第九話 勇者と魔王 湯上がりを堪能する
湯から上がると、脱衣所の空気がひんやりと感じられた。
勇者は手拭いで髪を拭きながら、籠へ入れていた浴衣を広げる。
隣では、魔王がすでに袖へ腕を通していた。
「早いな」
「お前が遅い」
「さっきまで湯から上がろうとしなかった奴に言われたくない」
「お前もだろ」
二人は鏡の前に並び、それぞれ帯を締めた。
勇者は部屋で結び方を覚えたつもりだったが、今度は左右の長さが合わない。やり直している横で、魔王は一度で形を整えている。
浴場へ来る前と同じだった。
「途中でほどけても、他人のふりするんだっけ」
勇者が言う。
「覚えていたか」
「友人として直してくれてもいいだろ」
「俺はお前の部下じゃない」
さきほど自分が言った言葉をそのまま返され、勇者は黙って帯を結び直した。
湯に浸かっている間、二人はずいぶん話した。
会議のこと。
部下へ仕事を任せる難しさ。
管理職になってから、自分の仕事を始められるのは誰もいなくなったあとだということ。
せっかく十年以上越しで草津まで来たのに、出てきたのは日頃の愚痴ばかりだった。
勇者は鏡越しに魔王を見る。
「……悪かったな」
魔王が帯から手を離した。
「何がだ」
「せっかく温泉に来たのに、仕事の愚痴ばかりになった」
魔王は少しだけ考えた。
「あれは俺も同じだ。お前だけの責任じゃない」
「そうか」
「ああ」
それで話は終わった。
反省会を始める必要はなかった。
吐き出したものを、もう一度拾い集めて整理する必要もない。
勇者はどうにか帯を締め終えた。
魔王が結び目を見る。
「今度は大丈夫そうだな」
「ほどけても、他人のふりするんだろ」
「食事の時に一人分しか用意されなくなると困る」
「そこは友人として心配してくれよ」
脱衣所を出ると、湯上がりの休憩所があった。
長椅子と小さな卓が置かれ、その奥に冷水の用意がある。壁際には二台のマッサージチェアが並んでいた。
勇者は冷水を二つの杯へ注いだ。
そのうち一つを魔王へ差し出す。
「うまいな」
「ああ」
冷たい水が、温まった身体へゆっくり落ちていく。
それだけで十分だった。
二人は空いていたマッサージチェアへ並んで座った。
勇者は肘掛けの操作盤を眺める。
「どれ押せばいい?」
「標準でいいだろ」
「せっかくなら強めじゃない?」
「最初から欲張ると後悔するぞ」
「温泉まで来て、椅子に負ける気はない」
勇者が強めの設定を選ぶと、背後で機械が低く動き始めた。
肩甲骨のあたりへ強く押し込まれ、思わず身体が跳ねる。
「痛っ」
「だから言った」
隣では、標準を選んだ魔王が目を閉じている。
余裕のある顔が少し腹立たしい。
設定を戻すのも負けたような気がして、勇者はそのまま耐えた。
機械の動く音が二つ重なる。
廊下を通る人の足音。
卓へ杯が置かれる小さな音。
それ以外には、何もなかった。
さきほどまでの愚痴を、続きを話そうとは思わなかった。
明日の予定を決めようとも思わない。
会話がないまま、椅子に身体を預けている。
学生の頃にも、こういう時間があった。
講義と講義の間、学生会館の古い長椅子に二人で座っていた。
勇者は眠り、魔王は本を読んでいた。
何もしない時間は、予定に入れるものではなかった。
今なら、時間が空けば端末を見る。
空いた時間で返せる連絡を探す。
誰かから何も来ていなければ、見落としがないか確認する。
休んでいるはずなのに、次にするべきことを自分で作る。
勇者は浴衣の袖に手を入れかけた。
そこに端末がないことを思い出し、腕を肘掛けへ戻す。
隣では、魔王が目を閉じていた。
学生会館の長椅子にいた頃と、それほど変わらない顔だった。
十年以上、別々の場所で過ごした。
互いの知らない部下がいて、知らない仕事があり、今では組織同士が競い合っている。
それでも、隣で黙っている時の距離だけは変わっていなかった。
それを言葉にすれば、何か違うものになる気がした。
勇者も目を閉じる。
肩を押していた機械が腰へ移り、今度はちょうどよい強さになった。
しばらくして、二台の椅子がほとんど同時に止まった。
急に静かになる。
勇者は目を開けた。
「もう一回やる?」
「食事の時間が近い」
魔王が壁の時計を見た。
勇者もつられて時刻を確かめる。
「腹減ってきたな」
「ああ」
二人は椅子から立ち上がった。
冷水の杯を戻し、並んで休憩所を出る。
仕事の話は、湯気の向こうへ置いてきた。
次にするべきことは、二人で夕食を楽しむことだけだった。




