6 優しくて、いい子ですね
オーリエル領が王室直属の軍馬・軍羊育成拠点に指定されたことで、牧場にはこれまでにない規模の物資が必要となった。
新しい羊舎を建てるための特殊な工具や、インフィニット・ブリードの瘴気を和らげるための薬草、そして何より、常駐することになった赤狼騎士団の馬たちのための蹄鉄など、辺境の村では手に入らない専門的な品々である。
それらを買い付けるため、フィデリアは王都近郊の大きな商業都市へと足を運ぶことになった。
「買い出し? おっ、王都の流行りでも見に行くか? 俺がエスコートしてやろうか、フィディ!」
出かける準備をしていたフィデリアの背後で、兄のスタークが能天気に声をかけてきた。
だが、彼がその口を閉じるより早く、玄関先に立っていた巨大な影が動いた。
「……貴様は留守番だ。無能な塵が舞うと、彼女が吸う空気が汚れる」
――ヴィルカス・ロペスである。
彼は絶対零度の青い瞳でスタークを射抜くと、それだけでスタークは「ひぃっ、い、行ってらっしゃいませ!」と悲鳴を上げて屋敷の奥へと逃げ帰ってしまった。
ヴィルカスは満足げに鼻を鳴らすと、フィデリアの方へ向き直る。
「インフィニット・ブリードの影響で、都市部も完全に安全とは言えない。俺が直々に護衛する。行こう」
「わざわざ団長様自ら護衛をしていただかなくても、騎士の方を一人お借りできれば十分だったのですが」
「俺以外の男に、お前の背中を任せるつもりはない」
有無を言わせぬその口調に、フィデリアは苦笑して馬車へと乗り込んだ。
数時間後。
到着した商業都市は、多くの商人と活気ある声で溢れ返っていた。
だが、フィデリアとヴィルカスが歩く道だけは、まるでモーセの海割りのように人混みが真っ二つに割れていく。
それもそのはずだ。
ヴィルカスは非番の軽装とはいえ、その巨体と、戦場をくぐり抜けてきた凶悪な強面、そして隠しきれない威圧感は、どう見てもカタギの人間には見えない。
すれ違う人々は「あ、あれは赤狼の狂犬……?」と震え上がり、目を合わせまいと必死に道を譲っていくのだ。
「あの、ヴィルカス様。荷物、少しは私も持ちますよ。いくらなんでも持ちすぎです」
「断る」
ヴィルカスは、両手いっぱいに大量の紙袋や木箱を抱えながら、きっぱりと首を振った。
工具や薬草など、かなりの重量があるはずだが、獣人の血を引く彼にとっては羊毛のように軽いらしい。
「お前のその小さな手は、羊を撫で、俺を導くためのものだ。重い荷物を持つためじゃない。それに、俺の手は、お前の障害となるものを排除し、お前の重荷を背負うためにある」
「……」
真顔でさらりと落とされた言葉に、フィデリアはわずかに目を瞬かせた。
周囲の人間は彼を恐れ、遠ざけようとする。
けれど、隣を歩く彼は、フィデリアが人混みに押されそうになればさりげなく大きな体で壁を作り、足元に石段があれば、転ばないようにと先回りして安全を確認してくれる。
彼が放つ圧倒的な威圧感は、他者を攻撃するためではなく、ただ一点――フィデリアという存在を外界の脅威から完璧に守り抜くために機能していた。
(この人……私にだけは、こんなにも優しいのね)
今まで、ヴィルカスのことを手のかかる大きなワンちゃんとして見ていたフィデリアの胸の奥で、トクリ、と小さな音が鳴った。
それは、彼を頼りがいのある一人の男性として意識し始めた、初めての瞬間だった。
「どうした、フィデリア。疲れたか?」
「……いえ。なんでもありません。少し休んでいきましょうか」
フィデリアが誤魔化すように微笑むと、二人は広場のベンチへと向かった。
――その時だった。
「うぇぇぇんっ、とってぇ! わたしのふうせん……!」
広場の中央で、小さな女の子が泣きじゃくっている声が聞こえてきた。
見上げると、広場にそびえ立つ大きな楡の木の高い枝に、女の子が持っていたであろう空色の風船の紐が絡まってしまっている。
大人でも梯子がなければ到底届かない高さだ。
「あら、どうしましょう。誰か呼んで……」
フィデリアが言い終わるより早く、隣にいた巨大な影が動いた。
「待っていろ」
ヴィルカスは持っていた荷物をベンチにそっと置くと、一直線に楡の木へと向かった。
そして、周囲の人間が息を呑む中、彼は一切の助走もなしに軽く地を蹴り、驚異的な跳躍力で太い枝に飛びついた。
獣人の血を引く彼の身体能力は、文字通り人離れしている。
重いブーツを履いているにも関わらず、まるで重力が存在しないかのように、音もなくスルスルと木を登っていく。
一瞬で風船が絡まった枝まで到達したヴィルカスは、絡まった紐を丁寧に解き、そのまま軽やかに地面へと飛び降りた。
「ほら。問題は解決したぞ」
ヴィルカスは、女の子の目の前に立ち、空色の風船を差し出した。
泣き止んで風船を受け取ってくれる――そう信じて、ヴィルカスは彼なりに精一杯、子供を安心させるための優しい笑顔を浮かべた。
だが、それが致命的だった。
戦場で敵を震え上がらせる男が、無理に頬を引き攣らせて笑った顔は、もはや獲物を前にした肉食獣のそれにしか見えなかったのである。
「ひっ……うわぁぁぁん!! たべられりぅぅぅ!!」
女の子は風船を受け取るどころか、今日一番の大声で泣き叫び、地面にへたり込んでしまった。
ピシリ、とヴィルカスの全身が石化する。
彼は差し出した風船を持ったまま、どうしていいか分からず、完全に固まってしまった。
その強面の奥にある青い瞳が、まるで叱られた子犬のように悲しげに揺れ、フィデリアの方へと助けを求めている。
「ふふっ……」
そのあまりの不器用さと、見た目とのギャップに、フィデリアは思わず吹き出してしまった。
彼女は小走りで駆け寄ると、泣き叫ぶ女の子の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「大丈夫よ。泣かないで」
「うっ、ひぐっ……こわいひとが……」
「怖くなんてないわ。この騎士様は、あなたの風船を助けるために、高い木に登ってくれたとっても優しい人なのよ。お顔が少し怖いだけ。ね?」
フィデリアの穏やかで透き通るような声と、彼女が放つ不思議な安心感に、女の子は少しずつ泣き止んでいった。
フィデリアは女の子の小さな手を取ると、固まったままのヴィルカスの大きな手へと、そっと重ね合わせた。
「ほら、温かい手でしょう? あなたを助けてくれた、強い手よ」
女の子は、おそるおそるヴィルカスを見上げた。
強面の騎士は、壊れ物に触れるように、風船の紐をそっと女の子の指に握らせる。
「……ありがとぉ」
女の子が涙ながらにお礼を言って母親の元へ走っていくと、ヴィルカスはホッと息を吐き、全身の力が抜けたように肩を落とした。
その頭を、フィデリアの小さな手がポンポンと優しく撫でた。
「ヴィルカス様、すごかったですよ。あんなに高い木に登れるなんて。女の子の風船を助けてくれて、ありがとうございました」
「……俺は、ただ……」
「ええ。あなたは本当に、不器用で……優しくて、いい子ですね」
フィデリアが甘く微笑みかけると、ヴィルカスは気まずげに視線を逸らし、無骨な手で乱暴に自らの赤髪を掻き回した。
その凶悪な面構えの奥に、隠しきれない熱が滲んでいるのがわかる。
「……戦場で恐れられることには、とうの昔に慣れている。誰に怯えられようが、化け物と蔑まれようが、俺はどうでもよかった」
ヴィルカスの声は、ひどく掠れていた。
彼はフィデリアに向き直ると、その青い瞳に切実な光を宿して彼女を見つめた。
「だが……お前にだけは、怯えられたくない。お前に恐怖の目を向けられたら、俺は生きていけない」
「私が、あなたを怖がるわけありません」
「……あぁ」
次の瞬間、ヴィルカスはフィデリアの手首を掴み、そのまま自身の胸元へと強く引き寄せた。
ドクン、とフィデリアの心臓が大きく跳ねる。
見上げるヴィルカスの瞳には、今までのような飼い主に甘える子犬の温もりではない。
一人の男としての、熱く、暗い、強烈な独占欲が燃えていた。
「……なら、他の誰にもその笑顔を向けるな。お前を護るのも、お前に触れるのも、俺だけでいい。俺を……お前の隣に立つ男として、選んでくれ」
それは、ただ静寂を求めるだけだった狂犬が、初めて愛という感情を自覚し、彼女を明確に自分のものにしたいと願った瞬間だった。
吐息がかかるほどの距離で落とされた低い声に、フィデリアの頬がカッと熱くなる。
今までのように「いい子ですね」と流すことなどできない、圧倒的な男の熱量だった。
「ヴィルカス、様……」
二人の間に、甘く張り詰めた空気が流れる。
だが、その魔法のような時間を、容赦なく切り裂くものが現れた。
広場の石畳を、重々しい車輪の音を立てて進んでくる一台の馬車。
黒塗りの車体に刻まれていたのは、鋭い牙を剥く狼の紋章。
それは、王都の闇を牛耳り、ヴィルカスを単なる兵器として扱う冷徹な男――ロペス侯爵の馬車であった。
ヴィルカスの青い瞳が、一瞬にして冷酷な戦士のそれへと変わる。
フィデリアを庇うようにその背中に隠したヴィルカスの前で、馬車がピタリと止まり、ゆっくりと扉が開かれた。




