奇跡の代償
北の地に訪れた、束の間の静寂。
離宮の庭園には、極寒の風が、ひそやかに吹き抜けていた。雪はやんで、薄く晴れた空の下、降り積もった白が、淡い光をうけてやわらかく輝いている。
雪を踏みしめる音が、きゅ、きゅ、と、ふたり分。
白銀の髪を風に揺らしたシエルは、傍らを歩くリリアへ、アイスブルーの瞳を向けた。
リリアは、まるで宝物を守るように、両手のひらで何かを、そっと包みこんでいた。
「ごめんなさい、このような寒い場所まで付き合わせてしまって……」
振り向いた紺碧の瞳が、少しだけ照れくさそうに揺れる。ひらいた華奢な掌の上にあったのは、すっかり干からびて茶色く萎びた、一枚の葉だった。
「それは?」
「神殿の古代樹の葉なんです。さらわれそうになったときに、偶然手にして……ずっと、胸もとに隠していたんです」
シエルは隣へ寄り添い、掌の上の葉を覗きこんだ。
ひび割れて、いまにも粉になって崩れそうな、小さな葉。
「南の聖域の葉か……もう枯れてしまっているね。魔力も感じられない。……薬に使えるか?」
薬師としての習性が、思わず顔をのぞかせる。
「お薬にしちゃだめです!」
慌てて首を振る彼女の仕草があまりに可愛らしくて、シエルの口元がふっとゆるんだ。
リリアは、枯れ葉を見つめて、ぽつりと続けた。
「これを持っていると、シエル様と出会った、あの温かな場所にいた時間を思い出せて……。枯れてしまったけれど、せめて、土に返してあげたくて」
ジュリアンの配下に捕らわれて恐怖と絶望の底にいたときも、彼女はこの葉をずっと懐に潜ませていたという。
暗い馬車の揺れのなかで。凍える夜道で。震える指先で、ひび割れていく葉を、何度も確かめるように握りしめながら。
遠く離れても、故郷の面影と、シエルと過ごした愛おしい記憶を、どうしても失いたくなくて。
(一人きりで、俺との想い出だけを頼りに耐えていたというのか…。身分も何もない、ただの一神官の俺との)
白銀の静寂のなか、シエルの胸は絞り上げられるような愛おしさと切ない痛みに満たされた。
リリアは、枯れ葉を胸もとへ引き寄せて、そっと目を閉じる。
「……ずっと、私に寄り添っていてくれて、ありがとう」
愛しい友に語りかけるような、やさしい声。
両手を合わせたその瞬間、リリアの華奢な身体から、淡い光が、ふわりと溢れ出した。
魔法の詠唱も、触媒もない。ただ、彼女の手のなかにある、無自覚な聖なる力が、枯れ葉を静かに満たしていく。
光は、雪原を、白く、やわらかく染めた。
干からびていた茶色の葉が、時間を逆さにめくるように、みずみずしい深緑色を取り戻していく。ひび割れが消え、しなやかな葉脈が、とくん、とくんと脈打つ。
葉の真ん中から、力強い生命の胎動を示すように、一筋の青々とした新芽がすっと顔を覗かせた。
「芽が……?」
シエルが、思わず声をもらす。
けれど、それは、ほんの始まりにすぎなかった。
リリアの手からあふれる光に応えるように、幼い芽は、爆ぜるような速さで根を伸ばし、彼女の掌をこぼれ落ちて、雪の積もる大地へ、深く、深く、根を張った。
みずみずしい緑の幹が見るまに太くたくましくなり、枝をひろげ、深緑の葉を、ひとつ、またひとつと茂らせていく。何年もの時間を、ひと息に飛びこえていくような、ありえない速さ。
気がつけば、ふたりの目の前には、白銀の世界に、悠然とそびえる一本の若木があった。
小さくとも、凛と威厳に満ちた、古代樹の若木。
その樹を中心に、まわりの雪が、ふわりと温かな光とともに溶けていった。凍てついた土の下から、青々とした草が顔を出し、小さな花が、ひらく。極寒の空気が、やわらかな春のそれに塗り替えられ、離宮の庭ぜんたいを、神聖な気配が包みこんでいく。
枯れて死に絶えたはずの、一枚の葉から。
リリアは、生命の領域そのものを、ひとつ、再び築いてしまったのだった。
シエルの背筋を、冷たい汗が、つうと伝った。
喜びなど、感じる余裕もない。息をすることさえ、忘れていた。
枯れ果てた生命を、その手で蘇らせただけではない。北の極寒の理を、ひと息に書き換え、小さくとも聖域を生み出した。
それは、人の手が届く奇跡の領域を、軽々と踏み越えた、あまりに圧倒的な、神の権能そのものだった。
そのとき、シエルの脳裏に、かつて神殿の奥で読んだ、古い文書の一節が、雷鳴のようによみがえる。
『聖女の降臨は、数百年に一度の奇跡といわれている』
『それは神の娘。生まれたばかりの光』
『聖女として人の世を知り、愛を知り、天に還る――』
彼女が「神の娘」「聖女」と呼ばれていることは、知っていた。けれど、それは人間である彼女を讃える比喩であり、信仰の称号にすぎないと、思っていたのだ。
いま、目の前の光景が、その思いこみを、根底から打ち砕く。
(まさか……あの伝承は、比喩でも、なんでもなかったのか……?)
「あ……」
まぶしそうに若木を見上げていたリリアの身体が、ぐらりと傾いた。
シエルは、とっさにその細い肩を抱きとめる。
腕のなかに倒れこんできた彼女の肌は、恐ろしいほどの熱を帯びていた。内側から焼かれるような、苦しげな熱。
聖灼――権能の、代償だ。
シエルの蒼い瞳は、焦りと、ぞっとするほどの恐怖に、揺れていた。
これまで、シエルは、この発熱を「神聖すぎる魂ゆえに、俗世の毒に耐えかねているのだ」と思っていた。聖域の清らかな空気で包み、自分の魔力で抑えこめば、きっと治まるはずだと。
でも、違った。それだけではなかったのだ。
これは、大きすぎる神の魂が持つ権能に、人間というあまりにも儚い器が耐え切れず、すこしずつ壊れていく痛みだ。彼女の命を削りながら、天へ連れ去るための、残酷なカウントダウン。
神になど渡さないという強い拒絶を宿した瞳で、シエルは雪の上に膝をついた。そっとリリアの頬を両手で包み込み、静かに上を向かせる。
迷いはなかった。
そのまま引き寄せて唇を重ねる。奪おうとする運命から彼女を引き戻すように、深く、何度も。氷の魔力を、彼女の奥深くへ、そっと、けれど確かに注ぎこんでいく。内側から燃えあがる熱を、冷たい祈りで包みこむように。
彼女を、人間として、この世にとどめておくための、すがるような口づけだった。
「……ん……っ……ぁ……」
やがて、彼女の荒い息遣いが整い、恐ろしい熱がしずかに引いていく。
リリアは、熱を失った唇をかすかにふるわせ、涙の滲む瞳を、申し訳なさそうに落とした。
「……ごめんなさい……シエル様……。また、ご迷惑を……」
弱々しい声が、胸に刺さる。
「北の国の過酷さも、人々が寒さに苦しんでいることも、知ったのに……私には、こんな小さなことしか、できません……。もっと、お役に立ちたいのに……」
そう言って、儚く微笑む。
世間から「聖女」と持ち上げられながら、彼女自身は、驚くほど、自分の命の価値を知らない。己の命を削った奇跡を、「小さなこと」と、さみしそうに笑ってみせる。
その無防備さが、愚かしいほど、愛おしくて。
その愛おしさが、胸が潰れるほど、怖かった。
(もう二度と、君を一人にしない。誰にも、神にさえ、奪わせるものか)
シエルは、抱きしめる腕に、一層の力をこめた。恐怖で震えそうになる声を、必死に押し殺して、彼女の耳元で、低くつぶやく。
「……馬鹿を、言わないでくれ」
リリアが、びくりと肩を揺らす。
小さく震える彼女の手を、強く握りしめて、シエルは、自分の額を、彼女の額に押し当てた。
「最初は……確かに、君の持つ神の力を求めて、近づいた」
告白が、白い息になって、ふたりの間に溶けていく。
かつて、避けられない運命に抗おうとした、自分の愚かさ。そこから、彼女と重ねてきた、かけがえのない日々。そのすべてを、いとおしむように。
「けれど、君という人を知って、君が抱えている痛みに触れて……そんなものは、とうの昔に、どうでもよくなったんだ」
言葉を、ひとつずつ、噛みしめるように。
「俺が本当に欲しかったのは、奇跡の力なんかじゃない。……ただの『君』なんだよ、リリア」
リリアの瞳が、大きく見開かれた。
ほろり、と溢れた涙の雫。シエルは顔を近づけ、その温かな温もりをそっと唇で受け止めた。壊れ物を扱うような、どこまでも静かな愛おしさを込めて。
「ずっと、そばにいてほしい。……神の娘としてじゃなくて、俺の隣で笑う、ただのリリアとして」
リリアは、声にならない声で、何度も頷いた。
縋りつくように、細い両手でシエルの首に抱きつく。
彼の体温を感じ、彼の心臓の鼓動を胸に受け止めながら、リリアは彼の肩口に顔を埋めて涙をこぼした。
どちらからともなく、もう一度、唇を重ねる。
それは二度と解けない愛という名の呪いであり、世界でたったひとつの救いだった。逃れようもないほど、深く、切なく。
そのふたりを、包みこむように。
雪解けの土に深く根を張った古代樹の若木は、やわらかな枝葉をひろげて、北の地に二度と揺るがない小さな聖域の光を静かに解き放ちはじめていた。




