白磁の安らぎ
北の離宮を包んでいた吹雪が和らぎ、ガラス窓越しに差し込む陽光が、白磁の室内に柔らかな光の筋を描いていた。
天蓋の垂れる寝台の上では、媚薬の熱から解放されたリリアが、安心しきった幼子のように穏やかな寝息を立てて眠っている。
シエルはその傍らに腰掛け、息づくリリアの澄んだ寝顔を愛おしさに満ちた眼差しで見つめていた。その表情には、深い安堵の色が宿っている。
彼女の柔らかな髪にそっと触れ、静かに温かな吐息をこぼした、その時――
部屋を包む静寂を破り、廊下から無駄のない静かな足音が近づいてきた。
厚い木枠の扉が静かに押し開けられ、姿を現したのは宰相レオンだった。
レオンは寝台の上に眠るリリアの穏やかな顔色に一度だけ視線を走らせると、すべてを察したように眼鏡の奥の目を和らげた。
「……見事に、成し遂げられましたな。シエル殿下」
その声には、宰相としての顔の裏に隠された、師としての心からの安堵と誇らしさが滲んでいた。
シエルは前髪をかすかにかき上げると、座る向きをわずかに変えてレオンの視線からリリアを庇った。どこか照れくさそうに視線を泳がせ、吐き出すように呟く。
「……必死だったんだよ」
「ふむ。……あらゆる知識と誠意を尽くした末の、最も正しく熱い解毒であったと聞き及んでおりますよ」
レオンの微かな含み笑いを捉え、シエルは一瞬で耳の尖端まで赤く染め上げた。普段の冷静沈着な王弟の面影はどこへやら、気まずそうに顔を背ける姿は、かつてレオンの元で学んでいた頃の青臭さを残していた。
「……レオン、まさか」
「離宮の警備と経過の観察は私の責務にございますからな。影の手者から『殿下が誠心誠意、聖女殿を慈しまれていた』としか言いようのない綿密な報告が届いております。……まあ、あまり可愛がりすぎて泣かせぬよう、釘を刺しておかねばと思いはしましたが」
「……今すぐその報告書を燃やしてくれ」
リリアを起こさぬよう声量を殺しながらも、本気で頭を抱えるシエル。
「どちらに似ても美しい御子となられましょう。まことにめでたい」
この離宮の結界も、配備された影の者たちも、すべてレオンの手配によるものだったと思い至り、シエルは絶望的な溜息をついた。
「影の手配までお前の差配だったのを忘れていた……。まさかこんな形で弱みを握られるとは」
「弱みなどと滅相もない。無茶な行軍と連日の過労で、殿下の鋭い察知能力も鈍っておられたようですな。……体を労われという、良い薬になったのでは?」
「……忘れてくれ。頼むから」
頭を抱えて小声で懇願するシエルの姿に、レオンは満足そうに喉を鳴らして笑みを深めた。
普段は見せない青年の、不器用な等身大の素顔を十分に堪能すると、宰相は愉快げな笑みをそっと引かせる。
それから眼鏡の奥の瞳に鋭い光を宿すと、懐から一通の密封された書状を取り出し、表情を冷徹な政治家のそれへと戻した。
「さて……戯れ言はここまでといたしましょう。仕事の話でございます、殿下」
シエルはリリアの額にかかった漆黒の髪を整えると、彼女を起こさぬよう穏やかな足取りで立ち上がった。レオンに目配せを送り、二人は寝室を辞して隣の執務室へと移動した。
重々しい扉が閉ざされ、室内の密談が確保されると、シエルもまた鋭い統治者の顔つきへと戻り、レオンに向き直った。
「……ジュリアンの件はどうなった」
「氷漬けの拘束のまま、国境で待機していた南の使節へ無事身柄を引き渡しました。現在、厳重な警護のもと南の神殿へ護送中でございます」
レオンの低い報告に、シエルは頷く。
「向こうの法廷に到着次第、聖域を襲撃・破壊した大罪により裁かれる手はずとなっております。……神殿管轄の過酷な霊鉱山への終身刑は免れず、二度と日の目を見ることは叶わないでしょう」
「……『命だけは助けてやってほしい』か。兄上のくだされた情けは、時に死より残酷な試練を与えるな。一生、日の当たらない地下で罪を背負って生き続けるなど……即刻裁かれるより遥かに重い罰だ」
シエルは静かに窓辺へ歩み寄り、遠くに聳える白銀の山並みへ視線を投げた。
兄王が抱えた痛恨も、ジュリアンが狂気に囚われた理由も、すべてはこの荒れ果てた北の国が抱える過酷な運命と冷酷な政治の歪みが生んだ悲劇だった。
身内の罪と自国の不祥事を己の肩に背負おうとするシエルの背中に、情に流されかける雰囲気を静かに遮り、厳格な現実を口にした。
「焼き払われた聖域は聖力を完全に失い、今はただの焦土と化しております。我が国もまた、莫大な賠償と長期にわたる外交的責任を負わされることとなります」
「――それについては、俺が全責任を負って差配する」
シエルはゆっくりと振り返り、ブレない蒼き瞳で正面からレオンを見すえた。
「『何年、何十年かかろうと支援を継続する』という条件で、向こうの神殿を納得させろ。壊した責任は我が国にある」
「莫大な国庫と歳月を費やすことになりますぞ。今の我が国の財政にとっても、決して軽い負担ではございません」
「分かっている。……だが、償いから逃げるつもりはない。それに――」
シエルはそこで言葉を区切り、ふっと視線を和らげた。
「あそこは、俺とリリアが出会った大切な場所だ。彼女が人生のすべてを捧げ、守り続けてきた故郷でもある。だから……聖域の復興が完了したら、大司教との約束通り、リリアをかの地に返そうと思う。俺も摂政の座を退いて彼女とともに南へ渡り、ただの一神官として生涯をかけてあの聖域を守るつもりだ」
「…………は?」
静謐を保っていたレオンの面輪が、激しく固まった。
あまりにも淡々と、至極真面目な顔で「北のトップを辞めて一神官に戻る」と語る青年に、宰相は珍しく素の声を漏らして絶句する。
「……殿下。貴方は何を正気とも思えぬことを仰っているのですか。我が国の政務を預かるお方が、立場を放り出して他国で一神官に逆戻りするなど……!」
「私が身を引くことで南の憤りが収まり、罪の償いになるのなら筋の通ったやり方だろう」
やっと祀り上げた王の器を手放してなるものかと、レオンは額に浮き出そうになる青筋と焦燥を完璧な仮面の下に押し隠し、コホンと咳払いをしてみせた。商人のような抜け目のない笑みを浮かべる。
「……殿下がどれほどリリア様を慈しみ、ご自分の責任を感じていらっしゃるかは痛いほど理解しております。ですが、私……このレオンの手腕を、そこまで安く見積もられては困りますな」
レオンは胸に手を当て、力強い声で宣言した。
「摂政の座を降りて罪を丸抱えにする必要などございません。北の国を導く統治者であり続けながら、堂々と南の聖域を再建し、リリア様を北の地で幸せにする――そのすべてを成し遂げる道筋を、私が宰相として作り出してみせます」
「レオン……」
「何年かかろうと、我が国の財政と外交を立て直し、殿下が胸を張ってリリア様を妻として隣に置けるだけの盤石な基盤を整えてみせます。ですから……安易にご自身を罰するように退くなどとおっしゃらないでいただきたい。貴方とともにこの国を立て直すと決めた私の覚悟を、甘く見てもらっては困ります」
シエルは眼前の宰相を見つめ、やがて長く息を吐き出すと、己の視野の狭さを恥じるように視線を落とした。
「……すまない、レオン。お前の言う通りだな……俺はまだ一人で背負い込もうとする癖が抜けていないようだ」
蒼い瞳に再び統治者としての強い光を取り戻したシエルは、レオンへ向けて頷いた。
「俺も腹を括る。国も、聖域も、そしてリリアも……何ひとつ諦めずに背負い切ってみせる」
「……それでこそ、私の認めた殿下でございます」
レオンはいつもの隙のない笑みを口元に浮かべ、深々と頭を下げた。
完璧な微笑みを崩さぬまま、レオンはそっと背中に流れる汗を拭う。
窓から差し込む暖かな陽光が、二人の立つ執務室を照らし出していた。




