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密告~深淵

 十三 密告

 その後、傷の癒えた武士は、とりあえず学校へ行くことを許され、追試をそつなくこなした。だが、夏休みの間は、武士にとって地獄の日々となる。ほぼ毎日、礼司に『訓練』と称した拷問まがいのことをされ、三日に一度は弥栄子の所に行って、刺青を入れる……そんな生活だったからだ。

 こっちの傷が癒える頃には、また新たな傷が出来る……そして、将太が居なくなった分を穴埋めする為に働かなければならず、そんな毎日を送るうち、武士は心身共に疲れ果てていった。

 夏休みが終わり、新学期が始まると、今度は刺青……まだ完成はしていなかったが……を隠さなければならないことに神経を使うこととなり、体育の授業は、何かしら理由をつけて休むことが多くなった。すると、例の武士のことを敵視している、小西という同級生が、

 「さすがに成績優秀者は違うねぇ……何もしなくても良いんだから。」

 武士の顔を見る度、一々嫌味たらしいことを言ってくる。今までの武士であれば、適当に聞き流すことが出来たのだが、このところ、ほとんど睡眠も取れない様な、神経を尖らせなければならない生活を送っていた為、とうとうその生徒に掴みかかってしまった。ちょうどその時、

 「川藤君!何をしている!?」

 絶妙なタイミングで、数学担当の東先生が現れた。実は東は、生徒指導も兼ねており、状況としては、武士にとって最悪だった。

 その後、生徒指導室で、まるで犯罪者に対するかの様な尋問をされた。だが、何を聞かれても、ろくに答えようとしない武士に、とうとう東が痺れを切らし、

 「君は、停学処分……いや、退学だ!」

 そう言い放つ。大阪に居た頃の武士であれば、散々問い詰められた後で、そんな風に言われればかなり参ったであろうが、今では何とも思わなかった。その点については、心の中で礼司に感謝した。ただ、高校を辞めれば、今の自分はただのヤクザ者になるだけだ。その事態は何とか避けたかった為、被害を受けた学生に謝罪の後、厳重注意……となり、何とか退学や停学処分は免れた。

 その後、基本的に昼間は学校に行き、組事務所に帰ってからは雑用などを済ませ、夜中は礼司に命じられるがまま『訓練』を受け、週末は弥栄子の所に行って、刺青を入れる……そんな生活が延々と続いた為、それまでは考えられなかったが、時々自分から『部屋』に入ると申し出る様になる。空腹さえ我慢すれば、『部屋』の中にいる間だけは睡眠が取れ、礼司に理不尽な『訓練』を命じられることも無いからだった。

 十月も半ばを過ぎ、間もなく高校では修学旅行が予定されていた。もちろん武士は、刺青のことなどもあり、参加するつもりは無かったのだが、何故か礼司が盛んに勧めた為、行くことになった。

 (どうせ『行きたくない』言うても、『あれれ?俺には絶対服従するんじゃなかったのかなぁ?』って言われるだけやろうし……。)

 そう暗澹とした気持ちのまま、修学旅行へと旅立った。

 しかし、武士の考え過ぎだったらしい、旅行自体は思いのほか楽しむことが出来た。確かに風呂の時などは気を遣ったが、このところの日常生活が過酷だった為、普通に寝て起きて食べて行動する……という生活が、とても幸せなことだったという事に改めて気付かされた。だがその後、事態は一変する。

 修学旅行から戻った数日後、登校直後に東から、

 「川藤君、すぐに生徒指導室に来なさい。」

 そう言って、呼び出される。嫌な予感を抱きながらも、仕方なく生徒指導室へ向かった。部屋に入ると、東はもちろんだが、自分のクラスの担任や、二年の別のクラス担任ら数名が雁首を並べ、狭い生徒指導室にひしめいている。異様な雰囲気に、思わず武士はたじろいだ。そんな武士の様子を見ながら、まるで嬲る様な口調で、

 「川藤君、君がタトゥーをしているというのは、本当かね?」

 そう切り出された。気を付けていたつもりだったが、やはり修学旅行の時に誰かに見られたのだろう。とうとうこの日が来たか……絶望感が彼を支配した。

 「成績優秀な君のことだから、タトゥーは学校の規則で禁止されているということを、もちろん知っているはずだと思うのだがね……?」

 東は、薄笑いを浮かべながら、そうイヤミたらしく言ってくる。武士は内心、

 (こいつ……兄さんよりも嫌な笑い方しよるな……。)

 と思いながらも、仕方なく頷く。

 「今すぐ服を脱いで、それを見せなさい。」

 東にすかさずそう言われ、さすがに武士も「え……?」と、戸惑いの表情を浮かべる。武士のクラス担任や他の先生たちも、皆、驚いた様子だった。時期的に既に長袖着用になっており、まさかそこまでやるとは、誰も予想していなかったに違いない。だが、東の明らかに行き過ぎた指導を止めようとする先生は、誰一人としていなかった。

 それを見た武士は、(もう、どうでもええわ……!)、という心境になり、黙って上着を脱いでネクタイを外し、シャツのボタンに手を掛けた。そして、透けない様に着ている黒いアンダーシャツを脱ぐと、東に背中を向け、

 「あんたは、これで満足なんやな!?」

 そう言い捨てる。弥栄子の彫る刺青はかなり独創的で、一般的(?)な刺青よりはそれらしくないのだが、ほぼ完成に近い状態で、恐らく誰が見ても、ただの『タトゥー』には見えなかったであろう。中には完成まで数年掛かる場合もあるそうだが、まだ若くて傷の治りが良いから、早く完成させられそう……とは、弥栄子の弁である。

 その時のクラス担任達の顔は、間抜けとしか言い様がなかった。皆一様に驚いた顔をしていたかと思うと、一斉に武士から目を逸らし始めた。明らかに恐怖に慄いている。武士は内心、ほくそ笑んだ。

 東の様子はもっと面白かった。あんぐりと口を開いたまま、完全に固まっている。武士が、

 「どないなんですか!?」

 と、東の方を見て、口調を荒げながら尋ねると、すっかり顔を青ざめさせ、

 「もう、ふ、服を着ていいですよ……。」

 そう唇を震わせながら言う。この東という先生を、武士は蔑みの目で見降ろした。

 その時ふと、廊下に面した窓の方に視線をやると、隙間から人影が見える。同級生の小西だった。彼も、東たちと同様に青ざめながら、こちらを窺っていた。武士の視線を感じたらしく、慌てて走り去っていく。

 (ああ、やっぱりあいつが東の『犬』やったんやな……。)

 そう思いながらも、素早く服を身に着ける。そして、部屋を出て行こうとする武士に、まるで道を開ける様に避ける先生達に苦笑しつつ、生徒指導室の入り口までくると、頭を下げながら、

 「短い間でしたが、お世話になりました。それでは、失礼します。」

 それだけ言って、学校を後にした。こうして、武士の高校生活は終わりを告げた。

 学校を後にする時、

 (そう言えば、今日は十一月十一日か……。)

 名前の由来ともなった、自分の誕生日だった……ということを思い出し、余計に虚しく感じられた。

 武士が高校を辞めた後の礼司の仕打ちは、それまで以上に過酷を極めた。何日も睡眠や食事をろくに取らせて貰えない状況での、数名を相手にしたケンカ……ではなく、すでにリンチだろう……や、身体を完全に動けない様にされた状態で、同間隔……例えば十分おきにナイフがかすめる……もちろんそれは、微睡んだ時も容赦無く襲う……おそらくこれが原因で、武士は無理に起こされそうになると、その相手を襲うという体質になった……など、思い出すのもおぞましいことを、ほぼ毎日叩きこまれた。

 極めつけは、紫帆の分も働け……と、礼司が言っていたことの意味だった。本来紫帆がそういうこともして、礼司に金を返していたのだろう。ある時、武士に、

 「あの女の借金がまだ残っている。シャブは経費が掛かるから、女自体をそんなに高く買って貰えなかったからな……。残りは武士、お前が何とかしろ。」

 そう礼司から言われ、訳が分からず戸惑っていると、

 「あのな……客を取れってことだ。身売りするのは何も女じゃなくたって、出来るんだぜ?」

 (またや……この人でなし。)

 武士は内心罵ったが、礼司の命令は絶対だ。逆らえなかった。

 「心配するな。客にはお前にシャブは使うな、と言っておく。廃人にされるわけにはいかないからな。まぁ……ちょっと嵌め外す程度のモノなら大丈夫だろう?お前だって、ずっと正気ってぇのも、それはそれでしんどいだろうしな。」

 全くフォローになっていないことを言われ、何人かの相手を務めることになった。それでも相手が女の場合はまだ良かったが、『そういう趣向』の男の時は、ほぼ百パーセント、何らかのクスリ又は道具、もしくはその両方を使われた為、身も心もズタズタになった。

 「姐さん……俺、もう死にたい……。」

 そう、弥栄子に会った時に弱音を吐くと、

 「武士……あんた、礼司の好きにされたまま、一生を終わらせても良いの!?嫌でしょ!そんなの!!」

 そう言って、叱咤激励された。その後も、弥栄子の精神的な支えがあって、何とか紫帆の借金分を働き切ることが出来た。

 しかし、ホッとしたのも束の間のことで、それからが、武士のヤクザとして生きて行かなければならなくなった、本番だったと言えるだろう……。

 年が明けてからしばらく経ったある日、礼司に呼ばれ、

 「お前の『道具』だ。」

 そう言って渡されたのは、拳銃だった。もちろん、人を殺傷する能力を持っているであろう、異様な黒い光を放つそれを見て、もう自分は『普通』という場所には引き返せないのだ……と、実感した。

 「握ってみろ。」

 礼司に言われ、思わず自分の利き手である左では無く、右の手で掴んでいた。見た目に比べ、意外と軽い気がする。こんなモノが人の生死を左右する……その事実に、人間と言う生き物の浅はかさを垣間見た気がして、泣き笑いの様な表情を浮かべた。

 そんな武士の様子にはお構いなしに、

 「今からお前を組長に会わせる。詳しいことはその後で、な。」

 そう礼司が、彼にしては珍しく真剣な表情で言った。

 実は武士も組長、村山繁雄に面と向かって会うのは、これが初めてだった。普段は、武士らが頭を下げた状態で、前を通り過ぎるのをやり過ごすだけだから、口を利くどころではない。先日の新年の挨拶の際に、初めて顔を見ることが出来たが、武士には、『恰幅の良いおじいちゃん』位にしか認識出来ていなかった。

 礼司の後を歩きながら、一体何を言われるんだろう……と、口から心臓が飛び出そうになる程緊張し、ついさっき手に取った『道具』のことは、すっかり頭から吹き飛んでしまった。

 「組長、礼司です、入ります。」

 二人が、ある部屋の前に来た時、礼司がその扉の前でノックをしながらそう声を掛けると、中から「おう。」という返事が聞こえ、礼司がドアノブを回しながら、部屋の中へと歩を進める。武士もその後に続いた。

 その人は、高級そうなスーツを身に纏い、部屋の一番奥にある、一人掛け用の革張りソファに、右手にステッキを持って腰掛けていた。高齢ではある様だが、鋭い眼光をしており、さらに黒っぽいスーツを着た男が二人、隣に直立不動で立っていて、やはりただの年寄りではない……という雰囲気を醸し出していた。

 武士も緊張から、その二人の男たち以上に直立不動になっていたが、繁雄が武士の顔を見て、

 「武士……お前のことは、礼司から聞いている。」

 と、何とも言えない深みのある声音で、話しかけてきた。それを聞いた武士は、いきなり名前を呼ばれるとは思っていなかったので、かなり素っ頓狂な顔つきをしていただろう。だが繁雄は特に訝しんだりせず、

 「……世話を掛けるが、頼むぞ。」

 続けてそう言った。

 さらにポカンとしている武士を、隣に立つ礼司が肘で小突くと、武士は我に返り、

 「はい、こちらこそ、よろしゅうお頼み申します。」

 そう答えると、直立不動だった男二人が失笑し、繁雄も相好を崩した。そして、

 「お(めえ)、面白えじゃねぇか。」

 そう江戸っ子口調で話しかけられる。礼司の方をみると、顔が引きつっている様に見えなくもない。

 「おおき……ありがとうございます。」

 武士は何が何だかわからないまま、礼だけ述べ、礼司と共に部屋を後にした。

 二人の背を見送りながら、繁雄は、

 「あれが、川藤の息子か……。なるほど、礼司が入れ込んだ男の息子のことだけは有る。あの男の散り際は見事だったからな……。」

 そう、独り言の様に呟く。そして、

 「あの『狂人』には渡さないでくれ、という約束を守るとは……礼司も律儀じゃねえか、なぁ?」

 繁雄は口の端を上げながら、意味深な言葉を言うと、天を仰ぐ様に宙に目をやった。

 一方二人は、事務所の裏手に戻ってくると、礼司は胸を撫で下ろしたかの様な顔をして、「はぁ……。」とため息をつき、

 「武士、あんまりハラハラさせるな……。」

 そう言ったが、武士にはどういう態度を取れば良かったのか、まるで分からなかった。

 「まぁいい……。それより『道具』のことだが、実は組長が狙われている。」

 「え……?」

 礼司の言っている意味がよくわからず、思わず問い直すと、

 「組長はご自分がお年だから、ボディガードをしている若い連中が、自分を守ろうとして命を落とすのは忍びない……と、お考えの様だ。もちろん、皆の前でそんなことは言わないがな。」

 「……。」

 「武士、お前が組長を狙っているヒットマンを殺れ。恐らくこの男だ。」

 そう言って、不鮮明な写真を見せられる。それに虚ろな目を向けながら、いよいよ来るべき時がきたか……そう思い、自虐的な笑みを浮かべた。

 

 十四 殺人者

 その後、拳銃の使い方の簡単なレクチャーを受けただけで、いよいよ現場に立つ日が来た。襲撃、といえば、深夜に人知れず行われるというイメージだが、実際は殺害相手を見誤る可能性があり、リスクが高まるので、明るい間に行われる場合が多い。武士はカムフラージュの為、例の退学になった高校の制服を着ることにした。

 とにかくターゲットが姿を見せるまで、武士の出来ることと言えば、物陰にジッと隠れているしかなかった。その時、礼司から持たされている携帯が振動する。それはターゲットの男に、組長が襲撃された……という内容だった。武士は絶句し、すぐさま組事務所へ引き返すと、待ち構えていた礼司に、

 「組長はご無事だったから良かったが、ボディガードが一人……殺られた。」

 「そう、ですか……。」

 武士には、頷くことしか出来なかった。武士が見張っていた場所は、ターゲットの男の潜伏場所とは違っていたらしい。

 礼司にしては珍しく、真剣な顔つきで、

 「俺が……情報を誤ったせいだ。」

 そう自分を責める。礼司の、こんな様子を見るのは初めてだった武士は、面食らった。だが、武士の考えを気にする様子は無く、

 「俺のボディガードと、お前の見張り役だった男の二人を、組長のボディガードにまわすが、それだけだと不安だ。だから武士、お前もやれ。」

 礼司の言葉に武士は一瞬驚く。だが、最初から「殺せ」と命じられるよりは、その方が断然良いに決まっている。迷わず頷いた。

 それからは、組長の外出先には必ず付いて回ることになった。ただ、武士はあくまで遊撃要員として、組長の居る建屋の周辺に気を配る役割をしており、側に侍る様なことは無かった為、精神的には楽だったが、三月に入ったとはいえまだ寒さが厳しく、ジッと見張っていなければならないのは、結構堪えた。

 その日は、東京の都心部でも雪がちらつく様な、凍てつく寒さの日だった。

 組長が幹部たちと連れ立って……もちろんボディガード達も一緒に……ある場所へ来ていた時のことだった。武士もいつも通り、建屋の外で寒さに震えながらも辺りに気を配っていると、見た目はどちらかといえば真面目そうな……だが、死んだ魚の様に虚ろな目つきの男が、武士の前を通り過ぎて行った。どうやら武士の存在には気付いていない様子だった。

 (怪しいな……。)

 一瞬そう思ったが、目で男の行方を追うだけに留めた。例の写真の男ではなかったからだ。その男は、組長たちが居る建物とは全く反対方向の路地へと消えて行き、やはり無関係だったのだろうと、武士は胸を撫で下ろした。だが、数十分後に事態は一変する。

 例の建物の入り口から、組長と幹部たちがボディガード三人を引き連れて、姿を見せた時、先程の男が組長たちの方を窺っているのが見えた。今のところ、ボディガード達に気付いた様子は無い。例え気付いていたとしても、御側付き達は拳銃を所持していない為、身を挺して組長を守るしか術はない……そう礼司から聞かされていた武士は、考えるよりも前に身体が動いていた。

 今まさに物陰から銃を構え飛び出した男の目の前に、武士は立ち塞がり、すでに安全装置を外していた銃のトリガーを引く。男は、目の前に現れた制服姿の男子高校生に、一瞬驚いた表情をしたが、次の瞬間には眉間を打ち抜かれ、その表情のまま仰向けに倒れる。脳漿が混じった血を頭から流し、動かなくなった男の右手には、拳銃が握られたままになっていた。

 (俺は今、人を殺した……。)

 武士は焦燥感を感じたが、自分自身の手を使って相手の肉を切り裂いた訳ではない為、まるで実感が無かった。自分でも驚く程冷静に、『道具』を上着の下に付けているホルスターにしまうと、組長達の方を振り向かず、路地の奥へと姿を消した。

 呆然自失のまま、気が付けば弥栄子の所に来ていた。そんな様子の武士に弥栄子は何も聞かず、温かい食事を用意してくれた。結局、ほとんど手をつけず、俯いたまま嗚咽する武士の背中を、弥栄子はそっとさする。武士は、彼女の気遣いに心の中で感謝したが、そのまま礼すら言うことが出来なかった。

 それから数日が過ぎたが、緊張状態はまだ続いていた。例の写真の男……ボディガード一人を殺害したと言う男の居場所が分からず、いつまた襲撃を受けるかも知れないという懸念があったからだ。

 礼司は独自の情報網を使って、居場所らしき情報を得ては武士に見張らせる……ということを繰り返していたが、特定には至らなかった。

 そのまま月日だけが過ぎて行き、気が付くと、武士がこちらに連れて来られてから、一年が経とうとしていた。あの日、人を殺したという負い目を感じながらも、礼司に命ぜられるがまま、毎日の業務をこなす……という日々が続いていたが、その日はまた、あの男の居場所に関する情報が入り、武士はその近くに夜明け前から潜伏することになった。

 東京の早朝は不気味だ。都心部だというのにカラスが舞い、そこここにあるゴミを漁ろうとしている。カラスのねぐらとなる森が近くにあるからだと思うのだが、大阪ではほとんど見ない光景だった為、こちらに来たばかりの頃はかなり驚いた。まぁ、夜明け前から繁華街をうろつくことなど無かったから、実は大阪でも同じ様な光景が繰り広げられていたのかも知れないが……。

 そうして時間だけが過ぎ、結局日没を迎えた。訓練された成果なのか、武士はそこそこ夜目が効く様になっていた為、それから一時間余り見張っていたが、やはりターゲットは現れなかった。仕方なく、今日は引き上げようと思っていると、何人かがこちらに近づいて来る気配がする。武士はとっさに物陰に隠れた。

 「おい、静かにしろ!」

 そう話すのが聞こえ、気付かれない様に声の方を窺う。見ると、いかにも悪そうな顔つきの男ら三人……原型を留めていない程着崩してはいるが、制服を着ているところをみると、まだ高校生だろう……と、こちらもまだ高校生だと思われる女……こちらももともと着崩していたのだろうが、すでにブラウスは引き裂かれ、下着が見えた状態になっていて、完全に無事なのは靴と靴下だけ……といった有様だったから、元々の恰好がどうだったのかまでは解らなかった。

 「イヤだって言ってんでしょ!あんたなんか嫌いだって、何回言わせれば気が済むのよ!?」

 痴話喧嘩なのか、別れ話がこじれたのかは分からないが、そんな状態にされながらも威勢よく反発する女に、武士は思わず感心した。だが、彼女の威勢の良さもそこまでだった。一人の男が懐から折り畳み式のナイフを取り出し、女の方に切っ先を向けたからだ。

 「騒ぐなと言っているだろっ!」

 そのナイフ男にそう脅され、女は顔を青ざめさせながら黙り込む。だが気丈にも、泣いて取り乱したりはしなかった。

 「この(アマ)、剥いてしまえ。」

 そう男が、仲間の男らに言った時点で、武士は物陰から飛び出し、男のナイフを持つ手を捻り上げ、取り落とさせていた。落ちたナイフを踏みつけながら、

 「みっともないから、もう止めとけ。」

 そう男に向かって言うと、そいつは腕の痛みに顔を顰めながらも、

 「てめぇ……成城のヤツか!?」

 武士の制服を見て、そう言ってくる。そう言えば高校の名前、そんなんやったなぁと思いながら、

 「止めへんのやったら、腕圧し折るけど……かまへんのか?」

 武士は男の質問には答えずにそう言う。自分で言いながら、

 (俺、何や兄さんみたいなことを言うてるなぁ……。)

 と思い、苦笑した。他の二人が何とかこの男を助けようとするが、武士が腕に力を入れる度、男が悲鳴の様な声を上げる為、どうすれば良いのか戸惑っているらしい。

 武士がさらに腕に力を込めると、男は観念した様に、「分かった!止める、止めるから放せ!」と上ずった声で怒鳴ったので、捻り上げていた腕を放してやると、男ら三人はまるで逃げるかの様に、その場を去って行った。

 残された女は、しばらくポカンとしていたが、

 「あ、ありがとう……。」

 そう言って、武士の方を向く。ほぼ下着だけになっていた上半身が真面に見え、目のやり場に困った武士は、自分が着ていた上着を脱ぐと、女に掛けてやりながら、

 「それ、もういらんヤツやから、あんたにやるわ。」

 そう言ったが、女は武士の上着の下から出て来たホルスターが目に入ったらしく、

 「それって……?」

 そう言い掛けた……その時、武士が見張っていた建物から、例の男が出て来た。組長が襲撃された後、防犯カメラに映っていた映像を何度も確認したから、見間違うはずが無かった。

 向こうはチラッとこちらを見、初めは高校生のカップルが居る……程度にしか思わなかった様だったが、ホルスターを付けた武士の姿が見えたらしく、慌てて逃げる様に走り出した。武士はすぐに女を物陰に押し込み、銃を構え、男目掛けて撃った。当たり前だが、不慣れな武士の腕では、走る男に当たるはずもない。あの時、耐えきれなくなって物陰から飛び出してしまったことを、今更ながら後悔した。そのままターゲットに逃げられてしまう。

 武士は歯噛みしながらも、女の事を思い出して物陰に行くと、女はそこで膝を抱え蹲っていた。いきなり銃撃を見て、怖い思いをしたのだから、致し方無い……と思い、武士は女に、

 「もう大丈夫や。」

 そう言いながら手を差し出す。だが、女は怯えた様子で、

 「……お願い、殺さないで……。」

 そう声を絞り出した。それを聞いた武士は愕然とする。さっきのならず者たちより、自分の方が恐れられている……だがそれは、当たり前の事だ。奴らは恐喝や強姦(未遂?)をしても、人を殺したりはしないだろう。しかし、自分はもう既に一人、殺している……。そう思うと、遣り切れない思いがし、黙って踵を返した。

 それから二年後、再度、組長を狙う例の男を含む数名からの襲撃を受けたが、武士がそれを阻止し、その男の殺害に成功する。

 そしてさらに歳月が流れ、武士は二十五歳になっていた。

 今の任務は、自分を囮にしてエサを撒いておき、ターゲットを牽制する……というものだった。仕事の内容上、なるべく目立つ様に人の多い夕方の時間帯を狙って、駅前の通りの一角に、辺りに気を張り巡らせながら立っていた。

 すると、少しワルっぽい女子高生が近付いて来て、連れの一人だと思われる、若干真面目な感じの女子高生……よく見ると、彼女だけ違う高校の制服を着ている……に、少し付き合ってやってくれないか?と、言われる。どうやら、武士が学ランを着ていたから、高校生だと勘違いされたらしい。

 (お?女子高生から逆ナンされたやん。俺もまだまだ捨てたモンとちゃうなぁ!……て、喜んどる場合ちゃうな……。)

 などと考えつつ、

 「俺に近付かん方がええ。ケガするで、ねーちゃんら。」

 そう、突き放す様に言って、その場を立ち去る。女子高生たちは、しばらく面食らった様子だったが、声を掛けてきた女子高生が、気を取り直した様に捨て台詞を吐きながら、反対側へ去って行く気配がした。

 (やれやれ……。)

 これから襲撃を受けるであろう、自分の側に一般人が居ることは思わしくない。あっさり引き下がってくれたことに、武士は胸を撫で下ろした。

 ところが、予想外の事が起きる。例の、付き合ってやってほしい……と頼まれた、若干真面目そうな女子高生が、自分の後を付けて来たのだ。一体何が彼女の気を引いたのか、自分でも不思議に思いつつ、悟られない様に彼女の追跡を撒こうと、路地の奥へと向かった。

 そして、曲がり角を通り過ぎた時、いきなりターゲットからの襲撃を受ける。武士はとっさに身を捩り、慌てて元来た曲がり角へと飛び退ったが、弾が右上腕部を翳めていった。だが、怪我に構っている暇はない、上着の下から素早く銃を取り出し前方に向けると、後退しながら、横目で盾になりそうな物陰を確認する。

 そこまで退き、ターゲットが曲がり角の先から姿を見せた瞬間、トリガーを引くと、相手は手を打ち抜かれて銃を取り落とし、そのまま逃げる様に走り去った。

 武士は、無事仕事を終えることが出来たという安心感と、いつも銃を撃つ時、何故か息を止める癖があった為深呼吸をしながら、ふと物陰の方を見ると、自分の後を付けて来た女子高生がそこに居て、目が合う。武士は思わず目を見開いた。

 その女子高生は、恐らく恐怖の為に腰を抜かしたのであろう、その場にしゃがみこんでしまった。だが彼女は、何故か武士から目を逸らせようとはしなかった。

 武士は、慌てて銃をホルスターに仕舞うと、

 「怖い思いをさして悪かったなぁ。もう終わったさかい、大丈夫や。」

 そう笑顔で話し掛ける。

 『殺さないで……。』気丈な女子高生に、恐怖に震えながら懇願された、八年前の出来事を思い出したからだ。今でもあの時のやりきれない感情が蘇り、辛かった。

 それにしても彼女は何故、見知らぬ男に付いて行こうとしたのか……?武士はこの先、また同じ様な事をさせてはいけないと思い、クギを刺しておくことにする。

 「でも、あんたかて悪いんやで。知らん人について行ったらアカンって、お母ちゃんに教わらんかったんか?」

 そう言うと、彼女は戸惑った様な表情をしながらも、はっきりとした口調で、

 「お母さん、小さい頃に死んだから……。」

 そう答えた彼女の目は、自分を恐れる様に怯えたりしていなかった。それを見た武士は、自分は今、泣き笑いの様な複雑な表情をしているだろう……そう思った。

 

 十五 深淵

 長い夢を見ていた。過去の、自分がヤクザになる前からの夢だ……。

 武士は一体自分がどこにいるのか、全く解らなかった。真っ先に見えたのは白い天井だ。

 首をめぐらせて、ようやくここは病院らしい、ということがわかった。自分の左腕には点滴が繋がっている。それに、下半身に違和感があると思い、そちらに目をやると尿を取るための管も繋がっていた。どうやら自分はそれなりに長い時間、意識が無かったらしい。デジタル式の時計がサイドテーブルに備え付けられており、午後一時二十三分と表示していた。ナースコールを押そうとしていると、扉の向こうから「ご苦労さん」という声とともに、背広姿の男が現れる。警察官の制服を着た人物が扉の前に立っていて、その人に向けて発せられた言葉に違いなかった。

 「おう、気が付いたのか?」

 武士の目が開いていることに気付いたらしく、そう声を掛けてくる。

 「あんた……?」

 そう言いかけて、武士は思い出した。確か神村康夫の通夜の日に、自分と真弓の方を窺っていた刑事だ。武士が覚えているのかどうか、特に気にする様子もなく、

 「千葉県警の小林だ。よろしく、川藤君。」

 背広姿の男は、そう名乗った。

 その瞬間、武士は頭の中がスパークした様になり、今まで止まっていた時間が動き出す。自分はあの研究施設に居たはずだ……。とっさに一人の顔が浮かぶ。

 「ヤマギシさんは!?彼の奥さんは無事なんですか!?」

 武士が慌てた様子でそう言い出したので、小林も一瞬面食らったような顔つきになるが、すぐに落ち着かせようとするかの様に、広げた手のひらを武士に向け、

 「我々が保護したから、安心しなさい。君の容体が急変したと言って、救急に連絡したのが、山岸さんだったからね。」

 それを聞いた武士は安堵の表情を浮かべる。彼が自分を助ける為に、病院へ搬送する様要請してくれたのだ……それが分かり、心の中で礼を述べた。だが同時に、あの研究施設が明るみにならなかったのか、疑問が湧いてくる。だが、例の圧力が掛かっているのだとしたら、まだ捜査には到っていないのか……などと、武士が考え込んでいると、

 「君は……不思議な人だな。普通なら、まず自分自身がどういう状況なのか、聞きたいと思うのだが?」

 小林の言葉に、武士はポカンとして「あ、そうか。」などと言いながら、

 「刑事さんこそ、ホンマは俺を尋問しに来たんとちゃうんですか?」

 そう言って、小林の反応を見る。入口で警官が監視している、ということは、ただの参考人扱いでは無さそうだからだ。

 「まぁ君の意識が戻ったら、追々と聞くつもりだったがね……。とりあえず、早く回復して貰わないと、我々としても病人を引っ張って行く訳にはいかないからな。」

 小林はそう言うと、武士に逮捕状を見せる。だが、武士は意外そうに、

 「え?有印公文書偽造と銃刀法違反?それだけかいな……。」

 「逮捕の理由としてはそれだけでも、聞きたいことは山ほどあるがね。」

 (そらまぁ、そーやろな……。)

 妙に納得したところで、武士も疑問を口にする。

 「山岸さんから聞いたかも知らんけど……あの帝京製薬の研究施設、あんたらには調べられへん様になってるはずでしょ?その後、どないなったんですかね?」

 武士の言った言葉に、小林が弾かれた様に身を乗り出し、

 「そうなんだよ!我々としても、あそこを押さえられさえすれば……!」

 小林が憤りを抑えきれないという様に、だんだん顔を近付けてくるので、逆に武士の方がたじろぐ。だがこの刑事が、間違いなく警察庁側の人間ではない、ということが分かった。

 武士に引かれていることに気付いた様子の小林は、自分を落ち着かせる様に咳払いをして、

 「君に聞きたかったのはそのことじゃない……神村康夫さんのことだ。」

 小林の言葉に、武士は相手の眼を見た。

 「昨日、葬儀が執り行われたそうだ。」

 昨日……ということは、自分は丸一日以上、意識が無かったということになる。武士はそのことの確認も含めて頷く。

 「神村さんから生前、何か事情を聞かなかったか?」

 その質問に武士は首を振り、

 「残念ながら、俺は何も聞いてないです。たぶん娘さんも何も知らんのとちゃうかなぁ……。ただ、俺が初めて神村さんに会うた時には、既に死を覚悟してはるみたいでした。」

 「自分が殺される、ということ知っていたということか?」

 小林の問い掛けに、武士は頷き、

 「これは俺の推測ですが……もしかしたら神村さんは、あの研究施設のことはもちろん、警察庁にまで圧力を掛けることの出来る御仁とやらが誰なのか、知っていたんやと思う。その情報を切り札にして、娘さんには手出ししない様に交渉した。ただ、ご自分の命と引き換えになってしもうた……そんなところやないんかな?」

 武士の話にじっと耳を傾けていた小林だったが、

 「ならば、神村さん以外にその情報を知っている人はいないということか……。」

 そう、つぶやく様に言う。それに応えるかの様に、武士は小林の眼を見て、

 「でもいざという時の為の、『保険』は掛けてたんとちゃうやろか?」

 「……と、いうと?」

 小林は武士に先を促す。

 「俺が親父さんの立場やったら、真弓ちゃんを確実に守るために、どこかにその情報を隠したと思うんです。それがどこなのかまでは、俺にもわからんけど……」

 ぐぅ~。

 武士がそこまで話をした時、派手な音を立ててお腹が鳴る。

 (そう言やここんとこ、ロクなモン食べてへんなぁ……。)

 武士はそう思いながらも、バツが悪そうに頭を掻いた。それを見ていた小林は、一瞬動きが止まったが、突然笑いだし、

 「腹が減っては戦が出来ないな?何か食べても良いか、先生に尋ねようか?」

 そう言って、ナースコールを押した。

 やってきた看護師が武士の処置をして、時間が昼の二時ちょっと前になってしまい、院内食の配膳は夕方まで出来ないとのことだったので、小林が外で調達して来てくれた。

 「言っておくが、ポケットマネーだからな。」

 そう言って小林が差し出したのは、うな重だった。

 「うわっ、めっちゃ美味そうや!」

 武士が歓声を上げる。それから「いただきます!」と言って食べ始めるが、久し振りのまともな食事なので、意識してゆっくり食べる様にした。

 その様子を横で見ていた小林だったが、おもむろに、

 「禁断症状はないのか?」

 その問い掛けに、この刑事は山岸からおおよその情報を得ていることを思い出し、

 「そうですね……今のところは。山岸さんが打ってくれた中和剤が、思うてた以上に効いたみたいです。」

 「今まで常習していた、ということは?」

 小林が眼を見据えながら、そう聞いてくる。武士は苦笑して、

 「それは無いです。何やったら、毛髪検査でも何でもして貰うたら良いですけど?」

 「そうか……そこまで言うのなら、大丈夫だろう。」

 小林はあっさりそう言ってから、今思い出したかの様に、

 「山岸さんの話では、君を救急搬送したのは心停止したからだそうだが、そうなったのは降圧剤を体内に入れられたのが原因だったらしい。」

 「え?」

 それを聞いて、武士は意識を失う前の事を思い出そうとした。確か礼司に小指を持って行かれて……すぐに意識を保っていられなくなったはずだ。そうなると、状況的に礼司がやったに違いないのだろうが……。

 (でも、俺を殺るつもりやったんなら、あの人がそんな回りくどいことをするかな?)

 考え込む武士の頭上から、更に小林の声が降る。

 「神村さんの話に戻るが……娘さんが言うには、君はもともと二人と顔見知りだったと言うわけでは無かった様だね。」

 「そうですね、彼女とはその前に知り合いましたけど、神村さんと会うたのは……殺される当日やったなぁ。」

 小林の問い掛けに、武士はそう答えた。まだ十日程前の出来事なのに、ずいぶん前の様に感じられる。武士が話すのをじっと聞いていた小林だったが、訝しむような顔つきで、

 「君が自分に危険が及ぶことを省みずに、会ったばかりの彼らを守ろうとしたのは何故なのか、私にはどうしても釈然としないのだが。」

 そう言われて、武士は笑いながら、

 「刑事さんかて……今、ご自分の立場が悪うなるかも知れへんのに、神村さんが事故死ではなく、殺されたという証拠を探ってはるんでしょ?それと同じとちゃうんかなぁ?まぁ俺みたいなモンと同じにされても困るやろうけど。」

 小林は武士の眼をジッと見つめて、

 「君は……一体何者だ?少なくとも、君の様なヤクザには今まで会ったことがない。」

 小林の真剣な眼差しに戸惑いながらも、肩を竦めて、

 「まぁ確かに、なりとうてなったんちゃいますけどね……。」

 なるべく深刻にならない様に、おどけて言ってみせる。だが、小林は相変わらず真剣な顔つきで、

 「……君のことを、もっと知りたくなった。これは尋問ではなく、私の個人的な興味で、という意味だが。」

 「何や、告られてるみたいで、照れますけど……?」

 武士は軽口を叩きながらも、小林の態度に戸惑う。何故か懐かしい様な、言い様の無い感情が込み上げるのを、自分でも不思議に思った。

 「似ているんだ……君は私の古い友人に、とても。実は見た目にも驚いたのだが、話していると性格的なところが、だ。彼は『福本』という男だったが……警察学校の同期でね。」

 「!」

 武士が小林の独り言の様な言葉に目を見開く。

 「まさか、名前は功士……?」

 「そう、そうだった。まさか……とは?」

 小林も武士の返答に戸惑った様子を見せる。

 「父の……川藤功士の旧姓が、『福本』でした。母の父……つまり俺の祖父ですけど、いずれ彼の仕事を継ぐというのが結婚の条件で、母方の姓の『川藤』になったらしいです。結局別れたので、籍自体は別になったわけですけど、父も自分の仕事……結婚前は警察官をしていたと言うてましたが、母との結婚の際に辞めたので、その後探偵をしていて……今の姓で始めてしまったので、そのまま『川藤』を名乗うてるんやと、そう言うてました。今にして思えば、『福本』の名前で探偵をやっていると、元警察官の同僚達に気付かれるのが嫌やったんかも知れませんね……。」

 それを聞いた小林は、驚きを隠そうともせず、武士の肩を掴んで、

 「じゃあ、君はあの福本の息子か!?」

 「そう、みたいですね……。」

 奇妙な縁のあったことが分かり、武士も小林の眼を見つめ返す。

 「福本は、君が……その……。」

 小林にしてみれば、元警察官の息子がヤクザ稼業をしているのは、やはり考えられない事なのだろう、武士から目を逸らして言い淀む。武士は小林が言い難いことを察して、

 「知らないはずです……九年前に他界したので。」

 そう答えた。すると、小林は更に驚いた様子で、

 「そうだったのか……。そんなに早く亡くなられていたとは知らなかった……ご病気か何かで?あ、済まない……つい。」

 詮索しようとしているわけでは無いのかも知れないが、職業柄、どうしても尋ねる癖があるのだろう、小林は申し訳無さそうに俯く。

 「いえ……。仕事柄、色々危険なこともやっていたので、事故死やったと、俺もずっとそう信じていました。けれど実は九年前、帝京製薬が作った新薬の臨床試験の被験体にされていたらしいです。それで……その副作用が原因で亡くなったと……つい最近になって、そない聞かされました。」

 黙って聞いていた小林だったが、武士の話の内容に怒りを覚えたのか、少し顔を上気させて、

 「九年前、既に君と同じ様な目にあわされていたということか……?」

 「しかも、親父一人だけやないでしょうね。おそらく数人は被害者が居るはずです。命こそ助かっていますけど、山岸さんの奥さんもそのうちの一人やと思いますよ。」

 「……。」

 小林は黙り込み、何か考える顔つきになる。だが、武士は独り言の様に話を続けた。

 「でも俺も……アホやったなぁ。今思えば、親父はあいつらに嵌められて死ぬ羽目になったのに、借金残して人様に迷惑かけて死んだって、そないな話を信じるやて……。親父がそんな人間ちゃうって、俺が一番よう知っていたはずやのに……。」

 その言葉に、小林が武士の方を見た。武士は小林から顔を逸らせる様に俯き、

 「そやのに俺は今、親父を陥れたやつらの仲間や……。何も知らんかったとは言え、きっと天国であきれ返っとるんやろうなぁ……。」

 そう言う武士の声は、ほとんど聞き取れない位小さかったが、小林はまるで慰めるかの様に、武士の肩をポンポンと叩き、

 「そんなことはないさ……きっと君の事を心配しているだろう。君も言っていたじゃないか、ヤクザに『なりたくてなったわけじゃない』と。」

 武士は俯いたまま、肩を震わせた。しばらくして、嗚咽が漏れる。

 父の死を悼んで泣くのは、九年経った今にして初めてだった。小林は武士が泣いている間、黙って彼の背をさすってやった。

 しばらくして、武士が顔を上げ、

 「小林さん、俺を見逃して貰えませんか?三日……いや、二日だけでも良いんやけど……。」

 「え?」

 小林は驚いた様子で武士の眼を見つめる。先程まで泣いていたから、まだ少し赤かったが、彼の決意を示すかの様な光を宿している様に見えた。

 「あの研究施設で何か騒ぎが起きたら、さすがに警察も放っておかれへん様になると思いませんか?」

 「どういう意味だ?」

 武士の言っていることが分からず、小林が問い質す。

 「俺がここから逃げた……ということにして、その後あの研究施設に、人質を取って立て籠もるんです。あ、もちろん、人質になって貰う人には、前もって了解を得てからにしますけど……山岸さんはもう研究所から居なくなってはるやろうから、他の誰かにお願い出来るかどうか、頼んでみようと思うてますが……アカンかなぁ?」

 「駄目に決まっているだろう!」

 小林が声を荒げた。それまでの態度とは打って変わって、厳しい顔つきになる。

 「君は……危険を省みない人間だということがよく分かった。自分のことをもっと大事にしないか!そんなこと……考えるんじゃない!」

 小林の剣幕に武士は面食らったが、

 「俺が、親父らの死を無駄にしとうないと思うから、少々危険でもそうせなあかん、思うんです!何も無かったら、あんたら警察だけであそこを押さえるのは無理や!」

 だが、小林は武士の言葉に耳を貸そうとはせず、

 「それ以上言うなら、回復を待たずに連行する。」

 「……。」

 やはり相手は現職の警察官だ、懐柔するのは元より無理な話だったのだろう。それと同時に自分の身を案じてくれての事だと分かり、武士は口を閉ざす。すると小林は念押しするかの様に、人差し指を武士に向けながら、

 「とにかく、今は自分自身の回復を優先させるんだ。君が余計な事を考える必要は無い。君や山岸さんの証言が取れてからでも、遅くは無いんだからな。」

 そう言って、まるで武士の考えを読み取るかの様に、眼を覗き込んでくる。武士は観念したという様に、両手を挙げながら、

 「はいはい、分かりました。小林刑事殿。」

 そう言い、別のことを口にする。

 「それはそうと、俺しばらく風呂に入ってなくて、ええ加減気持ち悪いねんけど……ヒゲも伸びて来てるし。」

 武士は自分の顔を撫でながら、小林に向かってそう言う。実際、手のひらにザラっとした感触があった。小林は武士の真意を確かめるかの様に、ジッと目を見ながら、

 「後で洗面用具と着替えを持って来させよう。ただ……何度も言う様だが、変な気を起こすなよ?」

 小林の追及をはぐらかすかの様に、肩を竦めながら、

 「分かってますって!せやせや、これ食ってしまわんと。」

 そう言うと、食べている途中だったうな重に手を伸ばす。すっかり冷めてしまっていたが、さほど味は落ちていなかった。先程と同じく、なるべくゆっくりしたペースで食べる様に心掛ける。

 「ご馳走様でした。」

 武士は、食べ終えると小林に向かってそう言い、手を合わせた。

 「その分だと、すぐにでも引っ張って行けそうだな……。」

 大人しくしていろよ、また明日来る、そう言い残し、小林は病室を後にした。

 小林が出て行った後、武士は状況を確認するかの様に、もう一度部屋の中を見回した。先程処置をしてもらったので、特に行動を制限されることは無くなったから、ベッドから立ち上がって、窓の外を見てみる。見覚えの無い風景が広がっていた。だが、恐らく救急搬送されたということから、ここはあの研究施設からそう遠い場所ではないはずだ。この病院には、他の病室に一般の入院患者もいるのだろう、この部屋の扉のすりガラス越しに見える外側では、常に警官が交代で見張っている様子だった。時々物珍しそうに、前を通り掛かる人影が立ち止まって、何やら話し掛けているのが聞こえてくる。今は面会の時間帯なのだろう、この病院の職員や患者以外の人間も数多く居る様だった。

 あまり長い時間ベッドから立ち上がってウロウロしているところを見られると、不信がられるだろうと思い、トイレに行くフリをする。個室だからか、洗面台とトイレ、シャワーブースが備わっていた。洗面台の鏡に映る自分の姿を見て、さすがにあの手術着の様なものを着ていなかったが、病院で貸与される寝巻を着せられていることがわかり、どちらにしろこの恰好のままでは逃走は難しいと、改めて思い知る。先程、小林が着替えを用意すると言っていたが、おそらく下着だけであろうから、期待は出来なかった。

 しばらく立っていると、身体に若干のだるさが残っている感覚があった。だからと言って、寝ていても体力の回復が見込めず、急激に身体を動かすのも良くないだろうと思い、ベッドの上でストレッチをすることにした。やりはじめると、自分が思っていた以上に身体が凝り固まっていて、驚く。二日近く寝たきりだったのだから、無理はないのかもしれない。

 そうやって、しばらくベッドの上でストレッチを続けていたが、扉の外から話し声が聞こえて来たので、ストレッチするのを止め、ただ寝転んでいただけの様なフリをする。その直後扉が開いて、刑事だと思われる若い男が姿を現した。武士はそちらを向いて、頭を下げる。すると、その若い男は、

 「千葉県警の平田です。小林刑事に頼まれていたものを持ってきた。」

 そう言って、持っていた紙袋を武士に手渡した。受け取って、中身を確認する。思っていた通りのものだけが入っていた。武士は礼を言ってから、

 「平田刑事、その……お願いがあるんですけど、神村さんの娘さんに、俺の事……無事やって伝えといて貰えませんか?心配してると思うんで……。」

 平田は、武士の申し出に頷き、

 「わかりました。一応、小林刑事にも確認して、それから連絡します。」

 「おおきに。それと……厚かましいんですけど、水かお茶を買うてきて貰えませんか?ここ、何も無くて……。」

 それを聞いた平田は、備え付けの冷蔵庫を開けて中を確認する。確かに何も入っていなかった。

 「俺、今持ち合わせが無いから、ホンマ、申し訳無いんやけど……。」

 武士がそう言いながら、頭を下げると、平田は仕方がないなぁという顔つきで、

 「全部、小林刑事のツケにしておきますから、大丈夫。」

 そう言って、購買部へ向かおうとする。武士は、

 「じゃあ俺、早速シャワーを使わして貰うんで、おらんかったら、その辺に置いといて下さい。」

 「分かった。」

 そう言いながら、平田が部屋を出て行った。

 平田の姿が見えなくなると、とりあえず大急ぎでヒゲを剃った。本当はシャワーも浴びたかったが、そんな時間は無い。シャワーの蛇口だけひねっておき、まるで浴びているかの様にカムフラージュすると、武士は扉からは見えない位置に隠れた。

 しばらくして、平田が戻って来たらしく、扉の開く音がした。ペットボトル入りの水などをサイドテーブルに置く、かすかな音が聞こえる。それから、どうやらシャワーブースの方を覗こうとしたのだろう、武士が隠れている前に、背中を向けた状態で平田が姿を見せた。頃合いを見計らっていた武士が、

 「平田刑事!」

 そう声を掛けると、驚いた様子の平田が、武士の方を振り返る。武士はすばやく彼の懐に入り、拳を鳩尾目掛けて突き出した。平田は微かに呻き、崩れ落ちる。

 「……堪忍な。」

 武士は一言そう言ってから、紙袋の中のタオルを取り出し、平田の口を塞ぐ。それから背広を脱がせ、入口から反対側のベッドの横に運ぶと、武士の右手の包帯を外し、それで平田の両手をベッドに括り付け、すぐに動けない様にした。まだ、彼の意識が戻る気配は無い。

 次に武士は、自分の着ていた寝巻を脱ぐと、平田の背広を着る。若干スラックスの丈が短かったが、武士の予想通り、ほぼサイズは同じらしく、見た目にはさほど違和感が無い様に思った。右手は近くで見れば小指が無いことに気付かれるだろうが、パッと見には包帯を巻いているより、目立たないだろう。平田の背広のポケットに入っていた警察手帳や手錠、財布や携帯電話といった彼の持ち物に関しては全て紙袋に入れ、そのまま置いておく。ただ、現金が全く無いと支障が出るので、一万円だけ拝借した。

 武士は意を決し、まるで携帯電話に応対しているかの様な振りをしたまま扉を開け、入口に立っている警官に、不自然に見えない様に会釈をしながら、部屋を離れる。もともと平田とは顔見知りでは無かったのであろう、それと背格好が武士と平田は似ていることもあり、警官に見咎められることはなかった。

 警官の姿が見えなくなると、武士は携帯で話す振りを止め、不審に思われない程度に急ぎ足で出口に向かった。病院を出ると、周りを気にせず走り出す。病院に停まっているタクシーを使うことも考えたが、どれも同じ会社のタクシーだったので、行き先を早くに特定されると思い、やめておいた。

 途中で幹線道路に出ると、おおよその位置が分かってきた。思っていた通り、例の研究施設から、武士の入院していた病院はさほど遠くは無いことが確認出来た。次に、武士があの研究施設に向かう途中で立ち寄った、市川駅に向かう。駅のコインロッカーに拳銃や、当面必要になるだろうと踏んで、用意しておいた現金などを入れておいたからだ。ロッカーの鍵は市川駅の近くに隠しておいたのだったが、何とか見つけることが出来た。もちろん、中身についてもパッと見にはわからない様、メッセンジャーバッグに入れているが、預け期間を過ぎているので、出されてしまっていないことを祈る。ロッカーに近付くと、特に開けられた様な形跡は無かったので、胸を撫で下ろした。表示されている延滞料金を投入し、中身を取り出す。

 それから、市川駅近くの商業施設の中の衣料品量販店で全身一式を買い揃え、その商業施設内のトイレで着替えた。平田の上着の内ポケットに「おおきに」と言いながら、拝借分の一万円を入れ、背広と靴など全て衣料品店の袋に入れて、施設内の忘れ物センターに、トイレに置いたままになっていた、と言って届ける。届出人の欄には、もちろん偽名とでたらめな連絡先を記入しておいた。

 その後、タクシーを拾い、真弓の家の近くまで向かうことにした。どうしても、真弓に確認しておかなければならないことがあったからだ。以前、住所は聞いていたが、とりあえず町名だけ告げる。さすがにまだ登校はせず、家に居るだろう。

 真弓の家の近くの公園でタクシーを降りると、公衆電話を探し、真弓の携帯に掛ける。呼び出し音がひどく長く感じられた。もう出ないかも知れない……と、諦めかけたその時、

 「もしもし……?」

 二日振りの真弓の声が聞こえる。当たり前だが、疲れ切った様な声だった。

 「真弓ちゃん、いけるか?大丈夫か?」

 思わず口をついて出た言葉だったが、それを聞いた真弓が、どうやら電話口ですすり泣くかの様な音が聞こえてくる。武士が何度か、真弓ちゃん、どないしたんや?と、問いかけるが、しばらくその状態が続いた。どうしたものかと、受話器を持て余していると、

 「『大丈夫?』って、それはこっちのセリフでしょ!?」

 急に真弓が怒った様な声を出す。武士は、

 「……ゴメンな、心配かけて。俺は大丈夫やさかい。」

 とにかくそう言って、謝った。すると、電話口で真弓が溜息を吐きながら、「今、どこ?」と聞いて来たので、公園の名前を言う。すると真弓は、

 「今、家には親戚たちが居るから、私がそっちに行くね。」

 そう言ってきたが、武士は「ちょっと待って」と制し、

 「その前に確認したい事があるんやけど……最近になって、親父さんから何か預からんかったかなぁ?」

 「……何かって?」

 真弓の訝しむ様な問い掛けに、武士も困惑しつつ、

 「それが分かれば苦労せえへんねんけど……。例の機密情報のデータを何か……音楽用に見せかけたソフトとか小型のストレージとかに入れて、真弓ちゃんに渡したんとちゃうかなぁ?そない思うて……。」

 それを聞いた真弓は、電話の向こうで一生懸命思い出そうとしてくれていたが、

 「残念ながら、そういうものを渡された覚えは無いわ……。」

 「そうやんなぁ……。親父さんにしてみても、真弓ちゃんに機密情報の在処を、そうそう簡単に気付かれるわけにはいかんかったんやろうし……。」

 「……あっ!」

 急に真弓が何か思いついた様な声を上げ、

 「あの手紙に入っていた、ネームプレートかも!」

 そう言ってきた。武士は何のことか分からず、真弓に尋ねる。

 「ネームプレート……って?」

 「一ヶ月程前に、出張先からエアメールが届いて……いつもは国際電話をかけてくるか、送って来るとしてもハガキだから、珍しいなぁと思ったの。そうしたら、中にどこの国の文字だったか忘れたけど、『この国の文字と装飾が綺麗だったから、真弓の名前を彫ったネームプレートを作って貰ったので、送ります』って書かれた手紙と一緒に入っていて……。確かに綺麗だなぁと思ったから、スクールバッグに付けたんだけど……。」

 武士は勢い込んで、真弓に言う。

 「それ、持ってきてくれへんか!?」

 「わかった!」

 真弓は、すぐ行くね、と言って電話を切る。武士は、真弓が来るまでの間、一緒にロッカーに入れてあったノートパソコンを起動させる為、どこか座れそうなところが無いか、辺りを見回す。そろそろ小中学生は下校の時間らしく、ランドセルを背負った児童や、制服姿の学生たちが公園の前の道を通り過ぎてゆく。そうこうしているうちに、ちらほらと公園内の遊具に子供たちが集まって来た。それとは逆に、小さな子供を連れた母親たちは家路へと向かう。ベンチ付近に人影が無くなったのを見て、武士はそちらへ移動した。

 しばらくして、真弓が息を切らせながら走って来るのが見えた。その表情は若干強張っている様に見える。辺りを見回していたが、ベンチに座っている武士に気付いた様子で、近付いて来た。そして、武士の顔を見るなり、

 「家を出る前に、小林刑事さんから電話があって……お兄ちゃんから電話がなかったか?って。まだ無いって答えておいたんだけど……。」

 「おおきに真弓ちゃん、助かったわー。思ってたより、早よバレたなぁ……。」

 武士はそう言って、頭を掻く。

 「病院から……抜け出したんだって?」

 真弓は心配そうな顔つきで、そう聞いてくる。

 「ゴメンな、真弓ちゃんに迷惑掛からん様にしようと思とったんやけど……。」

 「そんなこと、言ってないでしょ!?」

 真弓の声の大きさに、何人かの子供がこちらを向く。人目に付きたくない上、ここで真弓と言い合っているヒマは無い。武士は真顔になり、真弓の眼を見て言った。

 「悪いんやけど、真弓ちゃんのとこにもすぐに捜査員が来ると思うから、時間が無いねん。とにかくそのネームプレート、見せて貰えるか?」

 「……はい、これ。」

 真弓も子供たちの視線に気付いた為、騒ぎ立てるわけにはいかないと思い直し、すぐに持っていたネームプレートを武士に渡した。武士は、受け取るとすぐにそれを調べ始めたが、ある部分に切れ目があることに気付き、

 「真弓ちゃん、ゴメンな、ここを外したら、もうネームプレートとして使えへん様になるかも知れんけど……かまへんか?これ、親父さんの形見やろ?」

 真弓は少し躊躇する様子を見せたが、まっすぐ武士の眼を見て、

 「うん、いいわよ。」

 そう言った。武士は「堪忍な……」と言いながら、ネームプレートの切れ目の所に力を込める。すると、切れ目から二つに分かれ、中から小型のUSBメモリが現れた。

 「真弓ちゃん、ビンゴや!」

 そう言って真弓に見せ、さっき立ち上げておいたノートパソコンに繋いだ。案の定、パスワードを要求される。武士は画面を真弓に見せながら、

 「何か思いつくキイワード、無いかな?」

 そう尋ねると、真弓は考え込む顔つきをしながら、

 「私の誕生日……とか?」

 「何月何日?」

 そう武士が尋ねると、少し戸惑いながら、「十二月二十四日……」と答える。

 「クリスマスイブやん!ええなぁ、覚えやすい!」

 「今はそんなの、関係ないでしょ!」

 真弓は顔を赤らめながら、頬を膨らませる。その様子を見た武士は笑いながら、キーボードを叩いた。だが、はじかれてしまう。真弓の名前と組み合わせたりして、入力してみたものの、結果は同じだった。

 「真弓ちゃんの名前と誕生日でないとすると……?」

 武士が考え込んでいると、真弓は「あ、そうだ、手紙……」と言いながら、例のエアメールも持って来てくれたらしく、それを武士に渡す。

 「何かヒントが書いてあるかも知れない、と思って。」

 「おおきに、真弓ちゃん!」

 そう言って受け取り、急いで文面を確認する。特に変わったことは書かれて無さそうだったが、最後に、母親の誕生日までには帰国する、と書かれていた。これだ……!武士はそう確信した。そして真弓に、

 「お母さんの誕生日はいつなん?それと、名前は?」

 真弓は、物心つく前に亡くなった母のことを、必死で思い出そうしている様子で、

 「……確か、五月十八日じゃなかったかな……?名前は『真千子』よ。」

 「親父さん、帰国したのが十六日やったから、たぶんそれで合うてるやろ!」

 武士は早速誕生日を入力してみる。またしてもはじかれたが、先程と同じ様に名前と誕生日を組み合わせてみると、ファイルが開いた。

 「おおきに、真弓ちゃん!いけた!」

 そう言って、画面を見せる。ファイルをノートパソコンにコピーし、USBメモリは外して真弓に返した。そして武士は、人差し指を口の前に持って行き、

 「このことは、くれぐれも小林刑事以外の警察関係者には言うたらアカンで。あの人は信用出来るけど、どこかに警察庁の内通者がいるはずやから……。きっと小林刑事から、また連絡があるやろうから、『見せたいもんがある』言うて、一人で来て貰うたらええと思う。」

 「うん、わかった、そうする。」

 真弓はそう言って、頷く。それから、武士の顔を覗いて、

 「お兄ちゃんは、これからどうするつもり?」

 「とにかく、このファイルの中身を確認してから、どうするか考えて……近々警察に出頭することになるやろな。」

 真弓は武士から目を逸らせ、俯く。改めて、武士の口から逮捕されるということを聞くのは、やはり辛かったからだ。武士は真弓の様子に気付きながらも、

 「親父さんのことは、警察だけに任せとってもアカンみたいやから、俺にしか出来へんことをやってみよう、思うてる。一つ、やろうと思うてたことは、小林刑事に言うてしもうたから……たぶんやる前に止められるやろうから、違う方法を考えんとアカンねんけど……。どちらにしろ、最低二、三日は捕まるわけにいかへんなぁ。ただ……俺が逃げとったら、真弓ちゃんに迷惑掛けると思うねん。それは……堪忍な。」

 「もう、お父さんのことはいいよ!」

 真弓が涙に濡れた顔を上げ、怒ったような声を出す。

 「お兄ちゃんは、もっと自分のことを考えるべきだよ!お父さんのことを……真実を確かめようとしてくれるのは嬉しいけど、それでお兄ちゃんの罪が重くなるんじゃ、意味が無いの……。」

 最後の方は泣いているからか声が震え、聞き取れない位になってしまう。その様子を見ていた武士は苦笑いし、

 「ホンマにゴメンな……俺、真弓ちゃんの事を泣かしてばっかりやな。」

 そう言って、真弓の頭を撫でる。「でもな……」と、武士は続ける。

 「親父さんの事だけや無いねん、俺の親父もホンマはあの製薬会社のクスリの『実験』で亡くなったってわかったんや。だから、一体誰のせいで、何でこんなことになったんかをハッキリさせたい……そない思うんや。」

 武士が言ったことに、真弓も驚いた様子で顔を上げる。武士は真弓の眼を見つめて、

 「それに……俺が人を殺した罪は、どないやっても軽うなったりせえへん。それは、俺自身が一生掛けて償わなあかんことやさかい。」

 そう言う武士の眼は揺るがなかった。真弓は目を逸らすことが出来ず、ただジッと武士の眼を見返す。だがしばらくして、まるで緊張を解すかの様に、武士が相好を崩しながら、

 「だから、今からやろうとしているのは、ついでみたいなもんや。」

 そう、真弓に言った。そして、頭をポンポンと叩きながら、

 「真弓ちゃんに会えん様になるのは寂しいけど……元気でな。」

 そう言って、立ち上がる。真弓は、頭では間違っていることだと理解していても、武士が手の届かない所へ行ってしまうのを、何としても阻止したいという欲求に駆られた。

 その時、真弓の携帯が鳴る。一瞬二人に緊張が走るが、弥栄子からの着信だった。真弓が「もしもし、弥栄子さん?」と言って、電話に出る。二人はいつの間に、連絡先をやり取りする仲になったのだろう……?などと、隣で武士が首を捻っていると、

 「お兄ちゃん、弥栄子さんが替わってって。」

 真弓の携帯を受け取り、「姐さん?」と受話器に向かって話しかける。

 「武士、あんた……一体どこで何しているの!?神村さんを殺した犯人ってことで、指名手配されているらしいわよ!さっき刑事が尋ねて来て、そう言っていたんだから!」

 「ええっ!……そっか、そう来たか……。」

 武士が他人事の様に呟くのを、弥栄子は苛立たしげに、

 「『そっか』じゃないでしょ!真弓ちゃんにまで迷惑掛けたら、タダじゃおかないからね!」

 「そんな殺生な……。」

 武士は気弱な返事をする。相手が弥栄子だと、全く頭が上がらないらしい。隣で話を聞いていた真弓は、忍び笑いを洩らした。しばらくして「姐さん、おおきに。」といって、武士が電話を切り、携帯を真弓に返しながら、

 「真弓ちゃん、俺どうも親父さんを殺したってことで、指名手配されたらしいから、もし、警察に何か聞かれても、知らぬ存ぜぬで通しや。でないと、被害者の娘といえども、犯人隠匿や、ゆうて、ケチつけられるで。」

 真弓は驚いた様に目を見開き、

 「何それ!?そんなわけないじゃない!だって、お兄ちゃんは……」

 「そう、親父さんが殺された時、俺と真弓ちゃんは一緒に居た訳やない。だから、アリバイは無いと言えば無いねんな……。」

 武士はそう言って苦笑する。真弓は何も言えなくなった。やはり自分は武士の役に立てない……そう思い、唇を噛む。武士は真弓の様子を見て、

 「俺も『はい、そうですか』と、簡単にやってもないことを認めるつもりは無いから、大丈夫や。」

 そう言って彼女に向かい、ニヤリと笑った。

 「じゃあ俺は、警察が来る前に行くわ。」

 武士はそう言って、真弓に背を向けた。真弓は去ろうとする武士の手を取り、

 「お兄ちゃん、これ!」

 そう言って、例のネームプレートを渡す。中に入っていたUSBメモリを取り出した後、元通り組み立てることが出来たので、最初に真弓に見せて貰った時の状態に戻っていた。

 「私だと思って、持っていて。」

 武士は、真弓の眼を見て、

 「ホンマにええんか?親父さんの形見やのに……。」

 真弓は頷く。武士も今思い出したという様に、「そうや!」と呟くと、メッセンジャーバッグの外ポケットに、学ランから外しておいた校章を入れておいたのを取り出し、

 「俺の、大阪で通うとった高校のやねん。これ、代わりにやるわ。」

 そう言って、真弓に手渡すと、真弓が何か言おうとするのを振り切って、駆け出す。これ以上時間が長引くと、真弓に迷惑を掛けてしまう、それを恐れたというのもあるが、何より武士自身が、真弓と別れなければならないことを辛く思っていたからだ。それに、時間が経てば経つ程、顔写真等の情報がマスコミで公開され、人目につく公共交通機関での移動が難しくなる。

 実は武士は大阪に向かうつもりだった。どうしても逮捕される前に、実の母親に謝りたかった。母を恨んでいたわけではないが、自分を見捨てた非道い人だとずっと誤解しており、礼司に真実を聞いた時、武士の中で母に会いに行くことは、自然と辿り着いた答えになった。

 大阪まで行くのに、新幹線での移動は危険だろう。駅に防犯カメラが数多く設置されており、もしカメラの映像に気付かれれば、新大阪駅で待ち伏せされる可能性がある。かといって在来線だと、運行時間内に大阪まで辿り着けそうにない。それに、なるべく都心付近に近付きたくなかったので、立川駅から出ている夜行バスを利用することにした。

 真弓の家の最寄り駅だと、すでに捜査員が来ている可能性があるので、その次の駅まで移動し、タクシーを拾う。移動中、先程パソコンに入れたファイルの確認を始めた。そこには、例の研究施設に係わりのある人物として、帝京製薬社長、前田泰明、現厚生労働大臣、鈴木駿雄、そして警察庁長官、新見慎次郎……更にもう一人、驚くべき人物の名が挙がっており、武士は思わず声を上げそうになるのをなんとか堪える。そしてこの人物こそ、神村康夫を死に追いやった張本人だった。

 先程からパソコンの画面を睨みつけ、考え込む様子の武士を見て、タクシーの運転手は余程仕事が煮詰まっているのだろう、とでも思ったらしく、

 「お兄さんも大変ですねぇ、タクシーの中でもお仕事されて……。移動中位、お休みになられたら良いのに。」

 「ありがとうございます。でもこれ、急いでやっつけてしまわないといけなくて……。」

 運転手の突然の問い掛けに、とっさに標準語っぽく答えたが、ボロが出なかったかどうかヒヤヒヤする。自分のことは、殺人を犯した指名手配犯として、捜査員が聞き込みを始めているはずだ。大阪弁を話すと目立つ為、こちらの人間を装おうと、頭の中ではシミュレーションをしていたのだが……。

 「そうなんですか……。お兄さん、お仕事は何をされているんです?」

 運転手は更に問い掛けて来た。武士は、平田の背広姿から別イメージに変える為、ポロシャツにチノパン、デッキシューズといったラフな格好をしていたから、確かにビジネスマンには見えなかっただろう。今は付けていないが、一応ホルスターを隠せる様にする為、ソフトジャケットを羽織ってはいるのだが、やはりカジュアルさは否めない。詮索好きの運転手に当たってしまったことを、心の中で舌打ちしつつ、

 「あまり触れ回られると困るのですが……『調査員』とでも言っておきましょうか。」

 武士がそう言うと、運転手は納得したらしく、

 「もしかして、探偵!?」

 そうだ、と言う様に、武士は頷く。すると、運転手は嬉しそうに、

 「君みたいに若い探偵って、初めて会ったなぁ!何度か乗せたことがあるんだけどね、ほとんど白髪交じりのおじさんだったからねぇ。」

 と、はしゃいだ声を上げる。武士は心の中で、

 (堪忍……ホンマは俺、ヤクザやねん)

 と、謝っておいた。だがこの運転手だと、どちらでも案外喜んだのかも知れない。刺青を見せたらどういう反応をするのか、若干興味をそそられたが、自分から正体をばらす様な愚行は出来ないな……と、思い直す。

 「行き先は立川駅前だとおっしゃっていましたけど、そこで何か調べられるわけですね?」

 運転手は尚も詮索してくる。武士はややうんざりとした口調で、

 「まぁ、そうです。」

 そう答えたが、運転手の興味はなかなか尽きそうになく、

 「へええ~!どんなことを調べるの?」

 嬉しそうな顔で尋ねてくる。武士は、

 (アカン、このおっさんも大概面倒くさいなぁ……。)

 と、内心ムッとしながら、

 「すみません、これ以上はクライアントに対して守秘義務があるので、お答えできません。」

 と、そっけなく答える。さすがに運転手も、

 「そうですよねぇ……。」

 そう言って、ようやく引き下がってくれた。武士は心の中で溜息を吐く。それから、視線をパソコンの画面に戻し、再度、ファイルの内容を確認し始めた。

 その後は詮索されることも無く、なんとか立川駅に辿り着いた。武士は運転手に料金を払い、礼を言う。運転手は、

 「じゃあお兄さん、お仕事頑張ってよ。」

 そう言って、にこやかに去って行った。

 (悪い人や無いんやろうけど、今の自分にはちょっとキツかったなぁ……。)

 武士はそう思いながら、変な汗を掻いている自分に気付く。ただでさえ三日程、まともに風呂どころかシャワーさえ浴びていないことを思い出し、うんざりする。サッパリしたいところだが、今の自分は公共浴場の類には行けない身だから、致し方ない。

 とりあえず、腹ごなしを済ませておこうと、古びたラーメン屋に入り、店のカウンターに座ると、店に置かれたテレビから、ちょうど夕刻のニュースが流れていた。しばらくして、先日の高速道路での銃撃戦で、神村を殺害した容疑で、武士が指名手配されたことを報道し始めた。何となく、周りの反応を確かめるかの様に、首をめぐらせるが、それについては杞憂で済んだらしい、誰も武士のことなど見ていなかった。

 それにしても……と、武士は、一瞬映った自分の顔写真に驚いた。東京での高校編入時に撮った、学生証用の写真がピックアップされていたからだ。

 (他にもっとマシなん、無かったんかいな……。)

 そう思ったが、その後マトモな社会生活をしていない人間としては、写真など無くて当たり前かも知れない。自分でも、最近写真を撮ったのは、偽名で作った免許証などの証明写真位しか記憶になかった。

 夜行バスで大阪に入り、難波駅前に到着したのは、翌日の午前七時前で、ほぼ定刻通りだった。まだそれほど人通りが無いが、小一時間も経てば通勤のサラリーマンやОLでいっぱいになるだろう。武士は足早にタクシー乗り場へ行き、母の住む町へ向かうことにした。

 真弓の家に行った時と同じ様に、近くの公園でタクシーを降りると、そのまま母の家を目指す。ここに来るのは五歳位の時以来だろうか?一度だけ、父に連れられて来た覚えがある。もともと三歳になるかならないか、という年齢まで暮らしていた家のはずだが、その時の記憶は武士には残っていなかった。五歳位の時、何故父が母を訪ねたのかは覚えていないが、その時父が、祖父から罵られていた様な記憶だけは残っており、武士には(どうか祖父が出てこない様に……。)と祈るしか無かった。

 母の家の玄関が見える所まで来ると、武士は捜査員らしき人間が近くに居ないかどうかを確認し、さらに玄関の前まで移動しようとしたが、その時扉が開いて、中から女子大生だと思われる女性と高校生位の男の子が「行って来ます。」と言いながら出てくる。すると、家の中から「行っていらっしゃい。」という女性の声も微かに聞こえ、玄関先に姿を見せた。おそらく母だろう。その後、女子大生と高校生は何やら言い合いながら、駅の方に向かって歩き出す。母と見られる女性は二人に手を振って、しばらく見送っていたが、二人の姿が見えなくなると家の中に戻ろうと、こちらに背を向けた。武士は素早く駆け寄って扉に手を掛ける。母と見られる女性は一瞬驚いた表情を見せたが、武士の顔を見ると、更に目を見開き、

 「もしかして……武士?」

 そう尋ねてきた。武士はそうだと言う様に頷きながら、

 「ご無沙汰してます。元気そうで安心したわ。」

 そう言うと、母は口元に手をやり、少しだけ目を潤ませた。そして周りを見回しながら、

 「武士……あんた、人を殺したって……?」

 そう声を殺しながら聞いてくる。武士は苦笑しながら、

 「ニュースで見たん?」

 「それはお母さん、知らんかったんよ。ただ、夕べ警察が来て、あんたから何や連絡が無いか?って聞かれてね。それで、『あの子とは、前の夫と別れて以来、会ってない』って、そう言うたんやけど……。」

 母は、武士の顔を見つめながらそう言った。心配そうな母の眼を見て、

 「せやったん……ゴメンな、迷惑掛けてしもうて……。でも、神村さんは俺が殺したんとちゃう。それは信じて欲しい。」

 武士がそう言うと、母は安堵の表情を浮かべ、

 「そう、そうやんね……。」

 と、つぶやく様に言う。きっと他にも色々聞きたいことがあるのだろうが、何から話せば良いのか、わからない様子だった。武士にしてみても、子供の時の記憶はほとんど残っておらず、何を聞けば良いのかすら、分からなかった。そこで、何となく、

 「そう言えば、じいちゃんは……元気にしてるん?」

 本当は避けたい話題であるにも関わらず、そう尋ねる自分に驚く。すると、母は、

 「三年前に亡くなったんよ。」

 そう答えた。武士は「せやったん……。」と返事をしたものの、またお互いに沈黙が訪れる。ただ、ここへ来た目的を思い出し、

 「俺、母さんのことを、ずっと自分の子供を見捨てた、ひどい親やと思うてた。でも、そうや無かったって分かったから……謝りに来ました。ホンマ、堪忍な。」

 そう言って、頭を下げる。すると母は、戸惑った表情を見せ、

 「何?何の話なん??」

 そう聞いて来たので、武士は顔を上げ、母の眼を見た。

 「親父が亡くなった時、借金取りが来て……『お前は父親に借金背負わされ、挙句に母親からも見捨てられたんやぞ!』って言われたから……そうなんやってずっと思うてたんや。でも、ホンマは二人とも俺を助けようとしてくれてた……それが分かって……。」

 武士は話しながら、だんだん自分が情けなくなり、俯く。すると、母は目を潤ませながら、

 「あんたの親なんやから、当たり前やないの!……でもあの時、お母さん、何もしてあげられへんかった……。こっちこそ、堪忍な……。」

 そう言って、声を詰まらせる。武士は、母の肩に手を置き、

 「やっぱり母さんが心配してくれてたって確認出来ただけでも、こっちへ来た甲斐があったわ。ホンマ、おおきに。」

 武士がそう言うと、母は武士の顔を見て、首を振る。

 「……ほな、身体に気い付けて。」

 そう言いながら、武士が立ち去ろうとすると、母は、

 「もう行くん?お腹、空いてへんの?たいしたモン無いけど、食べていきなさいよ。」

 そう声を掛けてくれたが、武士は首を振り、

 「おおきに。でも、夕べ警察が来たんやろ?また言うてる間に来るかも知れへんから……。」

 「……そうやね。」

 母は顔を曇らせたまま、そう答えた。武士は母の不安を払拭するかのように、

 「俺かて、いつまでも逃げ回ってるつもりは無いねん。やることやったら、ちゃんと警察へ行くつもりやから……心配せんといて。」

 そう言って、笑ってみせる。母は涙を流しながらも、笑みを返してきた。それを見て、武士は「ほな」と言いながら手を振り、背を向ける。武士の眼からも、思わず涙がこぼれた。武士の背に、母が何か声を掛けてくれた様だったが、泣き顔を見せるわけにはいかない。そのまま一度も振り返らず、逃げる様に母の家から立ち去った。

 大阪にプライベートで訪れるのは、九年間で初めての事だったが、いつまでも長々と留まっている訳にはいかなかった。警察にはまだ武士の居場所は掴めていないかも知れないが、この街には昔の顔見知りが居る。いつどこで、自分のことを見られているとも限らないため、早急に立ち去る必要があった。とにかく、『もう一つの目的』を果たす為、その場所へと向かった。

 目的を果たした後、北陸経由で帰路に着く電車の中で、パソコンを開きながら、

 (ターゲットは……こいつやな。)

 武士は顔を引き締め、そう心の中で呟く。画面には、九年前の厚生労働大臣……現自由国民党副総裁、田上順三、と表示されていた。

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