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5 お昼にしましょうか

 オーリエル伯爵領に、穏やかな昼下がりの陽光が降り注いでいた。

 広大な放牧地を囲む頑丈な木柵に背を預け、ヴィルカス・ロペスは静かにその光景を見つめていた。


 今日の彼は血と泥にまみれた分厚い鎧や、威圧的な朱色の騎士団長外套を身につけていない。

 鍛え上げられた分厚い胸板を包むシンプルな黒いシャツに、動きやすい革のズボンという軽装だった。


 インフィニット・ブリードの最前線で何日も不眠不休の防衛戦を続けていた彼を見かねて、副団長たちが「団長が倒れては部隊が全滅します! 今日一日は絶対に非番にして、休養を取ってください!」と涙ながらに懇願したのだ。


 だが、最強の狂犬が休養の場として選んだのは、屋敷の柔らかいベッドではなく、吹き晒しの牧場の柵際だった。

 ただ、彼女が働く姿を見ていたかったからである。


「ステラ、そこよ。待て(ステイ)


 フィデリアの澄んだ声が響く。

 彼女の視線の先では、牧羊犬のステラが羊の群れから少し離れた位置でピタリと動きを止めていた。

 伏せの姿勢のまま両耳をピンと立て、主の次の指示を今か今かと待ちわびている。


 ヴィルカスが息を呑んで見つめていたのは、羊の群れの動きではない。

 フィデリアの犬を扱う技術の凄まじさだった。


 彼女は決して大声で怒鳴ったり、恐怖でステラを支配しようとしたりはしない。

 右手を軽く上げる。

 それだけでステラは弾かれたように左へ駆け出す。

 短く、鋭い指笛を一度鳴らす。

 ステラは即座に進行方向を変え、群れから逸れそうになった若い羊の前に回り込む。


 フィデリアの指示は常に最小限でありながら、驚くほど正確だった。

 声のトーン、指笛の長さ、視線の動き、手首の角度。

 そのすべてがステラにとって明確な言語として伝わっている。


(……見事だ)


 ヴィルカスは戦場で部下を指揮する自身の姿と彼女を重ね合わせ、その絶対的な統率力に圧倒されていた。


 犬は本能で動く獣だ。

 それをあれほどまでに完璧に制御できるのは、フィデリアがステラを一頭の犬としてではなく、誇り高き相棒として尊重し、深い信頼関係を築き上げているからに他ならない。

 ただの調教ではない。

 種族の壁を超えた、魂の対話とも言える領域だった。


「よし、よくできました。いい子ね、ステラ」


 一連の複雑な群れの移動を終えたフィデリアがしゃがみ込むと、ステラは嬉しそうに尻尾を振って彼女の胸に飛び込んだ。

 フィデリアは作業着が汚れるのも構わず、ステラの首筋を力強く撫でて褒め称える。


「……見惚れてしまうな」


 無意識のうちに漏れたヴィルカスの独り言は、風に流されて消えた。

 作業を終えたフィデリアが、木柵にもたれかかっている彼に気づき、微笑みながら近づいてくる。


「お待たせいたしました、ヴィルカス様。せっかくの非番なのですから、お部屋でゆっくり休まれていればよかったのに」


「……いや。俺にとっては、お前の姿を見ている方がずっと心休まる。邪魔だったか?」


「いいえ。ただ、お腹が空いたでしょう。お昼にしましょうか」


 フィデリアに促され、二人は牧場の外れにある大きな樫の木の木陰に腰を下ろした。

 ステラはヴィルカスに警戒の視線を向けつつも、フィデリアの足元で丸くなって満足げに目を閉じている。

 ちゃらんぽらんな兄、スタークは「昼間からデカい男の顔なんか見たくない」と言って近隣の村へ遊びに出かけており、周囲には静寂と穏やかな風の音だけが流れていた。


 フィデリアがバスケットから取り出したのは、オーリエル領の特産品をふんだんに使った特製サンドイッチだった。


「母が作ってくれたものです。オーリエル領特産の濃厚な羊乳チーズと、朝摘みの甘いトマト、シャキシャキとした葉野菜をたっぷりと挟んであります。焼きたての黒パンの熱で、チーズが少し溶けていて美味しいですよ」


 ヴィルカスは大きな手でサンドイッチを受け取ると、無言で一口かじった。

 素朴だが、素材の味が力強く口の中に広がる。

 戦場で水で流し込むだけの干し肉や固いパンとは違う、本物の食事の温かさだった。


「……美味い」


「ふふ、よかったです」


 フィデリアも自分の分のサンドイッチを頬張りながら、嬉しそうに目を細めた。


 静かな昼下がり。

 木漏れ日が二人の間に落ちる中、ヴィルカスはふと、自身の青い瞳を空に向けたまま、ポツリと口を開いた。


「……先ほどの、犬の訓練。見事だった」


「ありがとうございます。ステラが賢い子だからできることですよ」


「いや。お前の出す音と気配が、極めて明確だからだ……俺がお前に惹かれ、どうしようもなく執着してしまう理由が、先ほどの訓練を見ていて分かった気がする」


 ヴィルカスの低く落ち着いた声に、フィデリアはサンドイッチを食べる手を止め、彼を見つめた。

 ヴィルカスは自身の手を見下ろしながら、重い口を動かし続ける。


「俺の体に流れる獣人の血は、ロペス侯爵家において数世代に一度、極めて稀に発現する先祖返りアタヴィズムだ。この血を持つ者は、並外れた武力と引き換えに、共鳴レゾナンスという能力を宿す」


「共鳴……以前、魔獣の殺意や味方の恐怖を吸い上げてしまうと仰っていたものですね」


「あぁ。だが、本来これは呪いなどではないらしい」


 ヴィルカスは、傍らで眠るステラのアッシュグレーの毛並みに視線を落とした。


「狼の遠吠えを聞いたことがあるか? あれは威嚇ではない。群れの仲間たちと感情を共有し、意志を一つに束ねるための、神聖な対話の儀式だ。俺に流れる血の力も、本来は群れの感情を正しく理解し、導くためのものだったのだろう」


 だが――と、ヴィルカスは自嘲気味に顔を歪めた。

 凶悪な強面が、今はひどく痛みを堪えるように沈んでいる。


「人間同士の戦場や、魔獣が溢れる戦場には、共有すべき穏やかな感情など存在しない。あるのは剥き出しの殺意と、死への恐怖、怨嗟だけだ。俺の脳は、常にそれらの負の感情を自動で受信し続けてしまう。何千、何万という悲鳴が鼓膜を突き破るように響き続け……それが限界キャパシティを超えた時、俺は自己防衛のために理性を焼き切り、狂犬へと変貌する」


 それは、想像を絶する孤独と苦痛の告白だった。

 誰も彼を助けられない。

 誰も彼の頭の中で鳴り響く絶叫を止めてはくれない。

 彼を畏怖し、あるいは利用しようとする者はいても、彼の痛みに寄り添える者は皆無だった。


 ――ただ一人、目の前の少女を除いて。


「だが、お前の声は違った」


 ヴィルカスは、真っ直ぐにフィデリアの亜麻色の瞳を見つめ返した。

 その澄み渡る青い瞳には、絶対的な信頼が宿っている。


「お前が牧羊犬を操る時に発する声、指笛、そして静かな魔力の波長。それらは、俺の頭の中で荒れ狂う雑音の嵐を切り裂き、最も力強く、最も明確な指針となって俺を導いてくれた。お前は俺にお座りと命じて動きを止めたのではない。俺の中の無秩序な混沌に、明確な境界線を引いてくれたんだ」


 ヴィルカスは大きな体を傾け、フィデリアの手を自身のゴツゴツとした両手でそっと包み込んだ。

 剣ダコに覆われた硬い掌が、ひどく熱い。


「お前は、狂犬の飼い主などではない。俺の魂の調律師だ……お前がいなければ、俺は獣に墜ちていた」


「……ヴィルカス様」


 フィデリアは、自身の手を包み込む彼の不器用な優しさと、その言葉に込められた重すぎるほどの誠実さに胸を打たれた。

 彼は強面で、不器用で、時には殺気を撒き散らす危険な男かもしれない。


 だがその本質は、群れを愛し、平穏を誰よりも求めながらも、その力を国のために使い続けてきた、ひどく傷ついた孤独な狼なのだ。


「……私にできるのは、迷子にならないように声をかけることだけですから」


 フィデリアは微笑み、包み込まれた手の中から指を少しだけ動かして、ヴィルカスの大きな手を優しく握り返した。


「あなたが頭の中の悲鳴に負けそうになった時は、私が何度でも指笛を吹いて、こちらへ導いてあげます。だから、安心してくださいね。あなたは、一人ではありませんよ」


「あぁ……」


 ヴィルカスは感極まったように低く唸ると、フィデリアの小さな手に自身の額を押し当て、深い安堵の吐息を漏らした。

 木漏れ日の下、最強の狂犬と心優しい牧羊犬訓練士の間には、誰にも邪魔できない絶対的な平穏の時間が流れていた。


 ――しかし。

 その穏やかな光景を、冷徹な視線が監視していることに、二人はまだ気づいていなかった。


 牧場の外れ、昼でも薄暗い深い森の中。

 ステラが微かに鼻をヒクつかせたその先で、黒いローブに身を包んだ男が、細く丸めた小さな羊皮紙を伝書鳩の足に括り付けていた。

 ――ロペス侯爵家から放たれた、影の密偵である。


 彼が王都の本邸へと送っているのは、若い男女の微笑ましい恋の顛末などではない。

 極めて冷徹な、戦術的分析の報告書だった。


『――報告。赤狼騎士団長ヴィルカス・ロペスは、オーリエル家令嬢フィデリアを、自身の暴走を抑え込む唯一の制御装置として認識し、過度な執着を見せている』


『団長の戦闘能力を最大化し、かつ暴走リスクを完全に排除するキーは、あの少女の声と存在にあり。令嬢の牧羊犬訓練士としての特殊な波長が、団長の共鳴能力に決定的な影響を与えているものと推測される』


 密偵の手から空へ放たれた鳩は、迷うことなく一直線に王都へと羽ばたいていった。


 ――数日後。

 王都、ロペス侯爵邸の執務室。


 密偵から届いた小さな羊皮紙に記された文字の羅列を読み上げ、ロペス侯爵は薄暗い部屋の中で氷のような冷たい笑みを浮かべた。


「……道具にふさわしい、見事な首輪が見つかったというわけか」


 侯爵は、獣人の血を引く息子を人間だとは欠片も思っていない。

 あれはロペス侯爵家が誇る――最強の兵器だ。

 その兵器が勝手に暴走する欠陥を抱えていたことに長年頭を悩ませてきたが、まさか辺境の伯爵令嬢がその完全なストッパーになるとは。


「ヴィルカスを王家の軍事的要として完全に掌握するためには、その首輪を我が手中に収めねばならんな……早急に、オーリエル家を我が侯爵家の庇護下に置く準備を進めよ」


 侯爵の残酷な命令が下される。


 フィデリアを純粋な想い人として愛し始めたヴィルカス。

 しかし彼の生家は、彼女を息子のための便利な制御装置として利用すべく、その魔手を静かに辺境の牧場へと伸ばし始めていた。

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