2。僕の名前わ恨。
僕の名前は恨。十六歳、ヒュラ高校に通う高校二年生だ。そして今、僕の隣には――憎たらしいチビ、日向がいる。
「ねぇねぇ、うみ、うみ~」
無邪気な笑みを浮かべながら、僕の右腕に抱きつき、今度は左腕にも抱きついてくる。
……それだけじゃ終わらなかった
次の瞬間には僕の肩によじ登り、そのまま首の上にちょこんと腰を下ろした。
さすがに我慢の限界だ。
僕は片手でひょいっと日向を持ち上げ、そのまま襟首をつかんで地面へ降ろす。
「ふざけるのも、そのくらいにして。」
「テヘヘ、ごめん、ごめん。」
そんなやり取りをしながら、僕たちは並んで教室へ向かう。日向は終始ご機嫌に鼻歌を歌っていた。
「風間くんが来た!」
教室へ入るなり、日向は「あっ」と声を上げ、一番人が集まっているところへ駆け寄っていく。
わざと低い声を作り、得意げにポーズを決めた。
「我が名は風間日向! 光の剣なり! 燃え盛る魂より生まれし刃。その命、ここで断ち切ってやる!」
「あ、それ昨日テレビでやってた『リボルトナイト』のセリフじゃん。」
「おっ、お前も見てたのか!? あれ、めちゃくちゃカッコよかったよな!」
「でも、日向がやるとなんか笑える。」
「えぇ!? そうか!」
頭をかきながら、日向は照れくさそうに笑った。
……本当に、昔から変わらない。あの子は誰にでも気軽に話しかけて、誰とでもすぐ打ち解ける。どんな相手とでも楽しそうに笑っていられる。
……こんな僕と一緒にいて、退屈だなんて思わないんだろうか。
「うみ?」
いつの間にか、日向が僕の顔を覗き込んでいた。
「顔色悪いよ? 具合でも悪いの?」
急に距離を詰められ、思わず表情がこわばる。反射的に、いつものぶっきらぼうな口調で返した。
「……は?」
「体調悪いならちゃんと言ってね。保健室まで連れてくから。」
……僕なんかに。
そこまで気にかけてくれる価値なんて、本当にあるんだろうか。
そのとき、教室の扉が開いた。ドイツ風の口ひげをたくわえた、貫禄のあ る男性が教室へ入ってきた。
「はい、みんな席についてくださーい。」
授業が始まった。
いつものように、セワシ先生は教壇に立ち、複雑な動力機関の仕組みについて説明を始める。
正直、全部理解できるわけじゃない。それでも、ノートだけはきちんと取るようにしていた。
いつからそうなったのか、自分でも覚えていない。気がつけば、僕の視線は無意識に日向へ向いていた。
あいつは普段こそ元気いっぱいだけど、授業になると決まって眠そうにしている。
……でも、今日は少し様子が違う。
机に突っ伏して眠ることもなく、背筋をぴんと伸ばし、まるで優等生みたいな姿勢で前を向いていた。しかも、口元にはうっすらと笑みまで浮かべている。
……今日のセワシ先生の授業、そんなに面白いのかな。
いや、待って。あいつ、いつから瞬きしてない?もう二十分くらい経ってるよね?絶対、授業なんて聞いてない。もしかして気絶してる?
……いや、これが新しい寝方だったりするのか。
チャイムが鳴り、セワシ先生は授業を終えると教室を出ていった。
それと同時に、それまで微動だにしなかった日向もようやく動き出し、一直線に僕の席まで駆け寄ってくる。
「ねぇねぇ、う――」
「さっきの授業、ずっと寝てたでしょ。」
「え? 今日は急に僕のこと気にしてくれるの? もしかして、うみって僕に惚れ――」
「話を逸らさないで。」
「うぅ……」
日向は人差し指同士をつんつんと突き合わせながら、気まずそうに視線を逸らした。
……図星みたいだ。
「ぼ、僕、授業中ずっと起きてたんだよ? ね、褒めて〜?」
そう言うと、日向は僕のほうへ顔を向け、お願いするようにぱちぱちと瞬きを繰り返した。
その真っ赤な目を見てしまったら、さすがに褒める気にはなれなかった。
僕は大きくため息をつく。
「今度からはちゃんと早く寝ること。いい?」
「テヘヘ、ごめん。」
「あ、それと……これ。」
僕は鞄の中から目薬を取り出し、日向へ差し出した。
「あっ、これってうみがいつも使ってるやつだよね? ちょうど目が疲れてたんだ。ありがと!」
日向は目を閉じ、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
……な、何これ。なんで急に心臓がこんなにうるさいの。あぁ……顔まで熱くなってきた……。
「じゃあ、使わせてもらうね!」
コツン。
「いたっ!? なんで急に僕の頭を小突くの!?」
「……なんかムカついた。」
そんな他愛もないやり取りをしているうちに、一日はいつも通り過ぎていった。
そして、放課後を告げるチャイムが鳴る。
「ねぇねぇ、うみ。一緒に帰ろ!」
「……うん。」
そのとき、日向の鞄の中から通知音が鳴った。
「あっ。」
日向は鞄からスマホを取り出し、画面を確認する。
「うわっ、ごめん、うみ! 急に用事があるの思い出した! 今日は先に帰ってて!」
そう言い残すと、日向はそのまま教室を飛び出していった。
……仕方ない。
今日は一人で帰るしかないか。
でも、その前に少しだけトイレへ寄っていこう。
鏡に映ったのは、見慣れた自分の姿だった。白銀の髪に、どこか疲れたような目をしたボクっ娘。
……また隈が濃くなってる。
少しファンデーションで隠しておかないと。
叔母さんに見つかったら、また心配されちゃう。
身支度を済ませてトイレを出る。校舎から少し離れた場所にあるせいか、ここは風通しがいい。一陣の風が僕の頬を撫で、一枚の葉がふわりと宙を舞う。
なんとなくその葉を目で追っていると、不意に小柄な人影が視界へ飛び込んできた。
……日向?
あいつ、あんなところで何してるんだろう。僕は咄嗟に壁の陰へ身を隠す。日向が立っているのは校舎裏。そして、その向かいには、一人の女の子が立っていた。
放課後。人気のない校舎裏。向かい合う一人の男子と一人の女子。
……こんな状況で考えられることなんて、一つしかない。
告白だ。
……告白?日向が、告白されてる?だめだ。何とかしなきゃ。日向は優しいから。きっと相手を傷つけたくなくて、そのまま頷いてしまう。
止めなきゃ。告白の言葉が口にされる前に。
……でも。
どうして?
どうして僕は、日向が告白されるのを止めたいんだろう。
「風間くんのことが好きです。……よかったら、私と付き合ってくれませんか?」
全身を電流が駆け抜けた。
だめだ。
苦しい。
息ができない。
身体が急に重くなる。
……もう考えるな。
今は止めることだけを考えろ。だって。僕は、日向を失いたくない。
「……はい。」
その一言を耳にした瞬間、全身が凍りついた。一歩踏み出しかけた足は、その場で止まる。胃が激しく締めつけられ、吐き気が込み上げてきた。もう、本能のまま逃げ出すことしかできなかった。
気づけば、僕は学校から家まで無我夢中で走り続けていた。途中で何度吐いたのかも覚えていない。いつから涙がこぼれていたのかも、わからなかった。
どうして。
どうして。
どうして……。
どうしてこんなに苦しいの。
どうして胸がこんなにも痛いの。
そして、どうして日向はあんなにもあっさり頷いたの。
そんな考えばかりが、冷たい床にうずくまる僕の心を容赦なく締めつけ続けていた。
頭の中で、日向の姿が少しずつ薄れていく。毎日一緒に登校して、他愛もない話をしてくれた日向。そんな日向の姿はゆっくりと霞み、やがて消えていった。
その代わりに浮かんできたのは、さっき告白していたあの子と並んで歩く日向の姿。
……あそこは。今まで僕の居場所だった。それが、誰かに奪われてしまった。
……おかしいよね。友達なら、喜んであげるべきなのに。
どうして僕はこんなにも苦しいんだろう。
どうしてこんなにも胸が痛いんだろう。
……たぶん。
僕はずっと前から、君に恋をしていたんだ。
◇ ◇ ◇
用事を済ませた日向は教室へ戻ってきた。けれど、そこに恨の姿はない。
「……もう帰っちゃったのかな。」
少し残念そうにため息をつくと、最初から恨の机に置いていた自分の鞄を取りに向かう。だが、机の上には自分の鞄だけではなく、もう一つ鞄が置かれていた。
「ん?」
近づいて見てみると、お揃いで買ったハート型の半分だけのキーホルダーが目に入る。
「あれ? これ、うみの鞄だ。」
どうやら、うみは鞄を置き忘れたまま帰ってしまったみたいだ。
「もう、うみってほんとにそそっかしいなぁ。しょうがない、家まで届けに行ってあげるか。テヘへ〜」
日向は二つの鞄を手に持つと、そのまま教室を後にした。




