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1 ――お座り

 シュトルスボルド王国の北方に位置するオーリエル伯爵領は、年中、霧と冷気に包まれている。

 その峻厳しゅんげんな大地で育つ羊の毛は、王国一の品質と謳われ、王室の天幕や騎士団の外套に用いられていた。


 ――だが、その羊たちを育てる現場に、伯爵令嬢がいると知る者は少ない。


「ステラ、三時の方角。はぐれそうな子が二頭いるわ。戻してあげて」


 フィデリア・オーリエルの涼やかな声が、霧を切り裂くように響いた。

 彼女は、貴族の令嬢が身にまとうような豪奢なドレスを脱ぎ捨て、動きやすい革の胸当てに、丈夫なウールの作業着をまとっている。

 腰には犬笛と、細い鞭を携えていた。


 作業帽から溢れ出た栗色の長い髪は、編み込まれて背に流されており、霧の中に沈む牧場の景色の中でそこだけが温かな色を灯している。

 真剣に群れを見つめる亜麻色の瞳は、穏やかでありながらも、一頭一頭の動きを決して見逃さない強い意志を宿していた。


 彼女の指示を受け、アッシュグレーの毛並みを持つ牧羊犬、ステラが弾丸のように地を蹴る。

 ステラは吠えることなく、ただ鋭い視線と計算された動きだけで、迷いかけた羊たちを群れの中央へと誘導した。

 その動きは一分の無駄もなく、まさに熟練の訓練士トレーナーの技そのものである。


「ふう……お父様が寝込んでから、この領地を支えられるのは私とあなたたちだけね」


 フィデリアがステラの頭を撫でようとした――その時だった。

 大気を震わせるような咆哮が、北の深い森から響き渡った。


「――っ!?」


 ステラが低く唸り、鼻先にシワを寄せる。

 羊たちが一斉にパニックを起こし、固まって震え始めた。


 現れたのは、深山に棲むはずの大型魔獣――グランドワグ。


 巨大な狼の姿をしたその魔物は、一頭で村を一つ滅ぼしかねない危険度を誇る。

 それが三頭、飢えた瞳を爛々と輝かせ、フィデリアたちの牧場へと雪崩れ込んできた。


 万事休すかと思われたその時、牧場の境界線が爆発した。


「下がっていろ!」


 重厚な金属音と共に、一人の男が魔獣の群れに割り込んだ。

 燃えるような赤髪をなびかせ、身の丈ほどもある大剣を片手で軽々と振り回すその姿。


 彼こそが、シュトルスボルド王国最強の武力――赤狼せきろう騎士団を率いる団長、ヴィルカス・ロペス侯爵令息であった。


 ヴィルカスが横一線に大剣を振るうと、一頭のグランドワグが断末魔を上げる暇もなく両断された。


「団長! これ以上は危険です! 引いてください!」


 後方から駆けつけた騎士たちが悲鳴のような声を上げる。

 だが、ヴィルカスは止まらない。


 彼には獣人の血が流れている。

 戦場に漂う殺意、魔獣の放つ瘴気、そして部下たちの恐怖心――それらすべての負の感情を吸い取り、力へと変換する共鳴(レゾナンス)の力。

 それは無敵の力を与える代償に、持ち主の理性を焼き切る呪いでもあった。


「あ、ああ……うるさい。脳みそが、沸き立ちやがる……」


 ヴィルカスの肌に赤い紋様が浮かび上がる。

 瞳は理性を失い、青色から朱色に染まった。


 残る二頭の魔獣が彼に飛びかかるが、ヴィルカスはその首を素手で掴み、地面へと叩きつけた。

 土煙が舞い、大地が陥没する。


 フィデリアは、目の前で起きた凄惨な光景に唇を震わせながらも、まずは真っ直ぐに彼を見つめた。


「……助けてくださって、ありがとうございます。あなたが来てくださらなければ、私一人の力では羊たちを守りきれませんでした」


 それは、死の淵から救い出された者としての、純粋で真摯な感謝の言葉だった。


 しかし、魔獣を仕留めたはずの彼だったが、剣を収める様子はない。

 今や、彼の周囲にいる騎士たちすら、彼にとっては排除すべき雑音に変貌していた。


「あいつらも……殺せば、静かになるのか……?」


 ヴィルカスが、震える部下たちにゆっくりと剣先を向ける。

 騎士たちが死を覚悟した――その瞬間。


「いけません」


 静かな、だが透き通るような声が戦場に響いた。

 ヴィルカスが殺気のリミッターを外したまま、声の主――フィデリアを睨みつける。


 騎士たちが「逃げろ!」と叫ぶ中、フィデリアは逃げるどころか、まっすぐにヴィルカスの懐へと歩み寄った。


「お前……死にたいのか……?」


 ヴィルカスの喉から、低く、地響きのような唸り声が漏れる。

 だが、フィデリアの瞳に恐怖はなかった。


 彼女には見えていたのだ。

 情報の海に溺れ、自分を制御できずにパニックを起こしている、巨大な迷子の獣の姿が――。


「いいえ。静かにしてほしいだけです。ステラ、羊たちをシェルターへ。ここは、私がお預かりします」


 フィデリアは迷いなく右手を伸ばした。

 ヴィルカスが反射的に大剣を振り上げようとするが、それよりも早く、彼女の指先が彼の額に触れる。


「――お座り」


 凛とした声と共に、彼女の指先から静寂の魔力が流し込まれた。

 それは彼女が牧羊犬を静めるために使う、魂の調律。


 刹那。

 ヴィルカスの頭の中を埋め尽くしていた雑音が、嘘のように消え去った。

 燃えるような熱気が引き、心地よい冷涼な風が吹き抜ける感覚。

 目の前の少女が放つ、瑞々しい草原のような香りが彼の荒んだ理性を優しく包み込む。


「……ぁ……」


 大剣が、ガシャンと地面に落ちた。

 ヴィルカスは力なく膝をつき、フィデリアを見上げる。

 朱色に染まっていた瞳が、次第に澄んだ青い色を取り戻していく。


 だが、その瞳には、これまでに彼が背負ってきた絶望と――今ようやく掴んだ微かな希望が混ざり合っていた。


「……静かだ。お前の声が響く場所だけ……すべての音が、消える……」


 ヴィルカスは夢遊病者のように手を伸ばすと、フィデリアの作業着の裾を、壊れ物を扱うような手つきで握りしめた。

 無口で強面な彼が、その強靭な体を小刻みに震わせている。

 それは、生まれて初めて痛みから解放された者の、祈りに似た姿だった。


「……行くな……この静寂を、奪わないでくれ」


 それは命令ではなく、剥き出しの懇願だった。

 戦場を血で染めてきた狂犬が、ただ一人の少女の足元で、その慈悲を乞うている。


 だが、対するフィデリアは、あくまで冷静だった。

 彼女の目には、この最強の騎士がひどく怯え、疲れ果てた、手当ての必要な獣に見えていた。


「……よしよし、いい子です。もう苦しくありませんよ」


 フィデリアは当然のことのように、王宮最強の騎士の頭を、ステラを褒めるのと同じ手つきで優しく撫でた。


「だ、団長……?」


「嘘だろ……あの狂犬が、あんなに大人しく……?」


 呆然と立ち尽くす部下たちを余所に、ヴィルカスはフィデリアの裾を離そうとしない。

 彼女が手を離そうとすると彼は縋るように力を込め、その場から動こうとしなかった。


「あの、団長様? もう魔獣はいませんから、立ち上がってくださいませんか」


「……嫌だ……離せば、また、あの泥濘ぬかるみに戻る」


 ヴィルカスは硬い声で、だが断固として拒絶した。


 フィデリアは困り果てたようにステラを見た。

 ステラもまた、主を奪い合うライバルを見るような鋭い視線をヴィルカスに向けている。


「……困りましたね。これでは、次の放牧に行けません」


 だが、この出会いがシュトルスボルド王国の運命を――そして、何より彼女自身の人生を激変させることになるのを、フィデリアはまだ知らない。

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