第165話-3 数が多すぎても、救援はない以上、自分達でやり抜くしかない
『水晶』以外にも以下の作品を投稿しています。
『ウィザーズ コンダクター』(「カクヨム」で投稿中):https://kakuyomu.jp/works/16816452219293614138
『この異世界に救済を』(「小説家になろう」と「カクヨム」で投稿中):
(小説家になろう);https://ncode.syosetu.com/n5935hy/
(カクヨム);https://kakuyomu.jp/works/16817139558088118542
興味のある方は、ぜひ読んで見てください。
宣伝以上。
前回までの『水晶』のあらすじは、クリスマスの日、世界が石化するという現象が起き、石化されなかった瑠璃、李章、礼奈は異世界からやってきたギーランによって、異世界へと送られるのだった。そして、魔術師ローの話により、世界を石化させたのはベルグの可能性があり、彼を探すために異世界の冒険に出ることになるのだった。そんな中で、クローナを仲間に加え、アンバイドを一時的な協力関係を結ぶことになり、リースへとたどり着く。
そこでは、ベルグの部下で幹部の一人であるランシュが仕掛けたゲームに参加することになるが、そこで、リース王族の一人であるセルティーと知り合うこととなり、チームを組んでランシュのゲームの中で最終的にはランシュを倒すのだった。それを利用したかつてのリース王国の権力者側であったラーンドル一派の野望は、それを知っていた王族でセルティーの母親であるリーンウルネによって防がれることになる。
詳しくは本編を読み進めて欲しい。
そして、リースは王族とランシュの共同体制ということで決着することになる。
一方で、ベルグの部下の一人であり、ランシュと同等の地位にあるフェーナがベルグの命により、ベルグの目的達成のために、その部下ラナを使って瑠璃のいる場所を襲うが失敗。その時に、サンバリア側の刺客であることがバレて、瑠璃、李章、礼奈、それに加え、クローナ、ミランとともに、サンバリアへと向かうのだった。これは陽動作戦であり、ローもそのことを知っていて、瑠璃たちを成長させるために敢えて、乗るのであった。
そして、瑠璃たちは、セルティー、ローらと別れ、船の乗り、サンバリアを目指すのだった。
さて、話を戻して、領主の館の入口。
そこでは、まさに、アーサルエルらが到着していたのだ。
アーサルエルらは周囲を見る。
そこが悲惨な光景であるのは分かっている。
そこら中にある倒れた人、命を奪われた人もいるだろう。
そんなほぼ確定しきったことに対して、何も感情が揺らがないということはない。
思っていること以上の現実の感覚など、あり得ないことではない。
思っていることと現実はすべてにおいて、同じという結果になることはない。あくまでも、自らの思っていることであり、人という身の上である以上、完璧にも完全にもなれないのだから、起こったとしてもおかしくはないのだ。
人は、無意識に自分という存在がどういう存在であるかを忘れることがあるし、無意識に自分は人間という枠から外れてしまっており、それが現実には不可能なことをあくまでも可能であると認識する。
使い方によれば、上手くいく場合もあり、人という可能性を拡げることはできるだろうが、結局、何も考えず、無知蒙昧に言っているだけの人が感覚的には多いし、そういう人ほど、自分が本当に正しいのかを悩むことなく、自分の軸というものを持ち合わせず、他人の受け売りをさも自分の考えのように言っているだけなのだ。
残念ながら、そういう人は多いだろうし、見ているのは自分の幸せであり、自分の幸せは自分の力によってなれるもしくは他者によって簡単に齎されると思っているだけの存在であろう。
自分が幸せになりたいのであれば、自分から行動することも大事だが、いろんな人の意見を聞きながら、その情報の多さの中で考え、勉学をし、本当に正しいのか、何が良いのだろうかと悩むことを怠るようなことはしない方が良い。
このことを言うと、以上のことは駄目だろと思ってしまう人もいるかもしれないが、人というのは全ての物事の全容を完全に把握することはできないし、その逆もできない以上、結局、何かしらの場面において悩み、考えるようなことから逃れることはできないし、その苦しみというのは避けて通れないだろう。
喜怒哀楽とは良く言ったものだ。
感情というものは、マイナスだと思われている面でも、プラスの面を持ち合わせており、元々、マイナスプラスの判断は主観的なものに過ぎず、判断材料には経験や知識、社会から周囲から受けてきた影響に左右され、そこに自分の持ち合わせている生来の気質というものが加わるのだ。
例を挙げて言えば、哀しみという感情はマイナスな面ばかりが強調されるが、哀しみがあるからこそ、人は自分が幸せだと思えることに対して、感謝の念と同時に、それが最も大事なものであると理解することができる。
ここにおいては、哀しみや嬉しいという感情には、絶対的な判断基準など存在せず、相対的な順序というか階層のようなものが存在し、人は相対的な判断しか下せないという一つの証明となっている。
また、人が絶対評価というかしているのは、あくまでもある基準があって、その判断材料もある程度決められたものであり、結局、それは完璧にある基準における人の全容を満たしているわけではないし、どんなに客観性や公平性のある基準を設けても、どこかしらの欠陥から逃れることはできないということになる。
決して、忘れてはならないし、人はどこまで言っても恣意的なものや、主観的なものから逃れることができず、間違いから逃れるようなことはできないからこそ、常に悩み、考え、苦労することからはどこかしらで向き合うしかないのだ。
その苦労した経験は、決して無駄にならないとは言わないが、その経験をしてきた者は自分の中で素晴らしい人生の幸運に繋がる可能性もあり、他者の重要性にも気づけるだけの素地は存在しているのだ。決して、悲観する必要はない。
むしろ、自分は完璧だと思っている人間の方が、最も何かが起こった時に脆いものであり、重大な欠陥を抱えていることになる。軸という中身がしっかりとないぐらいの―…。
さて、話が逸れてしまったが、人が生きていく上で重要だと判断してのことなので、長めに書いてしまった。申し訳ないことであるが、薄っぺらいだけの存在になってしまっては、世の中、簡単で甘い言葉に騙されるだけになってしまうので、警告という意味で書くことになった。
話を戻して、この悲惨な光景を人がするわけがないと思っていたりとか、人格者がするわけがないと思っているのなら、お前は何の妄想に囚われているのかと言わないといけない。
人には残酷な面と同時に、何かしらを尊いと思ったり、誰かを愛したりするという気持ちが存在する。
だからこそ、人の残酷な面もまた、人の性質である以上、見逃して、自己都合だけのことばかり考えるようになってはならない。物語には往々にしてあるが、必要として入れている以上、過剰な批判すべきではないのかもしれないが、それが物語としての意味を駄目にしているのなら、その指摘されるべきであり、個々人によってその判断は異なることになろう。
時に、人は残酷な面から目を逸らし、自分の見たいものだけを見ることがあるし、それは全て見ることができないからこそ発生しているのだから、自分の完全さという妄想からいい加減に目覚めた方が良い。
そして、分かりやすく言えば、悲惨な光景に怒りの感情が湧いてもおかしくなく、そして、それをしたのは、イスドラークの領主側なのか、ということだ。
アイラは、イスドラーク側の人間がこのような悲惨なことをしたのだと、仕掛けたのだと思っている。
領主側とスラム街側の人間の衝突もしくは虐殺となった過程を理解しているものなら、アイラの感情や考えが間違っていないことを証明することができるだろうが、この場にやってきたばかりの人間で状況への過程を見ていない者には、分かるかどうかは可能性の問題であり、分からない結果となることもある。
そして、アーサルエルは―…。
(死体で多いのはスラム街の連中。そして、領主側の人間だと思われる人間らは、スラム街の人間を殺しまくっている。一方の領主側の兵士の死体はほぼない。判断は難しいだろうが、明らかに領主側が悪いという結果になる可能性は十分にあるが、どうしたって、イスドラークで権力を握っている者の思い通りになるだけだな。交渉で上手くいくのが良いが、向こうが力づくとなると、こっちも相応の覚悟が必要になるのか。)
分かっている。
だけど、確実なことを確認できない以上、簡単にイスドラークの領主側の人間を殺すのは危険なことでしかない。証拠と武力、この二つを持ち合わせないと人々からの理解は得られないだろうし、理解を得られなければ、自らの立場を危険にすることになる。
カルフィーア村もイスドラークの市場で商売をおこなったりすることもあるのだから、穏便で済むのなら、そっちの方が良いが、物事、常にそうなるとは限らないし、現に、そのような状態になっているのだ。
だからこそ、証拠という面は確実にでも抑えておかないといけない。イスドラークの領主側が雇った傭兵を相手に負けるようなことはないし、時間をかければ、勝利することもできる。
それだけの実力をアーサルエルはしっかりと有している。過信ではなく確信として―…。
それでも、証拠というか人の常識というのは、必ずどこかしらの面で問われるし、守らないといけないと大変なことになることだってある。武力で何でも解決ができるのであれば、武力が一番優れている者が世界の支配者になってもおかしくはないが、現実はそうなっていない以上、人というのは武力以外の要素を持ち合わせないと支配できないし、支持を得ることはできないのだ。
単純なら、どれだけ楽であろうか。
そんなことを思ってしまっても意味はない以上、現実に適応してやっていくしかない。
アーサルエルが考えている間に、アイラの銀色のマフラーによって飛ばされてしまった傭兵のリーダーと思われる人物が、起き上がり―…。
(………………………何で飛ばされたか分かりませんが、アーサルエル。やっぱりいましたかぁ~。こりゃぁ~、かなり厄介だが、領主の方でも何かしらの秘密兵器があるとか言っていましたので、その相手をしてもらうまでの間、こっちは防ぐことを焦点を移した方が良い。奴は二丁拳銃を武器で戦うことは有名な話なのだからなぁ~。)
傭兵のリーダーと思われる人物は知っている。
アーサルエルが有名な傭兵であることを―…。
カルフィーア村。
そこが、このアウリア大陸で一番の傭兵軍団がいるとされている場所であると―…。
その中の一番だと目されている人物である以上、自分達では敵わないということも理解している。
だからこそ、頼ることができるのは、領主のバウネッターがサンバリアから買ったと言われる兵器である。
その兵器なら流石のアーサルエルも倒されることになるだろうし、撃破することは可能であろう。
そのような見立てをするのだった。
間違った見立てかどうかは、後になって分かることであろう。
それと同時に、傭兵のリーダーと思われる人物は、アーサルエルに向かって―…。
「へぇ~、有名な傭兵がスラム街の人間の肩を持つとは、ヤキでも回ったのか? あなたほどの傭兵なら、イスドラークの領主バウネッター様の依頼を受けた方が、実入りは良いはずなのに―…。」
呆れに近い感情というのもあるが、傭兵は金さえ貰えれば、依頼人の言うことを聞く存在であり、それが彼らの生活のための基盤となっており、指定通りの金が支払われるようなことがなければ、依頼人の言うことを聞かなくなり、略奪などの行為に働くことも十分にある以上、金のないスラム街の人間の依頼を受けるなんて馬鹿なことでしかない。
スラム街の人間は、金を持ち合わせていないのだ。
そのようなイメージがあるからこそ、傭兵のリーダーと思われる人物はその考えに当てはめて言うのだった。
ステレオタイプに陥らない人間はどこにもおらず、何かしらのイメージというか決まり事をはっきりさせておいた方が、精神的には楽だし、一々、考えるような面倒くさいことから逃れることができ、いざ、考えないといけない時に、脳が疲れてしまっては意味がないのだから―…。
だけど、何も考えないことが美徳されるように思っている人がいるなら、何も考えないことは結局、いざという時、何かしらの解決を考える力を磨いていない以上、簡単に問題を解決できるためのアイデアが浮かぶ可能性はかなり低いし、どうすれば良いのか、と混乱して、時を無駄に過ごすだけの結果にしかならない。
なぜなら、考える方法を知らないし、考える経験をしていないからだ。そんな人間が何かしらの解決策を見つけられる可能性は、奇跡に近いものであり、そればかりに頼ることは何度もできないし、できるはずもない。
ゆえに、人は考え過ぎるのも問題だが、考えないのも問題であり、いろんなことを学ぶ機会があるのであれば、学んだ方が良いし、疑問に感じたり、疑ったりすることも忘れない方が良い。
そうすることで、より良く考え、自らの糧にすることができる。
さて、話を戻し、傭兵のリーダーと思われる人物の言葉を聞いたアーサルエルは、呆れる様子もなく答える。
「確かに、傭兵ならお前の言っていることは何も間違えでないどころか、正しいと言って良い。だけどなぁ~、人は原則だけで割り切れるほど単純じゃないし、人との深い繋がりというものを簡単に切り離すことも、合理的に何でも思考できるわけでもない。後―…、しっかりと金は貰ってる。なので、金銭分の仕事はさせてもらおう。そう、お前らのように結果として、中抜きのような感じにしないようになぁ~。」
アーサルエルは煽るように言う。
挑発と言っても良い。
アーサルエルからしてみれば、領主が雇った傭兵のリーダーと思われる人物の言葉は何も間違っていないどころか、傭兵として当たり前だと思っていることで、嘘を吐くのは良くないと判断し、正直に答えつつ、人はそんな単純な行動ばかりをするとは限らないと言う。
人という存在が単純な行動ばかりをしていて、生き残りが必要な場面で生き残れるわけもないし、複雑な行動だけでも生き残ることはできない。
人は完璧でも完全でもないからこそ、自分が過去に正解した行動をしたとしても、決して、同じ結果が得られるとは限らず、失敗することだってある。
大きな成功は奇跡ぐらいだと認識し、次は上手くいくとは限らないと思っていた方が良い。
常に良い解答であり続けることはないのだから―…。
そして、人は簡単に自身が思っているほど合理的な思考をしているわけでもなく、合理的であるという判断基準を本当に意味で理解するようなことはできるはずもない。
なぜなら、人は思考するのに時間を消費するし、その時間の消費量というのはその時々によって変わるという変数の伴うものであり、物事の解決には時間の締め切りというものが存在している有限なものでしかなく、決して、すべての基準から合理的な方法を見出すことは本当の意味でできないのだし、その時間の制約に縛られることになっている。逃れることのできないほどの―…。
だからこそ、人は時に、第三者から見れば、合理的だと思えない行動をとるし、その第三者も合理的だと思っているのは主観やら、ある程度の情報や自らの経験から判断したものに過ぎないのだ。
そうである以上、人は決して、合理的な存在だと思うのはあまりにも愚かなことでしかなく、人は完璧であり、完全な存在であると思い、人という身であることを忘れてしまった存在になり果ててしまっているだけだ。
忘れるな、人は、新たな可能性を見つけることができるが、同時に、何からも縛られるようなことのない存在では決してないことを―…。
そして、アーサルエルが煽りを入れているのは、相手の油断を誘うためのものであるし、決して、相手のことを見くびっているからしているわけでもない。
アーサルエルからすれば、相手がどういう対応をとるのか、というのを観察するための、一種の儀式とは違うかもしれないが、近い行動なのである。
相手の実力を計る。
そう言った意味合いである。
なので、相手の言葉を待つ。
第165話-4 数が多すぎても、救援はない以上、自分達でやり抜くしかない に続く。
誤字・脱字に関しては、気づける範囲で修正もしくは加筆をしていきたいと思います。
次回の投稿日は、2026年3月10日頃を予定しています。
皆さん、体調には気を付けてください。
私の方は、くしゃみが良く出ているので、花粉よ~、もう少し抑えてくださいよぉ~、という気持ちです。
では―…。




