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9 あなたの帰る場所は、ここにあるわ!

 ――その恐るべき厄災の兆しは、一匹の牧羊犬の鋭敏な嗅覚から始まった。


 オーリエル領を包む、穏やかな午後の昼下がり。

 放牧地で羊たちの毛並みを丁寧に整えていたフィデリアは、愛犬ステラが突如として作業を止め、深い森の奥を睨みつけたまま低い唸り声を上げたことに気づいた。

 ステラの全身の毛が逆立ち、アッシュグレーの尻尾がぴんと伸びきっている。


「どうしたの、ステラ。森の中に何かいるの?」


 フィデリアが問いかけた瞬間――ステラはこれまでにない激しさで吠え始めた。

 それは牧場に近づく狼を追い払うための警告などではない。

 己よりも遥かに巨大で、抗いようのない圧倒的な暴力と死の気配に対する本能的な恐怖と闘争心を剥き出しにした絶叫に近かった。


 ――直後、フィデリアの足元から嫌な振動が伝わってきた。

 初めは微かな震えに過ぎなかったそれは、瞬く間に大地を揺るがす地響きのような轟音へと変わっていく。

 地平線の向こう、北の森からおびただしい数の鳥たちが一斉に飛び立ち、空をどす黒く染め上げた。

 木々がなぎ倒される破壊音が、遠雷のように響き渡る。


「……嘘、あれは」


 森の境界から溢れ出してきたのは、土煙を巻き上げる巨大な魔獣の群れだった。


 一体や二体ではない。

 視界を埋め尽くすほどの数。


 そのどれもが、異様なほど目を血走らせ、口から泡を吹きながら、ただ一点――オーリエル領の屋敷を目指して狂ったように押し寄せてくる。


 インフィニット・ブリード。

 数百年に一度訪れるという魔獣の異常繁殖期。


 その予兆ではない――本物の大氾濫スタンピードが、今まさにオーリエル領へと牙を剥いたのだ。


 だが、その底知れぬ混乱を引き起こしたのは、自然の摂理などでは決してなかった。

 狂乱する魔獣の群れから遠く離れた、森のさらに奥深く――。

 黒い外套を深く被ったロペス侯爵の密偵たちが、風上に立ち、不気味に蠢く紫色の粉末を大量に撒き散らしていた。


 高山植物の根から抽出された狂獣の香粉こうふんと呼ばれるその粉末は、魔獣の嗅覚を極限まで刺激し、理性を焼き切り、凶暴性を限界まで高めて暴走させる禁忌の劇薬である。


「実験開始だ。侯爵閣下は、あの女がこの地獄の中で、どれだけ強固に道具を繋ぎ止めておけるかを確かめたいと仰せだ。辺境の泥にまみれた首輪が、本物かどうか見届けさせてもらおう」


 密偵たちの冷酷な視線が注がれる中、平和だったオーリエル領は一瞬にして血塗られた戦場へと変貌した。


「全小隊、直ちに迎撃態勢をとれ! 第一・第二小隊は正面に展開し、防衛線を構築。第三小隊は左右から回り込む群れを牽制しろ。一匹たりとも防衛線を越えさせるな!」


 屋敷の玄関から飛び出したヴィルカス・ロペスは、即座に赤狼騎士団へ苛烈な号令を下した。

 つい先ほどまでフィデリアの淹れた茶を飲み、穏やかな時間を過ごしていた青年の面影はそこには微塵もない。

 その瞳には、極北の氷よりも冷徹で、獲物を屠ることのみに特化した戦士の鋭い輝きが宿っていた。


 だが、彼は出陣の間際、顔を青ざめさせて駆け寄ってきたフィデリアの華奢な肩を、痛いほど強く掴んだ。

 その分厚い手は微かに震えており、戦場で決して見せることのない、彼女を失うことへの強烈な恐怖が透けて見えた。


「フィデリア。絶対に屋敷の地下から出るな。扉に鍵をかけ、息を潜めていろ……俺がすべて片付ける。お前には指一本、泥の一滴すら触れさせない」


「ヴィルカス様、でも放牧地にまだ羊たちが……それに領民の避難誘導が!」


「いいから俺の言う通りに隠れていろ! 頼む、お前が死んだら俺は――」


 ヴィルカスはそれ以上言葉を続けることができず、顔を歪めて朱色の外套を翻し、漆黒の愛馬に飛び乗った。

 そのまま、凄まじい勢いで魔獣の波が押し寄せる最前線へと駆け出していく。


 殺気の渦巻く戦場へと向かうヴィルカスを見送り、フィデリアは強く歯を食いしばった。

 彼がどれほど自分の身を案じてくれているかは、痛いほど伝わってきた。

 ――だが、大人しく安全な地下室に隠れていることなど、彼女の持ち合わせている芯の強さと責任感が許すはずもなかった。


 外では、予期せぬ襲撃にパニックを起こした領民たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、羊たちは魔獣の恐ろしい咆哮に怯えて四散しようとしている。

 このまま放置すれば、魔獣の牙にかかる前に恐慌状態に陥った人間と家畜が押し合いになり、踏み潰されて死ぬ者が出るのは明白だった。


「ステラ、行くわよ! 私たちのお仕事の時間です!」


 フィデリアは腰に下げていた犬笛を強く吹き鳴らし、ステラと共に混乱の極みにある放牧地へと駆け出した。


 彼女の手に剣はない。

 だが、彼女には長年泥にまみれて培ってきた、命の群れを正しく導くという確かな技術があった。

 逃げ惑う人々の前に両手を広げて立ちはだかり、フィデリアは声を限りに張り上げた。


「皆さん、落ち着いて! 無闇に走らないで! 私の指示に従ってください! 羊たちはステラが誘導します。皆さんは私について、石造りの大倉庫へ避難して!」


 彼女はステラへ的確な指示を飛ばす。

 アッシュグレーの相棒は主の意図を完全に理解し、疾風のような速さで群れの左右から回り込んだ。

 ただ吠え立てるのではなく、羊たちの心理を読み、逃げ道を塞ぐことでパニックになった数百頭の羊を一つの巨大な塊へと纏め上げる。

 フィデリアは指笛の長短と空気を打つ鞭の音だけで、ステラと領民たちを同時に操っていく。


 それは、ただの牧羊犬訓練の延長などではなかった。

 恐怖と混沌に支配された戦場において、彼女の放つ澄んだ声と音が一本の明確な道を描き出していく。


 バラバラに逃げ惑っていた人々が、彼女の凛とした立ち振る舞いとステラの献身的な動きに惹きつけられるように、次第に秩序を取り戻し避難を開始した。

 互いに助け合い、転んだ子供を引き起こしながら、堅牢な石造りの倉庫へと向かっていく。


 被害を最小限に抑え、すべての領民と家畜を安全な場所へ押し込んだ頃――フィデリアは汗だくになりながら、戦場の最前線を見下ろすことのできる小高い丘へと駆け上がった。


 そこでは、目を覆いたくなるような地獄が具現化していた。

 ヴィルカスは大剣を軽々と振るい、一振りごとに数頭の巨大な魔獣を両断し、血の雨を降らせていた。

 彼の武力は圧倒的であり、赤狼騎士団の精鋭たちも一歩も退かずに防衛線を死守している。


 だが、森から湧き出す敵の数はあまりにも多すぎた。

 さらにヴィルカスを苦しめていたのは、肉体的な疲労ではない。

 狂獣の香粉によって理性を失い狂乱した魔獣たちが放つ異常な殺意と、逃げ遅れた者たちが発する生々しい恐怖の感情だった。

 それらのどす黒い負の感情が、獣人の血を引く彼の共鳴の能力を通じて、絶叫となって脳内を埋め尽くしていく。


「……ッ、があぁぁ……ッ!!」


 ヴィルカスが苦悶の声を上げ、大剣を支えにして片膝を突いた。

 彼の首筋から顔にかけて、呪いのような不気味な赤い紋様が浮き上がり始める。

 青い瞳は、すでに濁った朱色へと染まりかけていた。


 他者の感情を吸い上げすぎたことによる許容量の超過。

 理性が摩耗し、敵と味方の区別すらつかなくなる暴走の境界線だった。

 彼の頭の中では何万もの魔獣の叫び声と血の匂いを求める破壊衝動が、鼓膜を突き破らんばかりに響き渡っていた。


(うるさい……壊せ、殺せ、引き裂け……すべてを……)


 ヴィルカスがゆらりと立ち上がり、再び大剣を振り上げた。

 しかしその切っ先は迫り来る魔獣ではなく、彼のすぐ背後で戦っていた副団長へ向けられようとしていた。

 完全に理性を失い、味方をも惨殺する正真正銘の狂犬に堕ちる寸前。


 ――その時だった。


 戦場の凄惨な轟音も、魔獣の耳障りな咆哮も、すべてを切り裂くように。

 高台に立つフィデリアが、肺の底から息を吸い込み、全霊を込めて吹いた高く澄み切った調律の指笛の音が、ヴィルカスの脳裏を真っ直ぐに射抜いたのだ。


「…………ッ」


 ヴィルカスの動きがピタリと止まる。

 殺意と絶望の雑音だけで満たされていた世界に、たった一筋の――純粋で美しい旋律が流れ込んでくる。

 それは彼を暗闇から引き上げる強靭な命綱であり、嵐の海に灯った唯一の燈台の光だった。


 ゆっくりと顔を上げたヴィルカスの視界に、高台の上で必死に自分に向かって両手を広げ、叫んでいる一人の少女の姿が映る。


「ヴィルカス! 戻ってきて! 私はここよ! あなたの帰る場所は、ここにあるわ!」


 ヴィルカスの瞳から、狂気に満ちた朱色の濁りが波が引くようにスッと消え去っていく。

 代わりに、今まで以上に深く、どこまでも澄み切った力強い理性の青色が戻ってきた。


「……あぁ、聴こえる。フィデリア。お前の声だけが、俺を人間に戻してくれる」


 ヴィルカスは、血に濡れた顔で低く笑った。

 暴走という狂気に身を任せるのではない。

 愛する彼女の声によって完全に制御され、洗練された最強の力を彼は自らの意志で引き出したのだ。


 ヴィルカスは両手で大剣を握り直し、迫り来る数多の魔獣の群れを王者のような冷徹な目で見据えた。


「俺の守るべきものを、汚させはしない……消え失せろ、塵共!」


 ヴィルカスが放った一撃は、もはや剣術の域を超えていた。

 大地を割り、大気を震わせるほどの凄まじい衝撃波が放たれ、魔獣の群れを最前列から文字通り粉砕し消滅させていく。

 理性を保ったまま最大の武力を振るうその姿は、騎士というよりも――戦場そのものを支配する絶対的な神のようであった。


 ヴィルカスの反撃を皮切りに、勢いを取り戻した赤狼騎士団の猛攻が始まり、瞬く間にスタンピードは鎮圧されていった。

 生き残った魔獣たちは恐怖に駆られ、森の奥へと霧散していく。


 ――しかし。

 勝利に湧き上がる騎士団の歓声の裏で、オーリエル領の深い森の影から、黒い外套を纏った一団が音もなく姿を現した。


 ロペス侯爵直属の別動隊。

 彼らは高台の上に立ち、荒い息を吐きながらヴィルカスを見つめているフィデリアを、冷酷な瞳で見定めていた。


「実験終了だ。強大な武力を完全に制御し、なおかつ強化する首輪としての有用性は、十二分に証明された」


 リーダー格の男が、感情の欠落した声で部下たちに命令を下す。


「これより、ロペス侯爵閣下の名において、フィデリア・オーリエルを強制収容する。強大すぎる道具を我らの手で正しく使うためには、まずその首輪を、我が主の手中に置かねばならんからな」


 戦いを終え、主の元へ帰還しようとするヴィルカスがその気配に気づくよりも早く――フィデリアの周囲を侯爵の魔手が静かに囲い込もうとしていた。

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