第六話 勇者と魔王 温泉街を食べ歩く
勇者はスマートフォンで地図を開きかけ、やめた。
温泉街へ向かう人の流れがある。その後ろを歩いていけば、たぶん着く。
今日は、それくらいでよかった。
道を下るにつれて、土産物店や飲食店が増えていく。軒先に並んだ菓子の箱。湯気の立つ蒸籠。店先から聞こえる呼び込みの声。
旅館の浴衣で歩く者もいれば、大きな鞄を引いたまま立ち止まって写真を撮る者もいる。
魔王はさきほどまで抱えていたPCを、仕事鞄へしまったままだった。
勇者も、それについて何も言わなかった。
最初に足を止めたのは、温泉まんじゅうと大きく書かれた看板の前だった。
店先から、油と甘い生地の匂いが漂っている。
「揚げまんじゅうだって」
勇者が言った。
「見れば分かる」
「食う?」
「聞く必要あるか?」
二人は一つずつ買う。
渡された揚げまんじゅうは、紙越しにも熱かった。表面の衣は薄く色づき、揚げたばかりの香ばしい匂いがする。
勇者はすぐにかじろうとして、熱さに口を離した。
「熱っ」
「見れば分かる」
「それ、さっきも聞いた」
魔王はそう言いながら、端から慎重にかじった。
衣が小さく音を立てる。
その直後、魔王も黙って口を離した。
「熱いだろ」
「想定の範囲内だ」
「強がるなよ」
「お前ほど慌てていない」
学生の頃から、こういうところは変わっていない。
同じ失敗をしても、魔王は認めるまでに少し時間がかかる。
二人は一口だけでいったん諦め、残りを紙袋へ戻した。冷めるまで、もう少し温泉街を歩くことにした。
次に立ち寄ったのは温泉たまごやつけもの等、たくさんの看板を掲げている店であった。
二人は温泉たまごと味噌こんにゃくに目をつける。
「まだ食うのか」
魔王が聞いた。
「お前も買ってるじゃん」
魔王の手にも、勇者と同じものがある。
「揚げまんじゅうは甘い」
「だから?」
「温泉たまごとこんにゃくは甘くない」
「理由になってるようで、なってないぞ」
魔王は手元の温泉たまごを見た。
「……食べたいからだ」
「よろしい」
勇者が満足してうなずくと、魔王はわずかに眉を寄せた。
いつもなら、何かをするには理由がいる。
誰かを納得させる理由。予定を変える理由。そして、自分自身へ言い聞かせる理由。
だが、今は温泉たまごを一つ買う理由など、誰にも説明しなくてよい。
二人は食べ物の入った袋を提げ、湯畑へ向かった。
通りの先が開けると、白い湯煙が視界へ流れ込んできた。
幾筋もの湯樋を、緑がかった湯が音を立てて流れている。立ち上る湯煙は風に押され、薄くなったかと思えば、また景色の一部を白く覆った。
硫黄の匂いが、先ほどよりも濃い。
湯畑の周囲には観光客が集まり、思い思いの場所で足を止めていた。写真を撮る者。湯煙を背景に並ぶ者。欄干から流れる湯をのぞき込む子ども。
勇者と魔王も、湯畑を眺められる場所を見つけて腰を下ろした。
二人の間に、買ってきたものを並べる。
揚げまんじゅう。
温泉たまご。
味噌こんにゃく。
昼食と呼ぶにはまとまりがない。
「どれから食う?」
勇者が聞いた。
「たまご」
「じゃあ俺も」
蓋を開ける。
柔らかな白身へ箸を入れると、中から濃い色の黄身がゆっくりと広がった。
勇者は一口食べた。
魔王も食べた。
どちらも、感想は言わなかった。
おいしくないわけではない。
むしろ、うまかった。
ただ、それをわざわざ言葉にしなくても、隣で同じものを食べている相手には分かる気がした。
温泉たまごを食べ終えると、味噌こんにゃくへ手を伸ばす。
甘辛い味噌が、温かいこんにゃくに絡んでいる。途中で残しておいた揚げまんじゅうは少し冷め、さきほどより食べやすくなっていた。
湯の流れる音がする。
観光客の話し声がする。
どこかで、写真を撮る合図の声が上がった。
子どもが笑い、その声が湯煙の向こうへ遠ざかっていく。
二人の間には、会話がなかった。
それでも、気まずくはなかった。
何か話さなければと思うこともない。
十年以上ぶりに会ったのだから、無理に話そうと思えばいくらでも会話は出てくる。
これまでどこに住んでいたのか。
どんな生活をしてきたのか。
誰と出会い、何を失い、どうして今の立場まで来たのか。
空白になっている十年以上を埋めるには、一つずつ尋ねていくしかない。
だが、二人は何も聞かなかった。
勇者は湯煙を眺めていた。
魔王も同じ方を見ていた。
学生時代にも、こういう時間があった。
どちらかの部屋に集まっても、何かをしていたわけではない。
勇者が床に寝転び、魔王が勝手に冷蔵庫を開ける。
つけたままのテレビから、どうでもいい番組の音が流れている。
片方が本を読み、もう片方がスマートフォンを触る。
約束も目的もないまま夕方になり、腹が減ったら何かを食べに出る。
当時は、それを特別な時間だと思ったことはなかった。
何もしない時間など、いくらでもあると思っていた。
今は違う。
何もしていないと、時間を無駄にしている気がする。
立ち止まっていても、次にするべきことを探してしまう。
二人とも、いつの間にか、何もしないための時間にまで理由を求めるようになっていた。
有休だから。
出張だから。
十年前の約束だから。
そんな理由をいくつも用意して、ようやくここに座っている。
それなのに、二人を満たしているのは湯畑を眺めることだけだった。
勇者は鞄へ入れたスマートフォンを思い出した。
取り出さなかった。
隣で、魔王も仕事鞄へ手を伸ばさなかった。
時間だけが、湯と一緒に流れていく。
何も起こらない。
誰にも呼ばれない。
何も求められない。
そのことを、二人は黙ったまま受け入れていた。
やがて、魔王が味噌こんにゃくの最後の一つを食べた。
勇者も残っていた揚げまんじゅうを口へ入れる。
「行くか」
「ああ」
交わした言葉は、それだけだった。
立ち上がり、食べ終えた容器を片づけ、また温泉街を歩き始める。
何を見に行くかは決めていなかった。
宿の場所は分かっている。
あとは、気になるものがあれば足を止めればいい。
曲がり角へ差しかかったところで、魔王の足が止まった。
勇者は二歩進んでから気づき、振り返った。
「どうした?」
魔王は答えなかった。
その代わり、わずかに顔を上げ、漂ってくる匂いの方を見た。
炭火と、焼けたたれの香り。
勇者も同じ方向を見る。
人の並んでいる店があった。
「やきとりか」
勇者が看板を読んだ。
店の前から列が伸びている。
魔王は黙って、その最後尾へ向かった。
「まだ食うの?」
「お前も来てるだろ」
「並ぶとは言ってない」
「じゃあ、宿へ先に行くか?」
勇者は店から漂う匂いを吸い込んだ。
「並ぶ」
二人は列の最後尾についた。
焼き鳥が焼けるたび、煙と匂いが店先から流れてくる。列はすぐには進まなかったが、急ぐ理由もなかった。
前に並ぶ観光客が楽しそうにメニューを見ている。
勇者も掲げられた品書きへ目を向けた。
「焼き鳥って、大学の近くでもよく食ったよな」
「俺の部屋の裏に店あったよな」
「あそこ。安かったから」
「味より値段で選んでいた」
「学生なんて、そんなもんだろ」
一本の値段を見て、二人で持っている小銭を数えた。
講義が終わったあと、どちらともなく店へ向かい、金がないのに酒だけは頼んだ。
腹が減っているから、焼き上がった串はすぐになくなる。
「お前、人が頼んだ皮を勝手に食ったよな」
勇者が言った。
「注文したのは俺だ」
「金を出したのは俺」
「半分だけだろ」
「半分出したら、半分は俺のだろ」
「一本を半分にはできない」
「だからって全部食うなよ」
十年以上前のことなのに、言い合いの内容まで妙にはっきり覚えている。
魔王は前を向いたまま、少しだけ口元を緩めた。
「最後に一本だけ残ったこともあったな」
「あった」
「お前が食べようとした」
「お前も同時に取っただろ」
互いに金がなく、追加注文はできなかった。
皿に残った最後の一本へ、二人が同時に手を伸ばした。
譲る理由もなく、かといって本気で奪い合うほどのものでもない。
結局、串から肉を外して、半分ずつ食べた。
「何の串だったっけ」
勇者が聞いた。
「覚えてない」
「そこは覚えてないのかよ」
「覚える必要がない」
「皮だった気がする」
「ねぎまだ」
「どっちでもいいだろ」
「聞いたのはお前だ」
列が少し進んだ。
二人も前へ詰める。
今は高級な店へ行くこともある。
値段を確かめずに注文できるようにもなった。
それでも、二人で一本の串を分けた夜の方をよく覚えている。
うまかったからではない。
特別な日だったからでもない。
あの頃は、そんな何でもない夜が、いつまでも続くと思っていたからだ。
「まだあるかな、あの店」
勇者が言った。
「どうだろうな」
「今度、見に行ってみる?」
魔王はすぐには答えなかった。
店先で焼き鳥が返され、たれの焦げる匂いが強くなる。
「今度って、いつだ」
「社会人になって、しばらくしたら」
勇者が言うと、魔王がこちらを見た。
二人の間に、少しだけ間ができた。
それから魔王は、呆れたように息を吐いた。
「その約束で、ここまで来るのに十年以上かかったぞ」
「じゃあ、今度はもう少し早めに」
「日程を決めてから言え」
「急に現実的だな」
「お前に任せると、また十年後になる」
「それは困る」
「俺も困る」
列が進み、二人の番が来た。
焼きたての串を受け取り、店から少し離れた場所で食べる。
たれは香ばしく、肉は熱かった。
今度は、どちらも熱いとは言わなかった。
一本ずつ買えるくらいの金は、もう持っている。
それでも勇者は、自分の串を見ながら言った。
「半分いる?」
「いらない」
「即答かよ」
「自分のがある」
「昔は分けたじゃん」
「金がなかったからだ」
魔王はそう言って自分の串を食べた。
勇者も笑いながら残りを口へ入れた。
焼き鳥を食べ終えると、二人は近くの土産物店へ入った。
何かを買うつもりはなかった。
入口近くに積まれた菓子を眺め、棚に並んだ小物を手に取っては戻す。
温泉地らしい穏やかな名前の商品に交じって、やけに物騒な名前の激辛菓子が置かれていた。
魔王が箱を持ち上げる。
炎に包まれた怪物の絵が描かれ、食べた者を地獄へ連れていくと書かれている。
「どう思う?」
魔王が聞いた。
「魔王向けじゃない?」
「魔王でも食わない」
「説得力あるな」
魔王は箱を棚へ戻した。
勇者は隣にあった、湯上がりの勇者を名乗る菓子を見つけた。
立派な剣を掲げた人物が、なぜか腰へタオルを巻いている。
「これは?」
勇者が箱を見せる。
「勇者向けだな」
「勇者でも買わない」
「説得力あるな」
二人は同時に笑った。
結局、何も買わずに店を出た。
誰かに渡す品を選ぶでもなく、値段を比べるでもなく、ただ棚を眺めて、くだらない商品名に笑っただけだった。
それで十分だった。
外へ出ると、湯煙の向こうから傾き始めた日の光が差していた。
温泉街を歩く人の流れも、先ほどより少し緩やかになっている。
「そろそろ宿、行くか」
勇者が言った。
「ああ」
二人はようやく宿へ向かう道を歩き始めた。
手元には、確認すべき資料も、次の予定もない。
食べ歩きの空になった袋だけが残っている。
話題が途切れても、どちらも次の話を探さなかった。
勇者でも魔王でもなかった頃と同じように、二人は並んで歩いた。




