3.明日
「おはよう、うみ~。もう学校に行く時間だよ。ほら、起きて。僕がいないからって、二度寝なんかしちゃダメだからね~」
震えるスマホから流れてきたのは、日向の声だった。
もう七時くらいだろうか。
……だるい。
僕は昨夜からずっと、薄暗い部屋の隅で膝を抱えたまま朝を迎えていた。何かを考えようとしても頭はうまく働かず、結局何一つまともに考えられなかった。
失恋って、こういうものなんだな。
重い体を起こし、布団に埋もれていたスマホを手に取る。普段なら震えた瞬間に止めてしまうアラームなのに、今日はなぜか指が動かなかった。
手の中のスマホを眺め、通知画面に目を落とす。それから僕は、そのスマホをくるり、くるりと回した。まるで見たこともない、不思議な物でも見つめるように。
「まだ起きてないの~? 耳に息、ふーってしちゃうよ? ふぅぅぅ~~」
両手で顔を覆った。
僕はふと、あの日のことを思い出した。
ある日のことだった。
日向は突然「ちょっと貸して」と言って僕のスマホを借りると、何やらこそこそと怪しいことを始めた。しばらく夢中になっていじっていたかと思えば、満足そう、得意げに僕のほうを振り返ると、自分で録 音したASMR音声を再生し、こう言った。
『今日からこれ、うみの目覚ましだから ね! 勝手に変えたら..... 僕、本気で怒る からね!』
最初は腹が立った。それなのに、結局一度も変えなかった。どうしてなんだろう。自分でも分からない。
……でも、それでよかった。
会えない日でも、こうして日向の声だけは聞けるから。
僕はスマホのスピーカーをそっと耳元へ寄せ、流れてくる一つひとつの音に身を委ねる。そうしているうちに、眠気が静かに押し寄せてきた。
『おーーい!! まだ起きてないの!? 起きろーーっ!! 僕、学校で待ってるからねぇぇぇぇ!!』
突然の大絶叫。
耳が痛くなるほどのノイズとともに録音は途切れ、そのおかげで眠気も一瞬で吹き飛んだ。
……最後にこんなのが入っているなんて知らなかった。
これがこの目覚ましの本当の目的だったのか。
「……僕、学校で待ってる、か。」
まったく。
日向のやつ、本当に憎たらしい。
カーテンを開けると、朝の光が部屋へ差し込み、淀んだ空気を静かに押し流していく。
もう決めた。
今日もいつも通り学校へ行く。いつも通り日向と話す。昨日あんなことを言わせてしまったことを謝る。そして――これからも、あいつの友達でいる。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。きっと、その願いは僕自身の心が一番拒んでいることなんだろう。それでも、それ以外にもっといい答えなんて見つからない。
いつものように、部屋の隅へ無造作に立て掛けられた姿見へ目を向ける。そこに映る自分は、見るに堪えないほどひどい顔をしていた。
生気のない目。隠しきれない隈。見るたびに嫌になるのに、どうすることもできない。
……せめて隈くらいは隠そう。
制服に着替え、鏡の前で軽く一回転する、身だしなみに問題はない。
……いや。
何かが足りない。
「あ。」
鞄だ。
昨日、教室に置きっぱなしにしてしまったんだ、教科書もノートもないまま登校したら、先生に怒られるだろうな。
そんなことをぼやきながら玄関の扉を開け――そのまま足を止めた。
僕の鞄が、そこに置かれていた。
「……日向が、持ってきた... か?」
◇◇◇
「風間さん、今日なんか様子おかしくない?」
「いつもはあんなにしゃべってるのにさ。今日はやけに大人しいよな。」
「はは……」
「ウェーイ、俺、だいたい分かっちゃったぞ。お前が落ち込んでる理由って――」
そう言うと、日向に話しかけていた男子は教室後方、出入口側の席を指差した。
始業まではあと数分。それでも、その席だけはまだ空いたままだった。
「ち、違うよ。別の理由かもしれないし……そう、ちょっと体調が悪いだけ。」
「いやいや、どうせ春崎さんが休んでるからだろ。毎日くっついてるじゃん、お前ら。へぇ~、クールなボーイッシュ系が好みなんだ? なかなかレベル高い趣味してるな。」
「ふーん。」
「え……な、なんで急にそんな目で見るんだよ……」
「シャー。」
日向は両手を胸の前で猫の前足のように丸め、小さな牙を覗かせながら威嚇するように睨みつけた。
「お前、猫かよ!?」
ガラガラッ。
教室の扉が開く音が響き、騒がしかった空気がぴたりと止まる。
「はい、席につけー。ホームルーム始めるぞ。」
世話師先生が教室へ入ってきた。
「あ、先生来た。それじゃ戻るね。今日は春崎さんもいないし、代わりに僕で 我慢したら? ....... なんてね。」
「誰が見るか。」
そう返しながらも、日向はふと視線を床へ落とす。
少しだけ、ほんの少しだけ、寂しそうに。
そのときだった。
ガラッ!!
教室後ろの扉が勢いよく開かれ、クラス中の視線が一斉にそちらへ向く。
「すみません! 遅れました!」
その声を聞いた瞬間、日向の瞳が大きく見開かれた。
教室の入口に立っていたのは、袖を無造作にまくり上げ、全身に汗をにじませながら息を切らす、白銀の髪をしたボーイッシュな少女だった。




