第五話 勇者と魔王 バスで草津温泉へ
勇者と魔王は、バスの後方の席に並んで座った。
勇者が譲ると、魔王は当然のように窓際へ座り、すぐにPCを取り出した。
「現地調査するんだろ」
バスが駅前を離れる。
駅近くの建物の並ぶ地域を抜けると、バスは山あいの細い道を進んでいく。道路は川に沿い、次第に勾配を増していく。
魔王はしばらく外を眺め、時折、PCへ何かを入力していた。
勇者は隣から画面をのぞいた。
「何書いてる?」
「主要道路の状態と、車両で移動した場合の所要時間」
どんな状況でも仕事へ変えるつもりらしい。
「そういうの、現地の担当に聞けば分かるだろ」
「資料の数字と、自分で見るのは違う」
魔王は画面から目を離さずに答えた。
「報告では問題なしとなっていても、実際に来ると輸送車両が通りにくい道路だったりする。逆に、改善要求が何年も上がっている区間が、現場ではそれほど問題視されていないこともある」
「それは分かる」
「お前は有休中だろ」
「一般論としてだ。仕事の話はしてない」
「今のは仕事の話だ」
「振ったのはお前だろ」
草津温泉へ着くまで、仕事の話はしない。
駅でそう宣言してから、まだ数分も経っていなかった。
二人はしばらく黙って外を見た。
沈黙は気まずくなかった。
学生時代も、いつも話し続けていたわけではない。同じ部屋にいて、片方が本を読み、もう片方が課題をやっていることも多かった。
違うのは、勇者の膝に仕事はなく、魔王の膝にはあることくらいだ。
バスが大きく曲がる。
窓の外を流れる山間の木々はところどころ色づき始めていた。川面が光を返し、道路沿いの集落が後ろへ流れていく。
勇者は座席へ深く背を預けた。
ここ数年、移動時間は次の予定を確認し、部下からの報告メールに目を通すための時間だった。
報告を読む。担当者へフィードバックする。到着後の会議を頭の中で組み立てる。何もすることがなければ、何か忘れていないかを考える。
ただ窓の外を見るために乗り物へ乗るのは、いつ以来だろう。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
反射的に手を入れ、画面を見る。
通知は、利用している宿泊予約サービスからだった。
現地までお気をつけてお越しください。
それだけだった。
勇者は安堵し、それから、安堵した自分に少し呆れた。
「仕事か?」
魔王が聞いた。
「違う、今日の宿泊の最終確認だった」
「残念そうだな」
「安心してる」
「そうは見えなかった」
勇者は画面を伏せた。
「何も来ないと、それはそれで不安になるんだよ」
「休んでも回るんだろ」
「回るように引き継いできた」
「なら問題ない」
「お前は気にならないの?」
魔王は膝の仕事鞄を見た。
「気になるから、持ってきた」
「それでよく俺に説教できたな」
「俺は出張だ」
やはり便利な言葉だった。
勇者は笑いながら、スマートフォンを鞄へしまった。すぐ取り出せる上着のポケットではなく、着替えの下へ押し込む。
完全休暇には、意志だけでなく物理的な距離も必要だった。
「最近、どうなんだ」
勇者が聞いた。
魔王は外を見たまま答えた。
「仕事の範囲が広がった」
「順調じゃん」
「担当地域も増えた」
「順調じゃないな」
「分かるのが早いな」
「同じだからな」
勇者側は、担当範囲が広がれば、その分だけ新しい人員と拠点が必要になる。
魔王側は少し違う。
各地の魔族勢力が魔王軍の傘下へ入れば、見かけ上の規模はすぐに大きくなる。だが、昔からその土地にいる者たちが、昨日届いた本社の方針へ素直に従うとは限らない。
同じ旗を掲げたからといって、同じ組織として動くわけではないのだ。
「最近、人が足りないんだよ」
勇者が言った。
「うちも」
「そっち、魔物はいっぱいいるだろ」
「使える奴が足りないんだよ」
「ああ……」
魔王が勇者を見る。
「分かるだろ」
「分かる」
人数だけならいる。
名簿の上では、必要数を満たしていることもある。
だが、新しい担当をそのまま任せられる者、問題が起きた時に自分で判断できる者、周囲と調整しながら最後まで仕事を進められる者となると、急に数が減る。
「上は人数しか見ないからな」
魔王が言った。
「そう。十人いるなら十人分できると思ってる」
勇者が続ける。
「実際は、二人が主力。三人は一人で任せられる。四人は指示したことなら動ける」
「残り一人は?」
「今、育成方針を考えてる」
「数には入ってないじゃないか」
「辞められたら困るから、人数には入ってる」
「面倒だな」
魔王は窓の外を見ながら相槌をうつ。
「お前のところは?」
「地方ごとに事情が違いすぎる。経験者を集めても、全員が別のやり方で動く」
「統一すればいいじゃん」
「それを言うのは本社だけだ」
声は穏やかだったが、返事が妙に早かった。
何度も同じことを言われているのだろう。
「共通の手順を送れば、『この地域では昔からこうしている』と返ってくる。研修を開けば責任者だけ来て、戻ったあと部下へ伝えない。報告書の様式を揃えれば、独自の項目を足して別の書類にする」
「魔族って、自由だな」
「組織としては全くよくない」
魔王はため息をついた。
その横顔を見ながら、勇者は少し安心していた。
魔族側組織で異例の昇進を続けた男なのだから、自分とは違うやり方で、もっと器用に仕事を片づけているのだと思っていた。
実際には、抱えている問題の名前が違うだけだった。
「でも、任せるしかないだろ」
勇者が言うと、魔王はうなずいた。
「自分で全部回れる範囲じゃないからな」
「分かってるんだけどさ」
「任せると心配か」
「心配」
「任せないと育たない」
「それも分かってる」
「失敗すると、お前が上へ説明する」
「それなんだよ」
二人の声が重なり、前の座席にいた乗客がわずかに振り返った。
勇者と魔王は、そろって声を落とした。
「結局、自分でやった方が早いんだよな」
勇者が言った。
「短期的にはな」
「でも、それを続けると次も自分でやることになる」
「分かってる」
「分かってるけど、締切がある」
「分かる」
今度は魔王の返事が早かった。
窓の外では、山道がさらに高い場所へ続いていた。
遠くから見れば、バスは順調に坂を上っている。
だが車内では、曲がるたびに身体が左右へ揺れ、前を走る車があれば速度も落ちる。
組織を動かすことも、似たようなものかもしれない。
目的地と予定だけを見ている上層部には、現場が曲がりくねっていることまでは伝わらない。
勇者はそこまで考えて、首を振った。
休暇初日から、何を真面目に考えているのだろう。
「やめよう」
「何を」
「仕事の話」
魔王がPCを持ったまま言った。
「始めたのはお前だぞ」
「近況を聞いただけだよ。まさか人員構成の話になると思わないじゃん」
勇者は黙った。
「今の、機密?」
「担当地区も職種も言ってないから、たぶん大丈夫」
「たぶんで情報管理するな」
「元同級生に管理職として注意されると腹立つな」
勇者は魔王の手元を見た。
「今の話、記録してないよな」
「人類側組織における人材構成上の課題」
「消せ」
「冗談だ」
魔王の画面には、道路の状況と時刻しか表示されていなかった。
学生時代には、もっと分かりやすく笑う男だった。
今は表情を変えずに冗談を言う。
そこだけは少し変わったらしい。
バスの前方で、次の停留所を知らせる案内が流れた。
車内の空気がわずかに動く。眠っていた人が目を開け、観光客たちが荷物を確かめ始めた。
窓の外に建物が増えていく。
道沿いには旅館や土産物店の看板が現れ、その向こうには、山の斜面に沿うように温泉街が広がっていた。
魔王はPCを閉じた。
バスが草津温泉の停留所へ入る。
扉が開く前から、乗客たちは立ち上がり始めた。二人も荷物を持ち、列の最後へ加わる。
外へ出ると、冷えた山の空気の中に、温泉地特有の匂いが混じっていた。
勇者は大きく息を吸った。
「草津だな」
「草津だ」
十年以上前、学生だった二人が何気なく決めた場所。
何度も先送りにし、互いに勇者と魔王になるまで果たせなかった約束の場所へ、ようやく着いた。
魔王が仕事鞄からPCを出す。
「現地到着時刻を――」
「それ、宿に着いてからにしない?」
勇者が言うと、魔王は一度だけ温泉街を見渡した。
それからPCを鞄へ戻す。
「先に、何か食うか」
「賛成」
二人は宿へ向かう道ではなく、湯けむりの上がる温泉街の方へ歩き始めた。
十年以上越しの温泉旅行が、ようやく始まった。




