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7 指輪って、それは、その

 ギィ、と重苦しい音を立てて、漆黒の馬車の扉が開かれた。

 つい先ほどまで商人と買い物客の活気ある声で溢れ返っていた商業都市の広場は、今や水を打ったように静まり返っている。

 王都の闇を牛耳ると噂されるロペス侯爵家の紋章を目にした人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったからだ。


 無人となった広場に、硬い靴音が一つ、また一つと響き渡る。

 馬車から降り立ったのは、仕立ての良さが遠目にもわかる黒の外套を羽織った初老の男だった。

 ヴィルカスによく似た長身と強面の顔立ちをしているが、その瞳には息子のような不器用な優しさも、戦士としての熱も存在しない。

 ただひたすらに冷たく、他者を盤上の駒としてしか見ていない、底知れぬ暗さを湛えた男――ロペス侯爵その人であった。


「……親父」


 ヴィルカスの青い瞳が、一瞬にして極北の氷のように冷酷なものへと変わった。

 彼は無言のまま大きな体を動かし、フィデリアを完全に背後へと隠すように立ち塞がる。

 その背中からは、先ほどまで子供の風船を取ってシュンとしていた不器用な青年の面影は消え失せ、国最強の武力と恐れられる狂犬の圧倒的なプレッシャーが立ち昇っていた。


「吠えるな、ヴィルカス。私はただ、見学に来ただけだ」


 ロペス侯爵は感情の抜け落ちた声でそう言うと、ヴィルカスの背後に隠れるフィデリアへと、値踏みするような視線を向けた。

 彼女が身につけているのは、令嬢らしい華やかなドレスではなく、買い出し用の質素で動きやすい服だ。

 侯爵の目には、それがひどく滑稽で取るに足らないものに映ったのだろう。

 微かに口角を上げて、冷ややかな嘲笑を浮かべる。


「牧場の泥にまみれた娘が、我が家の兵器を手なずけたと聞いてな。どれほどの妖婦かと思えば、ただの田舎娘ではないか」


「……言葉を慎め。その首を胴体から切り離すぞ」


 ヴィルカスの低い声が地を這う。

 大剣の柄に手をかけた彼の全身から、周囲の空気を凍りつかせるような凄まじい殺気が膨れ上がった。

 それは呪いによる暴走などではなく――彼自身の明確な怒りだった。


 だが、侯爵は息子の殺気を意に介することなく、フィデリアに向かって冷酷な提案を投げかけた。


「娘よ。オーリエル領などという泥臭い土地は捨てて、王都にある我が邸宅へ来い。お前には、ヴィルカスの専属の首輪として、一生不自由のない豪奢な生活を確約してやろう。お前はただ、厳重に守られた美しい部屋に座り、あいつの暴走を止める便利な道具として機能すればいい」


 それは提案という名の絶対的な命令であり、彼女を一人の人間としてではなく――ただの制御装置として扱うという傲慢な宣言だった。


「……親父。その口を閉じろと言ったはずだ。彼女は俺の光だ。貴様の薄汚い盤上に上げるな」


 ヴィルカスが一歩、前へ出る。

 彼と侯爵の間に立つ護衛の騎士たちが、一斉に剣の柄に手をかけた。

 一触即発。

 国最強の騎士団長と、王都の闇を支配する侯爵の私兵たちが、白昼堂々、広場の中央で血みどろの殺し合いを始めようとしている。

 張り詰めた糸のような緊張感が、広場を完全に支配した。


 ――その、まさに剣が抜かれようとした瞬間である。


「あっ!!」


 突然、ヴィルカスの背後から、フィデリアの間の抜けた大きな声が響き渡った。

 あまりに場違いな声に、ヴィルカスも、侯爵も、殺気を放っていた護衛の騎士たちでさえも、ビクッと肩を揺らして動きを止めてしまった。


「ど、どうしたフィデリア!? どこか怪我でもしたのか!?」


 先ほどまでの冷酷な戦士の顔はどこへやら、ヴィルカスは慌てて振り返り、大きな手でオロオロとフィデリアの肩を支えた。

 だが、フィデリアは怪我をしたわけでも、侯爵の言葉に怯えたわけでもなかった。

 彼女は自分が持っていた荷物袋の中をゴソゴソと漁り、何かを必死に探している。


「すみません、ヴィルカス様! 春に向けて羊たちの出産準備があったり、西側の牧柵の修繕手配でバタバタしていて、すっかりお返しするのを忘れていました!」


「……返す? 何をだ?」


 ヴィルカスが首を傾げる中、フィデリアは「ありました!」と明るい声を上げ、荷物袋の奥底から一つの物を取り出した。

 それは、精緻な意匠でロペス侯爵家の紋章である狼が刻まれた、重厚な短剣だった。

 以前、ヴィルカスがインフィニット・ブリードの最前線へ戻る際、「命と同じくらい大事なものだ」と言って彼女に預けたものである。


「肌身離さず持っていてほしいと言われていたのに、危ないからとずっと屋敷の引き出しの奥にしまい込んでしまっていて……! あの時は本当にありがとうございました。おかげさまで、魔獣に襲われることもなく無事に過ごせました」


 フィデリアは、借りていたペンでも返すような極めて日常的なトーンで、深々と頭を下げて短剣を差し出した。

 シリアスで重苦しかった空気が、彼女の天然な仕事人間っぷりによって完全に粉砕された瞬間だった。


 しかし、その短剣を見た瞬間、今日一番の驚愕の表情を浮かべたのは――他でもないロペス侯爵であった。

 目を見開き、信じられないものを見るようにフィデリアの手元を凝視している。


「なっ……! それは……ロペス家次期当主の証ではないか!!」


「えっ?」


 侯爵の怒声に、フィデリアがキョトンと首を傾げる。


「貴様、ヴィルカス! 家を継ぐ者が、己の命と全財産を相手に預けるという意味を持つその短剣を、正式な婚約も結んでいない牧場の女に渡したというのか!?」


「えええっ!?」


 今度はフィデリアが素っ頓狂な悲鳴を上げた。

 ただの高級な護身用の武器だと思っていた。

 だからこそ、危ないから引き出しの奥にしまっておいたのだ。

 まさかそれが、全財産と命を預けるという、激重すぎる求愛の品だったとは思いもよらなかった。


「そ、そそそ、そんな重いものだったんですか!? ダ、ダメです、こんな恐ろしいものお預かりできません! 今すぐお返しします!」


 慌てふためき、短剣をヴィルカスの胸に押し付けようとするフィデリア。

 だが、ヴィルカスは彼女の両手を自身の大きな手でふわりと包み込み、そのまま短剣ごと、彼女の胸元へと優しく押し戻した。


「俺は『命と同じくらい大事な愛用の品だ』と、嘘偽りなく伝えたはずだ……それに、ちょうどよかった」


 ヴィルカスは、信じられないものを見る父親へ向けて、微かに口角を上げてみせた。


「聞いたな、親父。この短剣を持つ彼女に手を出せば、それは次期当主である俺の意志を蹂躙し、ロペス侯爵家そのものへ反逆するのと同じ意味を持つ。それでも、彼女を屋敷の奥へ連れ去るか?」


「…………っ!」


 侯爵はギリッと奥歯を噛み鳴らした。

 次期当主の証を握られている以上、ここで強引にフィデリアを連れ去れば家督を巡る深刻な政治問題に発展してしまう。

 インフィニット・ブリードの最中において、ヴィルカスという絶対的な武力を失うことは、侯爵家にとっても致命傷なのだ。


「……狂犬が、完全に牙を抜かれたか。道具が己の意志を持てばどうなるか、いずれ思い知ることになるぞ」


 侯爵は忌々しげに捨て台詞を吐くと、踵を返し、足早に馬車へと乗り込んだ。

 重い扉が閉まり、馬車が広場から遠ざかっていくのを見届けてから、周囲の護衛騎士たちもホッと胸を撫で下ろした。

 嵐が去った広場で、フィデリアはまだ手の中にある重すぎる短剣を見つめて震えていた。


「ヴィルカス様……これ、本当にどうしましょう。私、こんな大事なものを持ったまま羊の世話なんてできません」


「羊の世話の時は、外しておけばいい。俺がいない時に、お前を守るためのお守りだ」


 ヴィルカスはそう言うと、フィデリアの手から短剣を取り上げ、彼女の腰帯に自らの手でしっかりと固定し直した。

 そして、彼を見上げるフィデリアの亜麻色の瞳を、深い切実さを宿した青い瞳で真っ直ぐに射抜いた。


「お前がずっと、この短剣を俺の身代わりのように預かったままにしてくれていて……本当に嬉しかった」


「ヴィルカス様……」


「だが、短剣では外からは見えないからな」


 ヴィルカスは、大きな手でフィデリアの頬をそっと包み込んだ。

 先ほどまで父親に向けていた冷酷さは微塵もない。

 そこにあるのは、一人の女性を深く愛し――どうしようもなく焦がれるような、不器用な男の素顔だけだった。


「今度は……もっと分かりやすい首輪を、俺の指につけてくれないか。お前が俺の唯一の主だと、誰の目にも一目でわかるような、そんな首輪を」


 その言葉の意味――指につける首輪……すなわち指輪を贈りたいという真っ直ぐな求愛に気づいた瞬間、フィデリアの顔がボンッと音を立てるように真っ赤に染まった。


「えっ、あ、あの、ヴィルカス様!? 指輪って、それは、その……!」


「返事は、急がない。だが……逃がすつもりはない」


 真っ赤になって慌てふためくフィデリアを見て、ヴィルカスは今日一番の――そして、戦場では決して見せないような、心底愛おしそうな深い微笑みを浮かべた。


 ロペス侯爵という巨大な影が迫り来る中、二人の不器用で甘い関係は、確かに新しい一歩を踏み出そうとしていた。

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