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8 もしかして、拗ねていらっしゃるんですか?

 王都近郊の商業都市での買い出しを終え、フィデリアとヴィルカスはオーリエル領の牧場へと帰還した。


 馬車から降り立つなり、ヴィルカスは買い込んだ大量の荷物を一人で軽々と抱え上げた。


「ヴィルカス様、やはり少しは私も……」


「不要だ。お前は自分の仕事に戻れ。俺はこれを屋敷の倉庫に運んでおく」


 有無を言わせぬ低い声で告げると、ヴィルカスはズンズンと屋敷の方へ歩いていってしまった。

 その後ろ姿を見送りながら、フィデリアは苦笑して首を振る。


 彼女はそのまま屋敷へは戻らず、放牧地とは反対側にある急造された大きな厩舎へと向かった。

 そこには赤狼騎士団の騎士たちが乗ってきた数十頭の軍馬が繋がれ、休息を取っている。


 フィデリアは牧羊犬や羊だけでなく、馬の扱いにも長けていた。

 彼女は迷うことなく、厩舎の一番奥に繋がれている巨大な黒馬の元へ歩み寄る。

 ヴィルカスの愛馬であるその黒馬は、主と同様に気性が荒く、見知らぬ者が近づけば容赦なく前脚で蹴り殺そうとする凶暴な獣であった。


 フィデリアが近づくと、黒馬はブルルッと鼻を鳴らし、威嚇するように首を振った。

 しかし、フィデリアは全く怯むことなく、穏やかな足取りで黒馬の正面に立つ。


「お疲れ様。重い鎧を着たご主人様を乗せて、長旅ご苦労様でした。少し汚れを落としましょうね」


 フィデリアが落ち着き払った声で語りかけながら、その鼻筋をそっと撫でた瞬間――先ほどまで荒ぶっていた黒馬が、まるで魔法にかけられたようにスッと大人しくなり、心地よさそうに目を細めた。

 フィデリアは手慣れた様子でブラシをかけ、艶やかな黒い毛並みから泥や埃を落としていく。

 さらに前脚を優しく持ち上げ、蹄に小石が挟まっていないか、傷がないかを丁寧に確認し始めた。


「おい、見ろよ……」


「あの気性の荒い団長の馬が、お嬢様にはあんなに大人しく身を委ねてるぞ……」


「さすがは牧羊犬の訓練士様だ。動物を惹きつける天性の才があるんだろうな」


 少し離れた場所で休憩していた騎士たちが、信じられないものを見るような目で感嘆の声を漏らしている。

 フィデリアにとって、命ある動物に敬意を払い、誠実に接するのはごく当たり前の日常の風景に過ぎなかった。


 黒馬のブラッシングを終え、フィデリアが満足して厩舎を出ようとした時のこと――。

 屋敷の方から、気の抜けた欠伸の声が聞こえてきた。


「ふわぁぁ……おっ、買い出しから帰ってきたのか。って、なんだあの光景は?」


 寝癖をつけたままの兄――スターク・オーリエルだ。

 彼の視線の先には、倉庫に大量の荷物を運び終え、戻ってきたヴィルカスの姿があった。

 スタークはニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべ、ヴィルカスに向かって軽口を叩く。


「あの顔の怖い騎士団長殿が、うちの立派な荷物持ちになってるじゃないか! 命令すれば何でも運んでくれるなんて、なかなか従順で優秀な番犬だな!」


 その瞬間、周囲の空気がピキリと凍りついた。

 ヴィルカスは表情一つ変えず、ゆっくりとスタークを見下ろした。

 それは――極めて純度の高い殺意だった。


「……フィデリア。あの口の減らないごみを、牧草地の肥料にしてもいいか?」


 ヴィルカスが真顔で背中の大剣に手をかけたのを見て、スタークの顔から血の気が一瞬で引き去った。


「いけません、お座りなさい。ヴィルカス様」


 フィデリアがピシャリと制止の声を飛ばす。

 ヴィルカスはピクッと肩を揺らすと、渋々といった様子で剣から手を離した。


「ひぃっ、命拾いしたぜ……!」


 スタークは脱兎のごとく屋敷の裏手へと逃げ去っていった。

 それを見送ったフィデリアは、深々とため息をついてからヴィルカスに向き直る。


「護衛から荷物持ちまで、今日一日本当にありがとうございました。お礼に、少し甘いものを作りますね。応接間でお待ちください」


「……甘いもの、か」


「はい。ヴィルカス様のお口に合うように作りますから」


 フィデリアは厨房へ向かうと、手早く調理の準備を始めた。


 オーリエル領の牧場で今朝採れたばかりの新鮮な卵と、特産品である濃厚な羊のミルクをたっぷりとボウルでかき混ぜる。

 そこに少量の砂糖を加え、滑らかになるまで裏ごしをしてから、小さな陶器の器に流し込んでオーブンへ。


 焼き上がるのを待つ間に、小鍋で砂糖を焦がし、カラメルソースを作る。

 大人なヴィルカスの舌に合うよう、甘さは控えめに、少しほろ苦い風味が際立つように煮詰めるのがフィデリアのこだわりだった。


 甘く香ばしい匂いが厨房を満たし、表面に綺麗な焼き色のついた特製焼きプリンが完成した。

 フィデリアがトレイに乗せて応接間へ運ぶと、ソファーに深く腰掛けていたヴィルカスが凶悪な面構えをわずかに綻ばせて立ち上がった。


「お待たせいたしました。特製の焼きプリンです。ほろ苦いカラメルソースをかけてありますので、甘いものが苦手な方でも食べやすいと思いますよ」


 フィデリアがテーブルに器を置くと、ヴィルカスはその巨体に似合わない小さなスプーンを無骨な手で持ち、慎重に一口すくって口へ運んだ。


「……美味い」


 ヴィルカスの青い瞳が、驚きに見開かれる。

 卵と羊のミルクの濃厚なコクが口いっぱいに広がり、その後に続くカラメルの焦げたような香ばしい苦味が、絶妙な調和を生み出している。

 戦場で口にするような保存食とは次元が違う、心と体を温めるような優しい味だった。


「甘すぎるのは苦手だが……これは、驚くほど優しい味がする。お前の作るものは、俺の体の奥の強張りを解いてくれるな」


 あっという間にプリンを平らげたヴィルカスを見て、フィデリアは嬉しそうに目を細めた。

 彼がこれほど素直に感情を表現してくれることが、彼女にとっても何よりの喜びになりつつあった。


 だが、空になった器をテーブルに置いた直後。

 ヴィルカスはふと不満げに眉をひそめると、フィデリアが座っているソファーの隣へと移動し、ドスンと重い音を立てて腰を下ろした。


「ヴィルカス様? どうされましたか?」


「……さっき、俺の馬を随分と念入りに撫でていたな」


 突然の言葉に、フィデリアはパチクリと瞬きをした。


「ええ、長旅で疲れていたようでしたから。ブラッシングをして、蹄の調子を見てあげたんです。とても立派で、賢い馬ですね」


「あいつばかりずるい」


「……はい?」


 ――聞き間違いかと思った。

 しかし、ヴィルカスは真剣そのものの顔で、真っ直ぐにフィデリアを見つめている。


「俺の方が、今日一日お前の役に立ったはずだ。護衛もしたし、荷物もすべて運んだ。それなのに、お前は帰ってくるなり俺ではなく、馬の方へ一直線に向かっていった」


 それは、どう考えても自分の乗る馬に対する嫉妬だった。


 国最強と恐れられる男が、自分を乗せて走ってくれる愛馬相手に本気で拗ねているのだ。

 あまりの不器用さと可愛らしさに、フィデリアは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。


「もしかして、拗ねていらっしゃるんですか?」


「……俺も、撫でてくれ」


 ヴィルカスはそう言うなり、大きな体を折り曲げ、フィデリアの膝の上にゴロンと自身の頭を乗せた。

 ――突然の膝枕である。

 彼の分厚い胸板や広い肩幅に対して、フィデリアの太ももはあまりにも華奢だった。

 ズシリと伝わってくる大柄な成人男性の頭の重みと、服越しに伝わる体温に、フィデリアの顔がボッと朱に染まる。


「ちょ、ヴィルカス様!? こんな姿勢、誰かに見られたら……!」


「嫌か?」


 下から見上げてくる彼の青い瞳は、どこまでも澄み切っていて、逃げ場のないほど真っ直ぐだった。

 その仄暗い情動を宿した瞳に見つめられ、フィデリアは抗う言葉を失ってしまった。

 彼女はゆっくりと息を吐くと、諦めたように両手を伸ばし、彼の燃えるような赤い髪にそっと指を差し入れた。


「……嫌では、ありません。今日はいっぱい働いてくれましたからね」


「あぁ……」


 フィデリアが髪を梳くように優しく撫でると、ヴィルカスの硬く張っていた首筋の筋肉がスッと緩み、深い吐息が漏れた。


「お前の手は温かくて……頭の中の雑音が、全部消えるんだ。ただ、お前の匂いと、優しい気配だけが残る」


 ヴィルカスは心地よさそうに目を閉じながら、自身に触れているフィデリアの右手を、そっと大きな両手で包み込んだ。

 そして、彼女の小さな手のひらに、誓いを立てるように深く口づけを落としたのだ。


「っ……!」


「俺の命を預ける短剣は、もう渡した。これは、指輪の代わりだ」


 唇が離れた後も、手のひらには彼の強い熱が残っていた。

 ヴィルカスは再び目を開け、フィデリアを逃がさないとばかりに強く射抜く。


「俺の、たった一人の女になってくれ……お前の全部が欲しい」


 ロペス侯爵との対峙を経て、彼の中で明確な形を持った独占欲。

 それはもう、手のかかる大きな犬が飼い主に向ける甘えなどではない。

 一人の成熟した男性が、愛する女性に愛を乞い、囲い込もうとする強烈な雄の姿だった。


 手のひらから伝わる熱が全身を駆け巡り、フィデリアの心臓が早鐘のように激しく鳴り始める。


(どうしよう……私、この人のことを……)


 狂犬と呼ばれた男の、あまりにも不器用で、どうしようもなく甘い帰巣本能。

 その熱情に完全に巻き込まれてしまったフィデリアは、ただ真っ赤になった顔を隠すこともできず、彼から目を逸らすことすらできなくなっていた。

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