決着~再出発
十六 決着
東京へ戻った頃には、すっかり夜も更けていた。このまま田上の自宅へ向かう。忍び込むなど到底不可能であろうから、真正面から正攻法で行くつもりだった。
前もって調べていたとはいえ、田上邸の門構えを見るだけで、まさに邸宅と呼ぶにふさわしい大きさがあり、武士は思わず口笛を吹く。
(流石は代議士御一家様の『城』やな……。)
田上家は順三の祖父も、叔父にあたる同じく自由国民党の議員、田上良治も政治家だった。ただ、順三自身の経歴は一風変わったもので、議員になる二十年程前までは、東都大学医学部の博士課程を修了後、研修医を経て、そのまま東都大付属病院に勤務していた。そして、医師として勤務していた時代に、帝京製薬との取引が有ったのであろう、多額の『研究費』と称する金が彼に流れていたことが分かっている。彼と帝京製薬との黒い繋がりは、既にここから始まっていたのだ。さらに驚くべきことに、例の帝京製薬の研究所と田上の邸宅の位置関係は、目と鼻の先だった。あの古びた診療所の様な建物は、実は田上順三の祖父が開業医をしていた頃のものだったのだ。そのことからも、彼が帝京製薬の『秘密の研究』と関わりがあるのは、疑い様がなかった。
武士は門の横のインターホンの呼び出しボタンを押した。しばらくして、
「どちら様ですか?」
と、中年女性だと思われる声が、インターホンから聞こえて来た。おそらく家政婦だろう。武士は、
「田上順三議員に用がある。神村康夫を殺害した容疑で、指名手配中の川藤ちゅうモンが会いに来た、言うたら、きっとわかるさかい。」
「わ、わかりました……。お待ち下さい。」
そう言って一旦切れたが、インターホンの向こう側で、家政婦はかなり動揺している様子だった。逃亡中の指名手配犯とインターホン越しとはいえ、話さなければならなかったのだから、無理もないだろう。何の非もない人を脅すのは心苦しいが、仕方がなかった。
待っている間、門のところだけでも二台設置されている防犯カメラを交互に睨みつけながら、監視の人間だけでどれ程の人員を抱えているのだろう、と武士は考えていた。
しばらくして、門扉の横の勝手口が開き、先程応対した家政婦とは別の、使用人か秘書だと思われる四十代位の男とガードマン風の男が二人現れる。そして、武士に
「田上はまだ外出から戻っておりませんが、予定ではそろそろ帰宅する時間ですので、中でお待ち下さい。」
そう言って、武士を門の中に招き入れる。門をくぐると、まずガードマンが、
「危険物は持ち込めませんので。」
そう言って、武士に上着を脱ぐ様、指示する。武士は指示通り、ホルスターごとガードマンの一人に銃を渡し、もう一人に入念なボディチェックをされた。一瞬、首から下げていたネームプレートにも手を伸ばされるが、特に問題ないと判断された様で、すぐに放される。武士は内心、胸を撫で下ろした。これは真弓に貰った大事なものだ。
それが終わると、ガードマン達は去って行き、秘書の男が「こちらです。」と言って、歩き出す。すると、また口笛を吹きそうになる位、立派な庭園が広がっていた。庭園灯などで所々ライトアップもされており、まるで旅館か料亭の様である。その庭を抜け、離れに案内された。離れと言っても、一般的な家庭なら、十分に一家族は住めそうな大きさだったが。その中の応接室に入ると、バブル期に建てられたのだろうか、大理石で出来たマントルピースやテーブルが設えられていた。ここを作ることによって権力を誇示したかったのだろう。おまけに絵画や骨董品といった類のものも並んでいる。だが、無粋な監視カメラがそれらを台無しにしている様に、武士には思えてならなかった。
武士の思っていることなど、特に興味も無いのであろう、男は無表情のまま、機械的に革張りのソファに腰掛ける様、勧める。武士は礼を言い、言われた通りにそこへ座った。すると、男は応接室の端にあるカウンターから、ウィスキーやブランデーと氷、水などを運んできて、
「ご用意致しましょうか?」
そう尋ねてきたが、武士は手を振って、「お構いなく」と答えた。
「それでは、しばらくお待ち下さい。」
男はそう言い残し、部屋を出て行く。武士は男に頭を下げ、彼が出て行った方を見送った。もとより、出されたものに手を付ける気はないが、監視カメラがあるので、この部屋から出て動きまわることも出来ない。仕方なくソファに腰掛けたまま、首だけ動かして部屋の中を観察した。しかし、監視カメラとは明らかに違う視線を、複数感じる。
(囲まれたな……。)
武士はそう確信したが、それに気付いた素振りを一切見せない様に、さらに深くソファに腰掛けた。囲まれてはいる様だが、銃などで狙われている気配は感じなかったからだ。先程のガードマン達にしても、銃は所持していなかった……この国では当たり前のことだが、本当のところは田上が屋敷内で使用されるのを嫌った為ではないか、と思われる。とりあえず、相手の出方を見ることにした。
小一時間程度経った頃、乱暴にドアを開け、田上が部屋に入ってきた。
「指名手配犯が、わしに何の様だ!?」
開口一番、威圧的な物言いで、そう武士を怒鳴りつける。武士も侮蔑の視線を田上に向け、
「それは、あんたが一番分かってるやろ?」
そう言い放つ。田上はギラギラした目で武士を睨みながら、
「わしは、お前みたいなチンピラに用はない。」
「俺かて、あんたみたいな輩と押し問答をしに来たわけやないで。」
武士は鼻で笑いながら、そう言った。すると田上は、
「何が目的だ?金か?」
蔑む様にそう問いかけてくる。武士は口の端を上げながら、
「人を平気で実験材料にする様なお方は、さすがやなぁ……言うことに品が無い。」
そう言うと、田上は顔を真っ赤に染め、
「こいつを何とかしろ!」
姿を隠して武士を囲んでいたボディガード達に向かって叫ぶ。田上がそう言うが早いか、武士は田上の後ろに回り込んで、首を左腕で締め上げた。そして、
「俺がこいつの首を圧し折るのと、あんたらが俺を叩きのめすのと、どっちが早いか試すか?」
完全に機先を逸らされたボディガード達を見回しながら、そう言った。四人いる。見たところ、皆それなりの手練れだろう。先程のガードマン達が監視カメラを見て駆けつけると、少なくとも六人はいることになる。だが、切り抜けられないこともないな……と、武士は冷静に分析した。
「こいつらを、下がらせろ。」
田上の首を締め上げながらそう言う。
「わ、わかった……。」
先程までの威勢の良さはどこへやら、田上は弱々しくそう言うと、手でボディガード達を追い払う様な仕草をする。ボディガード達は冷静に、また武士の前から姿を隠した。
「苦しい……。」
田上はそう言って呻くが、武士は力を緩めず、
「あんたが出るところに出て、何もかも正直に話す、言うんやったら放したる。」
「そういうわけには……いかん……。」
そう田上が言い終わるや否や、武士はさらに左腕に力を込めた。すると、
「や、やめてくれ……。」
田上は苦しげに喘ぐが、もちろん武士には言うことを聞く気など無い。その時、首筋にチリッと殺気を感じ、田上を突き飛ばして、物陰に飛び込む。ほぼ同時に窓ガラスがけたたましく割れ、着弾音が聞こえた。スナイパーライフルだ。あの高速道路での銃撃戦で、やり合った相手に間違いない。
「ゲホッ、お、遅いわ……。」
そう言いながら、田上は首元をさすり、立ち上がる。そして武士に、
「おいチンピラ、観念するんだな。」
形成逆転とばかりに、そう吠える。確かに相手が飛び道具となると、丸腰の武士には歩が悪かった。武士は物陰の隙間から、ガラスの無くなった窓の向こうの、狙撃手のいると思われる方に目を凝らす。一瞬スコープの反射光が見えたかと思うと、鼻先をレーザー照射が翳め、後ろの壁に着弾した。それとほぼ同時に物陰から飛び出し、部屋を出ると、今度は先程のボディガード達が襲い掛かって来る。武士は後ろから飛び掛かってきた一人に、振り向きざま肘を頬桁に食らわし、掴みかかろうとするもう一人の腕を、背負い投げの要領で引き寄せると、残りのボディガード達に向けて、そいつを投げつけた。その間、ボディガード達との間に出来た隙間を、すり抜ける様に走り、離れを出ようと試みるものの、スナイパーライフルのレーザーポイントが見えた為、とっさに離れ内の別の部屋に逃げ込む。ひとまず中から鍵をかけ、時間を稼ぐしかなかった。すぐに外からガチャガチャとドアノブを開けようとする音が響く。武士は、闇に目が慣れると、部屋の奥にさらに扉が見えたので、そこに駆け寄り扉を開けた。すると、まだ先に階段らしきものが続いている。躊躇っている時間は無い。思い切って歩を進めることにした。
武士がボディガードと格闘していた頃、田上は携帯電話を取り出し、どこかへ掛けたかと思うと、先程までとはまるで別人の様な口調で、残忍な笑みを浮かべながら言った。
「足ぐらい打ち抜いても構わんが、殺すな。アレは、わしの『獲物』だ。」
一方武士は、真っ暗な階段を進んでいた。途中何度か折り返すものの、ずっと下りが続いている。しかも、手で壁を伝いながらでなければ進めない程の暗闇だ。平衡感覚も完全に失われてしまい、途中から一体自分がどこへ向かっているのか、全く分からなくなった。
イザナギが、死んだイザナミを追って黄泉の国へと向かった時、こういう感じだったのか……?などと、普段なら思いつきもしない様なことを考えている自分に、少し驚く。
時間にすると三分程度の短い間だったに違いないが、ようやく最下層らしい、行き止まりに辿り着いた。壁を伝っていた手で触る感触が、一部ヒンヤリとしており、ドアノブの様な出っ張りがあることに気付く。回してみるとカチャリと音がして、扉が開いた。瞬間、隙間からゾッとするような冷気が流れ込んでくる。
「まるで冷蔵庫やな。」
武士はそう呟きながらも、この地下室らしき部屋に入って、目を凝らした。先程までの通路や階段とは違い、どこかに光源があるらしく、薄ボンヤリとした輪郭が徐々に見えて来た。
「!」
それらが一体何か理解するまでに、かなりの時間を要した。
人だ。いや、正確に言えば、かつて人だった肉の塊とでも言った方が良いかもしれない。そういった『物体』が収められたホルマリン容器などが、気の遠くなる様な数、並べられていた。老若男女関係なく、全身そのままの人もいれば、首から上が無い人や四肢が欠落している人もいる。逆に部分的……頭部だけのもの、胴体部分だけのもの……細かいものであれば、指だけのものや、内臓だけのもの……そんなものもあるかと思えば、恐らく有り得ないような圧力を掛けられたのだろう、あらぬ方向に身体が捻じれていたり、あるいは解体途中なのだろうか?内臓が丸見えになった状態で、そのまま浸けられている様な人も数多くある様だった。まともな人間には、直視するのも難しいだろう。
武士は、あまりのおぞましさに胃がひっくり返った様になったかと思うと、辺りに中の物をぶちまけていた。黄泉の国へ辿り着いていた方が、いくらかましだったかも知れない。
「一体、何なんや……これは……?」
口元を拭いながらも、言葉を発せずにはいられなかった。黙っていると、精神がおかしくなってしまいそうだ。
「関東軍の遺産……とでも言っておけば良いのかな?」
武士は、突然響いた聞き覚えのある声の方を向く。そこに礼司が立っていた。彼がここにいるということも驚きであるはずだが、頭が麻痺しているのか、そのことを問い質したりしなかった。
「それって、第二次世界大戦時の七三一部隊の……?」
自分で言いながら、まるで現実味が無かった。七三一部隊と言えば戦時中、捕虜達を人体実験に使ったという、帝国軍の中でも特に悪名高き部隊ではあるが、物的証拠等が残っていない為、現在でも謎の部隊とされている。当時の連合軍……特にアメリカ軍が、『研究成果』を密かに手に入れようとし、証拠隠滅に手を貸したからだ……などという、嘘か真実かわからない『伝承』として、現在に伝わっている話に過ぎず、武士も知識として名称が出ただけだった。
「最も……『ヤツ』が手掛けた、最近のモノがほとんどだけれどな。」
礼司は武士の問い掛けにそう答えてから、彼にしては珍しく真剣な口調で、
「武士……お前、何でここへ来た?」
「何でって……。真実を知りたかったからや。親父や神村さんが殺された、ホンマの理由を……。」
そこまで言ってから、礼司の不可解な行動が、何を意味するのかが突然理解出来た。
「まさか兄さん、俺を助けようとして降圧剤を……?」
武士の問い掛けに、笑っているとも泣いているともとれるような声で、
「俺があれだけお膳立てしてやったのに……。大人しくサツにパクられておけば良いものを、何で逃げ出したりした?そんなに、生きたまま『解剖』される方が良いのか?」
「……。」
神村康夫の遺した『機密文書』に、田上順三は生体解剖を趣味としており、帝京製薬の臨床実験で失敗し、障害が残るなどした人……中でも天涯孤独な人間を、彼の実験材料にしている……そして田上邸の地下室には、彼の作り出した人体標本が陳列されており、帝京製薬の研究施設は、新型の麻薬を作らせるのが本来の目的では無く、それらをカムフラージュするためのものだ……という内容の、驚きの新事実が記載されていたのだが、それが一体どういう意味なのか、武士には理解出来ていなかった。だが今、『麻薬』を密造させる為だけではなかった……という事を、ようやく理解する。もし、あの研究施設に捜査が入ったとしても、ヤクザに脅されて『麻薬』を作っていた……あながち嘘でも無い為、そう真実を捻じ曲げることが出来るであろうから、小林に反対されていなければ、武士はとんだ無駄足を踏むことになっていただろう。
さらに礼司が、
「武士、お前は初めから……田上に狙われていた。」
そう発せられた言葉に、武士は訳が分からず戸惑いの表情を浮かべていると、
「お前の父親が九年前、あいつの秘密を暴いた……正確に言うと、俺達村山組との共同作戦でってところか……。」
「え……?」
武士は目を見開く。彼の様子を、特に気にせずに、礼司は続ける。
「当時、組のシマで、シャブ中になるホステスやホストが数人居てな……まあ、うちの組以外でもかなりの数居たらしいが……。知っての通り、うちは組長の方針で、『シャブ』はご法度だ。だから、そういう奴らは絞めておいて、シマから放り出していたんだが……どうやらそんなシャブ漬けになった連中を、高値で買い取る男が居る……そんな妙なウワサが流れた。」
「……。」
「しかも、実はそいつが『シャブ』をほとんどタダみたいな金額で売っていて、それで皆飛びついて買っていたらしいってことが分かったんだ。俺達は、これ以上大事な商売道具を、駄目にされた上、持っていかれちゃかなわねえ……そう考え、その男というのが一体何者なのか、調べようとした。だが、尻尾を捕まえかけた……と思うと、スルリと躱される。で、調査のプロに依頼した……ってワケだ。」
「……それが親父やったってことか?」
武士がそう尋ねると、礼司は「そうだ。」と言って頷き、
「俺達は協力して、その男が誰かを突き止めることに成功した。そいつが……田上だった。」
「まさか……そのシャブ漬けになって、買われたって人らは……?」
武士は辺りを見回す。また、吐き気が込み上げてきた。
「そう……そのまさかだ。俺も正確な『数』は知らない。」
その言葉に、思わず口元を手で押さえながら呻いた。
「狂ってる……。」
礼司は、武士の様子を見ながらも、更に続けた。
「それに、そのタダみたいな『シャブ』というのはもちろん覚せい剤なんかじゃ無く、ヤツが帝京製薬に作らせた、当時の『新型ドラッグ』だった。もちろんシャブもクソみたいな代物だが、そのドラッグは、更に質が悪くてな……中毒になる早さが半端無かった。まさに人間性なんて無視した代物さ。ヤツは、自分が生きたまま解剖する為の『材料』を、そうやって作り上げていたんだ。」
礼司の話に青ざめながらも、武士はもう一つ気掛かりな事を尋ねた。
「まさか……紫帆さんも!?」
「彼女は、違う……あれは本当にシャブだった。あの時は俺も焦ったさ……またやられたのかと思ってな。まぁショウが責任を取るって言うんで、二人とも組から放り出すことにはなった。」
「……え?」
訝しむ様な声を上げる武士の方を見て、礼司はニヤリと笑い、
「そうだ。ショウは確かに粛清したが、殺しちゃあいない。もっとも……その後どうしているのかまでは、俺も知らないんだがな。」
武士は、将太も紫帆も無事だったと聞いて、良かったと思う反面、今まで死んだものと信じていたから、どう喜べば良いのか自分でも分からなかった。きっと引き攣った様な笑顔になっていたに違いない。礼司は、そんな武士の様子にはお構いなしに、さらに続けた。
「しかしその後、田上の『悪癖』が世間に知られたりしなかった。田上が警察庁に、『関東軍の遺産』を盾に圧力を掛けたからだ。これが表沙汰になれば、国際問題に発展するからな。まあ、そうなる前に、アメリカが黙っちゃいねえだろうが……。それでも、流石に全てを揉み消すのは難しかったんだろう。別の不祥事を表沙汰にすることで、田上御手製の『コレクション』については隠し通すことが出来たが、そのツケとして、厚生労働大臣の地位からは失脚した……。」
「もしかして、田上が認可した薬が原因で死者が出た……ってヤツか?」
武士の問い掛けに、礼司が頷く。
「あいつは俺達村山組と、お前の父親を憎んだ……完全に逆恨みだがな。それで、本当は俺達の中の誰かとお前の父親を、あいつの『実験体』にしたかったのさ。だが、お前の父親は、犠牲になるのは自分一人だと突っぱねた。村山組としては、今までに犠牲になったホステス達だけで、十分だろう……そう言ってな。そして俺達は、組と組長を守る為に、表向きは田上の『手駒』になる道を選んだ。だが、昔気質の組長は、それを良しとしなかった。だからその後、田上の雇った殺し屋に『狙われた』ってワケさ。」
「俺が兄さんに『殺れ』って命令されたんが、その殺し屋やったってことか……。」
武士の言葉に、礼司は頷きながら、
「だが、いざとなると川藤功士には、お前という家族の存在が居たから、ヤツの『実験体』にすることは、諦めざるを得なかった。捜索願でも出されると、面倒だからな。その代わり、当時帝京製薬で開発中の、新薬の被験体にさせるということになった……。」
「それで田上は、俺のことを憎い『川藤の息子』として、狙うとるわけやな?親父が居なければ天涯孤独の身ぃや。死体でも良いから探せとは、誰も言わへんから、後腐れが無い……。」
礼司は「そうだ」と言い、
「神村康夫についても同様だ。彼にも娘がいた……だから……」
その時、
「どうかね、わしのコレクションは。すばらしいだろう。」
そう言いながら、田上が現れる。
「わしの祖父が、関東軍の軍医だったのが縁で手に入れたものだ。もちろん、祖父の経歴を知っているのは一部の人間だけだがね……。その他は、わしの手によるものだ。」
「少なくとも、泣きながら感動する様な人間は、この世にはおらんやろうな。」
武士が蔑みの視線を向けながら、そう答える。すると田上は、残忍な笑みを浮かべながら、
「減らず口を叩けるのも今の内だ……もうすぐ別の意味で泣き叫ぶことになる、川藤の息子。」
そう言って、続ける。
「わしは祖父がうらやましいよ。あの頃は、日本の医療発展の為に、いくらでも実験体を使えたそうだからな。それに比べ、今の時代はいけない。お前の様な、生きていても意味のない人間が掃いて捨てる程居るというのに、何の役にも立たず、ただ普通に年老いて死んでいくだけだ。」
「せやな。生憎、俺かて貴様の『高尚な悪趣味』に命を投げ出す位やったら、何の役にも立たずに、普通に死ぬことを選ぶな。」
そう言いながらも、武士にとってかなり危機的な状況であることに変わりなかった。礼司が始めからここにいた……ということは、田上に対して否定的な事を話してはいたものの、自分の味方をする可能性は低い。そして、田上の後ろには先程のボディガード達が控え、完全に両側から挟まれた状態だった。武士は必死で頭を働かせ、この状況を打開出来る糸口を探す。
考えを巡らせている間に、かなり礼司の側まで来ていた。警戒しながら、横目で薄暗く浮かび上がる礼司の姿を見た武士は、悲鳴に近い声を上げ、立ち尽くす。礼司自身、両足が太腿の途中から無くなっていた。その状態で台の上に乗せられていた為、暗がりでは立っている様に見えたのだろう。
「兄さんっ!」
思わず絶叫する。だが、武士が動揺した為に見せた一瞬の隙を、ボディガード達が見逃すはずは無かった。素早く後ろに回り込んだ一人に羽交い絞めにされ、左右の腕をそれぞれ一人ずつに掴まれる。さらに膝裏を蹴られ、自然と田上の前で跪く格好になった。すると、田上が武士の髪を掴んで顔を上げさせ、
「礼司にはすっかり騙されおったわ……お前を連れて来る様、再三言っていたのに、のらりくらりと誤魔化してばかりだったからな。それが、まさか自分の組のヒットマンにしていたとは、わしも気付かなんだ。まさに『灯台下暗し』だ。」
「それで兄さんを『実験体』にしたって訳かっ!?」
武士は田上に憎悪の視線を向ける。
「わしは慈悲深いからな……今までの働きに免じて、麻酔はしてやったぞ。」
そう言って、ゾッとする様な笑みを浮かべながら、礼司の方を見る。武士も顔を歪めながら、礼司を見上げると、
「武士……俺はお前に相当酷いことをしたり、やらせたりしたよな?なのに、お前は俺の事をそれ程恐れたり、憎んだりしなかった……。何でだ?おかげで……俺がこの体たらくだ。」
そう言いながら、自虐的な笑みを浮かべた。
武士は、礼司のいつも以上に青白くなった顔を見つめ、
「俺かて、初めは兄さんが恐ろしかった……でも、俺の事はゾッとするような冷たい眼で見ても、いつも姐さんのことは、優しい眼で見てたやろ?だから、この人にもちゃんと人間らしい感情があるんやって分かって……別に恐れたり憎んだりせんでもええ……そない思うたんや。」
そう言ってから、田上の顔を見返し、
「あんたには、人間らしいところなんか、一つも無さそうやけどな。」
武士がそう言い終わるや否や、頬をバックハンドで殴りつけられた。口の中のどこかが切れたらしい、血の味が広がる。そして田上は、再び武士の髪を掴むと、顔を近付け、
「いくらでも吠えるがいいさ。負け犬らしく、な。」
そう言い放つ。武士はその顔に、血混じりの唾を吐き掛け、ニヤリと笑った。すると、田上の顔から一切の笑みが消え、
「連れて行け。暴れる様なら、お前らで手足の筋くらい切っても構わん。」
そう言い残し、去って行く。その背中を、暗澹とした気持ちで見送っていると、横目にキラリと光るものが見えた。武士の真後ろに立つボディガードが、どこからかコンバットナイフを取り出して、左手側のボディガードに手渡す。そして、武士の手首に振り下ろそうとした、その時、頭上から、「チョイ待ち」と、ボディガード達を制止するかの様な声が聞こえ、
「あんたが村山組のヒットマンか?」
そう言いながら現れたのは、三十代半ば位の見覚えの無い男だったが、肩にライフルを下げていた。先程のスナイパーに間違いないだろう。
この男も現れたとなると、致命的だ……武士は、絶望感に苛まれながらも、
「さっきは……どうも。」
辛うじて、挨拶をする。男は目の前まで来ると、武士の顎を掴んで顔を上に向かせ、まじまじと見ながら、
「へぇ……聞いていた以上に若いな。」
驚きの声を上げた。武士はあからさまに顔を背けると、横目で男を睨みつけ、
「ところで、あんたは何モンや?」
憮然として尋ねる。
「あ、俺?フリーのヒットマンをやっております、小野田泰彦と申します。」
そう言って、大袈裟に礼をした。そしてまた顔を上げ、話し始める。
「あの時、まさか出し抜かれるとは思ってなかったから、君にはもう一度勝負を挑みたかったんだけど……田上さん、しびれを切らしているから、ダメかなぁ……?」
例の高速での銃撃戦のことを言っているのだろうが、武士にしてみれば、さっきの狙撃でチャラだと思い、
「俺かて今、あんたのせいで逃げ損ねたんやから、それは勘弁してや。」
「そらまぁ、そうか。じゃあ……」
小野田はそう言いかけたかと思うと、武士の左手側のボディガードを、ライフルの柄の部分を使って殴り倒した。ボディガードは不意打ちを食らった形となり、コンバットナイフを取り落としながら、もんどりうって倒れる。それとほぼ同時に、武士は自由になった左腕で、右手側のボディガードの首元目掛けて殴りつけ、怯んで手を放した隙に後頭部へ足蹴りをお見舞いした。残りの二人が襲い掛かってきたが、一人は同じく小野田が倒し、残る一人も武士が難無く片付ける。
「これでおあいこってことで、如何かな?」
小野田はそう言って、ニヤリと笑った。
「いや、でも俺最近足洗ったし……それにもうすぐ警察が来るハズや。」
武士がそう言うと、小野田は慌てた様子で、
「ええっ、マジで!?ヤバいなぁ、早くずらからないと……。」
実は武士は田上の屋敷を訪れる前、小林に連絡を取って、田上の家に単独で乗り込む旨、報告しておいたのだった。もちろん再三止められたが、武士が振り切った為、小林はかなりお冠に違いないだろう。だが、彼のことだから、手をこまねいているだけではないはずだ。その点でも、小野田の銃撃は、近隣に響き渡ったであろうから、役に立っているに違いない。そうは思ったが、恩着せがましくされるのも癪なので、黙っておいた。
小野田は溜息を吐きながら、仕方がないという風に肩を竦め、
「じゃあ、同じ大阪人のよしみってことで、負けといたるわ。」
流暢な関西弁でそう言う。武士は面食らったが、そうではない疑問を口にする。
「あんた……俺は助かったけど、何でや?」
「礼なら、そこの兄ちゃんに言うたって。今回のホンマの雇い主や。」
小野田はそう言って、礼司の方を向く。つられて武士も礼司を見ると、彼にしては珍しく、バツが悪そうな顔つきをしていた。
「じゃあ、捕まるのは勘弁やから、もう去ぬわな。」
そう言って、小野田は現れた時と同様に、いつの間にか居なくなっていた。
(何や、ニンジャみたいな人やったな……。)
武士はそう思いながらも、礼司のことをどうすれば良いか、考える。彼は組の若頭だ。自分はともかく、礼司の喪失はかなり組に痛手を与えるであろう。いや、それ以上に礼司の事を心配する人が居る。とにかくここから連れ出さなければ……そう思い、礼司に背中を向けながら、
「兄さん、とにかく俺に負ぶさって!」
そう言うが、礼司は首を振り、
「こんなことになって……今さら生き長らえようとは思わないさ。」
そう力なく言う。武士は、思わずカッとなって、
「何、アホな事ぬかしとんねん!姐さんの気持ち、考えたってぇや!」
そう捲し立てる。すると礼司は、いつもの少し人をくった様な笑みを浮かべ、
「お前にだけは言われたくないな……散々人に心配を掛けておいて。」
「……そうでした。すんません……。」
武士は失言だと思ったが、すでに遅い。言い合いになれば、礼司に勝てるわけが無かった。礼司はさらに、
「真弓ちゃんだっけ?あの子の気持ち、本当に考えてやっているのか?」
「あ、はい、返す言葉もございません……。」
「もちろん弥栄子だって、お前の事をずーっと心配していたんだぞ?」
「そう、ですよね……。」
でも昨日、弥栄子に電話で、真弓に迷惑を掛けたらタダじゃおかないと脅されたのは、こっちなんやけどなぁ……と、心の中で呟く。
「弥栄子のヤツ、あまりにも心配掛けられて腹が立つから、お前の全身彫ってやるって息巻いていたぞ?」
「ええっ!?それだけはゼッタイ嫌やって!姐さんも大概ヒドイお人やなぁ……。」
武士が情けない声を出す。それを聞いた礼司が、珍しく声を上げて笑った。すると、ボディガードの一人が身体をもたげようとするのが見えた為、武士は礼司の腕を掴んで、自分の首に回し、半ば無理矢理背負うと、その場を駆け出す。両足を失った礼司の身体は、想像以上に軽かった。
「その先の部屋にエレベーターがある。」
礼司の指示に従い、その通りに動く。エレベーターのある部屋というのは、手術室の様だった。ここで、おぞましい事が繰り返されていたのかと、考えるだけでも吐き気がする。とにかくこんなところには、一秒でも長く居たくはない。早々にエレベーターに乗り込むと、上階のボタンを押した。かなり年代物のエレベーターらしく、ゴウン……という音と共に、動き出す。
「なあ、武士。お前……組に残る気は無いか?」
突然礼司がそう問いかけてくる。礼司にしてみれば、自身の身体がままならない状態になってしまい、やはり組の行く末を案じているのであろう、二十代の次代を担う組員の中では古株にあたる、武士の助けは欠かせない……そう考えたのかも知れなかった。
「ゴメンな、兄さん。ありがたいんやけど……それは止めとくわ。」
「そうか……。」
礼司の声がいつもより弱々しく聞こえるのは、気のせいではないだろう。だが、二人ともそれ以上は何も言わなかった。
程無くして上階に到着したらしい。乗った時と同じく大きな音をたてて、扉が開いた。ここは、どこだろう?武士は降りると同時に辺りを見回す。離れのどこかに違いないのだろうが……。
その時、武士が殺気を感じるのと、礼司が「右だっ!」という鋭い声を上げるのがほぼ同時だった。銃を構えた田上が現れ、引き金を引く。武士は礼司を背負っていた為、とっさに身体を捻ったりすることが出来なかった。真面に胸の辺りに銃弾を受ける。
「武士っ!!」
礼司の叫び声を聞きながら、痛みというより物凄い衝撃を受け、仰向けに倒れていくのを、他人事の様に感じている自分がいた。
「ざまあ見ろっ!」
引き金に手を掛けたまま、田上が狂ったような声を上げた。礼司は、覆い被さる形になった武士の身体から何とか這い出し、田上に向かって怒鳴る。
「……てめぇ!それ、武士の『道具』じゃねえか!」
田上が手にしていたのは、武士がガードマンに預けた拳銃だった。自分の銃で命を落とす程、ヒットマンにとって屈辱的な事は無い。礼司は、田上を視線だけで殺しそうな目で睨みつけた。
だが、礼司の声を聞いた田上が、今度は彼に銃口を向ける。自分の身体自体を支えるのもやっとの礼司にとっては、素人同然の田上の銃撃からすら逃れることが出来ないという事実に、歯噛みするしかなかった。
その時、何者かが田上の手を蹴り上げ、銃を跳ね飛ばす。即死したはずの武士だった。
「!」
礼司は呆然と目を見開く。それと、武士が田上の首を絞め上げ、意識を落とさせるのがほぼ同時だった。まだ状況が掴めていないといった、礼司の表情を見て、武士は、
「ええっ!?俺やっぱ信用無いんやなぁ……。そんな実弾入りのヤツを、敵さんに易々と渡すわけないやんか!」
「何?……ということは、ゴム弾か?」
礼司がそう問いかけると、武士はニヤリと笑い、
「兄さんやったら、撃った時に実弾じゃ無いって気付いたやろうけどな。」
そう言ってから、首から下げていたチェーンを取り出し、
「でも、結構マトモに食らったから、なんぼゴム弾でも、これが無かったら俺、ヤバかったかも知れんわ。」
それは、例の真弓に貰ったネームプレートだった。それを礼司に見せながら、武士は相好を崩し、
「やっぱり、真弓ちゃんはええ子やなぁ……。うわっ!ヒビ入ってる……どないしよ!?」
そう一人で惚気てみたり、慌てたりする武士を見ていると、礼司は無性に腹が立って来て、心配させられた腹いせとでも言う様に、そのネームプレートを繋ぐチェーンを引っ掴むと、武士を転がし、首を絞め上げた。
「ちょっ……兄さん、堪忍!し、死ぬ、ホンマに死ぬから!」
「構わん、死ね!一回死んでおけっ!!」
礼司が武士に馬乗りになって首を絞めていると、部屋の外が騒がしくなり始め、大勢の警官たちが駆け込んでくるのが見えた。すると、礼司はちゃっかり武士の腕を引っ張って、自分が仰向けになり、さっきまでとは位置を逆転させておいてから、
「助けてー、おまわりさーん!」
滅茶苦茶わざとらしく助けを求める。武士は半眼になって、
「あのなぁ……三十過ぎたオッサンが言うセリフでもないやろ……?」
そう言いながら立ち上がる。そして、武士のところに数名の警官たちが駆け寄ってくるが、抵抗の意志が無いことを示す為、両手を挙げておくと、すぐに両脇から囲まれる形になった。礼司の方を横目で見ると、数名の警官に助け起こされているところで、反対側へ首をめぐらせると、こちらも別の警官たちが、意識の無い田上に声を掛けている。やがて、警官たちの合間を縫って小林が現れた。小林の姿が見えると、武士は頭を下げる。小林も武士の顔を見るなり、
「本当に、君ってヤツは!」
そう言って、頭を小突かれた。
「……申し訳ございませんでした。」
武士はそう言って、深々と腰を折った。小林は武士の肩をポンポンと叩き、
「私だけじゃなくて、こっちにも謝っておいてくれるか?」
そう言い、目線を向けた先に平田の姿があった。平田はバツの悪そうな顔つきをしている。武士は自分の仕出かしたことを思うと、血の引く思いだったが、とにかく平謝りするしかなかった。
「ホンマにホンマに……すんませんでした。」
「いえ……もう済んだことですので。」
平田は憮然としたまま、そう答える。
(当たり前やけど、やっぱりまだ怒ってはるよなぁ……。)
武士は内心そう思いつつ、
「ええと、その……無理矢理お借りした服は、市川駅前の商業施設の落し物センターに届けてありますんで……。」
「え、そうなの?」
平田は素っ頓狂な顔つきで、武士の方を見返した。
「まだお若いみたいやから……就職記念に仕立てたモンかも知れんなぁ、思うて。」
そう言いながら、自分もずっと大阪の高校の学ランを、お守り代わりに着ていたことを思った。
「……その通りです。」
複雑な様子でそう答える平田と武士とのやりとりを、隣で聞いていた小林だったが、意を決したかの様に、
「平田刑事、ワッパ持っているよな?頼む。」
平田に向かってそう声を掛ける。武士は小林の方を向き、「ちょっと待って」と言いながら首に掛けていた例のネームプレートを渡し、
「これ、中にICレコーダーを入れてます。さっき撃たれた時に、回りはヒビいってしもうたんですけど……たぶん中身は大丈夫やと思うんで……。」
実は武士が大阪へ行ったもう一つの目的は、このICレコーダーを手に入れる為だった。市販品でもかなり小型のものを手に入れることが出来るのだが、このネームプレートに組み込むサイズは無かったからだ。それと、ゴム製の弾丸も手に入れる必要があった。東京でも顔見知りの業者から調達は可能だったが、足が付くのをなるべく遅らせる為、そうしたのだった。
「わかった。」
小林はそう言って、ネームプレートごとICレコーダーを受け取る。そして、平田の方を向き、目配せすると、彼は武士に手錠を掛けた。武士は小林の顔を見て、
「兄さんは……どうなるんかな?」
そう尋ねると、小林も難しい顔つきをして、
「今の状態では何とも……とりあえず、事情聴取は行われるだろうけれど……な。」
「そうですか……。」
それだけ言うと、数名の警官に付き従われ、連行される。小林は、その後ろ姿を見送ると、意識を取り戻したらしい田上の方を見て、
「田上さん、色々伺いたいことがありますので、署までご同行願えますか?」
そう有無をも言わさぬ口調で告げた。
それからしばらくの間、現自由国民党副総裁で、厚生労働大臣の職に就いたこともある田上議員が、老舗の製薬会社である帝京製薬と結託し、人質を取って一部の研究員達に『麻薬』を密造させていた上、臨床試験の為に多くの人体を使った実験を繰り返し、中には死亡に至った人や、重篤な障害が残った人がいた……という、前代未聞の事件が世間を賑わせることとなった。もちろん田上は議員職を辞し、また、それなりの刑罰が下されることにはなったのだが、やはり……というべきか、彼の自宅で発見されたという『旧関東軍の遺産』と、そこで更に忌まわしいことが行われていた……という事実が明らかにされることはなかった。
田上の行っていた『悪癖』はともかく、今までオカルトと同じ扱いだった七三一部隊の、人体実験を行っていたという物的証拠が白日の下に晒されることになれば、当時の連合軍による調査が偏っていたという事実を露呈することになり、現在までまことしやかに伝わっている、アメリカ軍による実験内容の独占が行われていた、という噂が、真実味を増すばかりとなる為、このことについては隠し通さなければならない……という米国側からの政治的圧力があったからだ。その為、今まで米国側に暴露するということを盾に、田上から圧力を掛けられていた警察庁としては、やっかい事から解放されることとなり、その田上を失脚させた『功労者』である数名に『恩赦』を与えたのだが、その事実も公表されることはなかった……。
十七 再出発
「おかえり、お兄ちゃん。」
そう言って、微笑む彼女の顔を見たとたん、抱きしめたくなる欲求を必死で押さえながら、
「……ただいま。」
川藤武士は彼女……神村真弓に向かい、そう答えた。口元がニヤつきそうになるのを必死で堪えていたが、どうやら無駄だったらしい、真弓の後ろで車椅子に座る男に、
「武士……お前、今にもこの子に飛びつきそうになっているだろう?」
そう、からかう様に言われ、バツが悪そうに真弓の方に目を向けると、彼女も真っ赤になっていて、武士から目を逸らし俯く。そのしぐさの一つ一つが堪らなく愛おしかった。武士は真弓の、俯いていてほとんど見えない横顔にも関わらず、食い入るように見つめ……頭をなでた。
「俺の事、待っててくれて……ホンマ、おおきに。」
俯いたままの真弓の目から、涙がこぼれ落ちるのが見える。車いすに座る男……彼こそ武士が兄さんと呼ぶ礼司であったが、その後ろで車いすに手をかけ、こちらを見ている女……武士が姐さんと呼ぶ弥栄子……彼女も同じ様に、目に光るものを湛えていた。
今日は武士の出所の日だった。五年足らずでこの日を迎えられたのは、奇跡だろう。自分でも、もし死刑を免れたとしても、人生の半分は無い……と、逮捕された時にはそう思っていた。
だが、彼が予想していた以上に刑期が短くなったのは、意外にもそれまで逮捕歴が無かったこと、またしびれを切らした田上が、警察庁に圧力を掛け、武士を指名手配させていたという不祥事が明るみになり、もちろん武士が神村を殺害したということは事実無根であった為、すぐに取り下げられたことや、また武士の証言による、彼が犯したという殺人は、いずれも十代の頃であったこと……しかも本人に積極的加害意思は無く、命を狙われていた人間を守る様に命令された為の、自己防衛的な意味合いがあったことが、大きな理由だった。結果的に過剰防衛とされたのだが、被害者側……田上の息が掛かった組織に属するヒットマンだった……も、十代の子供に返り討ちにあったというのは、面子に係わるという理由から、事実を隠していたこと……実際、当時は伝説と化していたというから、本人としては驚きだったのだが、結果、武士が証言するまで、このことは公になっておらず、自首扱いになったのも、理由の一つであろう。
それはともかく、武士が服役中、真弓は頻繁に面会に来てくれており、この五年弱の間に、女子高生から大人の女性へと変化していくのが、彼にはわかった。
彼女が成人式の写真を見せてくれた時、どうして自分は隣に居てやることが出来なかったのだろう……と、申し訳ない気持ちと同時に、悔しさに打ちのめされたのだが、真弓はこの五年の間、決して武士のことを見限ったりしなかった。
恐らく何人かの男から告白されたりしたであろうが、一度も付き合ったりせず、ひたすら武士のことを思い続けている……そう、真弓の友人らから聞かされ、武士は嬉しい反面、自分の存在が真弓を縛ってしまっている……そのことに慄き、さりげなく彼女に、面会に来ない様何度か勧めたのだが、頑固なところは父親の神村康夫譲りらしい、武士の真意を探る様に、ジッと目を見て、
「お兄ちゃんがイヤって言っても、私は来るし……それに、待っているから。」
そう言われ、武士はあっさりノックアウトされた。だから、誰よりもこの日を待ち望んでいたのは、自分自身に他ならない……武士はそう思う。
そんな二人の様子を、弥栄子はしばらく黙って見守っていたが、ずっとこのままかも知れないと危惧したらしい、
「お二人さん……そろそろいいかしら?」
そう声を掛け、弥栄子が運転してきた車へと促される。武士は自分の荷物を真弓に預けると、礼司が助手席へと乗るのに手を貸し、車椅子を折りたたんでハッチバックのトランクに仕舞った。
全員が車に乗り込み動き出したところで、弥栄子が、
「武士……あんたの部屋は私が用意したから、そこで当面の間、生活すれば良いわ。」
そう切り出した。後部座席から、ルームミラーに映る弥栄子の目を見て、
「姐さん、おおきに。でも……」
「遠慮は一切無しね。あんたがきちんとした仕事について、給料を稼げる様になったら、賃料も頂くわ。それに……あたしの『タトゥー』の仕事で、あんたの部屋を時々使わせて貰うから。」
武士は大きく頷き、弥栄子の好意を有難く受けておくことにした。さらに弥栄子は、悪戯っ子の様な顔つきをして、
「ただし、あんたが自分でお金を稼ぐ様になるまでは、私と真弓ちゃん以外の女を部屋に入れたら承知しないからね?」
そうクギを刺してくる。武士は弥栄子を軽く睨みつけながら、
「……そんなん、自分で金稼げる様になっても絶対せえへんから、大丈夫や。」
憮然として答えると、弥栄子は肩を竦めながら、
「はいはい、もう、冗談だってば!そうムキにならなくても……ね、真弓ちゃん?」
助けを求めるかの様に真弓にそう言うと、彼女は困ったような顔つきをしながら目を泳がせる。武士と目が合うと、真っ赤になって俯いた。その様子を横目で見ていた礼司が、ニヤつきながら、
「で、今日はどうするんだ?もしかして……初夜ってやつか?」
からかうかの様に言うと、真弓はますます……耳まで真っ赤に染めて俯くばかりだった。その真弓の初々しい様子を見た武士は、こちらまで気恥ずかしくなりながら、
「兄さんら……デリカシーってもんが無いらしいな……。」
そう呻く様に言い返すことしか出来なかった。だが、気を取り直し、
「姐さん……厚かましいんやけど、金も貸して貰えるかな?」
そう言うと、弥栄子は笑いながら、
「ホントにそうね。どうするの?」
そう尋ねて来る。武士は真剣な面持ちで、
「救急救命士の資格を取りたい……そない思うてんねん。もちろんバイトでも何でも出来ることをして、自分でも何とかするつもりやけど……学校に行かなあかんさかい……。奨学金が下りればええんやけど、俺みたいなのに金貸して貰えるかどうか……。まぁ、何よりまず高卒資格認定試験を受けて、合格せなあかんねんけど……。」
実は武士が服役中、山岸が彼を訪ね、例の帝京製薬の研究所で人質を取られ、働かされていた数名が中心となり、新たな医療機関……主に薬害による障害や、中毒を起こした人達の治療を目的とした施設……を起ち上げることになった為、是非そこで働いてみませんか?と声を掛けてくれたのだった。武士は、高校中退の学歴しか持たないことを正直に話すと、とにかく高卒資格認定試験に合格して、救急救命士の資格を取る様に勧めてくれたのが、彼だった。
武士が話すのをじっと聞いていた、隣に座る真弓が、
「お父さんの遺産があるから、それを使ってくれれば良いのに……。」
そう切り出したが、武士は頭を振り、
「真弓ちゃん、それは筋違いや。親父さんが真弓ちゃんの為に遺したお金なんやさかい、俺なんかの為に使うのは、絶対あかん。」
それを聞いた真弓は、顔を曇らせたが、武士が相好を崩して、
「おおきに。気持ちは有難く頂いたから。」
そう言うと、すぐにパッと輝く様な笑顔に戻った。そんな真弓が愛しくて堪らないといった顔つきで、見つめる武士に向かって、
「えー、オッホンオッホン。分かった、お貸ししますから、続きは部屋でやって頂戴。」
弥栄子はわざとらしく咳払いをしながらそう言うと、真弓はまたしても真っ赤になって俯いた。
礼司はずっと口元をニヤつかせながら、そんな二人の様子を見つめている。気恥ずかしさと、これ以上礼司と弥栄子の二人にからかわれたくないという気持ちが働き、その後は二人とも黙りこくったまま、車に揺られていた。
それから小一時間ほどで、弥栄子が用意してくれたという部屋に着いた。……と言っても、弥栄子の部屋があるのと同じマンションだったのだが。車いすに乗せた礼司を、先に弥栄子の部屋まで送り届けると、「はい、これ。」と言って、弥栄子から武士の部屋の鍵と、紙袋を渡される。
武士が訝しむ様な顔つきをしていると、弥栄子が、
「今日は真弓ちゃん、泊まっていくんでしょ?ほら、下着とか必要なものを入れてあるから。」
それを聞いた武士の隣に立つ真弓が、また顔を赤らめる。それを見た武士も、何となく恥ずかしくなり、顔が火照った。だが、そんな二人の様子にお構いなしに、弥栄子は、
「あ、そうそう武士、あんたの生活に当面必要そうなものは、全部部屋に用意してあるから、それを使って。足りないものがあれば、部屋にいくらかお金も置いてあるから、それを使って自分で調達しなさいな。」
「何から何まで……ホンマにおおきに、姐さん。」
そう言って、武士は弥栄子に頭を下げる。真弓も同じ様に、弥栄子に礼を言うと、
「どういたしまして。じゃあ武士、しっかりね!」
そう言い残し、自分の部屋へと戻って行く。武士と真弓は彼女の背中を見送った。姿が見えなくなったところで、武士は真弓に、
「ほんなら……どうぞ、お入り下さい。」
そう言って部屋の鍵を開け、ドアノブを回す。カーテンを閉め切ってあるらしく、昼間だというのに、玄関は薄暗かった。
「お邪魔します……。」
そう言いながら、真弓が靴を脱ぐ。だが、武士にしてみても、何もかも弥栄子が準備してくれた部屋だから、ここが自分の家だという実感がまるで湧かなかった。真弓と同じ様に、心の中で『お邪魔します。』と唱える。
真弓が早速カーテンを開けに掛かり、窓も開けると、さわやかな風が通り抜けて行った。
どうやら弥栄子のセンスはバッチリだったらしく、明るくなった部屋に置かれているソファやキャビネットなどが目に入ると、真弓は小さな歓声を上げた。ただ、独り暮らしには無駄に大きなベッドだけが、どうしても理解出来ない……といった様子を見せてはいたが。
そうして、しばらくクローゼットの中を見たり、冷蔵庫の中を確認したりしていたが、調理器具や水、アルコール類と調味料等は置いてあったものの、食材は無いことが分かり、二人で買い出しに向かうことにした。武士が思っていた以上に、真弓は食事の用意に慣れているらしく、テキパキと必要なものを手に取り、それを買い物かごへと入れていく。そうして買い物を済ませると、再び武士の部屋へ戻り、彼女は早速調理に取り掛かった。
真弓が作っていたのは寄せ鍋だった。卓上電磁調理器も用意されていたので、弥栄子と礼司も部屋へ招き、四人で鍋を囲みながらの武士の出所祝いとなった。弥栄子はお祝いだと言って持ってきたはずのシャンパンをほぼ自分一人で飲み干し、上機嫌で、
「でも武士、ホントに良かったわよねぇ!もっと掛かると思っていたから……。」
「まぁそうやと思いますね……。」
弥栄子に肩を思いっきり叩かれながら、武士は曖昧に返事をした。実際、この出所までの期間は、裁判で申し渡された刑期よりも、さらに短い。だが、思い当たる節は……ある。恐らく、田上の邸宅に存在した『遺産』に関わりのあることだろう。その後、秘密裏に埋葬されたとの噂は耳にしたが、もちろん正式な発表など有るはずも無く、武士達当事者に対しても、特に説明等は無かった。礼司にしてみても、裁判では執行猶予付きになったことから、その辺りの事情はかなり根深いのではないかと推測される。だが、国家としての問題に、武士や礼司の様な個人がどうすることも出来ない。それに、今後田上が表舞台に現れる……まして新たな『コレクション』を作り出す様な事が無ければ、自分達にとって他に望むべきことは無い。だから、単純に『口止め料』とでも受け止めておこう……そう思い、割り切ることにした。
「お兄ちゃん、どうしたの……?」
武士の考え込む様子を訝しんだらしい、隣に座る真弓がそう尋ねてくる。
本格的にアルコールを口にするのは初めてだと言っていた彼女は、首を傾げながら、頬を薄紅色に染めている。そのあまりにも可愛らしい様子に、どう返事をしようかと考えていた武士だったが、思わず見とれてしまっていた。
「お前、可愛くて堪らない……早く押し倒したいって思ってるだろ?」
そう、向かいに座る礼司がニヤニヤしながら指摘する。
「あらぁ?じゃあ私たち、お邪魔よね?そろそろ退散するわね~。」
弥栄子も笑いながらそう言ってくる。武士と真弓は必死になって、二人を引き留めようとしたが、無駄だった。そして、部屋を出がけに、礼司が、
「お前……アレは大丈夫なのか?」
そう武士に耳打ちしてくる。アレ……?武士が訝しむ顔つきで、礼司を見ると、
「起こされると……ってやつだ。ムショでは何ともなかったのか?」
「あ、それ?いや……たぶんまだアカンと思う……。刑務所では事情を説明したら、独房にして貰えたんやけど……。」
武士がそう説明すると、礼司は口の端を上げ、
「ふうん……。それなら寝室に置いてあるモノを使え。じゃあな。」
それだけ言い残し、二人は武士の部屋を後にした。
残された武士と真弓は気まずそうにお互いを見つめたが、武士には、夜を共にするとなると気掛かりなことがあった……ということを思い出さざるを得なかった。とにかくそのことは後回しにし、食事の後片付けを済ませることにした。
「お兄ちゃんは今日のお祝いの主役なんだから、後は私がするよ!ゆっくりしていて。」
ある程度まで手伝ったところで、そう言って真弓に追い払われた。手持無沙汰になった武士は、先に風呂を済ませようと、寝室のクローゼットに着替えを取りに行く。着替えを取り出したところで、先程礼司が言っていたことを思い出し、ベッドへ目をやると、枕元に置かれたキャビネットの上に、置時計と並べて箱が置かれていた。
「兄さん、言うてたんはこれか……?」
そう呟きながら箱を開けようとした時、真弓に呼ばれたので、とりあえず着替えを持って寝室を出た。
「真弓ちゃん、どないした?」
そう尋ねると、
「ここはお兄ちゃんの家なんだから、私が勝手に片付けちゃうと、後で分からなくなってしまうかと思って……とりあえず場所を言っておくね。」
そう言って、説明を始める真弓の横顔を、武士は見つめながら、込み上げる幸せを噛み締めていた。
「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」
武士が自分の方を見て、終始ニヤニヤしているのを見咎めたかの様にそう言われるが、武士はもう自分を押さえることが出来なかった。持っていた着替えを放り出し、彼女を抱きすくめる。
「えっ!?ちょっと待ってよ、お兄ちゃん!」
そう抗議の声を上げるが、そのまま抱きかかえられ、寝室へと連れて行かれる。そうしてベッドに仰向けに放り出された。武士は自分の服に手を掛けながら、
「ゴメン、真弓ちゃん……俺、もうアカンわ……。」
そう言って、彼女に顔を近づける。真弓は思わず、
「私、初めて……なの!」
そう悲鳴に近い声を上げると、武士は目を見開き、弾かれた様に真弓から飛び退いた。
「……せやな、そういうことになるんやな……。」
そう呻く様に言い、我に返る。そう、まだ真弓に確認しなければならない事がある……そのことを思い出す。
「堪忍な、真弓ちゃん……先に風呂、入って来るわ。」
真弓は武士の沈んだ表情を見て、胸が痛んだが、自分にはまだ心の準備が必要だった。
「ごめんね……お兄ちゃん。」
そう、蚊の鳴く様な声で謝る真弓の声が聞こえたが、そのまま何も言わず、寝室を後にした。
武士が風呂を使った後、真弓も「私もシャワー、借りるね。」と言って、弥栄子が用意してくれた着替えを手に、バスルームへ向かった。
武士は手持無沙汰なのと、自分を落ち着かせようと、リビングのテレビのスイッチを入れた。特に見たい訳では無いが、真弓が自分の部屋の風呂場を使っていると思うと、ますます気持ちがざわついた為だ。
そのまましばらくの間、ぼんやりとテレビの画面を見つめていると、「きゃあ!」という、真弓の悲鳴がバスルームから響いた。
「どないしたんや!?」
武士は慌てて扉越しにそう声を掛けたが、
「……あ、ゴメン、何でも無い……。」
すぐに真弓のそう答える声が聞こえ、胸を撫で下ろす。虫か何か居たのだろうか?武士はそう思い、真弓が出てくるのを待った。
しばらくして、バスルームの扉が少しだけ開き、
「お兄ちゃん……?」と、武士を呼ぶ真弓の声がする。
武士はソファから立ち上がり、扉の前まで行くと、何故か戸の隙間から、真っ赤な顔を覗かせた真弓が、「笑わない?」と訊いてくる。
武士は訝しみながらも、「笑わへんけど……何で?」そう尋ねると、
「ゼッタイに笑わない?約束してくれる?」
そう言って、念を押してくる。
「うん……絶対笑わへんよ?」
武士の返事を聞き届けると、真弓はそろそろと扉を開け、ゆっくりバスルームから出て来た。
「……。」彼女の姿を見た武士は、自分でも呆れる位、間抜け面を晒していたであろう。
真弓はものすごくセクシーな黒っぽい寝巻……というより、下着を着ていた。彼女は武士の視線を感じ、いたたまれないといった様子で、
「ひどいよ、弥栄子さん……。こんなことなら、やっぱり自分で着替えを持って来れば良かった。弥栄子さんがどうしてもって言うから……。」
などと、ブツブツ恨み言を呟きながら俯いた。武士は同時に、弥栄子の悪戯っ子の様な顔が目に浮かぶ。
(真弓ちゃん、嵌められたな……。)
そう思うと、却って吹っ切れた。
「めっちゃキレイやで、真弓ちゃん。」
そう言って、彼女の顎に手をやり、上を向かせる。真弓は火が噴き出そうな位、顔を朱に染めた。武士は、そんな彼女の全身を眺めながら、
「でも……似合ってるかどうかって聞かれたら……もひとつ、かな?」
正直にそう言った。真弓のイメージにはそぐわない感じだったからだ。
「やっぱり……?」
上目づかいにそう言いながら、どうやら真弓も吹っ切れたらしく、声を上げて笑い出した。武士もつられて笑った。終いには涙を流しながら、
「ホンマに……姐さんは、真弓ちゃんに一体何をさせよう思うたんやろうな?」
そう言ってニヤリとすると、真弓はまた赤くなった。武士は彼女に、
「俺の寝巻でもええんやったら、そっちに着替えるか?」
そう提案すると、真弓は頷いた。武士は真弓を伴って寝室へと行き、クローゼットの中から、真新しいパジャマを取り出して彼女に渡す。すると、「ゴメン、向こうをむいていてね?」と言われ、手持無沙汰なままベッドの方を見ると、例の箱が目に入った。
「どうしたの?」と言いながら、着替えを済ませた真弓が、武士の隣に並ぶ。彼女の方に目を向けると、パジャマの上だけを着て立っていた。彼女には下は大きすぎたのであろうが、さっきのセクシーな恰好よりこちらの方が、武士にはそそられるものがあった。必死で動揺を隠す様に、
「この箱の中のモンな、兄さんが俺に使え、言うてたんやけど……きっと姐さんと同じで、ロクなモン入ってへんと思うわ。」
そう言って、時計の隣に置いてあった箱をベッドカバーの上に置く。すると、真弓が何か思い出した様に、
「そういえば……弥栄子さんに渡されたものの中に、こんなのも入っていたんだけど……?」
そう言う真弓の手には、スタンガンが握られていた。武士は内心、(姐さん……勘弁してくれ……。)と唸りながら、
「スタンガンや。俺が正気を失って、真弓ちゃんに襲い掛かったら、使えってことやろうな。」
そう説明したが、真弓は何が何だか解らないという風に、首を傾げたままだった。そんな真弓の様子を見て、武士は苦笑いしながら、例の箱の蓋を取ると、ジャーン!という効果音が聞こえてきそうなサイズのコンドームの箱が見え、二人は固まる。
「まぁ、これは絶対必要なものではあると思うんやけど……一体何回分なんや……?」
そう武士がブツブツ言うと、隣で真弓がようやくクスリと笑った。少しは緊張がほぐれたらしい……そう思い、武士は内心ホッとする。
コンドームの箱を除けると、下から細い鎖の両端にベルトが付けられた、手枷なのか足枷なのか分からない代物が出て来て、
(兄さんはこれを使え、言うてたんやな……。)
武士は一人納得する。
眉間にしわを寄せて、(何それ……?)という様な顔つきをする真弓を見て、
(う……しもた、見せるんじゃなかった……。)
そう思ったが、後の祭りである。
「ええと……これも、俺がその……真弓ちゃんを襲ったりせえへん様にする為の……」
そう言い掛けて、その手枷の様なものの下に、さらに首輪の様なものが見えた時、武士の頭の中で、十数年前の出来事がフラッシュバックした。
突然黙り込み、動きを止めた武士を見て、
「お兄ちゃん……?」
訝しげに問う真弓の声で、我に返るものの、息が荒くなりそうになるのを必死で堪える。
「真弓ちゃん、ホンマに……俺でええんか?」
そう言いながら、真剣な目つきでこちらを見つめてくる武士に、真弓は、
「どうして?どうしてそんなこと、訊くの?」
そう尋ねると、武士は泣き笑いの様な表情をして、
「知っての通り、俺は……人殺しの元ヤクザや。でも、それだけやない……姐さんからある程度は聞かされてるかも知らんけど……ヒットマンになる前の俺は……身売りもしてた。この辺りの話は、裁判でもあまり詳しく触れられへんかったことや。」
それを聞いた真弓は、悲しげな……まるで武士を労わるかの表情をして、
「ちょっとだけ……聞いてる。」
そう答えた。そこへ、武士は畳み掛ける様に、
「ほんなら、『客』の半分は男やったってことは……?」
真弓の息を飲む気配が伝わってきた。普通の生活を送ってきた人間なら、当たり前の反応だろう。
「ある男がな……当時四十歳位やったんやと思うけど、自分でIT関連の会社を経営しているヤツで、相当金は持ってるらしかった。」
武士がそう話を切り出したので、真弓は訳もわからないまま頷いた。
「確かに羽振りが良かった。他の客は多くてもせいぜい一回十万やったのに、ヤツは五十万……二、三日拘束しても構わんのやったら、二百万出す……と、そう持ちかけて来たんや。普通なら少なくとも二十人は相手せなあかんとこが、たった一人で済む……そう思うた俺は二つ返事をした。」
真弓の顔から血の気が引いて来た。そう話す武士自身の顔も、似た様なものだったろう。
「家には普通に嫁さんと子供さんがおって……きっと良い旦那さんで親父さんやったんやと思う。でも、生来か子供の時のトラウマでそうなったんか知らんけど、自分の邪悪さを発散する場が必要やったみたいや。」
だんだん武士の呼吸が荒くなっていくのを、真弓は気付いていた。
「きっと誰でもかまへんかった……男とか女とか関係あらへん……とにかく若ければ若い程、ヤツにとっては意味があることやったんやろうな。その時の条件としては、俺が一番若かったんやと思う……。」
武士は絞り出す様にそう言うと、深呼吸をした。そして、箱の方に目をやりながら、
「仕事とでも偽って、家を出て来ていたらしい……金曜日の夜から、俺は……裸の状態で、それみたいな首輪に繋がれて……」
そこまで言った時、真弓が武士を抱きしめ、
「もういいよ!話さなくて……いいから!」
そう、怒っているかの様な……でも震える声で、真弓は言う。もしかして、泣いているのかも知れない。武士も真弓の背中に手を回し、
「でも、真弓ちゃんには一切隠し事をしたないんや……。」
真弓は武士の腕の中で頭を振った。そして、
「隠し事なんかじゃない……その時のお兄ちゃんは、仕方が無かったんでしょう?」
俯いたまま、やはり震える声でそう言う。
「俺かて自分でも……三十過ぎて、まだこのことを忘れてへんってことに驚いた……だからこそ、自分の内に潜む、この訳のわからんモノを吐き出してしまいたいねん……真弓ちゃんには辛い役回りをさせることになるけど……。」
武士がそう言うと、真弓は恐る恐る顔を上げ、武士の眼を見た。やはり、真弓の目は濡れていた。武士は彼女の目を覗いて、「堪忍な……。」と呟くと、また深呼吸をして続ける。
「……そうやって身体の自由を奪われた上で、口は塞がれ、目隠しもされて……。聴覚だけが異様に鋭くなったようなカンジやったな……。」
真弓は身体を硬くしていた。武士の口から一体どんなことを聞かされるのか、身構えるかの様に……。
「とにかく、ずっと罵詈雑言を浴びせられた。同時に、見えへんかったから何やったんか、結局最後まで分からんかったけど、棒か杖みたいなモンで滅多打ちにされて……。」
それを聞いた真弓は青ざめながら、まるで痛みに耐えているかの様に、目を硬く瞑った。
「痛いし悔しいけど、口を塞がれてるさかい、何も言われへん……。自分の荒くなった息遣いと、打ち付けられる音だけが、やけに生々しく聞こえるだけやった。」
さらに、武士は自虐的な笑みを浮かべながら、
「ヤツの言葉を借りれば、俺は人間じゃない……選ばれた人間である自分は、お前らに何をやっても許されるんや、そないな様な事を言うてたな……。」
そう言い終えると、一度また深呼吸をする。だが、上手く息を整えることが出来なかった。真弓を見ると、彼女の目からはとめどなく涙が溢れている。それでも大丈夫、という様に頷いた。
「でも……今思えば、ヤツの何でそんなことをするんか分からん矛先が、俺で良かったと思う。ヤツの幼い子供とか……もし真弓ちゃんが、同じ目に合わされたかも知れん……そない考えるだけでゾッとする……。」
武士はそう言うと、真弓を抱き寄せる。彼女の身体は小刻みに震えていたが、武士自身も呼吸が整わないままだった。すると真弓は、武士の首の後ろに手を回し、唇を重ねてきた為、武士もそれに応える。彼女の唇は、血の気が引いているせいか、冷たかった。
武士は真弓の頭を撫でながら、
「せっかくの『特別な夜』やったのに……ロマンティックとは程遠くて……堪忍な。」
そう言うと、真弓は頭を振りながら、
「……私に話そうと思ってくれたことが、嬉しかったの……。」
潤んだ瞳でそう言われ、完全に萎えていた自分のものがいきり立つのが分かった。不意に真弓の唇を奪う。そうしてゆっくりベッドに横たえたが、彼女は抵抗しなかった。その後、何度も口づけを交わし、そのまま二人は長い間、抱き合った。




