20、あのクスリに五千円とかするとは思わなかったもので、持ち合わせが……。
『なんでしょうか』
無機質で、妙に完成された診察室へと赴いた。
何故ここに呼ばれているのか、そのお医者さんが私に何が用があるのか分からない。
マキナにサラッと訊いたけれど「まあ……なんだか呼ばれた……」と手ごたえのない言葉を吐かれて、困惑したまま、丸椅子に腰かけていた。
蛍光灯が気になるし、この部屋の内装も気になる。
何よりずっとこのお医者さんが何を考えているのかさっぱり解読も出来ず煩わしさが始めだった。
「初めまして。ワタシはメーデー・ユイラグテンと申します。貴方は……へえ。まあ。マキナのお友達さんらしい感じだ」
意味ありげな口角の吊り上げ具合だった。悪寒がする。呑み込まれそうな、そんな微風がした。
『それはどういうことですか?私は病気と云う病気なのか?本当に?』
「そういう訳ではない。病気だから呼び出したなんて面倒なことではない。もっと単純さ」
『単純』
単純なこと。特に呼び出されるような変なことはしていない。だからこそやっぱり不可解なのだ。
「君は、あのどうしてそんな喋り方なんだ?」
『はい?』
喋り方?別に特段特別可笑しいところはない。それを言うならもっと可笑しな喋り方をするのは川本さんであろう。あのキョドった喋り方をする人だ。全くもってそちらの方が注視すべき点であろう。
『どこが、どのように、どうなのでしょう?』
分からな過ぎて私は尋ねてしまう。
「へえ」と一言漏らして、一歩引いた眼をした。見下しているのか、感心しているのか。
「いいや。自覚がないのならいい」なんて挙句の果てには言われてしまう。
それは余りにも無責任が過ぎる。一つ教えてくれたなら満足するまでしてくれないと、教えたことにはならないのだけれど。
『だから……』
私が説明責任を問い詰めようとする時、タイミングを計るように扉が開く。
ガラガラ。静かに、それはまあ診察室を開ける音に相応しい開閉音が鳴った。
けれど、それに反して入って来る人間はやかましいったらありゃしない。
「すいません。診察中でした?」
マキナだった。マキナが這入って来たのだけれど、あれ?と不可思議に思い、お医者さんの方へと見る。
不敵な笑みで、私の失敗を嘲笑っているかのようだった。
最悪の雰囲気の中。最悪な頼みごとをする人。
「あの……お金足りないんで貸してもらえますか?」なんていうね。
『な、なんですか?お金?』
「そ、そうで、あのクスリに五千円とかするとは思わなかったもので、持ち合わせが……」
『川本に借りれば…』
「私、あの……。帰りの……ものしか……」
『はあ』と私は盛大な溜息をついておく。
これも全てがあのメーデーとか云う奴だ。或いは私。
27
気分の悪い帰り路。
処方されたのち、逃げるように独りの帰路に立った。
皆私を心配したけれど、心を配られても、今の私には主に重荷にしかならなかった。だから全てを手放して、逃げ帰ることしかできなかった。
家の前。いつもは親がいるから億劫になってドアも重く感じるのに、今は気が重くてそれすら軽く思えた。
「ただいまー」と気の抜けた適当な挨拶を発する。
どうせ誰も挨拶を返しやしない。それがセオリーだった。
「おかえり」
しかし、今日は違った。誰かの声がした。母ではない。もっと、しゃがれていて優しい声。
私は足早にリビングに向かいその声の主を突き止めた。
「セラですか?」
何故?ここずっと家にも帰れない病院に囚われ続けていた姉がどうして?
「あら。マキナ。私の名前を初めて呼んだわね」
「ん……?そうだったけ?」と頷けば些細に落胆したような表情を見せる。
臥本の時もそうだ。委員長委員長とポジションで呼んでいたのに急に名前呼びに変化させている。
以前はどう呼んでいたかすら不明瞭であるほどに、加えて以前からずっと呼んでいたかのようにそれは心の中に定着している。
姉ちゃん?姉御?セラちゃん?
違う。ああそうだ。思い出した。もっと淡白に姉と無感情に呼んでいた気がする。ただ人称代名詞を使うが如くそれに特別な感情は持ち合わせちゃいなかった。
「どういう心情の変化でしょう?頭でも打ったのでしょうか?」
「さあ。私に訊かれてもさっぱりです。でも、頭を打ったぐらいの衝撃があったのは事実だと思います」
この胸の内にあるその出すには憚られる感情が辛くのしかかってくる。誰にもわからない私だけの傷。
「私では不十分だろうが、話を聞くぐらいならしてあげられる。まかり間違っていたらマキナは私だった」
「終いには姉妹ですからね」
「まあね」
激ウマギャグが一蹴されてしまった。
それは非常に悲恋な思いがあったものだけれど、ここまでドーンと言われてしまえば頼ざるを得ない。むしろ頼もしい。
「あの。一つ訊いてください」
「はい。どうぞ」
「私は可笑しいのでしょうか?」
「可笑しいというのは?」
私は口が塞がった思いだった。自分でも説明が難しい。だからこそ漠然とした問いかけなのではある。
「まあゆっくりでいいよ。時間は許されているからね」とその安心させる言葉は私を余計に焦らせる。
妙な汗までかかされる。何を訊けば有効か。有益か。セラと話が通じる今だからこそ全てを解決してくれる。そこには迷いなど無く全幅の信頼感を載せることが出来るのだ。そして一滴滴り落ちるのを見ていると、心の底から湧き上がるものがあった。
「私は、誰に求められているのでしょう?誰かに求められていることが正しいのでしょうか?」
結局の悩みの種はそこであった。疑心、不安……。私がこんなにも弱腰になっているのは分からないからである。いや、分からないことが気になるからだ。以前は諸共していなかった分からないことが、こんなにも恐怖に満ち溢れているだなんて、思いもしなかった。特に人間関係は恐ろしい。私が必要か不必要かで私は語ってしまっている。思い込んでしまっているのだ。
「それは……。まあ。年頃の恋愛の相談でしょうか……?」
「違いますけれど」
「冗談ですよ。冗談……」と深刻な悩みに茶々を入れて来たので不快極まりなかったけれど、セラの言うことは何か意味があると思って呑み込んだ。多分意味はない。
「それにしてもへえ。求められることか……。それは需給の問題のような気がしますけれど」
「需給ですか……」
「そう。今のマキナは求め過ぎか、それか、前までは求めていなかったのに急に大量生産すれば、可笑しくなる。マーケティングもなにもしていないのにその供給に答えられる需要がないだけなのです」
「需要がない……」
これは私の心を深刻に突き刺した。
そうすると、私は愛して愛してとなりふり構わず求愛して、全ての人に無視される人じゃないか。それを人は可哀想な奴と呼ぶのだ。
「しかし、この世の中にその需給を調整する機能は備わっていない。供給は無尽蔵に生み出されるのに、需要は永久に一定であり、神の見えざる手は存在しないのです」
「じゃあその場合はどうすればいいのですか?」
需給のバランスが崩壊したその愛とやらが、報われるのはどうすればいいの?
「そりゃあ供給を減らせばいいのだろうね。難しいだろうけれど」とどこか上の空で言った。自分でも何を言っているのか分からないような気分なのだろう。それくらい可笑しなことだ。
今の私は分かる。それが不可能なことを。この湧き上がる気持ちは最新技術の蓋なんかを使ったとしてもどうしようもない。
「当たり前だよ。無尽蔵に出来るように出来るからね。理論的には生殖のためだろうか。まあこんな元も子もないことは言いたくはないね」
「そうですか……」
「マキナは最初に私は可笑しいのかと聞いたけれど、それは全くもってずれた質問だ。またどこの馬と知れない医者にあることないことないこと吹き込まれたのだろう」
「ははは……」
「そもそも、それを受けてどうしたいのだ?」
「それは……」
「分からないから質問しているのだろう。そうでも言いたいのか?」
私にとっては随分な図星を指すので、口を噤んで、目を逸らしてしまう他なかった。
「マキナは随分と変わってしまったらしい」と憂いた表情で言った。
「そんなに駄目なんでしょうか」
寧ろ好転のようにも感じている。それが失敗のような雰囲気があるのが、心象との乖離を起こし、落ちきれない雰囲気がある。
「マキナはそんなに前の自分が嫌いかい?」
「それはまあ」
嫌いではない。ただ適合しないと言ったところだ。生物の生存戦略上適合する方へ流されて行った。ただ理論はそうだった。
「だけれど、変わってしまったのも、それは現状からの逃げじゃあないかな」
「逃げ?」
「じゃあ今度は私が訊くけれど、私は可笑しいと思う?」
私の目を直視してはっきりと説いてくる。とても答えずらにので、誤魔化すように「どちらとも……」と擁護するけれど、「こんな病院のベットに起臥していた私が可笑しくないはずがないだろう?」と一蹴する。
「私は憚らずに言う。私達は可笑しいのだ。可笑しいことを個性だと逃げやしない。そうしたらこの世で最も個性的な場所は精神病棟になるからね」
「それは随分と自虐的ですね」
「まあ確かにそうね。でも、望んで可笑しくなるのと望まないで可笑しくなるのは根本的に何もかもが違うでしょう。言い換えれば辛い現実社会より望んで精神病棟にでも行く方が楽ということさ。我が妹ならばどっちの方が幸せか分かる。だって遺伝子がほぼ同じなのだから」
不快な顔もせずニカリと笑った。
「だからさ。なに、その手に持っているのは?」
「クスリらしいけれど……」
「そんなものはね」と言って私の持っている袋をかっさらってゴミ箱に放り投げた。
「あ」
「不必要だよ。そんなもの。それは病気だと思わされているただの催眠のようだ」
私の双眸を覗き込みながら、お凸をデコピンで突き飛ばした。
痛い。痛いのだ。
こんな感覚よりもヒリリとビリリと脳天を打った。
ああ。何か、何かの間隔を感覚を手に入れたようだ。
「まあ。リラックスしなさい。怠惰に、そして、邪悪に」
美しくキリリとした態度は私を魅了した。
けれど、私はどうして姉の言う言葉を理解できるようになっていたのでしょう。
そして、どうして今になっては姉の言う言葉は一つだって理解できないのでしょう。
まあいいや。全部終わった。なんだか気分が晴れやかだ。もう寝てしまおう。




