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勇者と魔王、温泉に行く。  作者: 芳Hacca
第四話 勇者と魔王、合流。
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第七話 勇者と魔王 宿に着く

湯畑を離れる頃には、温泉街へ差し込む光が少しずつ傾き始めていた。


勇者と魔王は、食べ歩きの空袋を片づけ、坂の続く道を並んで歩いた。


二泊三日分の荷物を持った勇者に対し、魔王は小さなキャリーケースと仕事鞄を持っている。駅からここまで、荷物の差はそのまま二人の立場の差だった。


片方は有休。


もう片方は出張。


同じ宿へ向かっているのに、いまだに旅行の名目だけは揃っていない。


やがて、通りに面した宿の前で二人は足を止めた。


今夜から二泊する、宿に到着する。


白い壁と濃い木の色が、温泉街の景色へ静かになじんでいる。玄関先にはきちんと履物が揃えられ、外の賑わいから一歩離れただけで、時間の流れが少し緩やかになったように感じられた。


「ここか」


勇者が言う。


「予約したのはお前だろ」


「写真で見るのと、来るのは違うじゃん」


「趣があって、良い宿だな」


バスの中で、資料の数字と自分で見るのは違う、と話していた男の返事だった。


勇者がそのことを指摘しようとした時、宿の者が二人に気づき、にこやかに迎えた。


二人は並んで帳場へ向かった。


受付では、名前と宿泊日数を確認され、夕食の時間や温泉の場所、館内での過ごし方について説明を受けた。


「二泊でございますね」


念を押すように言われ、勇者はうなずいた。


三日間。


平日に取った、たった一日の有休。その後に週末をつなげて、ようやく作った三日間だった。


魔王にとって、今日までは出張である。


明日からは週末だ。


少なくとも、明日は出張という言葉を使わせないつもりだった。


隣を見ると、魔王は館内案内へ真剣に目を通している。


「なんだ?」


視線に気づいた魔王が聞いた。


「いや。明日は休みだよなと思って」


「暦の上ではな」


「仕事しないよな?」


「問題がなければ」


「そういう言い方する奴は、問題を探すんだよ」


「お前に言われたくない」


それはそうだった。


勇者はそれ以上追及せず、渡された鍵を受け取った。


部屋へ案内される間、廊下を歩く足音が静かに響いた。


勇者は説明を聞きながら、途中で見えた温泉への案内に目を向ける。魔王は避難経路を見ていた。


「何見てるの?」


「経路」


「職業病?」


「お前は見ないのか」


勇者も改めて案内板を見た。


「見たよ」


「今、温泉の場所しか見てなかっただろ」


「旅行でそこまで見る?」


「普通は見る」


案内された部屋へ入ると、畳の匂いがした。


窓際には椅子と小さな卓。部屋の中央には座卓があり、その上へ急須と湯呑み、茶菓子が用意されている。


二人分の座布団と座椅子。


二人分の浴衣。


それだけで、ようやく今夜はここへ泊まるのだという実感が湧いた。


宿の者から最後の説明を受け、襖が静かに閉じられる。


勇者は荷物を部屋の隅へ置き、そのまま座布団へ腰を下ろした。


魔王もキャリーケースを置いた。


そして仕事鞄だけは、座卓の横へ運んだ。


「まだ仕事するの?」


勇者が聞く。


「今日の分だけまとめる」


「温泉、逃げちゃうよ?」


「お前と一緒で逃げないだろ」


魔王は仕事鞄からPCを取り出した。


勇者は止めなかった。


駅前の交通状況。バスの所要時間。道路の幅や勾配。移動中に確認したことを、忘れないうちに記録しておくつもりなのだろう。


出張という名目を守るためだけではない。


魔王は、必要のない仕事まで持ち込んでいるわけではなかった。現地を見た以上、気づいたことを残す。それを後回しにすれば、明日も明後日も頭のどこかへ引っかかり続ける。


仕事を終わらせなければ、仕事から離れられない。


勇者には、その感覚がよく分かった。


だから何も言わず、急須へ湯を注いだ。


温かな香りが立ち上る。


湯呑みを一つ、自分の前へ置く。


もう一つを魔王の手元へ置こうとして、PCの横では邪魔になると思い、少し離れた場所へ置いた。


「茶、そこ」


「ああ」


魔王は画面を見たまま答えた。


勇者は茶菓子の包みを開いた。


食べ歩きをしたばかりなのだから、腹が減っているわけではない。


それでも旅館の座卓に茶菓子が置いてあれば、食べるのが正しい気がした。


一口かじり、茶を飲む。


甘さが口の中でほどけた。


勇者は畳の上で足を伸ばした。


障子越しに、夕方の淡い光が差している。


魔王がキーボードを打つ音がした。


時々止まり、また続く。


勇者は湯呑みを持ったまま、ぼんやりとその音を聞いていた。


自分の前には、何もない。


報告書もない。


確認待ちの資料もない。


誰かに返すべき連絡もない。


鞄の中にはスマートフォンが入っているが、取り出す理由はなかった。


やろうと思えば、いくらでも何かをできる。


館内の案内を読み直してもいい。明日の予定を調べてもいい。温泉街で見かけた店を検索してもいい。


だが、今は何もしなくてよかった。


魔王が仕事をしている横で、勇者は茶を飲んでいた。


片方が作業をし、片方が勝手にくつろいでいる。


その光景を見ているうちに、遠くなっていた記憶が急に近くなった。


大学時代、魔王はよく勇者の部屋にいた。


講義が終わった夕方。


何も予定のない休日。


雨が降って、外へ出るのが面倒になった午後。


どちらかが遊びに行こうと誘ったわけでもない。気づけば魔王が来て、狭い部屋の一角を当たり前のように使っていた。


勇者が漫画を読んでいる横で、魔王がレポートを書いていた。


魔王がゲームをしている横で、勇者が昼寝をしていた。


テレビはついていても、どちらも見ていない。


会話が途切れても、わざわざ次の話題を探さない。


腹が減れば、どちらかが立ち上がる。それを合図に、近くの店へ食べに出た。


特別なことは、何もなかった。


何もなかったから、記憶に残らないと思っていた。


けれど、十年以上離れていた時間を越えて最初に戻ってきたのは、旅行や飲み会のような出来事ではなかった。


同じ部屋で、別々のことをしていた時間だった。


勇者は湯呑みを座卓へ置いた。


「お前、昔もよく俺の部屋でレポート書いてたよな」


キーボードを打つ音が止まった。


魔王は画面から目を離さずに答えた。


「お前の部屋の方が大学に近かったからな」


「それだけ?」


「ビールが飲み放題だったな」


「勝手に飲んでいただけだろ」


勇者の冷蔵庫に入っていたビールを、魔王は自分の分のように飲んでいた。


補充しておけと言うと、次に来た時は別の銘柄が入っていた。


勇者がいつも買っていたものより、少しだけ安いやつだった。


「たまには買ってきてた」


「あれ、補充って言わないから。飲んだ本数より少なかっただろ」


魔王は短く答え、またキーボードを打ち始めた。


勇者も、それ以上は話しかけなかった。


再び部屋へ、キーを打つ音が広がる。


その合間に、勇者が茶をすする音が混じる。


黙っていても、さきほどまでと空気は少し変わっていた。


おそらく魔王も、同じ部屋を思い出している。


そう確かめる必要はなかった。


学生の頃は、同じ場所にいることへ理由など要らなかった。


互いの予定を確認することもなく、次に会う日を決めることもなく、暇ならどちらかの部屋へ行けばよかった。


今は違う。


一緒に三日過ごすだけで、片方は半年も前から有休予定を入れ、もう片方は出張申請を作らなければならない。


ここまで来るのに、十年以上かかった。


勇者は畳へ片手をつき、ゆっくりと後ろへ身体を倒した。


天井が見える。


「寝るなよ」


魔王が言った。


「寝てない」


「学生の頃も、そう言ってそのまま寝てたよな」


「覚えてるんじゃん」


返事はなかった。


その代わり、キーボードの音が少しだけ速くなった。


勇者は目を閉じた。


眠るつもりはない。


ただ、あの頃と同じ、軽い眠気に誘われながらキーボードの音を聞くのが心地よかった。


普段なら落ち着かないはずだ。


誰かが働いていれば、自分も何かしなければと思う。


滞りそうな仕事があれば、先に手を出す。


そうやって過ごしてきたから、休むことが下手になった。


けれど今、魔王が書いているのは魔王のレポートだ。


あの頃もお互いのレポートについて口を挟んだことは一度も無かった。


しばらくして、キーを打つ音が止まった。


一度だけ、小さく操作音がする。


それから、PCの閉じる音がした。


勇者は目を開けた。


魔王が両腕を上へ伸ばしている。


「終わった?」


「ああ」


魔王はPCを仕事鞄へ戻した。


その瞬間、部屋から仕事をしている音が消えた。


魔王のために置いた茶は、もう湯気を立てていない。


魔王はそれを一口飲んだ。


「冷めてる」


「そりゃそうだろ」


「淹れ直してくれてもよかっただろ」


「俺はお前の部下じゃない」


「友人として」


「自分で淹れろ」


そう言いながら、勇者は急須へ手を伸ばした。


湯はまだ少し残っていた。


新しく淹れた茶を魔王の湯呑みへ注ぐ。


魔王は礼を言わず、今度は温かいうちに口をつけた。


それも、昔と変わらなかった。


勇者は座卓の脇に用意された浴衣を広げた。


「温泉へ行こうぜ」


二人はそれぞれ浴衣を手に取り、着替え始めた。


帯の結び方は、分かっているようで自信がない。


勇者は一度結び、ほどき、もう一度やり直した。


向かいでは魔王が、最初から迷いなく帯を締めている。


「慣れてない?」


勇者が聞いた。


「出張で旅館を使うことはある」


「温泉旅館?」


「宿泊施設だ」


「今の間は何?」


「何もない」


やはり、何度か使っているらしい。


勇者は三度目でどうにか形にした。


互いに帯を直してやるほど世話は焼かない。


魔王は勇者の結び目を一度見たが、何も言わなかった。


「何だよ」


「途中でほどけても、他人のふりをする」


勇者は帯を確かめ、今度こそ大丈夫だと判断した。


二人は手拭いを持った。


部屋を出る前に、魔王が仕事鞄を見る。


ほんの一瞬だった。


「じゃ、行くか」


「ああ」


魔王が襖を開ける。


廊下へ出ると、温泉の方からかすかに湯の匂いがした。


「温泉の実地確認にな」


「まだ出張って言い張るのかよ」


「今日中は出張だ」


「じゃあ明日からは?」


魔王は少し考えた。


「現地滞在」


「休みって言えよ」


二人は並んで廊下を歩き始めた。


大学時代の勇者の部屋から、近所の銭湯へでも出かけるような気軽さで。


十年以上越しの旅行、その最初の温泉へ向かった。

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