19、寡聞にして知識はないのだけれど、天才だったらしい。
「ははは……」
笑うしかない。名医とかなんとか言っていた臥本は私を引き連れて、引き連れて、やって来たのは振出しに戻った。
多分私が変わった原因。そんな忌々しき所であろう大学付属病院へとやって来た。
正直行きたくはない。
通い詰めているので、受付の人に覚えられているからという訳ではなく、訳ではあるけれど。しかし単純にあの医者に会いたくないし、余計なことも言われたくないのは当然のことだ。
それだけで憂鬱が加速する。
スーとドアが開く。それと同時に、「ああ、マキナさん。またですか?先日起こし頂いたのですけれど……」と出会って一秒、言われたくない言葉を言われた。
不服そうな顔をしている私だが、より一層強まる。臥本に襟を持たれて引き連れられているから息が詰まって青ざめているだけなのかも知れない。
まあ、絶対違うだろうに。
『あ、あ?マキナ?もう既に通って……』
「ち、違うけれど……」
『隠さなくていいから』
「はあ。いいよ。それで」とあしらうと、残念そうな人を見る目をした。前とは違うと、ずっとそういう視線を向けているけれど、失礼だとは思わないのか。
多分悪びれもせずに、受付をしようとしている。
『まあ。あの受付の人。マキナを診察をお願いします』
「診察なんですか?」
『そりゃあ。ね』
『まるで、マキナが違うことをしている言い方ですね。いつもはなにしているんですか?彼女は』
「見舞いですよ。見舞い。お姉さんのね」
『あ……。あ、そうですか……』と言葉を細くした。眉も細くした。
良いだろう。姉ぐらい。姉は別に特に何もしていないだろう。どうしてそんな口を噤むんだい?心底共感に堪えなかった。
「まあ。良く来られますよ。随分と家族仲が良好で僥倖でしょう」
屈託のない笑顔だった。
対照的に臥本は疑心に満ちた表情を見せる。何がそんなに可笑しいのか。
「では、これを渡しますので、番号が呼ばれれば対応します」とそう言われて、私たちはどこかの席に腰かけた。
そして、時間が流れる。なぜか気まずく肩がおもい。臥本は頻りに足を組み替える。
こんな状態に汗を流す川本さんは今まで喋らなかったのに、急に口を開いた。
「あ、あの……。わ、私は、あい…マキナさ…んのお姉さまを、見たことないのですけれど……。どんな人なんですか…?私……あんまり知らない……」
しかし、その話題の振り方はまずかった。
私は余計口を堅く閉じてしまった。言うべきことは沢山あるけれど、何故か億劫になる。
目を逸らして、より気まずい空間を作ってしまう。これに見かねた臥本は仕方がなしと言った感じで重い口を開いた。
『まあ。ねえ。どういう人か、か。単純に尊敬できる憧憬の対象だったろう』
「憧憬?」
『そう。私は噂だけで、寡聞にして知識はないのだけれど、天才だったらしい。或いは天災だったのかもしれない』
「天才なんですか?」
私の方を見て疑っている。失礼だ。
『ダビンチのようなマルチナ人だったらしい。そして、マキナに良く似ているらしい』
似ている……。
そんなの良く知っている。一番見て来て、一番嫉妬はしていた。私と瓜二つだからだ。
『でも、そんな彼女でも悲劇が起こってしまって、病気を患ったらしい』
「ああ……」と尋ねたことを後悔したような声を漏らした。
『その病気は良く知らないけれど、入院する程度のことらしい。それで希望の市立大学の経済学部だったけ?…どうだったかな?まあそこはいいや』
「そう……」
『まあこんな所かな?皆知っているような内容だし、詳しくはやっぱり知らないよ』
だから私が話して欲しい。そんな目配せを送ってくる。送られても困る。話すことはない。最近はもう姉のことは良く分からないのだ。
より一層床のシミを数えたくなる。
“マキナ。マキナ様。診察室までお越しください”
「呼ばれちゃったらしい」
どうせ。私を呼ぶ先生など、分かり切ったことで胃が痛くなるものだが、今はこの最悪の空気から逃れられるので複雑だった。
『我々は……』と言い出すものだから嫌な顔をして威嚇すれば『まあ言わずもがな待っていようか』と言ってくれた。
行く気満々だったのか。勘弁してほしい。
川本さんは心配そうな顔を前面に出しているが、冷たく突き放す。そして、足早に診察室へと向かう。
それでも、絶望的な空気からまた絶望的な空気に変わるだけだった。
「えー。久ぶりだな?」と金髪碧眼の白衣を身に纏った女性は微笑みながら投げやりに言った。
「久しぶり……でしょうね」
「えっと。今日は何用で来たのか?特に姉の見舞いと云う訳でもないだろうし、それならワタシを呼び出したのは間違いであろうか」
「まあ。そうですけれど……」
「ならば、あれだろうか。カフェで話した君の定義についての話だろうか。それにしても急だ。しかし、私がいつでもと言ったからか」
ああ。そんな話もあったようななかったような……。
すっかり抜けていたけれど、「それに通ずるものがあると思う」と率直に思ったことを言葉にする。
「そうかい。まあ。そこまで気を張るようなものでもない。気軽に今の考えを聞かせてくれるか?」
キーボードに手を添えて待機する。医者だから患者のカルテルを書かなければならない。これはごく当たり前のことだ。
けれど、尋問されているように感じる。喋るのが億劫になる。だけど、メーデーの圧が強くて、強制的に吐露する感じだ。じゃあ尋問だ。
「今の考えは……。あの、私には良く分からないけれど、可笑しいらしいです」
「それはそこで待つ彼女らから受けてかい?へえ……」とそのメーデーは臥本らを見た。
「いいな。いいな。今度彼女らもいい」と下卑た目で私の友達らを観察していた。
死ぬほど悪寒がしてしまう。
「何がですか?」
「いいや。別に気にすることではない。ところで可笑しいとはどういうことだい?」
「まあ。そうです。私は今が普通だと思います。そして、前の方がゾッとするような……。身の毛もよだつ感覚があります」
どうしてこんなことを言っているのだろう。
別に前の自分も自分で、今の自分も自分で肯定できるのに。
「ほう。そうかい。そうかい……」
言えば、メーデーは走り書きで十行ほど書いて、置いた。
置いて、その医者は私を向き直った。
「それは嘘だろう」
「嘘ですか……」
うそ?まあ嘘ではある。心情情緒、深層心理ではそんなこと一つたりとも思っちゃいない。
「目が全て物語っている。人間は噓を吐くとき斜め上を見る。君はそうして間抜けな顔を晒している」
隠すつもりはなかったけれど、心理学を悉皆する医者だからだろうか。全てを透過されている。ばれてしまっては仕方がない。こんな感覚はないけれど、弁解をしようとする。
「違うような……」
そう、違う。こういう筈ではなかった。もっと謝罪の念を込めて、苦々しい顔をすべきだった。
なのになんだ。私はただただ言い訳を展開するのみだ。この私の方がよっぽど醜聞ではないのだろうか。
こうして頭を悩ませている私の傍らメーデーはやはり手を動かして文字が生成されていく。そして腕組みをして私と同じような姿勢を取る。
「やはり、やはりか……」とぽろりと零れ落ちるように呟いた。
「何がですか?」
「いいや。退廃的快楽主義症候群に見られる症状だ。それもレベル4の。あと二つで末期症状になってしまう。つまり症状の進行が予想以上に速いだろう。これは薬餌療法を取るしかなくなっているだろうと」
「そこまで深刻なんですか?」
「このままいけばと云う話だ」
そこまで深刻であるのはかなりショックな出来事である。気持ち的にも顔でも歪みが生じた。
「そんな顔をする必要はない。楽天的に、そして楽観視を出来るわけではないが、大丈夫だ。取り敢えずクスリを処方して置くから、それでいいだろう」
「はい……。まあ……。何のクスリなのでしょう?」
「進行を和らげるクスリだよ」
大分大雑把な説明だ。何が何だか分からない。
もう少し伝わらないなりにも何か適当に説明はするだろう。まあしかし、医者の言う通りならそうなのだろう。しがない文民には何一つとして口を挟むことはならない。
「では、次の患者もいるから、こんな感じでいいだろう。また、何かあったら訊きに来るといい」
クルリと回転椅子を回して、私の方へと向き直った。
以前に話した時よりも意外に淡白だった。冷徹で、感情というものがない。おまけに時間もない。私なんて数ある患者のうちに一つだと思わされた。
「ありがとうございました」
こんな上滑りの言葉を吐いて、私は立ち上がった。
即座に私は川本さんたちの所へ戻ろうと思った。
「ああ。まってくれるか?」とメーデーは声を掛けて呼び止めた。
「なんですか?」と怪訝さを隠して笑顔を作る。
「彼女、その、なんて言うんだ?そこにいる気弱そうな方ではなく……」
「臥本さんですか?」
「そう。その人を呼んで欲しい」
「それは……」
「ああ。別に君についてのことを、色々とね」
「はあ……別にいいですけれど……」
この曖昧さを無下にして私は適当に臥本を呼びに行くのは今から思えば悪手だっただろう。




