15、そう信号灯。信号灯が赤だったから
心に来た。頭にも来た。北。敗北した気分。
保健室に行くことがもう既に敗北していると言える。だから、以前、臥本が保健室に行っていたことは負けなのである。
特に解決をするわけもないのに……。とか、思うのだ。
だからと言って私自身が解決する手段は持ち合わせていなかった。
ああ。と、この苦悶とした塊をどうにかこうにか分離したいのだ。
支配権はその塊。私はハリガネムシの宿主だった。どこかに、私の意識とは関係なく、誘導されて行く。
気が付けば、屋上だった。
壊れた鍵穴が虚ろに私を見つけたが、無視して、逆に踏み潰した。
青い風が吹いていた。清涼感のあるビー玉を舐めた時と同じ気分になった。これは何とも気分が良かった。
私はそれに支配されることを所望した。一歩、また一歩足を踏み出した。
柵が私の腹を押し込むまでそれは続いた。
もうこれ以上は行けない。こう思ってしまえば「あ~あ」なんて心の底から漏れだした失望感が私を殺そうとした。
私は本能で、そう本能で蹲踞しただろう。
「どうして、どうしてなんだろう」と声には出すけれど、楽になれず。
この気分を、あの清涼感が欲しくてたまらなかった。こんな欲心に駆られるのもそれは私が苦悶という塊以外のハリガネムシの傀儡と化しているからか。
私は一歩踏み出した。そうしたら、唐突に太陽のようなそんな燃えるような光の渦に呑み込まれる。
周りが赤一色に染められた。
その色は最も好む色である。嬉しくなった。嬉しさのあまり心躍る。足が踊る。赫赫とする閃光に目が奪われている。そこしか見えない。そして、そのまま二歩目を踏み出した。
飛び込むように。何かに抱擁される前のような踏み出し方だった。
そうしたら多幸感は私を救ったのに、しかし、誰かに救われたのは確かだった。
「あ、あの……。え……」
こんな声だった。物凄く聞き覚えのある声の細さをしている。
当惑に、当惑を重ね、不安感を混ぜ合わせた容貌をおそらくしているだろう人は川本さんだった。
その小さく矮小な四肢でまた死屍に還ろうとする私を全力で引き留めていた。
「ああああ。あああのおおお」
と普段のその人からは想像も出来ぬ原野にも澄み渡る声を張り上げるのは正直びっくりしたものだが、それにしても、ここにいて、私の足を引っ張っていることに対して疑問を持たねばならないだろう。
ただただ、頭に血が上って辛いだけだった。
「ど、どうして……。貴方がここに……」という言葉を発したが、八割方恨み辛みである。
ただ、引っ張られている足が異常に痛い。衣擦れを起こし、痒く痛い。隔靴搔痒とはまさにこれを言うのではないか?
言葉では驚いているというのに、心では冷めきっている。
「そ、それは……。偶然、見つけて追っかけて……。中々話しかけられなくて…」
「それは、ストーカーではないか?」
「うっ」と心を刺されたらしい。引っ張る力が弱くなった。
私の脱力感も相まって地面に近いただけだった。
「あああ」
こんなことしている場合ではないと、あわただしく、力を入れた。
これは何かの拷問なのだろうか。痛いのだけれど。
「いい」
「……」
「いいから」と私は聞こえないのかったのだろうかともう一度言葉にする。
ただ血が上ってやっぱり突き落してくれた方が、極楽浄土と言うことだ。
「違うっ」
「んっ」
分からなかった。今私は鏡を見れないほどに呆れた、そして間抜けな顔を晒しているだろう。これくらいには力強く、それは叫びだった。
どうして、どうしてなのだろう。
私は只堕ちていくのに……。
「わ、私は……あの……。あ、あの。人が目の前で落ちていくのは見ていられませんっ」と鼓膜が壊れる叫びを見せながら、マグロの一本釣りの如く引き上げられた。
こんなに細い川本さんにどこにそのような力があるのだろう。上腕二頭筋のどこに……と見ていると、そのまま床に打ち付けられた。
「いてっ」と情けない声を出す。
この状況は非常に情けない。情けなくて、痛い。表面的にも。裏面でも。
ナニコレ。こんなに痛いの?可笑しくないか?
いいや、これは形式的には助けられたのだから感謝しないといけないのか?それとも頼んでいないからと声を荒げればいいのだろうか?
「えっと。ごめんなさい……」
ごめんなさい……。ごめんなさいと言っているのですか。
首を傾げて見た。
「ごめんなさい?」
「別に謝ることはないですよ?」
「あっ……」
普通に戻った。あの威勢のいいことを言った口はどこへやってしまったのだろうか。
あの川本さんは別人格であったとも考えられるなんて突飛な思考が生まれるくらいには整合性が取れなかった。
しかし、「あの、どうして……」と口を開いたので、やっぱり嘘ではないのかとあれが想像ではないことの証明がいとも簡単にされた。
「どうして?どうしてとも言われても……」
私は分かりやすいように指さす。
「信号ですか?」
「そう信号灯。信号灯が赤だったから」
川本さんは確認しても呆然とした表情だった。私の意図は伝わらないらしい。
寧ろ否定的だった。
「信号灯で……そんな風になる……の…?」
こんな未知の生物を見るかのような目を止めて貰えないだろうか。不愉快だ。
「赤は情熱的でね。青はなんだか淋しい気分にさせたのさ」
「だったら逆なのでは?」
確かにそうではある。青でブルーな気持ちになるのに、赤でブルーな気持ちになるのは矛盾撞着だ。たった今自らの意思でそのから落命したいと思った。
フェンスに手を置くと、不安な顔をされた。
私を不安にさせたのだから等価交換みたいなものだろう。
「もういいや。私はもう帰ろうかと思う」
なんか白けてしまった。このままだと、空を眺めて終わりのような気がしたのだ。
踵を返す様に、私は来た道を行こうとした。
「だ、だ……駄目です……」
腕を引き留められてしまった。
「何故?」と問い返すと川本さんはみるみる威勢がなくなり挙句の果てには収縮した。
「何故も理由なければ、私はもう去って良いですか?」
「いいいい……やあ…」とその声虚しく私は出て行った。
21
これはいわば自殺失敗というのだろうか。未遂とも言うんのだろうか?
いや流石にこれはどちらとも言えないような気分がする。
別に死のうとも思っていない。生きようとも思っていないかもしれない。もう、私が誰かすら自身ですらなにも理解していないようなのだ。
これからも、そして、今どこへ向かっているのかすら分からなかった。
さっきのほうが後がなくて良かったなあと。どうでもいい後悔の感傷に浸かった。
階段の踊り場に座り込んで、おそらく死んだ顔で床のシミを眺めていた。意図的に頭の中をシミでいっぱいにしようとしている。もう何も考えられないように……そうするしかなかった。
「ああ。そういえば、私。こんなところいてたら……」
川本さんが降りて来た時にも使うのに……。あの人ただただ気が軟弱だから、私が退路を塞いでいる構図になっていないだろうか。
ははは……。
かすっかすの笑顔だった。
『あ、あれ……。マキナじゃん』
「ん……。ああ…」
臥本か。見慣れた面は見られたくないときに見たなら、随分と気分が悪くなる。
そんな状態なのに、思い通りに行かないようで、ずんずんと私の方へ近付いてくる。近づかれるたびに気分が悪くなった。
『どうした?そんな顔をして』と直接的にそれを指摘される。指摘されればちょっとは取り繕うと笑顔を見せて見る。
「別になにもないよ。はははっ……」
誰がどう考えたって淋しさを身に纏っている人間の出す声だ。
下手過ぎた笑いだ。敢えて下手にすることで、どうにかこうにかしてもらおうと期待しているのか。
嫌になる。
『本当に?なんかカフェに行った時より酷い顔をしていると思う』
「そうですか?私にはどうも確認できないから……」
『そりゃそうでしょう。どうせ、鏡で見たところでどのみち歪んでしまっている。でも、鏡で見たとしても、やつれて、儚く白っぽく見える』
これを悪口と呼ぶのではないのだろうか。私個人として、多分美人だと思い込んでいるのだが、あっさりと平然と突き壊すなんて……。
しかし、この言葉は今まで全ての行動を透過するかのようだった。流石臥本の神髄と言えよう。
「虚弱体質はそそるものがあると聞き及んでいる」
『う……ん。それは何ともコメントしずらいことを言うではないか。はっきり云うけれど、今のマキナは普通に病んでいるというか……なんというか…そそられはしないんじゃないかな……』
「病んでいるか……」
『まあ。もともないことを言えばそうなっちゃうのだろうね』
そんなこと言われなくても分かる。分かることだ。実際病名だって与えられている。それなのに病んでいないと主張論拠を広げるのはやや無理があるだろう。
『まあ。そういうことを言いたい訳ではないんだ』
「何を……」
『君はもう既に危ないから、あまり何も考えない方がいいかも』
思考放棄を要求されている。
いいや。私も賛成できる忠告である。というかもう何かあった後なんだ。だから、もう。
「善処しておこうかな」と後ろめたさを誤魔化した。それはもう憂いを隠せないそんな顔でこくりと頷いた。
『やっぱり、あれだな。保健室でも……』
「いいや、もう帰ることにします」
『帰る……。帰るか……。まあ。良いんじゃない』
不安が残るぎこちない口調で許した。
「じゃあ行くわ」と言って私は早退届けも書かず、無断で帰ろうと思う。
だから、カバンもその儘である。臥本が何とかしてくれるだろう。そんな期待を孕みながら、帰路を辿った。




