第十二話 勇者と魔王 夏のスキー場で遊ぶ
バスを降りると、目の前に斜面が大きく広がっていた。
雪のないスキー場は、勇者が思い描いていた場所よりもずっと明るかった。草の広がる斜面の向こうに山が重なり、山の上へ続くゴンドラが見える。
風が吹くと、上着の襟元から少し冷たい空気が入った。
勇者は肩をすくめ、近くの案内板へ向かった。
魔王も隣へ並ぶ。
「いろいろあるな」
「何も調べずに来たからな」
「お前もだろ」
案内板には、山を滑り降りるカートや、空中を滑走するジップラインの写真が並んでいた。
勇者はカートの写真を指した。
「これ、面白そうじゃん」
「朝飯を食ったばかりだろ」
「もうだいぶ前だろ」
魔王は答えず、別の写真へ目を移した。
「先に景色を見るか」
「上まで行って?」
「ああ」
「そのあと、また下りて来てこれに乗るの?」
「そうなるな」
「じゃあ、先にこっちでよくない?」
最初の写真へ戻った。
勇者は案内板の端まで目を通し、もう一度カートを見る。隣でも魔王が、先ほどと同じ説明を読み直していた。
後ろから来た家族連れが案内を見て、あっという間に歩いていく。
その次の二人組もいなくなった。
「お前、どれがいい?」
「お前がやりたいものでいい」
「それ、決まらない時の返事だぞ」
「では景色だ」
「さっきも聞いた」
「まだ決まんないの?」
横から声がした。
勇者が振り向くと、二人の女性が立っていた。
声をかけてきた方は、明るい色の髪を後ろで束ねている。もう一人は、黒い髪の間から小さな角をのぞかせていた。どちらも自分たちとそう変わらない年頃に見える。
「さっきから、同じとこ指してない?」
明るい髪の女性が、勇者の指先を見て笑った。
勇者は案内板から手を離した。
「まあ、今決めてるところで」
「うん。それ、さっきも聞こえた」
隣で魔王が咳払いをした。
「決められないんだったらさ、これ行こうよ。うちらも乗るから」
「四人の方が絶対楽しいって」
明るい髪の女性はもう、受付の方へ身体を向けていた。
勇者は魔王を見た。
魔王も勇者を見た。
「どうする?」
「お前がやりたかったやつだろ」
「お前も、嫌なわけじゃないよな」
「別に嫌とは言っていない」
「じゃ、決まり」
明るい髪の女性の声で、相談が終わった。
勇者はもう一度カートの写真を見た。
さっきから、これが気になっていた。
なら、乗ればよかったのだ。
「行くか」
「ああ」
二人が歩き出すと、黒髪の女性が笑った。
「やっと動いたね」
「そんなに止まってました?」
「うちら、一回前通ったよ」
どれくらい案内板の前にいたのかは、確認しないことにした。
受付を済ませ、係の人の説明を聞く。
勇者はヘルメットをかぶり、顎の下を確かめた。隣では魔王が、借りたものを一つずつ丁寧に整えている。
明るい髪の女性は先に準備を終え、カートを見下ろしていた。
「これ、乗っただけで楽しいやつじゃん」
「まだ動いてないだろ」
魔王が言うと、明るい髪の女性は顔を上げた。
「動く前から楽しめた方がお得じゃない?」
「……それはそうだな」
「納得するんだ」
勇者が笑う。
魔王は何も言わず、カートへ腰を下ろした。
座ると、思っていたより地面が近かった。
勇者も座り、説明された操作を確かめる。低い位置から見上げた斜面は、案内板の写真よりも広く感じられた。
先に出た明るい髪の女性の声が、風に乗って聞こえてくる。
「やば、これ楽しい!」
黒髪の女性が続く。
魔王の番になり、その背中がゆっくり遠ざかった。
勇者も合図に従って滑り出す。
最初は慎重だった。
手に伝わる振動を確かめながら、曲がる手前で速度を落とす。風が頬を撫で、足元の地面が次々に後ろへ流れていった。
二つ目の曲がり角を抜ける頃には、口元が緩んでいた。
前方に魔王がいる。
少し離れたところで、やけにきっちり速度を落としていた。
勇者は笑った。
あいつらしい。
そう思った途端、前との差が気になり始めた。
追いつく必要などない。
競走でもない。
それでも、曲がり角を抜けた先で魔王の背中を探してしまう。
魔王もこちらの位置に気づいたらしく、一度だけ顔を向けた。
その口元が上がっているのが見えた。
勇者も笑い返し、前へ視線を戻した。
結局、順番は変わらなかった。
滑り終えてカートから立ち上がると、魔王はヘルメットを外しながら言った。
「追いつけなかったな」
「お前が先に出たからだろ」
「結果は結果だ」
「それ言うなら、俺たち二人ともあの二人に負けてるぞ」
先に待っていた明るい髪の女性が、両手を上げた。
「じゃ、うちら優勝」
「はい、お疲れー」
黒髪の女性も片手を上げる。
魔王はそちらを見て、何か言いかけた。
勇者が先に笑うと、魔王も諦めたように息を吐いた。
「競走ではない」
「今それ言う?」
勇者はヘルメットを返し、乱れた髪を手で押さえた。
頬が少し熱い。
朝、布団から出たくなかった時の重さは、もう残っていなかった。
「次、あれね」
明るい髪の女性が山の上を指したのはジップラインだった。
さきほど案内板で見た、空中を滑り降りる乗り物だった。
魔王の手が、髪を整えている途中で止まった。
「次も一緒にやるのか?」
「まだ一個目じゃん」
「休憩という選択肢もある」
「ゴンドラで座れるよ」
黒髪の女性が答えると、魔王は山の上を見た。
勇者も見上げる。
ずいぶん高いところから滑るらしい。
「せっかくだし、行ってみる?」
魔王はすぐに返事をしなかった。
それから、上着の裾を直した。
「まあ、行くだけならな」
ゴンドラへ乗り込むと、四人分の声が急に近くなった。
勇者の向かいに二人の女性が座る。隣へ腰を下ろした魔王は、背中をまっすぐにしたまま膝へ手を置いた。
足元がゆっくり離れていく。
勇者は窓へ顔を向けた。
先ほどいた場所が小さくなり、その向こうから温泉街の建物が見え始めた。
「おお」
思わず声が出た。
「さっき、あの辺にいたんだな」
「そうだな」
魔王の返事は短かった。
顔は窓へ向いているが、視線はずっと遠くの山に固定されている。
「下、見てみろよ」
「ちゃんと見えている」
「お前、ずっと遠くしか見てないだろ」
その時、向かいの黒髪の女性が勇者を指した。
「そういえば、二人の名前は?」
勇者は窓から顔を戻した。
まだ名乗っていなかった。
あれだけ一緒に笑っていたのに、言われるまで気づかなかった。
「私はミサキ、こっちはナナ」
黒髪の女性が自分と、もう一人の女性を指さしながら言った。
「俺は……勇者」
普段なら、それで通じる。
口に出してから、ここでは違うと気づいた。
ナナが少しだけ眉を上げた。
「それ名前?」
「今は、そう呼ばれてる」
「じゃあ、ユウちゃんね」
その隣で、ミサキが魔王へ顔を向ける。
「そっちは?」
「魔王だ」
「じゃ、まー君」
魔王の視線が、ようやく山から外れた。
「なぜ俺だけ原形が残っていない」
「ま、残ってるよ」
「一文字だろ」
「ユウちゃんも二文字じゃん」
ナナが横から言い、勇者は吹き出した。
魔王はこちらを見た。
「何だ」
「いや、意外とまー君っぽいなと思って」
「お前はユウちゃんでいいのか?」
「まあ、いいんじゃないか」
口にしてみると、おかしさが増した。
ミサキも笑っている。
誰も所属を尋ねず、それが本当の名前なのか、役職なのかとも聞かなかった。
その間にも、ゴンドラは上っていく。
建物の屋根が重なり、道が細く見えた。
ナナが窓の外を指す。
「ユウちゃん、あれ湯畑の方じゃない?」
「どれ?」
勇者は身を乗り出しかけた。
隣で魔王が、膝に置いた手へ力を入れる。
「急に動くな」
「そんなに動いてないだろ」
「座っていても見える」
勇者は腰を戻した。
魔王の背中は、乗り込んだ時よりもまっすぐだった。
山頂へ着くと、冷たい風が顔を撫でた。
四人は景色の開けたところへ歩いた。
草津の街が、山の間に収まっている。昨日は建物と湯煙の間を歩いていたのに、今はその全体を遠くから眺めていた。
勇者は足を止めた。
「いいな、ここ」
ナナは端末を取り出し、景色へ向けている。
ミサキは隣から画面をのぞき込み、もう少し右、と言った。
魔王だけが、一歩後ろにいた。
「そっちから見える?」
勇者が聞くと、魔王はうなずいた。
「十分だ」
「もう少し前に来ればいいのに」
「遠くを見るのに、数歩近づく必要はない」
理屈としては正しかった。
足元へ目を落とそうとしないことを除けば。
勇者は魔王の顔を見た。
「お前、もしかして」
「行くぞ」
魔王は先に歩き出した。
向かった先には、ジップラインの案内があった。
その前で立ち止まり、今度は注意事項を読み始める。
勇者は追いつき、隣から同じ案内へ目を向けた。
上から下へ伸びる線をたどる。
途中には、足を置く場所がない。
さっきまで地面に座って滑っていたのとは、ずいぶん違う。
勇者の足が止まった。
「……ここからか」
「今さら気づいたのか」
魔王がこちらを見た。
その返事だけは、普段どおり早かった。
後ろからナナたちが来る。
「ユウちゃん、固まってんじゃん」
「高さを見てただけ」
「まー君と同じこと言ってる」
ミサキに言われ、勇者は魔王を見た。
魔王はまた注意事項へ顔を戻していた。
受付を済ませ、係の人の説明を聞く。
装具を着けてもらう間、勇者は何度か先の景色を見た。
風の音が、ここでは少し大きく聞こえた。
説明が終わると、ナナが魔王へ言った。
「じゃ、一番手はまー君ね」
「なぜ俺が先なんだ」
「さっきから説明ばっか読んでるから」
ミサキが答える。
「一番分かってるでしょ」
「安全確認だ」
「怖い人ほど説明めっちゃ読むよね」
ナナの一言に、魔王は即答した。
「違う」
「じゃ、先いけるじゃん」
魔王が黙った。
勇者は口元を押さえた。
笑うと、自分へ順番が回ってくる気がした。
魔王は勇者を見た。
勇者は視線を外した。
「……分かった」
係の人に呼ばれ、魔王が前へ進む。
あれだけ説明を読んでいたのに、準備が始まると急に口数が減った。
係の人の問いかけへ、短く返事をする。
一度うなずく。
また黙る。
ナナが手を振った。
「まー君、下で待っててね」
魔王は振り返らなかった。
勇者から見える横顔は、妙に真剣だった。
やがて、その身体が滑り出した。
一瞬、声がなかった。
魔王が前へ遠ざかる。
その後ろから、低い声が遅れて響いた。
「おおおおおっ!」
ナナが吹き出した。
ミサキは口を開けて笑っている。
勇者もつられた。
魔王の声は風の音に混じり、だんだん小さくなっていった。
「めっちゃ声出た」
ナナが言う。
「まー君、今日一番元気じゃん」
「朝からあいつは元気でしたよ」
勇者が答えると、ミサキが出発地点を指した。
「じゃあ次、ユウちゃんね」
次は勇者だった。
笑っていた口が閉じる。
魔王はもう、下にいる。
順番を代わってくれと言える相手は、誰も残っていなかった。
係の人に従って準備を整え、前を見る。
遠い。
足元を見ないようにすると、かえって高さが分かる。
それでも、さきほど魔王が滑っていった先は気になった。
あいつは今、どんな顔で待っているのだろう。
滑り出した瞬間、腹のあたりが軽くなった。
「うおっ」
声が出る。
風が顔へ当たり、上着が音を立てた。
勇者は前を見た。
さっきまで眺めていた山が、左右へ広がっている。
地面に足がついていない。
その感覚に慣れるより早く、景色が近づいてくる。
怖いと思う暇はあった。
だが、その次には、もう笑っていた。
下で装具を外してもらい、待っていた魔王のところへ行く。
魔王は腕を組んでいた。
「声が出ていたな」
「お前ほどじゃない」
「距離があるから聞こえ方が違う」
「お前の声、ずっと聞こえてたぞ」
魔王は返事をせず、上を見た。
勇者も隣へ並ぶ。
ナナが滑り降りてくる。
楽しそうな声が、近づくにつれてはっきりした。
そのあとにミサキも続き、四人が揃う頃には、勇者の頬が笑いすぎて痛くなっていた。
ナナは装具を返すと、真っ先に魔王のところへ来た。
「まー君、どうだった?」
「問題なかった」
「楽しかったか聞いてんの」
魔王は少し間を置いた。
「……景色はよかった」
ミサキが横から顔を出す。
「ちゃんと見てた?」
「見ていた」
「目、開いてた?」
「開いていた」
勇者は笑い、魔王に睨まれた。
「お前も似たようなものだっただろ」
「俺は楽しかったって言えるよ」
「俺も楽しくなかったとは言っていない」
「じゃあ、楽しかったんじゃん」
ナナが満足そうにうなずいた。
魔王は一度だけ口を開き、それから閉じた。
風が吹いた。
さっきまでより、地面がずっと頼もしく感じられた。
センターハウスへ戻ると、勇者はようやく腹が減っていることに気づいた。
四人で軽い昼食を買い、空いていた席へ座る。
上着を脱いで背もたれへかけると、身体に残っていた熱が抜けていった。
勇者は飲み物を一口飲んだ。
「うまい」
「さっきまで朝飯が残っていたんじゃないのか」
魔王が向かいから言った。
「それ、お前が言っただけだろ」
ナナが包みを開けながら笑う。
「二人って、ずっとそんな感じ?」
「そんな感じって?」
「何言っても、絶対どっちか返すじゃん」
勇者は魔王を見た。
魔王は食べ物を口へ運んでいる。
「大学から、まあ、こんな感じです」
「長っ。じゃあ今日だけじゃないんだ」
ミサキが納得したように言った。
「カートのあとも、ずっと勝った負けたって」
「あれはこいつが」
勇者と魔王が同時に相手を指した。
ナナが笑いすぎて、食べようとしていた手を止めた。
「ほら、それ」
勇者もつられて笑った。
言い直すほどのことではなかった。
食べ始めると、しばらく会話が減った。
窓の向こうには、先ほど滑り降りた斜面が見える。
あんなところにいたのかと思うと、もう一度笑いそうになった。
「まー君さ」
ミサキが飲み物を置いた。
「飛ぶ直前、返事だけになってたよね」
魔王の手が止まる。
「安全装置を確認していただけだ」
「ユウちゃん、隣で笑いこらえてたよ」
「見えてました?」
勇者が聞くと、ナナが即座にうなずいた。
「めっちゃ見えてた」
「こいつは昔からそうだ」
魔王が言った。
「人の番なら余裕がある」
「お前も下で待ってる時、すごい顔してたぞ」
「普通の顔だ」
「俺が降りてきた瞬間だけ、元気になってた」
今度はミサキが笑った。
勇者も飲み物を置く。
案内板の前で声をかけられた時は、何を話せばいいのか少し迷った。
今は、話の順番が来るのを待つ方が難しかった。
食べ終えても、すぐには立たなかった。
魔王が窓の向こうを眺め、ナナが今日撮った景色を端末で見せる。ミサキが指で画面を送りすぎ、今の写真に戻して、と言われていた。
勇者は背もたれへ身体を預けた。
脚に少し疲れがある。
今夜の風呂は、昨日とは違う気持ちよさがありそうだった。
休憩を終え、四人で帰りのバスへ向かった。
バスに乗ると、行きと同じように魔王が隣へ座った。今度は通路を挟んだ席に、ナナとミサキがいる。
車内が落ち着いてから、ナナがこちらへ顔を向けた。
「二人、どこ泊まってんの?」
勇者が旅館の名前を告げると、ナナは目を丸くした。
「え、うちらも」
「今夜?」
「そう。マジで一緒じゃん」
隣からミサキが身を寄せた。
「じゃあ夕飯も一緒にしよ」
魔王がこちらを向いた。
「まだ宿に確認していないだろ」
「まー君、細かい」
「必要な確認だ」
「じゃ、着いたら聞こうよ。四人で食べられますかって」
ナナは、それで解決したように座り直した。
勇者は魔王へ小声で言った。
「断っても一緒になりそうだな」
「断る理由もないが」
「楽しかったしな」
魔王はうなずいた。
バスが曲がり、窓の外を木々が流れる。
行きには、向こうで何をするかさえ決まっていなかった。
帰りには、夕食を一緒に食べたい相手が二人増えている。
勇者は座席へ深く座り、上着の裾を直した。
眠るほどではないが、このまま揺られていてもよかった。
温泉街へ戻ると、四人は連れ立って旅館へ向かった。
先を歩くナナが、今日のカートの話をまた始める。
ミサキが笑い、勇者も返事をした。
宿の前まで来たところで、魔王が入口へ目を向ける。
「先に、夕食の席を確認するか」
「お願い、まー君」
ナナに言われ、魔王は当たり前のようにうなずいた。
勇者と目が合ってから、その顔が少し険しくなる。
「何だ」
「いや。もう普通に返事するんだなと思って」
「ユウちゃんもね」
ミサキの声が後ろから飛んできた。
勇者は何も言い返せなかった。
四人分の笑い声を連れて、二人は宿へ戻った。




