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4 おかえりなさいませ、ヴィルカス様

 ――オーリエル伯爵領の朝は早い。


 太陽が顔を出すよりも前、冷たい朝露が草木を濡らし、深い霧が辺り一面を白く覆い隠す薄明の刻。

 フィデリア・オーリエルは、屋敷の誰よりも早く目を覚ます。


 手慣れた動作で動きやすい革の胸当てと丈夫なウールの作業着に袖を通し、栗色の長い髪を邪魔にならないようにしっかりと編み込んで背に流す。

 腰には使い込まれた犬笛と、指示を出すための細い鞭を携え、冷え切った外気の中へと足を踏み出した。

 吐く息は白く、指先を刺すような寒さが辺境の厳しさを物語っている。


「おはよう、ステラ。今日もお願いね」


 フィデリアが声をかけると、玄関先で待機していたアッシュグレーの毛並みを持つ牧羊犬――ステラが嬉しそうに尻尾を振り、短い鳴き声で応えた。


 一人と一匹は、息の合った足取りで霧の立ち込める放牧地へと向かう。

 羊舎の重い木の扉をギギッと開けると、中から柔らかな温気と、藁の匂いがふわりと漂ってきた。

 フィデリアの足音に気づいた羊たちが、次々と顔を上げて「メェ」と愛らしい鳴き声を上げる。


「おはよう、メイ。昨夜はよく眠れた? お腹の赤ちゃんも元気そうね。冷えないように、今日は少し陽の当たる場所にいなさい」


 フィデリアは群れの中をゆっくりと歩きながら、一頭一頭に優しく声をかけていく。

 彼女の亜麻色の瞳には、彼らを単なる利益を生む家畜としてではなく、共に生きる大切な家族として慈しむ深い愛情が満ちていた。

 手にしたブラシで、羊たちの毛並みに絡まった藁や汚れを丁寧に落としていく。


「フワワ、少し毛が伸びてきたわね。後でしっかりとブラッシングしてあげましょう。モコ、あまり走り回るとお腹が空くわよ。さあ、外の空気を吸いに行きましょうか」


 フィデリアは決して、羊を叩くために鞭を使うことはない。

 手首のスナップを利かせて空中で鋭い音を鳴らし、ステラと連携して見事なフォーメーションで羊たちを安全な草地へと導いていく。


 ステラが低い姿勢で右から回り込めば、フィデリアは左から優しく声をかけて誘導する。

 泥にまみれ、額に汗を浮かべながらも真摯に命と向き合うその横顔は、王都の夜会で着飾るどんな令嬢よりも気高く、美しく輝いていた。


 朝の放牧が一段落し、太陽がすっかり高く昇った頃――。

 作業の区切りをつけて井戸水で手を洗っていたフィデリアの背後に、気の抜けた足音が近づいてきた。


「ふわぁぁ……朝から羊の鳴き声がうるさいなぁ。フィディ、俺の分の朝食は?」


 そこに立っていたのは、高級な絹の寝着をだらしなく着崩し、見事な寝癖をつけた青年――スターク・オーリエルであった。


 フィデリアと瓜二つの栗色の髪に、同じ亜麻色の瞳。

 黙っていれば誰もが振り返るほどの美丈夫だが、口から出る言葉と全身から滲み出るちゃらんぽらんなオーラが、その魅力を完璧に台無しにしている。


「兄様の朝食など用意していませんよ。借金がなくなったからといって、兄様がのこのこと帰ってくる理由にはなりませんよね? 本当は、何をしに帰ってきたのですか?」


 フィデリアが冷ややかな視線を向けると、スタークは臆面もなく肩をすくめてみせた。


「いやぁ、王都は今インフィニット・ブリードのせいで景気が悪くてね。俺のパトロンだった貴族の奥様方も、今はこぞって前線で戦う騎士様に夢中でさ。俺への仕送りが完全に止まっちゃったんだよ」


「……見事なまでのヒモ生活ですね。恥ずかしくないのですか?」


「それにさ、ここは今や国で一番安全な場所だろ? あんなに凶悪で強い番犬が門番をしてくれる実家なんて、最高じゃないか!」


 悪びれる様子もなく言い放つ、生存本能だけは一人前な兄。

 自分は一切働く気がないという堂々たる宣言に、フィデリアは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、深々と溜め息をついた。


 ――その時である。

 ズズン、ズズンと、地響きのような重い馬の蹄の音が領地の入り口から近づいてきた。


 朝早くから領地周辺の魔獣掃討任務に出ていた、赤狼騎士団の帰還だ。


「お、噂をすればなんとやら。最強の番犬のお帰りだぜ」


 スタークがのんきな声を上げる中、先頭を進む漆黒の軍馬から一人の男が飛び降りた。


 ――赤狼騎士団団長、ヴィルカス・ロペス。

 彼の纏う朱色の外套と分厚い鎧は、討伐した魔獣の返り血と泥でどす黒く汚れ、凄まじい鉄錆と血の匂いを放っていた。


 そして何より恐ろしいのは、その強面をこれ以上ないほど凶悪に歪ませた表情である。

 周囲の空気が一瞬にして氷点下まで冷え込むほどの、圧倒的な殺気。

 近づくだけで寿命が縮みそうなほどの威圧感を撒き散らしながら歩く彼に、部下の騎士たちでさえ青ざめて道を譲っている。


 大剣からは未だに魔獣の黒い血が滴り落ちており、彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたのかを物語っていた。

 だが、空気を読まない男が一人、嬉しそうに手を振って近づいていった。


「お帰りなさいませ、俺の未来の義弟殿! いやぁ、今日も朝からいい仕事してますねぇ!」


 軽薄なスタークの声が響いた瞬間、ヴィルカスの足がピタリと止まった。

 ゆっくりとスタークを見下ろしたヴィルカスの瞳は、暴走時の朱色ではなく、絶対零度の冷たさを宿した澄み渡る青色だった。

 一切の感情を排した、純粋な殺戮者の目。


「……失せろ。ごみが」


 地を這うような、重く低い声。


「その下劣な口を二度と開けぬよう、喉元から断ち切ってやろうか」


「ひっ!?」


 本物の殺意を浴びたスタークは、情けない悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。


「スターク殿! 命が惜しければそれ以上は黙っていてください!」


 青ざめた副団長たちが慌ててスタークを両脇から抱え上げ、必死にヴィルカスの視界から物理的に遠ざける。

 苛立ちに任せて大剣の柄に手をかけようとしたヴィルカスだったが、牧柵の向こう側で手桶を持っているフィデリアの姿を見つけた瞬間――その凍てつくようなオーラが、嘘のようにフッと消滅した。

 殺意の塊だった強面の顔から険しさが抜け落ち、青い瞳に微かな光が灯る。


 彼は血濡れた大剣を無造作に背後の部下へと放り投げると、重い鎧の音を鳴らしながら、足早にフィデリアの元へと歩み寄った。

 そして、信じられないことに、その巨大な体を折り曲げるようにして彼女の華奢な肩にコツンと自身の額を乗せたのだ。


「……戻った」


「おかえりなさいませ、ヴィルカス様」


 フィデリアが動じることなく声をかけると、ヴィルカスはすり寄るように目を細め、低い声で囁いた。


「お前の領地をうろついていた魔獣は、俺がすべて片付けた。これで、お前の眠りを妨げる雑音はもうない……一晩中、お前の声が聴きたくて、気が狂いそうだった」


「まあ。そんなに頑張ってくださったのですね……あら、頬に汚れがついていますよ」


 フィデリアは使い古した自身のハンカチを取り出すと、ヴィルカスの凶悪な顔についた泥と血の汚れを、まるで子供をあやすように優しく拭い始めた。

 ヴィルカスは身をよじって逃げるどころか、むしろその極上の愛撫を受け入れるように自ら頬を押し付け、青い瞳をうっとりと細めて喉を鳴らしている。

 周囲の血生臭さなど全く気にしていない様子で、ただ彼女の温もりにすがりついていた。


「はい、綺麗になりました。今日も一日、魔獣から領地を守ってくれてありがとうございます。すごく頑張りましたね。いい子です」


 フィデリアがポンポンと赤い髪を撫でると、ヴィルカスは心底満たされたような深い吐息を漏らした。

 血塗られた狂犬が、たった一人の少女の手によって、完全に牙を抜かれた従順な大型犬へと変貌した瞬間だった。

 戦場でどれほどの恐怖を撒き散らそうとも、彼女の前ではただ愛を乞うだけの存在になってしまう。


 その一部始終を少し離れた場所から見ていたスタークは、顔を引き攣らせて呟いた。


「……おいおい。あの顔の怖い狂犬、うちの妹に完全に餌付けされてるじゃないか。あれはもう騎士団長じゃなくて、ただの恋に狂った大型犬だろ……」


 呆れ果てる兄と、それに同調するように無言で頷く赤狼騎士団の面々。


 平穏で甘い空気が満ちる中――ただ一匹、ステラだけが、牧場の外れにある深い森の暗がりへ向けて鋭い牙を剥き出しにして低い唸り声を上げていた。

 木々の陰から、オーリエル家とヴィルカスの動向を監視するロペス侯爵家の密偵の視線が、彼らにじわじわと忍び寄っていることなど、フィデリアはまだ知る由もなかった。

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