第七話 勇者と魔王 宿に着く
湯畑を離れる頃には、温泉街へ差し込む光が少しずつ傾き始めていた。
勇者と魔王は、食べ歩きの空袋を片づけ、坂の続く道を並んで歩いた。
二泊三日分の荷物を持った勇者に対し、魔王は小さなキャリーケースと仕事鞄を持っている。駅からここまで、荷物の差はそのまま二人の立場の差だった。
片方は有休。
もう片方は出張。
同じ宿へ向かっているのに、いまだに旅行の名目だけは揃っていない。
やがて、通りに面した宿の前で二人は足を止めた。
今夜から二泊する、宿に到着する。
白い壁と濃い木の色が、温泉街の景色へ静かになじんでいる。玄関先にはきちんと履物が揃えられ、外の賑わいから一歩離れただけで、時間の流れが少し緩やかになったように感じられた。
「ここか」
勇者が言う。
「予約したのはお前だろ」
「写真で見るのと、来るのは違うじゃん」
「趣があって、良い宿だな」
バスの中で、資料の数字と自分で見るのは違う、と話していた男の返事だった。
勇者がそのことを指摘しようとした時、宿の者が二人に気づき、にこやかに迎えた。
二人は並んで帳場へ向かった。
受付では、名前と宿泊日数を確認され、夕食の時間や温泉の場所、館内での過ごし方について説明を受けた。
「二泊でございますね」
念を押すように言われ、勇者はうなずいた。
三日間。
平日に取った、たった一日の有休。その後に週末をつなげて、ようやく作った三日間だった。
魔王にとって、今日までは出張である。
明日からは週末だ。
少なくとも、明日は出張という言葉を使わせないつもりだった。
隣を見ると、魔王は館内案内へ真剣に目を通している。
「なんだ?」
視線に気づいた魔王が聞いた。
「いや。明日は休みだよなと思って」
「暦の上ではな」
「仕事しないよな?」
「問題がなければ」
「そういう言い方する奴は、問題を探すんだよ」
「お前に言われたくない」
それはそうだった。
勇者はそれ以上追及せず、渡された鍵を受け取った。
部屋へ案内される間、廊下を歩く足音が静かに響いた。
勇者は説明を聞きながら、途中で見えた温泉への案内に目を向ける。魔王は避難経路を見ていた。
「何見てるの?」
「経路」
「職業病?」
「お前は見ないのか」
勇者も改めて案内板を見た。
「見たよ」
「今、温泉の場所しか見てなかっただろ」
「旅行でそこまで見る?」
「普通は見る」
案内された部屋へ入ると、畳の匂いがした。
窓際には椅子と小さな卓。部屋の中央には座卓があり、その上へ急須と湯呑み、茶菓子が用意されている。
二人分の座布団と座椅子。
二人分の浴衣。
それだけで、ようやく今夜はここへ泊まるのだという実感が湧いた。
宿の者から最後の説明を受け、襖が静かに閉じられる。
勇者は荷物を部屋の隅へ置き、そのまま座布団へ腰を下ろした。
魔王もキャリーケースを置いた。
そして仕事鞄だけは、座卓の横へ運んだ。
「まだ仕事するの?」
勇者が聞く。
「今日の分だけまとめる」
「温泉、逃げちゃうよ?」
「お前と一緒で逃げないだろ」
魔王は仕事鞄からPCを取り出した。
勇者は止めなかった。
駅前の交通状況。バスの所要時間。道路の幅や勾配。移動中に確認したことを、忘れないうちに記録しておくつもりなのだろう。
出張という名目を守るためだけではない。
魔王は、必要のない仕事まで持ち込んでいるわけではなかった。現地を見た以上、気づいたことを残す。それを後回しにすれば、明日も明後日も頭のどこかへ引っかかり続ける。
仕事を終わらせなければ、仕事から離れられない。
勇者には、その感覚がよく分かった。
だから何も言わず、急須へ湯を注いだ。
温かな香りが立ち上る。
湯呑みを一つ、自分の前へ置く。
もう一つを魔王の手元へ置こうとして、PCの横では邪魔になると思い、少し離れた場所へ置いた。
「茶、そこ」
「ああ」
魔王は画面を見たまま答えた。
勇者は茶菓子の包みを開いた。
食べ歩きをしたばかりなのだから、腹が減っているわけではない。
それでも旅館の座卓に茶菓子が置いてあれば、食べるのが正しい気がした。
一口かじり、茶を飲む。
甘さが口の中でほどけた。
勇者は畳の上で足を伸ばした。
障子越しに、夕方の淡い光が差している。
魔王がキーボードを打つ音がした。
時々止まり、また続く。
勇者は湯呑みを持ったまま、ぼんやりとその音を聞いていた。
自分の前には、何もない。
報告書もない。
確認待ちの資料もない。
誰かに返すべき連絡もない。
鞄の中にはスマートフォンが入っているが、取り出す理由はなかった。
やろうと思えば、いくらでも何かをできる。
館内の案内を読み直してもいい。明日の予定を調べてもいい。温泉街で見かけた店を検索してもいい。
だが、今は何もしなくてよかった。
魔王が仕事をしている横で、勇者は茶を飲んでいた。
片方が作業をし、片方が勝手にくつろいでいる。
その光景を見ているうちに、遠くなっていた記憶が急に近くなった。
大学時代、魔王はよく勇者の部屋にいた。
講義が終わった夕方。
何も予定のない休日。
雨が降って、外へ出るのが面倒になった午後。
どちらかが遊びに行こうと誘ったわけでもない。気づけば魔王が来て、狭い部屋の一角を当たり前のように使っていた。
勇者が漫画を読んでいる横で、魔王がレポートを書いていた。
魔王がゲームをしている横で、勇者が昼寝をしていた。
テレビはついていても、どちらも見ていない。
会話が途切れても、わざわざ次の話題を探さない。
腹が減れば、どちらかが立ち上がる。それを合図に、近くの店へ食べに出た。
特別なことは、何もなかった。
何もなかったから、記憶に残らないと思っていた。
けれど、十年以上離れていた時間を越えて最初に戻ってきたのは、旅行や飲み会のような出来事ではなかった。
同じ部屋で、別々のことをしていた時間だった。
勇者は湯呑みを座卓へ置いた。
「お前、昔もよく俺の部屋でレポート書いてたよな」
キーボードを打つ音が止まった。
魔王は画面から目を離さずに答えた。
「お前の部屋の方が大学に近かったからな」
「それだけ?」
「ビールが飲み放題だったな」
「勝手に飲んでいただけだろ」
勇者の冷蔵庫に入っていたビールを、魔王は自分の分のように飲んでいた。
補充しておけと言うと、次に来た時は別の銘柄が入っていた。
勇者がいつも買っていたものより、少しだけ安いやつだった。
「たまには買ってきてた」
「あれ、補充って言わないから。飲んだ本数より少なかっただろ」
魔王は短く答え、またキーボードを打ち始めた。
勇者も、それ以上は話しかけなかった。
再び部屋へ、キーを打つ音が広がる。
その合間に、勇者が茶をすする音が混じる。
黙っていても、さきほどまでと空気は少し変わっていた。
おそらく魔王も、同じ部屋を思い出している。
そう確かめる必要はなかった。
学生の頃は、同じ場所にいることへ理由など要らなかった。
互いの予定を確認することもなく、次に会う日を決めることもなく、暇ならどちらかの部屋へ行けばよかった。
今は違う。
一緒に三日過ごすだけで、片方は半年も前から有休予定を入れ、もう片方は出張申請を作らなければならない。
ここまで来るのに、十年以上かかった。
勇者は畳へ片手をつき、ゆっくりと後ろへ身体を倒した。
天井が見える。
「寝るなよ」
魔王が言った。
「寝てない」
「学生の頃も、そう言ってそのまま寝てたよな」
「覚えてるんじゃん」
返事はなかった。
その代わり、キーボードの音が少しだけ速くなった。
勇者は目を閉じた。
眠るつもりはない。
ただ、あの頃と同じ、軽い眠気に誘われながらキーボードの音を聞くのが心地よかった。
普段なら落ち着かないはずだ。
誰かが働いていれば、自分も何かしなければと思う。
滞りそうな仕事があれば、先に手を出す。
そうやって過ごしてきたから、休むことが下手になった。
けれど今、魔王が書いているのは魔王のレポートだ。
あの頃もお互いのレポートについて口を挟んだことは一度も無かった。
しばらくして、キーを打つ音が止まった。
一度だけ、小さく操作音がする。
それから、PCの閉じる音がした。
勇者は目を開けた。
魔王が両腕を上へ伸ばしている。
「終わった?」
「ああ」
魔王はPCを仕事鞄へ戻した。
その瞬間、部屋から仕事をしている音が消えた。
魔王のために置いた茶は、もう湯気を立てていない。
魔王はそれを一口飲んだ。
「冷めてる」
「そりゃそうだろ」
「淹れ直してくれてもよかっただろ」
「俺はお前の部下じゃない」
「友人として」
「自分で淹れろ」
そう言いながら、勇者は急須へ手を伸ばした。
湯はまだ少し残っていた。
新しく淹れた茶を魔王の湯呑みへ注ぐ。
魔王は礼を言わず、今度は温かいうちに口をつけた。
それも、昔と変わらなかった。
勇者は座卓の脇に用意された浴衣を広げた。
「温泉へ行こうぜ」
二人はそれぞれ浴衣を手に取り、着替え始めた。
帯の結び方は、分かっているようで自信がない。
勇者は一度結び、ほどき、もう一度やり直した。
向かいでは魔王が、最初から迷いなく帯を締めている。
「慣れてない?」
勇者が聞いた。
「出張で旅館を使うことはある」
「温泉旅館?」
「宿泊施設だ」
「今の間は何?」
「何もない」
やはり、何度か使っているらしい。
勇者は三度目でどうにか形にした。
互いに帯を直してやるほど世話は焼かない。
魔王は勇者の結び目を一度見たが、何も言わなかった。
「何だよ」
「途中でほどけても、他人のふりをする」
勇者は帯を確かめ、今度こそ大丈夫だと判断した。
二人は手拭いを持った。
部屋を出る前に、魔王が仕事鞄を見る。
ほんの一瞬だった。
「じゃ、行くか」
「ああ」
魔王が襖を開ける。
廊下へ出ると、温泉の方からかすかに湯の匂いがした。
「温泉の実地確認にな」
「まだ出張って言い張るのかよ」
「今日中は出張だ」
「じゃあ明日からは?」
魔王は少し考えた。
「現地滞在」
「休みって言えよ」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
大学時代の勇者の部屋から、近所の銭湯へでも出かけるような気軽さで。
十年以上越しの旅行、その最初の温泉へ向かった。




