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14 いい子ですね、私の狼さん

 王都の大庭園で、温かな祝福に包まれた結婚式を挙げてから数ヶ月。


 ヴィルカスとフィデリアは、未だ王国を脅かし続けているインフィニット・ブリードを完全に終息させるべく、赤狼騎士団と共に過酷な最前線を駆け抜けていた。

 そしてついに、長きにわたる大厄災に決着をつけるその時が訪れたのである――。


 インフィニット・ブリードの中心地。

 王国の歴史上、最悪とも呼ばれた大厄災の根源は薄暗い森の最奥にその巨大な鎌首をもたげていた。


 すべての魔獣を統率し、狂乱の渦を巻き起こしていた元凶たる毒蛇の怪物――ヨルムンガンドである。


 大木よりも太い胴体は不気味な紫色の鱗に覆われ、その口から吐き出される猛毒の霧は触れるだけで木々を枯らし、大気を淀ませていた。

 さらに、精神を直接削り取るような悍ましい咆哮が響き渡るたび、王国最強を誇る赤狼騎士団の精鋭たちでさえ、恐怖に足をやられ、陣形が瓦解しかけていた。


 最前線で大剣を振るうヴィルカスもまた、絶え間なく流れ込んでくる魔獣たちの凄まじい負の感情と殺意に当てられ、その青い瞳に危険な朱色を滲ませていた。

 だが、その絶望的な戦場において、ただ一人、全く怯むことなく真っ直ぐに前を見据えている者がいた。


 ――赤狼騎士団の後方に立ち、風の動きを読むフィデリアである。

 彼女の傍らでは、美しいアッシュグレーの毛並みを持つ牧羊犬のステラが、主の指示を待ちながら低い姿勢で控えている。


 フィデリアは肺の底まで深く息を吸い込むと、猛毒の霧と魔獣の咆哮が支配する戦場の中心へ向けて、全霊を込めて指笛を吹いた。

 鋭く、高く、どこまでも澄み切ったその音が、分厚い瘴気を切り裂いて空へと響き渡る。

 それはパニックに陥った群れを正しい道へと導くための、牧羊犬訓練士としての明確な指示の音だった。

 何万回と繰り返し、泥にまみれながら培ってきた、命を導くための極めて実践的な技術だ。


 その凛とした音色は、恐怖に呑まれかけていた騎士たちの脳裏に進むべき戦術の道筋を鮮烈に照らし出した。

 混乱が嘘のように引き、陣形が瞬く間に再構築されていく。


 そして何より、その音はヴィルカスの意識を深い暗闇から力強く引き上げた。

 瞳から朱色が完全に消失し、澄んだ青色が戻る。

 彼は自らの意志で最強の力を極限まで引き出し、一切の迷いなく地を蹴った。


 風を置き去りにするほどの神速の踏み込み。

 そして、振り抜かれた大剣が放つ圧倒的な斬撃が、ヨルムンガンドの巨大な首を一撃のもとに両断した。


 怪物の巨体が地響きと共に崩れ落ち、長い長い大厄災に完全な終止符が打たれた瞬間だった。


 ――数週間後、王都の広場は、これまでにないほどの熱狂と歓喜に包まれていた。


 インフィニット・ブリードの完全終息を宣言する記念式典において、国王はヴィルカスだけでなく、彼の隣に立つフィデリアを王国を救った最大の功労者として壇上に招き上げた。


「これまでの王国の戦いは、ただ力で魔獣を押さえ込むだけの、終わりのない消耗戦であった。だが、オーリエル令嬢が牧羊犬訓練士として培った群れをパニックに陥らせず、的確に導くという知恵が、我が軍の戦い方を劇的に変革させたのだ」


 国王の力強い言葉が、広場に響き渡る。

 フィデリアの指示と、それに絶対の信頼を置くヴィルカスの武力。

 その完璧な連携は、ただ敵を倒すだけでなく、味方の被害を極限まで抑え込むという奇跡を成し遂げた。

 一人の牧場主の娘が示した誇りと技術が、長きにわたる王国の血塗られた歴史を塗り替え、真の平和な時代への扉を開いたのだ。


 民衆からの割れんばかりの拍手と歓声が、彼女の功績を何よりも雄弁に物語っていた。


 ――それから、さらに季節が進んだ頃。


 王都での華々しい式典や最低限の公務を終えた二人は、生活の拠点であるオーリエル領の牧場にいた。

 侯爵夫妻という身分になっても、フィデリアは変わらず、愛するこの土地で牧場主としての生活を続けている。


 夕陽が広大な放牧地を優しく照らし出していた。

 草の青い香りを乗せた風が吹き抜ける中、上着を脱いでシャツ一枚になったヴィルカスが、額に汗を浮かべながら、巨大な干し草の塊を次々と倉庫へ運び込んでいる。

 かつて国最強の軍神と恐れられた男が、今や腕まくりをして泥にまみれ、不器用ながらも真剣に牧場の力仕事に向き合っていた。


「ヴィルカス様、あまり無理をなさらないでくださいね。休憩に冷たいお茶を淹れましたから」


「……あぁ。すまない」


 フィデリアが差し出した木陰のベンチに、ヴィルカスが腰を下ろす。

 すると、そこへ一匹の犬がとことこと歩み寄り、ヴィルカスの足元に当たり前のように丸くなった。

 アッシュグレーの毛並みを持つ、ステラだ。


 かつてステラは、巨大な肉食獣のような気配を放つヴィルカスを警戒し、彼の顔を見るたびに鋭く睨みつけていた。

 だが今では、干し草運びで一息つく彼の足元にそっと寄り添い、互いに背中を預け合う最高の相棒のような素晴らしい関係を築き上げている。

 ヴィルカスの分厚い手がステラの頭を無骨に撫でると、ステラは心地よさそうに目を細めて尻尾を振った。


 そのすぐ向こうでは、羊のメイ、フワワ、モコがのんびりと草を食んでいる。

 そして、少し大きくなった子羊のメリーが、「メェ」と可愛らしい鳴き声を上げながらヴィルカスの足元にすり寄ってきて、彼のブーツに頭を擦り付けた。

 平和そのものの光景だった。


 牧場には、休暇を利用して手伝いに来ている赤狼騎士団の面々もいる。

 彼らは鎧を脱ぎ捨て、ヴィルカスと共に楽しそうに柵の修理や羊の毛刈りを手伝っており、今や領民たちからも親しまれる良き隣人となっていた。


 少し離れた屋敷のテラスでは、車椅子に乗ったお父様が牧場全体を見渡しながら穏やかに日向ぼっこをしている。


「フィディの奴、本当に良い顔をして笑うようになったな」


「ええ。二人を見ていると、こちらまで心が温かくなりますね」


 お父様に寄り添うお母様は、優しく微笑みながら、今年採れたばかりの最高級の羊毛を使って、フィデリアとヴィルカスのための冬着を編み始めていた。

 二人の表情からはかつての心労は完全に消え去り、深い充足感だけが滲んでいる。


 ――ちなみに、王都のロペス侯爵邸の管理や、貴族たちとの煩わしい政治的な折衝せっしょうは、すべて兄のスタークに丸投げされている。

 先日届いた手紙には、「妹夫婦のイチャイチャを見せつけられるより、王都で美しい令嬢たちと遊んでる方がずっとマシだ!」と強がりが書かれていたが、実際には妹の平和な牧場生活を守るための強力な防波堤として、見事に侯爵家の外交を取り仕切ってくれているらしい。

 彼らしい不器用な家族愛であった。


 ――やがて日が完全に傾き、空が美しい茜色から深い藍色へと変わっていく頃。


 一日の作業を終えたフィデリアとヴィルカスは、牧場の外れにある小高い丘の上に二人きりで立っていた。

 足元には一面のシロツメクサが広がり、優しい風に揺れている。


「ヴィルカス様、今日もお疲れ様でした。力仕事ばかりお願いしてしまって、ごめんなさい」


「謝る必要はない。俺は、体を動かしている方が性に合っている。それに、お前と共に汗を流し、同じ風を感じられるこの時間が、何よりも愛おしい」


 ヴィルカスはそう言うと、背後からフィデリアの華奢な体をすっぽりと、この上なく大切そうに抱きしめた。

 トクトクという力強い心臓の鼓動が直接伝わってくる。

 その揺るぎない温もりに、フィデリアは全身の力が抜けていくような心地よさを覚えた。


「……俺は、ずっと探していたのかもしれないな。血を流すための冷たい戦場ではなく、俺のすべてを捧げ、共に生き、死んでいける……この温かな場所を」


 耳元で囁かれる低い声に、フィデリアの頬が熱を帯びる。

 ヴィルカスの大きな手が、フィデリアの左手をそっと取った。

 そして、彼女の薬指に、夕闇の中でも眩く輝く美しい宝石があしらわれた結婚指輪を、ゆっくりと滑り込ませた。


 かつて彼が「もっと分かりやすい首輪をつけてくれないか」と乞うた、あの約束の証だった。


「お前は俺の主であり、世界でたった一人の妻だ」


 ヴィルカスはフィデリアの体をそっと正面に向き直らせると、彼女の栗色の髪をかき上げ、その瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 そして、獲物を逃がさない狼のような――それでいて、ひどく甘やかな仕草で、何度も何度も、溶けるようなキスを降らせた。


「ヴィルカス、様……」


 唇が離れるたびに甘い吐息が零れ、またすぐに次の口づけによって塞がれる。

 触れ合う肌から伝わってくるのは、狂おしいほどの愛と、決して彼女を手放さないという永遠の誓いだった。


「お前を離さない。この命が尽きても、俺の魂はいつだってお前の傍にいる。俺の世界には、お前だけがいればいい」


 熱を孕んだヴィルカスの瞳に見つめられ、フィデリアの目から幸せの涙がふわりと零れ落ちた。

 この不器用で、誰よりも純粋な愛情を持つ男と共に歩む未来。

 それはきっとこの牧場のように、どこまでも温かく、豊かなものになるに違いない。


 フィデリアは腕を背中に回し、ヴィルカスを力強く抱きしめ返すと、世界で一番幸せな笑顔を咲かせて囁いた。


「ええ。ずっと一緒ですよ……いい子ですね、私の狼さん」


 心地よい牧場の風が二人を包み込み、満天の星空の下、不器用な狼と彼を導いた少女の幸せな軌跡は――これからもずっと、この美しい大地に温かく刻まれていくのだった。



 Fin

ここまで読んでくださってありがとうございます!

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次回作も楽しんでいただけたら嬉しいです!

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― 新着の感想 ―
度々コメント失礼します。 ほのぼのとした世界観の中でも、魔獣の残党との戦いなど様々な動きがあり、広がりのある物語を楽しんでいます。 戦況は着実に安定へ向かい、メイが元気な子を出産できてよかった。 世界…
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