3 ダメに決まっているでしょう!
オーリエル伯爵家の領地が、王室直属の軍馬・軍羊育成拠点に指定された翌朝。
霧深い辺境の牧場は、かつてないほどの喧騒に包まれていた。
「そっちの干し草は第二倉庫へ! 屋根の修繕資材は母屋の裏手に回してくれ!」
王室の紋章を掲げた馬車が次々と乗り込んできては、最高級の羊の飼料や、冬を越すための薪、そして牧場の柵を直すための真新しい木材などを山のように降ろしていく。
それだけではない。
王宮から遣わされた文官から手渡された書類には、オーリエル家が抱えていた莫大な借金の証書が、国庫による肩代わりという名目で全て無効化されたことが記されていた。
「お、お嬢様……! これで、これでもう、お父様の薬代を削らなくても済みます……!」
数少ない古参の使用人が、涙を流しながらフィデリアの前に崩れ落ちた。
フィデリア・オーリエルは、手の中の書類と、次々と運び込まれる物資を交互に見つめ、ただただ呆然としていた。
オーリエル家が困窮したのには理由がある。
数年前、心優しいが人を疑うことを知らない父――オーリエル伯爵は、寒さや魔獣の瘴気に強い新種の羊を育てようと一念発起した。
だが、悪徳商人に目をつけられ、何の役にも立たない偽の魔道具や腐りかけの飼料を法外な高値で買わされてしまったのだ。
莫大な借金を背負い、領地を手放す寸前まで追い詰められた父は、心労がたたり病に倒れてしまった。
今もベッドから起き上がることができず、母が付きっきりで看病をしている状態だ。
本来ならば、そんな家の危機を救うのは跡取りである長男の役目だったはずだ。
しかし、フィデリアの兄は違った。
『悪いなフィディ! 俺は風になる!』
そんなふざけた書き置きを一つ残し、借金取りが押し寄せる前にさっさと出奔してしまったのである。
風の噂では、王都の歓楽街でパトロンを見つけては女遊びに興じているらしい。
残されたフィデリアは、自らの豪奢なドレスや宝石をすべて売り払い、動きやすい作業着を買った。
解雇せざるを得なかった使用人たちの分まで、愛犬のステラと共に泥まみれになって牧場を駆け回り、必死に家を守ってきた。
――その重圧が、たった一晩で、あの強面で凶悪な顔をした大男の手によって消し飛んでしまったのだ。
「……あの大きなわんちゃん、どれだけ無茶をしたのかしら?」
フィデリアが深い溜め息をついた、その時だった。
ズシン、ズシンと、大地を揺らすような重い蹄の音が響いてきた。
「ひぃっ!? ま、魔獣の群れですか!?」
「いえ……あれは」
霧の向こうから現れたのは、朱色の外套を翻す赤狼騎士団の精鋭部隊だった。
彼らはインフィニット・ブリードの最前線から文字通りすっ飛んできたらしく、馬も騎士たちも泥と魔獣の返り血にまみれ、今にも落馬しそうなほど疲労困憊している。
だが、その先頭で手綱を握る男だけは違った。
――ヴィルカス・ロペス。
強面で近寄りがたい圧を放つその顔立ちには、激戦の疲労の色は一切見えなかった。
「……到着したぞ。ここからは視察任務だ。各員、勝手に休息を取れ」
ヴィルカスが短く命じると、百戦錬磨の騎士たちが「あ、ありがとうございます……」と涙声で答え、次々と地面にへたり込んだ。
「ごきげんよう、ヴィルカス様。随分と……早急な視察ですね」
フィデリアがカーテシーの姿勢で出迎えると、ヴィルカスは馬から飛び降り、彼女の前へと歩み寄った。
彼の長身が見下ろす青い瞳には、隠しきれない安堵の色が浮かんでいる。
「無事か、フィデリア……変わったことはないな?」
「変わったことだらけですよ。さあ、中へどうぞ。お茶を淹れます」
フィデリアは彼を古びた応接間へと通した。
ソファに腰を下ろした巨躯の騎士団長は、出された安物のハーブティーには手をつけず、ただじっとフィデリアの姿を目で追っている。
「単刀直入に伺います」
フィデリアはヴィルカスの対面に座り、まっすぐに彼を見つめた。
「どうして、うちの借金のことをご存知だったのですか?」
ヴィルカスは悪びれる様子もなく、淡々と答えた。
「王都に戻った足で、オーリエル家の裏帳簿から出入りしていた商人の身元まで、諜報部隊を使ってすべて調べさせた。お前の父を騙した商人どもは、すでに王都の地下牢に放り込んである」
「ひ、一晩でそこまで!?」
「お前を悩ませ、お前の心を乱す要素があるなら、それは俺の静寂を脅かす害悪だ。だから、すべて叩き潰した……それだけのことだ」
ヴィルカスにとって、彼を狂気から繋ぎ止めるフィデリアの声と存在は、何よりも優先される絶対の聖域だった。
その聖域を汚す雑音を排除するのは――彼にとって息をするのと同じくらい当然のことだったのだ。
あまりに重く、強引すぎる執着。
だが、それが父を救い、この牧場を守ってくれたことも事実だった。
「……やり方には色々と文句を言いたいところですが。それでも、あなたのおかげで父は十分な治療を受けられます。心より、感謝いたします」
フィデリアは深く頭を下げた。
「お礼をしなければなりませんね。何をお望みですか? 良質な羊毛ですか? それとも、軍馬の優先的な提供でしょうか」
その問いに、ヴィルカスはガシャンと重い鎧の音を鳴らしてソファから立ち上がった。
そして、フィデリアの足元に片膝をついたのだ。
「え……?」
「俺が欲しいものは、一つだけだ」
見上げる彼の青い瞳は、戦場で敵を震え上がらせる狂犬のそれではなく、ただ純粋に主の慈悲を乞う従順な生き物のようだった。
「……俺を、撫でてくれ。そして、また『いい子だ』と、言ってほしい」
その言葉に、応接間の扉の隙間から覗き見をしていた赤狼騎士団の副団長たちが、「ヒュッ」と短い悲鳴を上げて次々と腰を抜かした。
(あ、あの、凶悪な面構えで魔獣を素手で引き裂く団長が……令嬢の足元で、お座りして撫でられ待ちをしているだと……!?)
外の廊下で騎士たちがガタガタと震えていることなど露知らず、ヴィルカスはただ真っ直ぐにフィデリアを見つめている。
フィデリアは困ったように微笑むと、そっと手を伸ばし、彼の燃えるような赤い髪を優しく梳いた。
「よしよし。本当に、あなたは強くて、大きくて……いい子ですね」
「……あぁ……」
ヴィルカスの喉から、深い満足の吐息が漏れる。
彼女の手のひらから伝わる温もりが、彼の脳の奥底にこびりついた残火を心地よく冷ましていく。
――バンッ!!!
その至福の静寂は、無遠慮に蹴り開けられた応接間の扉の音によって粉々に打ち砕かれた。
「よぉ、我が妹! 借金がチャラになったって噂を聞いて、愛する兄貴が帰ってきてやったぜ!」
そこに立っていたのは、派手な伊達眼鏡をかけ、無駄に胸元の開いたシャツを着崩した軽薄そうな青年だった。
フィデリアと同じ栗色の髪。
同じ亜麻色の瞳。
だが、そこから滲み出る知性も品格も、何もかもがフィデリアとは真逆の存在。
数年前に出奔した不良兄貴――スターク・オーリエルその人であった。
フィデリアは、兄の顔を見るなり、美しい顔を険しく歪めて叫んだ。
「って、噂広がるの早過ぎない!? 書類が届いたの、昨日の出来事なんですけど!?」
「いやぁ、王都の酒場で飲んでたら、ロペス侯爵家が辺境の借金を肩代わりしたって号外が出ててさぁ。持つべきものは有能な妹だな!」
あっけらかんと笑うスターク。
だが次の瞬間、スタークはソファの足元に跪いている巨大な男の存在に気づき、目を丸くした。
「……って、そこのデカくて顔の怖い男、誰? もしかして借金取りの生き残り?」
ピキリ、とヴィルカスのこめかみに青筋が浮かんだ。
それは、「自分の大切な時間を台無しにしたこの騒音を、物理的に消し飛ばしたい」という殺意の表れだった。
「……」
ヴィルカスは無言のままゆっくりと立ち上がり、背中の大剣の柄にスッと手をかけた。
それだけで、応接間の空気が氷点下まで凍りつく。
スタークが「え、ちょ、冗談だろ……?」と顔面を蒼白にして後ずさった。
「――お座りです!」
大剣が抜かれる寸前、フィデリアの鋭い声が飛んだ。
ヴィルカスはビクッと肩を揺らすと、「クゥ……」と不満げに喉を鳴らし、渋々剣から手を離して元の位置にドスンと座り直した。
「ふう……兄様も、生きていたなら一度くらい手紙をよこしなさい。こちらは赤狼騎士団の団長、ヴィルカス・ロペス様です」
「団長!? 侯爵様じゃねえか! ってことは、お前が赤狼の狂犬……?」
スタークは信じられないものを見るように、ヴィルカスとフィデリアを交互に指差した。
「……へぇ。お前、なかなかいい犬捕まえたじゃん、フィディ!」
その無神経すぎる一言に、廊下で倒れていた副団長たちが「あいつ終わった」という目でスタークを見た。
ヴィルカスは再びフィデリアを見上げ、この上なく真剣な青い瞳で問いかけた。
「フィデリア……この血を分けた騒音、俺が綺麗に真っ二つに斬って捨ててもいいか?」
「ダメに決まっているでしょう!」
狂犬と、傍若無人な兄。
フィデリアの平穏な牧場生活は、いよいよ完全に終わりを告げようとしていた。




