第十四話 勇者と魔王 答えの出ない話をする
売店の冷蔵庫を前に、勇者は缶ビールを一本取った。
隣では魔王が、酒より先に水を選んでいた。
「もう水なの?」
「お前も買え」
「飲み直すんだろ」
「水も飲むんだ」
魔王は水と缶ビールを一本ずつ持った。
勇者も同じ組み合わせにする。
さっきまで、杯が空くたびに次の酒を飲んでいた。もう一杯くらい平気だと思っていたが、店の明かりの下では、棚の文字を読むのに少し時間がかかった。
部屋へ戻ると、二組の布団が敷かれていた。
白い掛け布団を見た途端、脚の疲れを思い出す。
そのまま横になりたい気もしたが、勇者は座卓の前へ座った。魔王も向かいへ腰を下ろし、買ってきたものを並べる。
勇者は缶を開けた。
乾いた音が、部屋にはっきり響いた。
「まー君って、呼ばれるたびに返事してたよな」
魔王は缶へかけた指を止めた。
「呼ばれれば返事くらいする」
「最初は文句言ってたのに」
「ユウちゃんよりはましだ」
「どっちも同じくらいだろ」
勇者が笑うと、魔王も缶を開けた。
今度は乾杯をしなかった。
それぞれ一口飲み、座卓へ置く。
食事処では、誰かが話し終える前に次の話が始まっていた。魔王が訂正しようとしている間に、ナナが先へ進めてしまう。それを見てミサキが笑い、勇者まで何を訂正するつもりだったのか忘れた。
今は、冷蔵庫の低い音が聞こえている。
勇者は座椅子へ背中を預けた。
「よく笑ったな」
「お前、人の話で笑いすぎだ」
「お前も笑ってただろ」
魔王は否定せず、水の蓋を開けた。
勇者も水を飲む。
冷たさが喉を通ると、もう少し欲しくなった。続けて飲んでから、蓋を閉めずに手元へ置く。
「酒、強かったな。あの二人」
「お前も止めなかっただろ」
「注がれたからな」
「断れたろ」
「お前もな」
言い返す言葉はなかった。
勇者は先ほど魔王に言われたとおり、水も開けた。
半分ほど続けて飲む。
「でも、すごいよな。あの二人」
「何がだ」
「店を何軒もやって、自分のブランドも持ってて。俺たちと、そんなに年も変わらないだろ」
魔王は少し考え、うなずいた。
「自分で決めることも多いだろうな」
「カートも夕飯も早かった」
「こっちが遅かっただけだ」
「お前も含まれてるぞ」
「分かっている」
勇者は笑い、缶へ手を伸ばした。
口をつける直前に、ナナが品書きを閉じる姿を思い出す。
どちらの酒を頼むかではなく、両方頼めばいい。
客も、人間か魔族かで分ければ減る。
店を何軒も続ける苦労まで簡単なはずはないのに、話している時のナナには、そこで迷う様子がなかった。
「人間と魔族ってこと、全然気にしてなかったな」
勇者が言うと、魔王は水を置いた。
「商売相手として分ける理由がないんだろう」
「服も化粧品も?」
「サイズや肌質は見ると言っていただろ」
「ああ」
「その商品が合うかどうかと、どっち側かは別なんじゃないか」
勇者は缶を持ったまま、少し考えた。
ナナの店へミサキの商品を置く。よく売れたから、扱い続ける。
二人が説明したのは、それだけだった。
「大学も、そうだったよな」
「ああ」
講義室で隣に座る相手を、人間か魔族かで選んだことはなかった。
一緒に飯を食う相手も、飲みに行く相手も、たいていはその時そこにいた者だった。
魔王が勇者の部屋へ来るのも、大学から近いとか、冷蔵庫に酒があるとか、その程度の理由だった。
勇者は向かいを見る。
魔王は缶の水滴を指で拭い、座卓の濡れたところを避けて置き直していた。
今も、同じ部屋にいる。
「俺たちだって、別に気にしてなかっただろ」
「気にしていたら、この部屋を予約しないだろ」
「確かに」
短く笑ってから、勇者は缶へ口をつけた。
それで済む話のはずだった。
仕事は仕事で、友情は別。
ミサキに言われた時も、そのとおりだと思った。
だが、職場へ戻れば、魔族側の勢力圏が広がったと聞いて喜ぶことはない。こちらの拠点を増やすために、どう動くかを考える。
向かいにいる男も、反対側で同じことをする。
勇者は脚を組み直そうとして、太腿の張りに顔をしかめた。
「痛いのか」
「少しな」
「無理に曲げるな」
勇者は片脚を伸ばした。
魔王の方も、いつの間にか脚を崩している。
二人とも今日は、仕事ではなく遊んで身体を痛くしていた。
「何だろうな」
勇者は伸ばした脚を見ながら言った。
「何がだ」
「いや。うまく言えないけど」
魔王は待っていた。
先を促されないので、勇者も急がずに水を飲んだ。
廊下から足音が聞こえ、二人の部屋の前を通り過ぎていく。
静かになってから、勇者は顔を上げた。
「俺たち、若手に言ってるよな。言われたことだけやるな、自分で考えろって」
「言っているな」
「でも俺たちも、上が決めた方針に従って働いてきただけなのかもな」
魔王は缶を持ち上げかけ、そのまま置いた。
すぐには返事がなかった。
勇者も、その先をうまく続けられなかった。
思いつきで言ったつもりはない。
ただ、口にしてみると、自分が今までしてきた仕事まで、ずいぶん雑にまとめてしまった気がした。
魔王が座り直した。
「組織に所属している以上、方針に従うのは当然だ」
「そうなんだけどな」
「勝手に違う方向へ進めるわけにもいかないだろ」
「それは困る」
そこには、勇者も迷わずうなずけた。
自分の判断一つで、ほかの部隊の予定まで変わることがある。従うべき方針がなくなれば、現場は今より楽になるどころか、何を優先するかさえ揃わなくなる。
魔王が缶を手に取った。
「それに、お前は何も考えずに仕事をしてきたのか」
「そんなわけないだろ」
「だろうな」
「むしろ、ずっと考えてるよ」
勇者の声が少し大きくなった。
魔王は缶へ口をつける前に、こちらを見た。
勇者は苦笑し、声を戻した。
誰をどこへ出すか。
何を先に終わらせるか。
この条件では無理だと、どこまで上へ言うか。
考えずに済む日などなかった。判断を間違えて眠れなかった夜も、引き受けた仕事がようやく終わり、部下と笑えた日もある。
それまで、なかったことにするつもりはなかった。
「どうやるかは、考えてるんだよな」
勇者は言った。
「それが仕事だろう」
「うん。でも、何のためにそこまでやってるんだろうって、たまに思わない?」
魔王は缶の中を見た。
飲まずに置く。
「思わないわけではない」
いつもの返事より、少し小さかった。
勇者は、その先を聞かなかった。
自分にも、はっきり説明できるほどのものはない。
部下を困らせたくない。
任された仕事は終わらせたい。
成果が出ればうれしいし、上から認められて悪い気もしない。
人々の暮らしを守るためだと説明したこともある。その言葉を嘘だと思って言ったわけではない。
それでも、机へ戻って時計を見た時、また今日もこの時間かと思う。
何のためだったかを考えるより先に、明日までの資料を開く。
「昔はさ、もっと落ち着いたらって思ってたんだよ」
勇者は残りのビールを飲んだ。
「仕事を覚えたら、そのうち余裕もできるだろうって」
「それで十年以上か」
「そう」
空の缶を置く。
魔王も自分の缶を軽く振り、残っていた一口を飲んだ。
「休む日を決めたのは、お前だろ」
「決めたあと、何回もずらしたけどな」
「ああ」
「ずらせって、毎回誰かに言われたわけでもないんだよ」
魔王の手が止まった。
勇者は座卓の端についた水滴を指でなぞった。
この時期は忙しい。
今は自分がいないと困る。
来月なら、もう少し仕事が片づいている。
そう判断したのは、確かに自分だった。
「休まない方を、自分で選んでたってことになるのかな」
魔王はしばらく黙っていた。
「その時は、それが必要だと思ったんだろう」
「思ったよ」
「俺もだ」
勇者は指を止めた。
否定したいわけでも、そうだと認めて終わりにしたいわけでもなかった。
毎日遅くまで残ることも、休みを後ろへずらすことも、自分で決めてきた。
では、それをしたくてしていたのか。
そこだけ、同じようにはうなずけない。
魔王が水を飲んだ。
勇者も残っていた水を飲み、空の容器へ蓋をした。
しばらく、どちらも話さなかった。
座卓の上には、空になった缶が二本ある。
もう一本買ってくれば続きを話せそうな気もしたが、立ち上がるほどではなかった。
勇者は口を開き、何か言う前にあくびをした。
魔王がこちらを見る。
「眠いなら寝ろ」
「話してたじゃん」
「今はあくびをしていた」
「そうだけど」
勇者は笑い、座椅子から背中を離した。
「寝るか」
「そうだな」
二人は空の缶と容器をまとめ、座卓を拭いた。
立ち上がると、思っていたより脚が重い。
魔王も立ったあと、すぐには歩き出さなかった。
勇者はそれを見て、何も言わずに先に布団へ向かった。
歯を磨き、明かりを落とす。
布団に入ると、背中がゆっくり沈んだ。
隣で掛け布団を引き上げる音がする。
「明日、朝飯に起こしてくれよ」
勇者が言った。
「自分で起きろ」
返事は、いつもの速さだった。
勇者は笑って目を閉じた。
組織にいる以上、方針に従う。
その中で考え、判断する。
それは当然だと思う。今も、間違っているとは思えない。
それでも、自分で考えてきたのだと言えば、さっきの話は全部片づくのだろうか。
目を開けても、暗い天井があるだけだった。
隣からは、もう何も聞こえない。
勇者は掛け布団を肩まで引き上げた。
もう一度言葉を探そうとしたが、途中で眠気に追いつかれた。
問いかける相手はすぐ隣にいた。
今夜は、呼ばなかった。




