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11 私を正式な婚約者として、あなたの正妻に迎えなさい

 魔獣の群れが去り、不自然なほどの静寂がオーリエル領を包んでいた。


 屋敷の応接間。

 そこには数日前までの穏やかな時間はなく、張り詰めた沈黙だけが支配していた。

 机の上には王家から授かった赤狼騎士団長の印章と、次期当主の証であるあの重厚な短剣が、冷たい輝きを放ちながら置かれている。


「ヴィルカス様、本当に……それでよろしいのですか?」


 フィデリアが絞り出すような声で問いかけると、ヴィルカスは澄み切った青い瞳を向け、鋼のような強さで頷いた。


「あぁ。俺の存在そのものが、親父に付け入る隙を与え、お前を危険に晒す刃になる。地位も名誉も、ロペスの名さえも、お前を守るための足枷になるのなら、俺には必要ない。俺はただの男として、お前の傍にいたいんだ」


 ヴィルカスの決意は固かった。

 彼は騎士団長という強固な盾を自ら捨て、一人の男としてフィデリアを守る道を選ぼうとしていた。

 それがどれほど茨の道であるかも分かった上での、悲痛なまでの潔癖さだった。


 ――しかし、その無謀な自己犠牲に待ったをかけたのは、意外な人物だった。


「よぉよぉ、随分としんみりした話をしてるじゃないか、未来の義弟殿」


 扉を蹴開けるようにして入ってきたのは、昨日の激戦で腕を痛めたのか、分厚い包帯を巻いたスタークだった。

 彼は机の上の印章を一瞥すると、鼻で笑ってヴィルカスの正面にどかっと座り込んだ。


「兄様、お体は大丈夫なのですか?」


「あぁ、筋肉痛だ。それよりフィディ、お前はこの大馬鹿野郎の言うことを真に受けるんじゃないぜ。おい、ヴィルカス。お前がロペスを捨ててただの風来坊になったとして、どうやってフィディを守りきるつもりだ?」


 スタークの放った言葉は、冷酷なまでに正論だった。

 ヴィルカスは鋭く眉を寄せ、反論しようと口を開きかける。

 だが、スタークはそれを手制して続けた。


「甘いな、狂犬。親父殿……ロペス侯爵という男は、正面から斬りかかってくるような珠じゃない。お前が家督を捨てた瞬間に、このオーリエル領の借金をすべて買い戻し、不渡りを掴ませて合法的にこの牧場ごと握りつぶしに来る。お前に守るべき盾がなけりゃ、フィディを守るどころか、その日のうちに路上に放り出されるのがオチだぜ」


 ヴィルカスは言葉を失い、拳を強く握りしめた。

 武力だけでは、王都の闇を泳ぐ老練な侯爵の権謀術数には太刀打ちできない。

 地位を捨てれば、彼はただの強いだけの化け物に戻り、社会的に抹殺されるだけなのだ。

 そうなれば、最愛の彼女を雨露しのげる場所に繋ぎ止めておくことすら叶わなくなる。


 ――その時、屋敷の入り口から慌ただしい靴音が聞こえてきた。

 応接間に駆け込んできたのは、赤狼騎士団の副団長たちだった。

 彼らは主君の机の上に置かれた印章を見るなり、一斉にその場に膝を突き、床に額を擦りつけた。


「団長閣下! 退役など断じて認められません! 我らが忠誠を誓ったのはロペス侯爵家という箱ではなく、ヴィルカス・ロペスというお方お一人です!」


「閣下が辞められるというのなら、我ら赤狼騎士団三千名、全員がこの場で騎士の位を返上いたします! そして全員でお嬢様の牧場の私兵となり、お二人をお守りする所存です!」


「……貴様ら、何を馬鹿なことを言っている」


 ヴィルカスは絶句した。

 団長一人の辞任ならまだしも、王国最強の騎士団が丸ごと瓦解するなど、国家存亡の危機に直結する。

 侯爵との私闘に、彼らまで巻き込むわけにはいかなかった。


 混乱が極まる中、さらなる追い打ちをかけるように王宮からの使者が到着した。

 厳かな礼法に則って差し出された書状には、インフィニット・ブリードの激化に伴う即時帰還の命令が記されていた。

 そして、追記された最後の一文に、その場にいた全員の血が凍りついた。


『――なお、団長の精神状態の安定に資するため、オーリエル伯爵令嬢フィデリアを、王宮随行員として同行させることを許可する』


「許可、だと……? ふざけるな。強制連行の間違いだろうが!」


 ヴィルカスの怒りが爆発し、机を叩く音が響いた。

 侯爵はヴィルカスを逃がさないための人質として、フィデリアを合法的に王宮という名の、逃げ場のない牢獄へと引きずり出そうとしているのだ。

 王命という形を取られた以上、拒否すればオーリエル家は一瞬にして反逆罪に問われる。


 ――絶望的な沈黙が応接間を支配した。

 ヴィルカスの首筋に血管が浮き上がり、怒りと無力感で血が滲むほどに拳が握りしめられる。


「……ヴィルカス様」


 その時、ずっと沈黙を守っていたフィデリアが、凛とした声で彼の名を呼んだ。

 彼女は、机の上に置かれたあの重すぎる短剣を手に取ると、迷いのない手つきで自分の腰帯へと差し戻した。

 その亜麻色の瞳には、恐怖ではなく、かつてないほど鮮やかな光が宿っていた。


「家督を捨てるのは、おやめなさい。そんなことをしても、お父様の思うツボです」


「だが、お前が王宮へ行けば、俺は……!」


「ええ。だから、私は随行員としてではなく、ロペス侯爵家次期当主夫人として王都へ乗り込みます。ヴィルカス様、私を正式な婚約者として、あなたの正妻に迎えなさい」


 時が止まったような静寂が流れた。

 スタークが持っていたティーカップを床に落として割り、ヴィルカスは呼吸を忘れたように目を見開いた。


「フィディ……お前、自分が何を言っているか分かっているのか? ロペスの妻になるということは、あの地獄のような家の闇に、お前自身が足を踏み入れるということだぞ」


「分かっています、兄様。お父様が私を便利な首輪として利用しようとするなら、私はその首輪の鎖を掴んで、お父様を引きずり下ろして差し上げます」


 フィデリアは立ち上がり、ヴィルカスの大きな手を自分の小さな手でしっかりと包み込んだ。


「私は牧羊犬の訓練士です。荒ぶる羊も、言うことを聞かない猟犬も、すべてをあるべき場所へ導くのが私の仕事。ヴィルカス様、あなたがロペスを捨てて逃げる必要はありません。私たちがロペスを乗っ取って、お父様を穏やかに隠居させてしまえばいいのです。そうすれば、あなたはもう誰の道具でもなくなる」


 ――それは、か弱い令嬢のセリフではなかった。

 混沌とした群れに秩序をもたらし、荒ぶる狂犬を調律してきた彼女にしか言えない、あまりにも勇敢で合理的な宣戦布告だった。


「…………ははっ」


 ヴィルカスの喉から、乾いた笑いが漏れた。


 自分はなんて愚かだったのか。

 彼女を守るために力を捨てることばかり考えていたが、彼女自身は、自分と共に戦場へ立つ覚悟をとうに決めていたのだ。


 彼女の圧倒的な男前さと慈愛に触れた瞬間、ヴィルカスの中で張り詰めていた何かが、心地よく崩れ去った。


「…………お前には、勝てないな」


 ヴィルカスの顔から、悲壮な騎士団長の仮面が剥がれ落ちた。

 代わりに現れたのは、頬を熟した果実のように染め上げ、言葉にならない気恥ずかしさと歓喜に悶える、一人の純粋な青年の姿だった。

 彼の顔面は首筋からこめかみにかけて沸騰したかのような熱を帯び、その朱色は薄い肌を透かして、かつてないほど鮮やかに広がっている。


 ヴィルカスは耐えきれないとばかりに、彼女の足元にストンと膝をついた。


「フィデリア……お前が主としてロペス家を導いてくれるなら。俺は一生、お前だけの忠実な番犬でいる。お前の歩く道にある塵は、俺がすべて払い除けよう」


 大きな体を丸め、ヴィルカスはフィデリアの手を宝物のように抱え込むと、そこに何度も何度も、縋るような愛おしさを込めて頬を擦り寄せた。

 先ほどまでの勇猛な騎士団長はどこへやら、今の彼は、愛する主の手に自分のすべてを預け、尻尾を振っているのが見えるかのような大型犬そのものだった。


「わ、分かりましたから! ヴィルカス様、副団長さんたちが見てますから……!」


「構わない。俺のすべてはお前のものだ。命も、心も、このロペスの名でさえも」


 跪いたまま、うっとりと目を細めて彼女の温もりに甘えるヴィルカス。

 その極甘な空気に耐えきれなくなったスタークが、割れたカップを片付けながら盛大なため息をついた。


「えー……ちょっと待てよ、お前ら。話が大きくなりすぎてないか? 俺の目の前でいちゃつくな! っていうか、なんで俺までその地獄に連れて行かれる前提なんだよ!」


「当たり前です、兄様。オーリエル家の跡取りとして、王都でしっかりと人脈を広げてきていただきますから。それに、兄様のあのサーベルの腕前、きっと役に立ちます」


「嘘だろ……俺、自由な風になりたいって言ったのに、なんで巨大な狼に追いかけられる運命になってるんだよ!」


 スタークの嘆きをよそに、赤狼騎士団の騎士たちは「お嬢様、万歳!」「ロペス侯爵夫人万歳!」と、主君の幸せを祝福して歓喜の声を上げた。


 すべてを捨てて逃げるのではなく、愛する者のためにすべてを勝ち取り、塗り替える道。

 狂犬と牧場主令嬢、そして不運な兄を乗せた馬車が、決戦の地・王都へと向かって力強く動き出したのは――その数時間後のことだった。

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