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2 しつけのなっていない大きなわんちゃんですね

 霧が晴れかけた牧場に、生臭い血の匂いと冷たい風が吹き抜けていく。

 三頭の巨大な魔獣――グランドワグの亡骸が転がる惨状の中、その中央に力なくひざまずく大男の姿があった。


 赤狼騎士団団長、ヴィルカス・ロペス。

 戦場を血で染める狂犬と恐れられる彼は今、自身の分厚い掌を、まるで信じられないものを見るかのような目で見つめ、呆然と立ち尽くしている。


 フィデリア・オーリエルは、傍らでまだ低く唸り声を上げている愛犬ステラの頭を、「もう大丈夫よ、ステラ。いい子ね」と優しく撫でて落ち着かせた。

 ステラはフィデリアの手にすり寄りながらも、決してヴィルカスから鋭い視線を外そうとはしない。

 フィデリアは作業着の裾を少しだけ払い、未だに地面に膝をついたままのヴィルカスへ、ゆっくりと歩み寄った。


「……お怪我はありませんか、騎士様。先ほどは、この領地をお救いいただき、心より感謝申し上げます」


 彼女の静かな問いかけに、ヴィルカスは弾かれたように顔を上げた。

 魔獣を屠った際に浴びた返り血が、彼の凶悪な強面をさらに際立たせている。

 しかし、狂気に満ちて朱色に染まっていた瞳は、今は彼の本来の色である深い青色を取り戻し、確かな理性を宿していた。


 彼は大剣を地面に置いたまま、ゆっくりと立ち上がった。

 身の丈ほどもある大剣を背負うその巨体は、見上げるほどに大きい。

 だが、その瞳には先ほどの凶暴性はなく、どこか戸惑う幼子のような色が混ざっていた。


「……ヴィルカス・ロペスだ」


 ひどく掠れた――だが地を這うような重低音の声が落ちる。


「シュトルスボルド王国、赤狼騎士団の団長を務めている」


 その名乗りに、フィデリアはわずかに目をみはった。


(赤狼騎士団の団長……ロペス侯爵家のご令息といえば、王国軍の最高戦力と名高い方ではないですか)


 そんな雲の上の存在が、なぜ辺境の――しかも一介の伯爵家の私有牧場にまで魔獣を追ってきたのか。

 フィデリアは姿勢を正し、泥だらけの作業着姿でありながらも、貴族令嬢としてのカーテシーを披露した。


「ご丁寧な名乗りをありがとうございます。私はこの領地の主、オーリエル伯爵の娘、フィデリア・オーリエルと申します」


「フィデリア……」


 ヴィルカスは、彼女の口から紡がれた名前を舌の上で転がすように小さく反芻した。


「感謝など、いらない。俺たちはただ……溢れ出た害獣を、駆除して回っているだけだ」


「溢れ出た、ですか?」


 首を傾げるフィデリアに、ヴィルカスは険しい表情で北の空を睨みつけた。

 そこには、王国の深部に広がる未踏の森が、どす黒い雲に覆われて広がっている。


「……お前も、最近魔獣の数が増えていることには気づいているだろう。これはただの異常繁殖じゃない。地脈が活性化し、魔物たちの生殖本能が狂ったように跳ね上がる時期……数百年に一度訪れるという大繁殖期――インフィニット・ブリードの予兆だ」


 インフィニット・ブリード。

 その恐ろしい単語に、フィデリアは息を呑んだ。


 古い文献にのみ記された、国を揺るがす大厄災。

 本来なら王都から遠く離れた深山にしか生息しないグランドワグが、こんな人里近くまで降りてきた理由がそれだというなら、事態は想像以上に深刻だった。


「赤狼騎士団は今、防衛の要として王都近郊の魔獣討伐にあたっている。だが、数があまりにも多すぎる。連日の不眠不休の戦闘で、前線は疲弊しきっている状態だ」


 そこまで語ると、ヴィルカスの表情に濃い影が落ちた。

 彼は自らの両手を強く握りしめ、まるで頭痛を堪えるように目を伏せた。


「……それに、俺自身にも限界が来ていた」


「限界、ですか?」


「俺の体には、獣人の血が流れている。そのせいで……俺は、戦場に渦巻く魔獣の殺意や、味方の恐怖心といった負の感情を、強制的に自分の中に吸い上げてしまうんだ」


 ヴィルカスの声は、絞り出すように苦しげだった。

 共鳴レゾナンスと呼ばれる呪い。

 周囲の感情を吸い上げることで肉体は限界を超えた力を発揮するが、代償として精神は汚染され、理性を失っていく。


「吸い込んだ感情は、頭の中で何千もの金切り声になって響き続ける。眠ることもできず、常に脳が沸き立つように痛む……いずれ俺は完全に理性を失い、敵味方の区別もつかない本当の化け物になる。俺自身も、そう思っていた」


 彼が狂犬と呼ばれ、畏怖と同時に忌避されている理由。

 それは、彼がいつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えているようなものだったからだ。


 ヴィルカスは再びフィデリアへと視線を向けた。

 その真っ直ぐな瞳には強面な外見からは想像もつかないほどの、切実な熱がこもっている。


「だが……お前が触れた瞬間。お前の声を聞いた瞬間、あの泥沼のような雑音が、嘘のように消え去ったんだ」


 ヴィルカスは一歩、フィデリアへと歩み寄った。

 ステラが「ウゥッ」と鋭い警告の唸り声を上げるが、彼は気に留める様子もない。


「こんなに頭の中が静かになったのは、生まれて初めてだった。お前の声が、匂いが、俺の狂気を凪のように鎮めてくれた……!」


 すがるような声だった。

 最強と謳われる男が、ただ一人の少女の存在にこれほどまでに救いを見出している。


 フィデリアはその事実に驚きつつも、牧羊犬が飼い主にだけ見せるような、不器用で真っ直ぐな慕情にほんの少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


「……そうでしたか。私にできたのは、ただ暴れるのをやめてもらうよう、お座りをお願いしただけですが……」


「それが、俺にとっては奇跡なんだ」


 ヴィルカスが、そっと手を伸ばす。

 フィデリアの栗色の髪に触れようとした――その時だった。


「団長!!」


 悲痛な叫び声が、二人の間の空気を切り裂いた。

 振り返ると、息を切らした副団長をはじめとする赤狼騎士団の面々が、血相を変えて駆け寄ってくるところだった。


「団長、ご無事ですか!? 暴走は……」


「おさまっている。見ればわかるだろう」


 ヴィルカスの声が、フィデリアに向けていたものとは打って変わって、氷のように冷たく鋭いものに戻る。

 副団長は彼が完全に理性を保っていることに安堵の息を吐きつつも、焦燥感を隠せない顔で報告を続けた。


「申し上げます! インフィニット・ブリードの影響か、東の第三防衛線に新手の魔獣群が押し寄せています! 現地の守備隊だけでは持ちこたえられません。至急、団長のお力が必要です!」


 その報告に、ヴィルカスは舌打ちをした。


 彼の視線が、再びフィデリアへと戻る。

 本当ならば、今すぐ彼女を連れて帰りたい。

 彼の内なる獣が、唯一の安らぎである彼女から離れることを強烈に拒絶している。


 だが、彼はシュトルスボルド王国の剣であり、盾である赤狼騎士団の長なのだ。

 民を見捨てることなど、できるはずがなかった。


「……わかっている。すぐに向かう」


 ヴィルカスは苦渋の決断を下し、地面に置かれていた大剣を拾い上げた。

 踵を返し、出陣の号令をかけようとしたヴィルカスだったが――ふと立ち止まり、再びフィデリアの目の前へと戻ってきた。


「ヴィルカス様?」


 フィデリアが小首を傾げた瞬間、ヴィルカスは自身の腰に帯びていた一本の短剣を無造作に外し、フィデリアの小さな両手へと押し付けた。


「えっ……?」


 ずしりとした重み。

 鞘には、精緻な意匠でロペス侯爵家の紋章である狼が刻まれている。

 素人目に見ても、国宝級の価値がある業物だとわかる。


「フィデリア・オーリエル……必ず、また会いに来る。それまで、これを預かっていてくれ」


「あの、こんな高価なもの、お預かりできません! それに、戦いに必要なのでは……」


 慌てて突き返そうとするフィデリアを、ヴィルカスの大きな両手が短剣ごと包み込んだ。

 その掌はひどく熱く、硬い剣ダコに覆われている。


「いいんだ。それは、俺の命と同じくらい大事な愛用の短剣だ。だから――」


 ヴィルカスは身をかがめ、フィデリアの耳元で熱を帯びた声で囁いた。


「俺は、絶対に取りに帰る。お前のところへ」


 それは約束というより、執念に近い誓いだった。


 ヴィルカスは彼女から手を離すと、今度こそ振り返ることなく部下たちの元へ向かい、自身の黒馬に飛び乗った。


「全軍、東の防衛線へ急行する! 遅れるな!」


 嵐のような号令とともに、赤狼騎士団は砂塵を巻き上げて東の空へと去っていった。

 後には、静寂を取り戻した牧場と、困惑したまま侯爵家の短剣を抱きしめるフィデリア、そして主の視線を奪った憎き男が去って少し得意げなステラだけが残された。


「……困りましたね。あんな大きな約束、どうしましょう」


 フィデリアはため息をつきながら、短剣の柄をそっと撫でた。

 だが、ヴィルカスが残していった問題は、短剣一つでは終わらなかった。


 ――翌朝。

 オーリエル伯爵家の古びた門前に、王宮の紋章を掲げた使者の馬車が到着した。


 出迎えたフィデリアに手渡されたのは、豪奢な装飾が施された羊皮紙――国王の印章が押された、正式な勅命書であった。


『オーリエル伯爵家が有する牧場及び領地を、本日付をもって王室直属の軍馬・軍羊育成拠点に指定する。インフィニット・ブリードへの防衛物資の要として、国庫より特別補助金を支給すると共に、赤狼騎士団の部隊を常駐護衛として配置するものとする――』


「……はい?」


 フィデリアは思わず素っ頓狂な声を上げた。

 王室直属の拠点指定。

 それはすなわち、オーリエル家を長年苦しめてきた借金が国からの莫大な補助金によって一撃で完済されることを意味している。


 だが、同時にそれは国の重要拠点として、王宮と騎士団の厳重な保護――もとい、管理下に置かれるということでもあった。


「お待ちください! このような大規模な指定、事前の打診もなしに一体誰が……」


 戸惑うフィデリアに、使者の男は恭しく頭を下げて言った。


「赤狼騎士団、ヴィルカス・ロペス団長閣下からの強いご推挙によるものです。閣下は『オーリエル領は我が国の防衛において最も重要な拠点である。団長である私が定期的に視察を行い、直接管理しなければならない』と、陛下に強く進言されまして」


「…………っ」


 フィデリアは、手元にある侯爵家の短剣と、羊皮紙を交互に見つめた。


(視察、という名の……面会、ですよね?)


 借金を肩代わりし、護衛をつけ、インフィニット・ブリードの脅威から彼女を合法的に守りつつ、堂々と会いに来る口実を、あの大男は寝る間も惜しんで王宮を動かし、たった一晩で作り上げてしまったのだ。


「……本当に、しつけのなっていない大きなわんちゃんですね」


 フィデリアは呆れ果てたように呟くと、手の中の短剣をギュッと握りしめた。


 どうやら優秀な牧羊犬訓練士の仕事は、今日から羊を追うことだけでは済まなくなりそうであった。

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