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13 ずっと傍にいてくださいね

 王都の盤面を鮮やかにひっくり返したあの日から、数ヶ月の時が流れた。


 インフィニット・ブリードの脅威は未だ完全に去ったわけではなく、王国の辺境では今も騎士たちが魔獣の残党と刃を交える日々が続いている。

 だが、ヴィルカスが正式にロペス侯爵の家督を継承し、国軍の指揮系統が浄化されたことで赤狼騎士団の士気はかつてないほどに高まり、戦況は着実に安定へと向かっていた。


 ――一方、オーリエル領の牧場でも喜ばしい出来事があった。

 以前から身重だった羊のメイが、少し前に元気な子羊を無事に出産したのだ。

 ミルクのように白く柔らかな毛並みを持つその子は、メイの名と祝福の意味を込めてメリーと名付けられた。

 今ではすっかり足腰も強くなり、母羊の影を追って元気に跳ね回るほどに成長している。


 そして、澄み渡るような青空に恵まれた――今日。

 王都に構えられたロペス侯爵邸の、陽光がたっぷりと差し込む美しい控室で、フィデリアは鏡の中に映る自分の姿を見つめ、静かに深呼吸をした。


 彼女が纏っているのは、最高級のシルクに、オーリエル領で採れた選りすぐりの羊毛を極細の糸に紡いで織り込んだ、世界に一つだけのウェディングドレスだ。

 素朴ながらも温かみのある輝きを放つそのドレスは、泥にまみれて命を育んできた牧場主としての誇りと、新たな侯爵夫人としての気品を完璧に調和させていた。


「フィデリア、本当に綺麗よ。まるで天使が舞い降りてきたみたい」


 傍らに立つ母親は、誇らしげに――そして、名残惜しそうにフィデリアの栗色の髪を整えていた。


 やがて、式の開始を告げる鐘の音が遠くから響いてくる。

 母親は小さく息を吸い込み、震える手で透き通るようなレースのベールを手に取った。


「フィデリア。あなたはどんな困難の中でも、自分の信じた道を真っ直ぐに進む、本当に強い子だったわ。ヴィルカス様を、そしてオーリエルとロペスの家を、あなたらしく導いていきなさい。幸せになるのよ」


 母親の慈愛に満ちた言葉と共に、ゆっくりとベールが下ろされる。

 薄い布越しに広がる柔らかな視界の中で、フィデリアは「はい、お母様。今まで大切に育ててくださって、本当にありがとうございました」と、涙を堪えて力強く頷いた。


 控室の扉が開くと、そこには正装に身を包み、車椅子に座った父親の姿があった。

 病の療養中であり、以前に比べれば少し痩せてしまったものの、その瞳には当主としての威厳と、娘を送り出す一人の父親としての深い愛情が溢れていた。


「フィディ。私と一緒に歩いてくれるかい?」


「もちろんです、お父様」


 フィデリアが父の肩に優しく手を添える。

 父親は自らの手で車椅子の輪を回し、最愛の娘の足取りを導くように、ゆっくりとバージンロードへと踏み出した。


 会場となったのは、侯爵邸の広大な大庭園だ。

 フィデリアの強い希望により、堅苦しい聖堂ではなく、命の芽吹きを感じさせる青空と緑に囲まれた場所で式は執り行われた。


 参列者たちの席に目を向けると、そこには案の定、不敵な笑みを浮かべて数人の令嬢たちを侍らせている兄――スタークの姿があった。


「やぁ、今日の俺は主役の座を可愛い妹に奪われちゃったけど、それでもレディたちの視線は俺に釘付けだね……おいおい、そんなに顔を赤くしないでくれ。俺の心は風のように気まぐれなんだから」


 相変わらずの息を吸うように女性たちをたぶらかしている兄に、フィデリアは呆れを通り越して安心すら覚える。

 彼は時折、令嬢たちとの会話を中断しては、バージンロードを歩くフィデリアと父の姿を誰よりも優しく誇らしげな眼差しで見守っていた。


 そして、参列者たちが最も驚愕し、同時に頬を緩ませたのは、花嫁を先導する特別なゲストたちの登場だった。


 優雅な足取りで先頭を歩くのは、美しく毛並みを整えられたステラだ。

 首には色鮮やかな季節の花で編まれた花輪をかけ、誇らしげに胸を張って歩くその姿は、どんな熟練の騎士よりも凛々しい。


 その後ろを続くのは、オーリエル領から遥々やってきたメイ、フワワ、モコの三頭の羊たち。

 さらに、メイの足元には少し前に生まれたばかりの子羊メリーが、トコトコと一生懸命に母の歩幅に合わせて歩いている。


 王都の貴族たちは前代未聞の羊たちの参列に目を丸くしたが、フィデリアの愛情を受けて育ち、行儀よく行進する彼らの愛らしさに、会場からは温かな拍手と「なんて愛らしいの!」という歓声が沸き起こった。


 祭壇の前に辿り着くと、そこには礼装に身を包んだヴィルカスが待っていた。

 彼は父親からフィデリアの手を受け取ると、壊れ物に触れるような不器用な優しさで、彼女のベールをそっと持ち上げた。

 視界が開けた瞬間、ヴィルカスの青い瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれた。


「…………綺麗だ。この世のどんな宝玉よりも、お前の方がずっと輝いている」


 ヴィルカスの低く、震えるような声。

 彼は周囲に何百人という参列者がいることなど完全に忘れたかのように、フィデリアの手を両手で包み込み、決して離さないと誓うように熱烈に握りしめた。


「フィデリア。インフィニット・ブリードの混乱は未だ続き、これから先も、俺たちは困難な戦いに身を投じることになるかもしれない。俺のこの手は、これからも血に汚れ、お前を不安にさせることもあるだろう」


 ヴィルカスは一度言葉を切り、彼女の亜麻色の瞳を、魂を射抜くような情熱を込めて見つめ返した。


「だが……俺の命も、心臓の鼓動も、呼吸の一つ一つでさえも。そのすべてはお前だけのためにある。お前が俺をあの絶望の暗闇から救い出してくれたあの日から、俺の世界にはお前という光しか存在しないんだ。愛している。死が二人を分かつまで――いや、たとえ魂がこの世から消滅しようとも。俺は、お前だけのものだ」


 その誓いの言葉は、あまりにも重く――そして、甘美なほどの愛に満ちていた。

 今や彼にとってフィデリアは、己の生命そのものを繋ぎ止めるための唯一無二の伴侶であった。

 彼が彼女に向ける眼差しは、狂おしいほどの深い愛情と、決して手放さないという執念にも似た熱を帯びている。


「私も……愛しています、ヴィルカス様。あなたがどんな戦場へ向かおうとも、私は何度でもその魂を呼び戻してみせます。だから、ずっと傍にいてくださいね」


 フィデリアが甘く微笑んで応えると、ヴィルカスは耐えきれないとばかりに彼女の腰を強く引き寄せ、深く唇を重ねた。


 ――誓いのキスは、一度では終わらなかった。

 ヴィルカスはまるで、彼女の吐息をすべて自らの中に閉じ込め、二度と外界へ逃がしたくないと願うように――何度も角度を変えて、痺れるような口づけを繰り返す。


「ヴィ、ヴィルカス様……長すぎます。皆様が見ていらっしゃいますから……」


 フィデリアが顔を限界まで真っ赤にして微かな抵抗を見せるが、ヴィルカスはそれを許さなかった。

 彼は彼女の耳元に顔を寄せ、周囲には聞こえないほどの極甘な掠れ声で囁く。


「……足りない。お前を食べてしまいたいほど愛おしい。今すぐにでも、ここから連れ去って二人きりになりたいほどだ。お前はもう、俺の手の届かない場所へは絶対に行かせない」


 それは、愛おしさに理性を完全に溶かされた男の、この上なく熱烈な本音だった。

 彼の中に渦巻く彼女を永遠に自らの腕の中に閉じ込めておきたいという強烈な情動が、熱を持ってフィデリアの全身を貫いていく。


 やがて、会場を包む万雷の拍手と、赤狼騎士団の騎士たちの地響きのような歓声が二人の門出を祝福した。

 ステラが誇らしげに吠え、フワワやモコたちも祝福するように鳴き声を上げる。

 メリーも嬉しそうに小さな声で鳴いた。


 青空から降り注ぐ紙吹雪――オーリエル領の羊毛を丁寧にクロスカットして作られた純白の飾り――が、雪のように二人の上に舞い落ちる。


「さあ、行こう。俺たちの新しい未来へ」


 ヴィルカスはそう言うと、フィデリアの腰と膝裏に手を回し、軽々とその身を抱き上げた。

 お姫様抱っこのまま、幸せの絶頂に顔を輝かせる彼女を連れて、彼は大庭園を堂々と歩き出す。


 泥まみれの牧場で羊を追っていた少女が、まさかこんなにも激しく、切実な愛を捧げられる侯爵夫人となるなんて――。

 フィデリアは自分を抱きかかえるヴィルカスの、火傷しそうなほどの熱い胸板に頭を預け、彼と共に見つめるこの景色がどこまでも続く幸せなものであることを確信していた。


 ――赤き狼と、それを導く世界でただ一人の牧羊犬訓練士。

 二人の伝説的な愛の物語は、多くの祝福に包まれながら、ここからさらなる甘い旋律を紡ぎ始めるのだった。

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