第十一話 勇者と魔王 二日目の朝を迎える
翌朝、勇者は布団の中で低い声を聞いた。
「そろそろ起きなければ、朝飯に間に合わない」
聞き覚えのある声だった。
だが、すぐに返事をしようとは思わない。
勇者は掛け布団を鼻のあたりまで引き上げた。
「……何時?」
「それを確認する前に起きろ」
「あと五分」
「朝食の時間まで、あと十三分だぞ」
「休日の五分に、そんな細かい計算を持ち込むなよ」
目を閉じたまま答える。
眠気はまだ十分に残っていた。
普段の休日なら、このまま昼を過ぎても問題はない。起き上がる理由ができるまで、寝床で動画を見たり、くだらないゲームをしたりして過ごす。
昨夜、自分でそう話したばかりだった。
しかし今日は、朝食の時間が決まっている。
何時に起きるかも、何時に出かけるかも決めなかった二人に残された、唯一の予定だった。
「飯がなくなっても知らんぞ」
魔王の声が少し遠ざかった。
勇者はようやく片目を開ける。
部屋には朝の光が差し込んでいた。
窓際では、浴衣姿の魔王が茶を淹れている。髪の先が、まだわずかに濡れていた。
勇者は布団から顔だけを出した。
「お前、もう風呂入ったの?」
「朝風呂へ行ってきた」
「起こしてくれればよかったのに」
魔王は湯呑みを持ったまま振り返った。
「朝飯には起こした」
「風呂にも起こせよ」
「昨日、起きる時間を決めなかったのはお前だろ」
「起きられないとは言ってない」
「まだ布団の中にいる奴が言うな」
正論だった。
勇者は掛け布団を押しのけ、布団から出た。
寝起きの頭では、乱れた浴衣の帯を結び直すだけでも時間がかかった。
「こういう時だけ早いんだな」
「お前が遅い」
昨日から何度目か分からない言葉を交わし、二人は朝食会場へ向かった。
会場には、すでに何組もの宿泊客がいた。
湯気の立つ飯と味噌汁、焼き物や小鉢が膳に並んでいる。
席へ着いた勇者は、まず味噌汁へ手を伸ばした。
温かさが喉を通り、ようやく身体の内側まで朝が届く。
向かいでは、魔王が普段よりも早い調子で箸を進めていた。
「朝からよく食えるな」
「朝風呂で腹が減った」
「俺も先に入ればよかった」
「起きればな」
「起こしてくれればよかっただろ」
「その話は終わった」
魔王は焼き物へ箸を伸ばした。
勇者も飯を口へ運ぶ。
食べ始めるまでは、朝食に間に合わなくてもいいと思っていた。だが、温かい飯を前にすると、起きてきてよかったと思う。
それを口にすれば、魔王にまた何か言われる気がした。
勇者は黙って二杯目の飯をよそった。
魔王がその茶碗を見る。
「よく食うな」
「起きたら腹減ってきた」
「さっきまで布団へ戻ろうとしていただろ」
「今の俺と、五分前の俺は別人なんだよ」
「便利な理屈だな」
仕事の話は出なかった。
今日の予定も、昨夜決めたところから増えなかった。
朝食を終える頃には、勇者の眠気もほとんど消えていた。
二人は食後の茶を飲み、急かされることなく席を立った。
廊下へ出たところで、勇者は浴場の方角を見る。
「俺も風呂入ってくる」
魔王の足が止まった。
「スキー場へ行くんじゃなかったのか」
「時間は決めてないだろ」
「確かに決めていないな」
「先に部屋へ戻ってて」
「分かった」
魔王はそれ以上、出発時刻を決めようとはしなかった。
勇者は一人で浴場へ向かった。
朝の湯は、昨夜より静かだった。
身体を洗い、露天風呂へ浸かる。
山あいの冷たい空気に触れながら、熱い湯へ肩まで沈む。昨夜は魔王と仕事の愚痴を話していた場所に、今は湯の流れる音しかない。
今日は会議もない。
報告会もない。
進捗を確認する相手もいない。
あるのは、いつ出ても困らない風呂と、何があるのかも知らないスキー場、それから出発を急かさず待っている大学時代の友人だけだった。
勇者は浴槽の縁へ頭を預けた。
時間を気にしないつもりで入ったはずなのに、長くなりすぎると魔王が待っていると思う。
結局、完全に一人の休日とは違う。
だが、不思議と重くはなかった。
風呂から上がって部屋へ戻ると、魔王は窓際の椅子に座っていた。
卓上には湯呑みが一つ置かれている。
仕事鞄は、昨夜と同じ場所にあった。
蓋は閉じたままだった。
勇者が髪を拭きながら聞く。
「仕事してた?」
「するわけないだろ」
魔王は窓の外へ向けていた顔を戻した。
「本当に?」
「お前が戻るまで茶を飲んでいただけだ」
「パソコン開けばよかったのに」
「そんなに仕事させたいのか?」
魔王はそう言って湯呑みを持ち上げた。
当たり前のことを言うような口調だった。
昨日の魔王なら、待ち時間だからと一件だけ確認していたかもしれない。一件で終わらず、勇者が戻る頃には報告書を開いていたかもしれない。
それでも今日は、閉じた鞄を閉じたままにしている。
勇者は手拭いを首へかけた。
「ちゃんと休めるじゃん」
「何もしなかっただけだ」
「その判断ができるのは偉いよ」
魔王は否定しなかった。
二人は浴衣から外出用の服へ着替えた。
今夜も同じ部屋へ戻るため、大きな荷物をまとめる必要はない。
勇者は必要なものだけを確認し、上着のポケットへ入れる。
魔王も身支度を整えたが、部屋の隅に置いた仕事鞄には手を伸ばさなかった。
勇者が鞄を指さす。
「それ、持っていかないの?」
「今日は休みだ」
「ようやく認めたな」
「昨日までが出張だっただけだ」
「じゃあ今日は、本当にただの旅行?」
魔王は少し考えてから答えた。
「ああ」
短い返事だった。
決意を語るような重さもない。
ただ、仕事鞄を部屋へ置いていく。
それだけで、昨日とは違っていた。
部屋を出た二人は、宿をあとにしてバス停へ向かった。
温泉街には朝の空気が残っている。
店先では開店の準備が始まり、坂道を歩く観光客の姿も少しずつ増えていた。
二人は細かな時刻表を調べず、次に来るバスを待った。
「結局、向こうで何する?」
勇者が聞いた。
「行ってから考える」
「珍しいな」
「決めなかったのはお前だろ」
「でも、お前なら朝のうちに全部調べてそうじゃん」
「調べるための道具は宿へ置いてきた」
「端末があるだろ」
「細かいことはいい」
自分がよく使う言葉を返され、勇者は笑った。
ほどなくして、草津温泉スキー場へ向かうバスが着いた。
二人は並んで乗り込み、空いていた席へ座る。
行き先だけは決まっている。
そこで何をするのかは、まだ空白だった。
扉が閉まり、バスがゆっくりと走り出す。
仕事鞄は、宿に置いてきた。




