第四話 勇者と魔王 合流
草津へ向かう朝、勇者は予定どおり職場へ行かなかった。
目覚ましを止め、いつもの時間に起き、いつもの時間に朝食を済ませたところまでは普段と同じだった。
違うのは、いつもの作業着へ着替えず、仕事用の鞄を持たずに家を出たことだ。
それだけのことで、何か重大な規則に違反しているような落ち着かなさがあった。
駅へ向かう途中で、スマートフォンを三度見た。
ここ数年、勇者の一日は、いつも誰かからの連絡で始まっていた。
魔法使いから連絡はない。
戦士からもない。
僧侶からもない。
通知が来ていないことに安心しながら、何も来ないのはそれはそれで不安になる。
一度だけ、自分から連絡しようかと思った。
『問題ない?』
そこまで入力して、消した。
魔法使いの顔が浮かんだのだ。
――あなたからの問い合わせも禁止です。
勇者はスマートフォンをポケットの奥へ押し込み、そのまま列車に乗った。
長野原草津口駅へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
列車を降りると、ホームには少し冷たい空気が流れ込んでいた。
普段のオフィスや移動車両とは違う空気に触れると、本当に遠くまで来たのだという実感があった。
改札へ向かう人の流れに乗りながら、勇者は前を歩く乗客の荷物を何となく眺めた。
大きな旅行鞄。笑顔で子どもの手を引く家族。連れ立って歩く年配の夫婦。
誰も報告書を持っていない。
少なくとも、見える範囲では。
改札を出た先で、勇者は足を止めた。
壁際に、一人の男が立っていた。
暗い色のコートに、片手で引く小型のキャリーケース。もう片方の手には、薄い仕事鞄を提げている。
十年以上、直接顔を合わせていない。
それでも見間違えなかった。
本人から送られてきた近況写真など、一枚もない。だが、組織の発表資料や報道に載る顔なら何度も見ている。
魔族側組織の最前線に立ち、勇者軍の行く先を阻み続けてきた男。
そして大学時代、勝手に勇者の部屋へ来て、勝手に冷蔵庫を開けビールを飲んでいた友人だった。
魔王もこちらに気づいた。
目が合ったまま、互いに数歩近づく。
十年以上ぶりなのだから、もう少し何かあると思っていた。
握手をするのか。肩を叩くのか。それとも、今の立場を考えて人目の少ない場所へ移るのか。
実際に出た言葉は、それよりずっと短かった。
「おう」
「久しぶり」
魔王が勇者の顔を見た。
勇者も魔王の顔を見た。
学生の頃より髪は短くなっている。頬も少し痩せた。目元には、昔はなかった疲れが残っていた。
おそらく、向こうも同じことを考えている。
「お前、老けたな」
勇者が言った。
「お前が言うか」
「なんか、疲れてんな」
再会は、それで終わった。
十年以上という時間が、挨拶二つで雑に片づけられた。
だが、不思議と物足りなくはなかった。
勇者は魔王の足元へ視線を落とした。
「何、その仕事っぽい鞄?」
「出張だからな」
魔王が持ち上げた仕事鞄は、薄いわりに重そうだった。
「温泉に何持ってきたんだよ」
「PCと資料と、現場確認用の記録具」
「マジで仕事する気かよ」
「仕事だと言ってるだろ」
その返答があまりに迷いなく出たため、勇者は笑った。
LINEで十年以上ぶりに話した時より、ずっと自然だった。
声を聞いて、顔を見れば、相手が魔王になったことなど大した問題ではないらしい。
駅の案内表示に従い、二人はバス乗り場へ向かった。
観光客の列がすでにできている。勇者が最後尾へ並ぶと、魔王は駅舎の外と時刻表へ交互に視線を向け、仕事鞄から端末を取り出した。
「何してるの?」
「交通状況の確認」
「今?」
「現場確認はもう始まっている」
魔王は駅前の道路を一枚撮影し、時刻表も記録した。
「それ、出張報告に使う気?」
「公共交通による現地への接続状況」
「お前、インスタに誰も興味ない写真ばっかり上げるタイプだろ」
「……うるさい。これは報告書用だ」
魔王はそう言い返すと、撮った写真へ時刻と場所を入力した。
その手つきだけは、どう見ても本当の業務だった。
少なくとも、申請書を通した実績はある。
勇者が感心していると、魔王がこちらの荷物を見た。
勇者が持っているのは、着替えの入った小さな鞄一つだけだった。
「お前はそれだけか」
「有休だからな」
今度は勇者が言う番だった。
魔王が少し嫌そうな顔をした。
バスが乗り場へ入ってくる。
列がゆっくりと動き始めた。
勇者と魔王も、観光客に交じって乗車口へ進む。
北と南で別々の組織を預かる二人が、どちらが先でもなく同じ列に並び、順番に運賃を確認している。
大学時代には、こんな未来を想像したこともなかった。
そもそも当時は、自分たちが勇者と魔王になることすら知らなかった。
「俺は今から、仕事の話を振られても知らんぞ」
乗車口の手前で、勇者は念を押した。
魔王は仕事鞄を抱え直した。
「有休を取った奴は気楽でいいな」
「出張にした奴が言う?」
「俺は移動中も業務時間だ」
「じゃあ、バスでは静かに仕事してて」
「十年以上ぶりに会った友人へ冷たくないか」
「再会して最初に疲れてるって言ってきた友人には言われたくない」
「先に言ったのはお前だ」
「そうだっけ」
「まだ五分も経ってないぞ」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
直接会わなかった十年以上は、なくなったわけではない。
互いに知らない時間の方が、今ではずっと長い。
それでも話し始めてしまえば、間にあった年月を一つずつ確認する必要はなかった。
まずは、隣に座って草津まで行けばいい。
それは学生の頃に交わした約束と、何も変わらなかった。




