12 どうか、安らかな隠居生活をお送りください
シュトルスボルド王国の心臓部たる王宮は、絢爛豪華な大理石と金箔の装飾で彩られ、オーリエル領とは完全に別世界であった。
その王宮へ続く大回廊を、赤狼騎士団の精鋭たちを引き連れたヴィルカスとフィデリアが静かに歩みを進めていた。
回廊の両脇には、彼らをひと目見ようと多くの貴族たちが集まっていた。
だが、彼らの視線は決して歓迎のものではない。
扇子で口元を隠し、忌々しげに――あるいは、嘲笑うように囁き合っている。
「あれが、狂犬の制御用に連行されてきたという女ですか?」
「どうせ、泥にまみれた牧場主の娘でしょう。家畜の匂いが染み付いた女が、神聖な王宮の床を踏むなど嘆かわしい」
「ロペス侯爵も、あのような小娘を道具にするとは。よほどあの狂犬を持て余していたのでしょうな」
心無い言葉が、わざと聞こえるような声量で投げかけられる。
しかし、フィデリアの歩みは揺るがなかった。
彼女は華美なドレスではなく、上質な生地で仕立てられた洗練された乗馬服を身に纏い、真っ直ぐに前を見据えている。
その堂々たる姿は泥にまみれた牧場主の娘などではなく――自らの領地と誇りを守り抜いてきた気高き女主人のそれであった。
そして何より、彼女の隣を歩く相棒の存在が貴族たちの嘲笑を次第に沈黙へと変えていった。
アッシュグレーの美しい毛並みを持つ牧羊犬――ステラだ。
ステラは主の歩調にピタリと合わせ、一糸乱れぬ足取りで護衛犬として付き従っていた。
一切の隙を見せず、周囲の気配を冷静に探るその鋭い眼光と洗練された佇まいは、貴族たちが自慢気に連れ歩くどの猟犬よりも気高く、圧倒的な知性を感じさせた。
「……あれは、本当にただの犬か?」
「見事な毛並みだ。それにあの歩き方……並の訓練では不可能だぞ」
囁き声はいつしか驚嘆へと変わり、フィデリアとステラが通り過ぎるたびに貴族たちは自然と道を譲っていった。
謁見の間へと続く重厚な扉の前に設けられた控室。
ここで国王の呼び出しを待つ間も、王都の貴族たちはフィデリアを直接貶めようと虎視眈々と隙を窺っていた。
一人の小太りな伯爵が、いやらしい笑みを浮かべてフィデリアに近づいてきた。
「これはこれは、オーリエル家の令嬢。辺境での羊飼いご苦労様ですな。王都の作法はお分かりかな? 粗相をしてロペス侯爵の顔に泥を塗らぬよう、気をつけることですな」
伯爵の嫌味に対し、ヴィルカスが青い瞳を細めて剣の柄に手をかけようとした――その瞬間。
「おやおや、これはべルマン伯爵ではありませんか。先日の裏通りの夜会では、随分と羽振りが良かったそうで。美しい踊り子に金貨をばら撒いていたとか」
ひどく気の抜けた声と共に、一人の青年がフィデリアを庇うように前に出た。
王都の酒場や夜会で遊び歩いていた放蕩兄貴、スターク・オーリエルである。
彼は手入れの行き届いたサーベルを腰に下げ、持ち前の人懐っこい笑みを浮かべていた。
「なっ……! き、貴様、何を根拠にそのようなデタラメを!」
「デタラメ? おかしいですね、あの夜、伯爵の隣で一緒にグラスを傾けていたのは俺なんですが。奥様は伯爵が領地の視察に行っていると信じているそうですねぇ。いやぁ、王都の噂というものは、風よりも速く広がるから恐ろしい」
スタークが笑顔でそう告げると、べルマン伯爵の顔から一瞬にして血の気が引き、逃げるようにその場から立ち去っていった。
スタークの独壇場はそれだけでは終わらない。
近づいてくる貴族たちの顔を見るなり、「おや、あなたは先月賭け事で大穴を開けた男爵様」「そちらの伯爵夫人は、密輸品の宝石を……」と、持ち前の人脈と口の軽さ――いや、恐るべき情報網を駆使して、言葉のサーベルで次々と彼らを牽制し、無力化していく。
「伊達に王都の隅々まで遊び歩いてたわけじゃないぜ。俺の可愛い妹に手を出そうなんて、百年早いんだよ」
得意げに鼻を鳴らす兄の姿に、フィデリアは思わず吹き出しそうになった。
実戦では足が震えていた彼だが、この王宮という言葉の戦場においては水を得た魚のように生き生きとしている。
ヴィルカスもまた、意外すぎる有能さを発揮したスタークに対し、微かに感心の息を漏らしていた。
やがて、重厚な扉が開き、謁見の間へと案内された。
広大な空間の最奥、玉座には白髪の国王が座し、左右には国の重鎮たる高位貴族たちが居並んでいる。
そして国王の御前、少し下がった位置に待ち構えていたのは、黒い外套を纏ったロペス侯爵であった。
侯爵はヴィルカスとフィデリアが歩み寄ってくるのを見ると、口角を微かに上げ、これ見よがしに宣言した。
「陛下。我が息子の暴走を抑える便利な道具を連れて参りました。これで赤狼騎士団の力は完全に我が侯爵家の制御下に入り、より一層、王国のために尽力できることでしょう」
それは、フィデリアを自分の手駒として王に紹介し、ヴィルカスへの支配を既成事実化するための巧妙な罠であった。
しかし、フィデリアは立ち止まらなかった。
彼女は侯爵の横を静かに通り過ぎると、堂々と国王の御前へと進み出た。
そして、自身の腰帯から一つの品を取り出し、両手で高く掲げた。
それは――精緻な意匠で狼の紋章が刻まれた、重厚な短剣。
ロペス侯爵家における次期当主の証であった。
「なっ……!」
侯爵の顔から、余裕の笑みが完全に消え去った。
「国王陛下に申し上げます」
フィデリアの澄み切った声が、謁見の間に響き渡る。
戦場の喧騒さえも鎮めたあの調律の指笛のように、その声は場を完全に支配した。
「私は、ロペス侯爵の道具などではありません。ヴィルカス・ロペスの正式な婚約者であり、次期侯爵夫人として、この場に参りました」
堂々たる正妻の宣言。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヴィルカスが全貴族の目の前で、フィデリアの足元に恭しく片膝を突いた。
王国最強と恐れられる男が、一人の女性の前に身を屈めたのだ。
彼はフィデリアの手をそっと取り、その甲に深々と、揺るぎない忠誠を込めた誓いの口づけを落とした。
「俺の命も、剣も、ロペスの名も――すべてはこの愛する主のためのものだ」
ヴィルカスの青い瞳が、鋭く侯爵を射抜く。
侯爵の顔が怒りで朱に染まり、彼は声を荒げた。
「馬鹿な! 辺境の女が次期当主の証を持つなど認められるはずがない! 誰か、その女を取り押さえろ! 我が息子の心を惑わす魔女だ!」
侯爵が叫び、謁見の間に控えていた私兵たちが動こうとした。
しかし、ヴィルカスがゆっくりと立ち上がり、青い瞳をスッと細めただけで、状況は完全に凍りついた。
彼から放たれる圧倒的な覇気と、一切の容赦をしないという明確な殺意に当てられ、私兵たちは足が一歩も動かなくなってしまったのだ。
「侯爵様」
フィデリアは、静まり返った空間で、にっこりと微笑みながら侯爵に語りかけた。
「羊の群れを正しく導けない者に、牧場主の資格はありません。ましてや、意図的に魔獣を呼び寄せて自らの領民と群れを危険に晒すなど、言語道断です。もう十分でしょう。どうか、安らかな隠居生活をお送りください」
その言葉に、玉座に座る国王が重々しく頷いた。
「オーリエル令嬢の申す通りだ。ロペス侯爵よ、余はかねてより、そなたが狂獣の香粉を用い、人為的にスタンピードを引き起こしたという報告を受けていた。国を守るべき盾が、自らの都合で民を危機に陥れるなど断じて許されることではない」
国王の厳格な声に、侯爵はその場に崩れ落ちた。
王はすでに、裏で侯爵の非道な行いを調査し、証拠を握っていたのだ。
そして、ヴィルカスという強大な武力が暴走するリスクを長年危惧していた王にとって、彼を完全に制御し、なおかつ人道的な判断を下せるフィデリアの存在は、まさに待ち望んでいたものであった。
「ロペス侯爵、そなたのすべての権力と地位を剥奪し、領地での隠居を命ずる」
王の裁定が下された。
「そして、ヴィルカス・ロペスよ。そなたの家督継承と、フィデリア・オーリエルとの婚姻を、余の権限において正式に認める。これからは二人で手を取り合い、この国のためにその力を振るうがよい」
謁見の間に、赤狼騎士団の精鋭たちと、事情を理解した一部の貴族たちから、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
血を流すことなく、盤面を完全にひっくり返した瞬間だった。
侯爵という巨大な闇は払われ、二人は自らの手で未来を掴み取ったのだ。
謁見の儀式が終わり、王宮から与えられた新しい屋敷へと移った二人は、ようやく誰にも邪魔されない私室へと辿り着いた。
分厚い扉が閉まり、部屋に静寂が訪れた瞬間。
ヴィルカスの巨大な体が、背後からフィデリアをすっぽりと包み込むように抱きしめた。
「ヴィ、ヴィルカス様……?」
不意打ちの抱擁に、フィデリアの肩がビクッと跳ねる。
彼の顔が彼女の首筋に擦り寄せられ、甘えるような――そして、深く安堵したような吐息が耳元にかかった。
「……長かった。お前を誰にも奪われない、俺だけのものにするための戦いが、ようやく終わった」
先ほどの謁見の間で見せた恐ろしいほどの覇気はどこへやら。
今のヴィルカスは、緊張の糸が切れて完全に気が緩み、大好きな主に甘える大型犬そのものだった。
彼はフィデリアの栗色の髪に顔を埋め、その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、低く甘い声で囁く。
「……俺の妻、か。良い響きだ。もう誰にも遠慮はしない。お前のすべてを、俺にちょうだい」
首筋に落ちた温かな唇の感触に、フィデリアの顔が限界まで赤く染まる。
窓の外では、夕暮れの空が王都を美しく染め上げている。
だが、ヴィルカスにとって今の世界には、腕の中にいる愛しい妻の存在しか認識されていなかった。
侯爵との政治的決戦という大きな嵐を乗り越え、二人の間にはいよいよ誰にも邪魔されることのない――極甘で濃密な時間が始まろうとしていた。




