域を再建するための支援と賠償は惜しみなく続けつつも、この北の地に生まれた新たな聖域の守護者として、リリアとシエルを留めるのだ。
(そうすれば、シエル殿下をこの国の正当な統治者として手元に残し、リリア様とやがて生まれる御子も、この北の地で家族として穏やかに暮らすことができる……)
問題は、南の国エルリアと神殿をどう納得させるかだ。
最大の鍵となるのは、あの厳格な大司教。まずはあの老練な聖職者をいかに抱き込み、この新たな聖域の誕生を神の意思として正当化させるか――。外交書簡の文面と裏工作の算段を脳内で高速に組み立てていた、その時であった。
「お水の時間ですよ」
静寂を破る愛らしい声に視線を向けると、雪色の毛皮に縁どられた外套に身を包んだリリアが、真剣な顔つきで古代樹の根元に水差しを傾けていた。
朝光を浴びた一筋の水滴が輝き、渇いた根を優しく濡らしていく。
毎日かいがいしく世話を焼くことだけは、彼女の譲れない日課なのだろう。
(……ふむ。これはまた、なんと愛らしい)
朝光のなかで健気に立ち働くその小さな姿に、レオンは思わず目元を和らげた。
同時に、主君であるシエルのこれまでの女性関係が脳裏をよぎる。
政略外交や社交界の盤面において、シエルが対峙してきたのは権謀術数に長けた大人の貴婦人や、野心を秘めた名門の令嬢ばかりだった。冷徹な摂政としてそれらをあしらい、政治の道具として割り切ってきたあの主君が――これほどまでに純粋で、無垢な温もりをもつ少女に巡り逢ったのだ。
(道理で、対応がまるで違っていたわけだ……)
これまでの手慣れた大人の駆け引きなど一切通用せず、ただただ彼女の純粋さに惑わされている主君の姿を思い浮かべ、レオンは密かに納得した。
雪を踏みしめる音をなるべく立てぬよう、レオンは静かに彼女のもとへと歩み寄る。
その気配に気づいたリリアが振り向くと、彼は完璧な所作で雪の上に片膝をつき、深々と頭を垂れてうやうやしく臣下の礼をとった。
「聖女様におかれましては、お初にお目にかかります。北の国ノルディスの宰相を務めさせて頂いております、レオン・ヴァルハイトと申します。此度の不躾なご挨拶、何卒お許しくださいませ」
静かに跪くレオンの真摯な姿を受け止め、リリアは抱えていた水差しをそっと雪の上に置くと、衣服の裾を優雅に整えた。
「ご丁寧なご挨拶をありがとうございます、宰相様。どうかお顔をお上げください」
そして、わずかに裙を持ち上げ、神殿の儀礼に則った美しい礼をとる。
「私のような者を北の地に温かく迎えてくださったこと、心より感謝申し上げます。……この樹も、皆様のおおかげで、こうして無事に芽吹くことができました」
神殿の聖女としての気高く澄んだ立ち振る舞いと、周囲への溢れんばかりの感謝。
その姿に宿る澄んだ「聖性」に触れ、レオンは一瞬だけ目を細めた。
「なるほど……あのお方が心を奪われるのも頷ける。これほど気高くお美しい方であれば、立派な妃殿下におなりになるでしょう」
「……妃殿下……?」
その言葉が出た瞬間、リリアの紺碧の瞳が大きく見開かれた。
「い、いえ、そんな、恐れ多いです……」
消え入りそうな声で、恥ずかしそうに俯いてしまうリリア。
先ほどの完璧な神殿の礼儀はどこへやら、彼女の様子はどう見ても「自分が王族の妻になる」など微塵も想定していなかった者のそれだった。
――その瞬間、レオンの頭脳がピタリと停止した。
シエルが摂政として莫大な戦後処理と国政の合間を縫い、外交手腕を駆使して南国との折衝を進めているのは重々承知している。大司教との返還の約束を曖昧にしたままでは正式な婚姻など結べないという、シエルの生真面目さも理解できる。
(だからと言って……まさかプロポーズすらしていない、のか……?)
そこまで考えて、レオンは思い当たってしまった。
リリアに関してだけは無駄に真面目で不器用なあの主君のことだ。大司教との約束も、南との複雑な条約も、過去の後ろめたさも――すべてを完璧にし、何の陰りもない状態になってから求婚したいなどと、馬鹿正直に考えているに違いない。
しかし、既成事実だけが存在して肝心の求婚が後回しになっている現状は、宰相として激甚な頭痛の種でしかない。
何より、リリアの身体から王家の禁薬の影響が消えているということは、すでにそのお腹には尊い御子が宿っているはずなのだ。
お腹が目立ち始め、世間が浮かれ出す前に正式な手続きを踏んで彼女を「摂政妃」に据えなければ、取り返しのつかない事態になる。
政敵どもに絶好の叩きどころを与えるばかりか、外交上の破綻どころか宗教的な糾弾まで免れないのだ。
政治のことなら冷徹で恐ろしく有能な男だというのに、リリアが絡むと途端に視野が狭まる不甲斐ない主君の実状を悟った瞬間、レオンの完璧な面貌から感情が消え失せた。
心底あきれ果てた重い息が、白い霧となって冬の空気に溶けていく。
頭を抱えたくなったこめかみを指先で押さえ、レオンは呆れと深い脱力感を隠そうともせずに小さく首を振った。
「宰相様……?」
「……失礼いたしました、リリア様。どうぞお気になさらないでください。あのお方のあまりの不甲斐なさに、少々意識が遠のきかけていただけですので」
リリアの無垢な瞳を見つめながら、レオンは眼鏡の位置を直し、完璧な笑みを浮かべた。
「それではリリア様、私はこれにて失礼いたします。……少々、手のかかる主君にお説教をしにいかねばなりませんので」
「えっ……お説教、ですか……?」
不思議そうに首を傾げるリリアに向かって、レオンは臣下として完璧な所作でうやうやしく一礼する。
古代樹を新聖域へと昇華させる外交手腕も、大司教を丸め込む裏工作も。さらには、リリアの前でだけ哀れなほど臆病になる摂政殿下に引導を渡し、正式に彼女を妻とさせるためのお膳立てまでも――。
(……この件に関しては、私がすべてを引き受け、道をこじ開けるしかなさそうだな)
覚悟を決め直した宰相の瞳に、静かながらも苛烈な決意の光が宿る。
外交書簡をしたためる前に、まずはあのあまりに不器用で意気地のない主君の胸倉を掴みに行くのが先決だ。
手始めに、かつて国政のために社交界でどれほど巧みに貴婦人たちをあしらい、大人の付き合いを重ねてきたか、その手慣れた過去をリリア様の耳に入れてやると脅せば、あの主君も青ざめて首を縦に振るだろう。
きょとんとするリリアを残し、完璧な黒い笑みを浮かべたまま、レオンは吹っ切れたような足取りで静かに離宮をあとにした。




