訓練~烙印
九 訓練
礼司の後を追いながら、武士は、
(ヒットマンって……殺し屋のことやんな?てことは、『英才教育』ちゅうんは、狙撃訓練か何かをやるって意味か?)
そんなことを考えていると、礼司がある扉の前に来て、
「これがお前の『部屋』だ。」
そう言いながら、扉を開ける。中を覗いて、武士は目を疑った。真っ暗で、一畳程度の広さしかない。絶句する彼を見て、
「本当はこれだと広すぎると思うぜ。ヒットマンは長時間、狭いところに隠れていないといけないことが多いからな。はい、これ。」
そう言って、水の入ったペットボトルと、空のペットボトルを渡される。
「死なない程度に水分は取っておけ。そっちは用足し用だ。じゃあな。」
礼司はそれだけ言うと、武士の背中を押して、部屋に押し込み、扉を閉めた。
「えっ!?ちょっ……何で??」
部屋の内側にはドアノブがついていない様で、思わず扉を叩くが、外から鍵を掛けられたのだろうか、ビクともしない。おまけに防音素材で出来ているのだろう、外からの物音が全く聞こえなかった。何も見えない暗闇で、おまけにここまで狭い部屋に閉じ込められたのは初めての経験だ。子供の頃、悪いことをすると、父に押し入れに閉じ込められたことは何度かあったが、ここまで暗くは無かったし、それに泣き疲れてしまわない頃合いには出して貰えた。
(さすがに泣き叫んでも、出して貰えへんやろ……?)
そうは思ったものの、武士はまだ楽観的に構えていた。とりあえず、クスリで失った体力を補う為にも、今のうちに寝ておこう……その程度に考える。
だが、次に部屋を出して貰えたのは、二日近く経った日曜日の晩だった。あれから間もなく水を飲み干してしまった為、部屋から出たときはかなり脱水状態に近かっただろう。もちろん食事も与えられていなかったから、ヘロヘロになっている武士を見て、礼司は、
「おい電話、掛けられるか?」
そう尋ねる。
武士は、眩しさに顔を顰めながら「どこへ……?」と、虚ろな口調で言うと、礼司は苛ついた様子で、
「お前、昨日先公に電話するって言っていただろう?ほれ。」
そう言って手渡されたのは、武士の携帯だった。ボーっと、携帯を見つめる。それを見た礼司が、「早くしろ!」と怒鳴ってきたので、武士はハッとして、吉田の番号を探し、それに掛けた。
「もしもし、川藤か?」
電話の向こうから吉田の声が聞こえると、武士は思わず泣き出してしまった。
「先生、俺な……」その先は声にならない。
「どないしたんや?大丈夫か?」
吉田の問い掛けに、何も言えずに泣く武士の手から、礼司は携帯を引ったくると、「吉田先生ですか?」と話し始める。
吉田が訝しむように「はい、そうですが?」と答えると、
「私は関川礼司というものです。川藤武士君の親戚の者でして。」
礼司がそう言う。すると、電話の向こうで吉田が、「ご親戚の方……ですか?」と問い返す。
「そうです。武士君のお父さんが亡くなったと、後から伝え聞きまして。それで、吉田先生には何から何までお世話になってしまったと、本人から聞きました。」
そう言われて、吉田は「いえ、そんなこと無いです。」と、答えた。さらに礼司は、
「それで……とても急な話で申し訳無いのですが、彼のことは、我が家で面倒を見ることになりましたので、先生にご報告をしようとしていたのです。」
「そうやったんですか……。」
吉田は礼司の言うことを、真剣に聞いている様子だった。ところが礼司ときたら、楽しくて仕方がない、と言った表情で電話をしている。
「ただ、我が家は東京なので、武士君としては本当は、そのまま大阪に居たかった様子ではありましたが……離れて暮らす子の面倒を見られる程、経済的に余裕がなくてですね、無理にこちらへ連れて来てしまったものですから……先生のお声を聞いて、悲しくなったのでしょう。」
そう言う礼司の顔を見て、ゾッとする。武士の方を見て、薄ら笑いを浮かべていたからだ。
「それでは、早急に手続きをさせて頂きますので。」
そう言って、電話を切ると、武士の携帯を自分の懐にしまった。
「腹減っているだろう?何か食うか?」
「……俺の携帯や、返せ!」
礼司の問い掛けには答えず、武士は礼司に掴みかかる。だが、まったく相手にならなかった。ほとんど体力の残っていなかった武士は、いとも簡単に腕を捻り上げられる。
「う……っ!」
あまりの痛みに思わず呻く。その様子を礼司はニヤつきながら見て、
「ふうん?頑張るねぇ。」
そう言いながら、さらに力を込め、
「早く降参しないと、肩が抜けちまうぞ?」
あっさりと恐ろしいことを言う。
武士は脂汗を流しながらも、身体を捻って、腕の自由を取り戻した。実は武士は、父が元警察官……武士が生まれた時には、すでに探偵に転職していたのだが……だったので、小さい時から柔道はやらされており、一応有段者だった。だが、それだけの動きをしただけで、激しく息切れする。
「へえ……なかなかやるね。」そう礼司が感心した様に言う。「でも、そこまでだ。」
そう言うや否や、鳩尾に拳を入れられる。武士は呻き声をあげて失神した。
気が付くと、またあの部屋に入れられていた。身体を起こそうとして、鳩尾の痛みに顔を歪める。ただ、初めて入れられた時とは違って、若干灯りが点いており、簡易ながら食料も置かれていた。とりあえずそれらを口に入れ、咀嚼する。
(めっちゃ悔しい……あいつに、勝ちたい!)
その思いだけが、武士を突き動かそうとしていた。
腹ごなしを済ませると、腕立て伏せを始める。だが、しばらく食べ物を取っていなかった影響は大きかった様で、すぐに腕が震え出した。武士は悔しさのあまり、涙をこぼした。
その次に出られたのは三日後だった。連れて来られた時から確実に、五キロ近く体重が減っているだろう、見るからにげっそりした自分の姿をみて、戦慄を覚える。また立て続けにここへ入れられると、本当に命に係わるかも知れない……そう危機感を持った。
「とにかく、何か食え。」
礼司にそう勧められるまま、用意されていた食事に手をつける。ほぼ絶食に近い状態から、急激に大量に食べると、命を落とすこともあるということを、武士は知っていた為、ゆっくり慎重に料理を選びながら、口に運んだ。
その後、風呂にも入ることが出来た。ここに連れて来られた土曜日の夜中に入ったきりだ。やはり将太が着替えを用意してくれていた。
「ようタケシ、生きているか?」
そう声を掛けられたものの、半死半生の様子の武士を見て、
「お前……痩せたな。」将太も目を見開く。「大丈夫か?」
本心から心配したと思われる、その言葉を聞いた武士は、将太の方を見て嗚咽する。いきなり泣き出した武士を見て、将太はたじろぎながらも、
「だから、ヒットマンには誰もなりたがらねぇんだ……。まず人間性を奪うことから始めるだろ?そうして狂わせておいて、いざとなったら使い捨てだからな。俺が言うのもなんだけど、そこまで命張れる様な人間、今時はヤクザの世界にもそうそういないんだ。ヒットマンがカッコよく活躍するのは、漫画とか映画とか、そういう中だけのハナシなんだよ……。」
そう語る将太の眼を見て、武士は自分の事を心配してくれているであろう、吉田の顔と被る。泣いていても何も解決しない、そう思い、涙を拭った。
「おい、武士!」
奥からまた礼司の呼び声がする。将太は今の話を聞かれていなかったか?と、手を口元にやるが、それは杞憂だったらしい、姿を見せた礼司は、将太の方には目もくれず、武士に、
「ちょっとこれに記入しろ。」
そう言って、一枚の紙を渡す。武士は訝しみながら、それに目を通すと、どうやらこちらの高校への転入届であるらしかった。
「高校くらいは卒業しておいたら良いだろ?」
礼司がそう言う。その言葉に、武士の表情が見るからに生き返った。明らかに嬉しそうにする武士を見て、将太は、
(アメとムチ……礼司兄キの常套手段だな。)
内心そう思い、そして、この先も武士に降り注ぐであろう、理不尽な仕打ちに心から同情したが、自分が口出しするなど、とんでもないことだ。
武士のことを横目で見ながら、将太は何も言わずにその場を立ち去った。
将太の予想通り、礼司は武士に向かって、
「じゃあ、これは俺が出しておくから、お前は心置きなく部屋へ戻れ。」
そう、あっさり言った為、武士は絶句する。
「嫌や……。」そう呟く様に言う武士に、「何だって?」と礼司が問い質す。
「それだけは、堪忍して……他の事なら何だってやります!だから……後生や、頼んます!」
泣きながらそう訴えるが、礼司はゾッとするような目つきで、
「お前がやることは、他に無い。だから、戻れ。」
「嫌やーっ!!」
思わず絶叫し、礼司の前から逃げようとする。だが、またしても物凄い力で襟首を掴まれ、そのまま引きずられる様にして、部屋まで連れて行かれる。扉の前でも、武士は「嫌や!イヤやぁ!!」と泣き叫びながら抵抗するが、終いには「うるさい!」と言って蹴り飛ばされ、やはり部屋に押し込まれてしまった。
「うわぁぁぁーっ!」
部屋に入ってからも武士はしばらく絶叫し、扉に向かって拳を滅茶苦茶に叩きつけたりしていたが、突然、こんなことをしても無駄だ、それなら他の事で体力を使う方が良い……と、冷静な自分の声が聞こえたような気がした。
(絶対にあいつに勝ってやる!)
そう涙を拭いながら、再度心の中で誓うと、腕立て伏せと腹筋をし始めた。今回は腕が震えようが、そんなことはお構いなしに、武士は雄叫びを上げながら、一心不乱にやり続けた。
十 未練
その次、出して貰えたのは丸二日後だった。単純に計算しても、此処へ来て既に一週間が経過したことになるが、武士からは既に日にち感覚が奪われており、今日が一体何月何日なのか、全く分からなかった。しかも今回は、自力で立ち上がることが出来なくなる程、衰弱していた。
さすがにそのまま放っては置けなかったのだろう、医者を呼んだらしく、此処に来て初めて布団の上に寝かされる。
(お布団って、ええモンやったんや……今まで一度もそんなん考えたこと、無かったなぁ……。)
武士は今までの生活が、どれだけ恵まれていたのかを実感した。
程無くして、ただのラフな格好をしたオヤジ……といった風貌の医者が現れる。所謂「ヤミ医者」というヤツだ……と、そのオヤジは名乗った。点滴の針を武士の腕に刺しながら、
「あんた、まだ若いな……齢、いくつだ?」と、尋ねられたので、「十六……。」と答えると、医者は目を見開いて、
「十六!?何でまたヤクザなんかに??おっと、余計なことを聞くと、後で礼司のヤツにシメられるな……。」
そう言って、苦笑する。礼司とは、十年来の付き合いだと、医者はそう話していた。
「先日亡くなった親父が遺した借金のカタって言われて、借金取りらから、礼司兄さんに……売られました。」
武士がそう答えると、
「はぁ!?何だそりゃ?あいつもよくよく分からんヤツだな……。」
医者はそう言いながら、戸惑ったような顔をする。そうやって武士と話しながらも、手は止めずに処置を施していく医者を見て、武士も疑問を口にする。
「先生かて、何でヤミ医者なんか、やってはるんですか……?」
「単純な理由だ。医師免許を持っていないからさ。」
さも当然、と言った口調でそう答える。だが、武士はまだ不思議に思う。なぜなら、素人目だから分からないだけかも知れないが、正規の医者にも負けず劣らず、手際が良いからだった。訝しむ様な武士の視線を感じたのか、
「二十数年前の話になるが……医師の資格試験の当日に、親父が倒れたんだ。親父と俺の二人暮らしだったから、そのまま放って置けなくてな……。救急の連中が来たものの、医者じゃないから何も出来ないとぬかしやがる。確かにその当時は、救命処置も医療行為だとみなされていて、医者以外はやってはいけなかったんだ。」
そう語るヤミ医者の顔に、深い陰りが差す。さらに、ヤミ医者は続けた。
「苦しんでいる人間を前に、何も出来ない……そんなバカな事があってたまるか!俺はその時そう思った。同時に『資格を持つ』って何だ……?本来、人の命を救うための『資格』……それが人として単純に『助けようとする』行為を妨げている……おかしいと思わないか?」
「そう、ですね……。」
武士は同意すると同時に、ヤミ医者の顔を見つめた。彼は更に自嘲気味に、
「そのまま親父は寝たきりになった。親父はずっと、俺を医者にしようと頑張って金を稼いでくれていたんだが、もともと裕福でも何でもない家だったから、俺は、親父の治療費の分も働かざるを得なくなった。次の年、もう一度資格試験を受けようと思ってはいたのだが、ちょうど試験の申込期日に親父の容体が急変して……そのまま亡くなった。俺も早いこと申し込んでおけばそうならなかったのに、やっぱりどこかに躊躇いがあったんだろうな……。それからは、『資格』が人を助けるわけじゃない、真っ当でカネのある人間は『資格』のある医者に助けて貰えば良いが、ちゃんとした医者に助けて貰えない様な奴らは、俺が助けてやろう……そう思う様になったんだ。どうだ、なかなか傲慢だろ?」
そう言って、ヤニで黄色くなった歯を見せながら、ニヤリと笑う。
このヤミ医者の様に、これまでの生活では考えることも無かった、様々な事情を持った人間が、こうして存在しているのだ……ということを、武士は知った。
「そうそう礼司のヤツな、十年位前に、半グレ共に……」
「半グレ?」
ヤミ医者の言った言葉が分からず、戸惑った声を上げると、
「ヤクザ組織には属さない連中のことだ。ある意味、常に警察に監視されているヤクザよりも、タチが悪くてな……。奴らの殆どが未成年だってこともあって、検挙されてもすぐまた戻れることを知ってやがるから、犯罪に手を染めることを何とも思っちゃいねえ。暴力沙汰なんて日常茶飯事で、おまけにヤク中だろ?で、強盗、強姦……そういうのを平気でやらかす、ならず者どもだ。そいつらからボコボコにされて、瀕死の状態になっていた礼司を俺が診てやったんだ。アイツ、その頃まだ中二だったんだぜ?」
「……え?」
ヤミ医者が、予想もしていない話を切り出したので、武士は驚きの声を上げた。彼はさらに続ける。
「礼司のヤツ、かなり腕っ節が立つから、地元では有名な問題児だったらしい。でも、ちょいと良い気になっていたのかも知れないな?一匹狼を気取っていたアイツに、目を付けたあるグループから集団でやられて……たまたま通りかかった、ここの組長に拾われたって話だ。で、俺に手当てしてやってくれって頼まれてな……まぁ、昔の話だ。礼司には言うなよ?」
そう言って、悪戯っ子の様に笑いながら、片目を瞑って見せた。今の礼司からは想像もつかず、武士は、かなり素っ頓狂な顔つきになっていたに違いない。
「じゃあ、お大事に。あ、点滴終わったらな、誰かに抜いて貰え。」
一通り処置をし終えると、そう言って、ヤミ医者は帰って行った。
武士は、天井を眺めながら、自分はこの先一体どうなるんだろう?という不安がもちろんあるが、どう進んで行ったとしても、自分が選んだ道の一つなのかも知れない……運命を狂わされながらも、そのことによって進むべき道を切り開いていった、あのヤミ医者の様に……。だから、何もかも礼司の思い通りになる訳ではない……彼が話していた様に、礼司自身も、決して思い通りの道を歩んできたわけでは無いのだ……そう自分に言い聞かせた。
次の日の朝は、布団の中で目が覚めた。武士は、もし体力が回復しても、ここからは出たくない……そう思いながらも、用足しの為に起き上がろうとする。昨日は全く言うことを聞かなかった自分の身体が、何とか立ち上がることが出来るまでになっていた。
(……あの先生のお陰やな。)
そう思い、心の中で感謝しておいた。
そのまま部屋を出て、用を足し終えると、物音に気付いたらしい将太が現れる。
「タケシ、大丈夫か?」
「ショウ兄、おおきに。お陰様でなんとか。」
夕べの時点では、自力で立つのが難しかったため、点滴を抜きに来てくれた将太に、手洗いまで支えて行って貰ったからか、武士のことを気にしてくれていたらしい、そう気遣ってくる彼に向かって、礼を言いながら頭を下げる。すると、将太は安堵の表情を浮かべながら、
「あー、良かった。目の前で死なれたら、どうしようかと思ったぜ……。」
「俺も今死なれちゃあ、困るな。」
二人の話し声が聞こえたのか、あるいはセンサーでも付いているのか、またしてもタイミング良く(悪く?)礼司が現れた。将太もそうだが、武士は完全に身構えている。
今、また『元気そうだな。じゃあ部屋へ戻れ。』とでも言われようものなら、もう死んでも良いから、何が何でも逃げ出してやる、そう心に決めていた。だが、礼司の口から予想外のことを言われた。
「武士お前、明日から高校へ行け。」
「礼司兄キ、明日は日曜日ですけど……?」
そう将太が突っ込むと、礼司は「あぁ?」と言って、顔を顰めながらも、
「……じゃあ明後日から行け。今日と明日は休みをやる。ショウ、武士が食えそうなら、何か食わしてやってくれ。」
それだけ言うと、また奥へ戻っていった。
「タケシ、良かったじゃねえか!」
そう言って、将太が肩を叩くが、武士はまだ実感が湧かなかった。
東京の高校……確か『成城高校』という校名だったか……どんな高校だろう?だが、ここで狭い部屋に押し込められているより、遥かに嬉しいことに間違いなかった。
そして月曜日になり、礼司に付き添われて、高校へと向かった。まだ制服が出来上がっておらず、武士は連れてこられた時に着ていた、大阪の高校での学ラン姿だ。礼司は……と言えば、彼の容姿だと、普通のビジネススーツにネクタイを締めていれば、誰が見てもヤクザだとは分からないだろう。武士は内心、『本当はこの人、めっちゃ悪い人ですよ~!』と吹聴せずにいられない欲求を、抑えるのに必死だった。喉元まで出そうになるのを必死で堪え、別のことを口にする。
「あのー、兄さん?学校へ行ったら何て呼べば……?」
「そのまま兄さん、で良いんじゃないか?それとも……何か変か?」
そう凄まれ、「いえ……。」と返事をして、口ごもった。しかし、少し後ろから付いてくる、如何にもヤクザという風貌の男二人がどうしても気になり、
「えっと、あの人たちは……?」
「一人は俺のボディガード、もう一人はお前の監視だ。」
「えっ!?」
武士は驚きとも揶揄とも取れる様な声を上げる。あんな人に付いて来られたら、高校生活自体が台無しになる……そう危惧する。そんな武士の様子を見て、礼司は人をくった様な笑みを浮かべ、
「絶対に逃げないという保証はないからな。」
そう言いながら、ゾッとする様な目つきで武士の方を見る。武士は内心震え上がりながらも、
「……絶対に逃げませんから、あんな見るからにヤクザな人を寄越さんといて下さい……。」
武士の言葉に、後ろを振り返って見、顔を顰めながら、「んん?……確かに、そうだな。」そう呟く様に言うものの、
「まぁ、学校の中に入れなきゃいいんだろ?」
「……。」
武士は絶句した。……ということは、いくら学校の外からとはいえ、毎日アレに監視されるんだ……そう思うと、気が重くなってくる。
武士が悶々と考え込んでいる内に、目的の高校に着く。もともと通学している学生たちは、既に登校している時間帯なのであろう、途中でそれらしき学生に出くわさなかったので、この奇妙な一行を見られなかっただけでも安堵する。
礼司の指示通り、二人のヤクザはそのまま校門の外に残った。そして、礼司と武士はインターホンで案内された、校長室へと向かう。
礼司は校長室の扉をノックしながら、「失礼します。」と言って、室内へと歩を進める。武士もその後に続いた。「どうぞ、お掛けください。」という声と共に、初老の男の姿が目に入る。想像していたより若い印象を受けるが、いかにも『校長先生』といった風貌の人だった。後から遅れてもう一人、三十代くらいの男が入ってくる。どうやら武士が入ることになるクラスの、担任の教師であるらしかった。
それから、父が亡くなり、こちらの親戚を頼った為に、東京の学校へ編入することになったという事情や、武士の大阪の高校での生活ぶりなどを一通り話すと、礼司は帰って行き、武士は自分のクラスへと案内されることになった。
しばらく自習させられていたとみられるクラス内は、武士たちが入るなり、それまでかなり騒がしかった様だったが、少し静かになった。担任にしてみても、武士が校長室に居た時から気になっていたのだが、さほど生徒達に関心がないといった様子で、面倒だとも取れる様な態度のまま、武士のことを大阪から来た編入生だと言って紹介した。
「川藤武士です。これから、よろしゅう頼んます。」
そう武士が自己紹介をすると、クラス全体から失笑が聞こえた。きっと武士の発した大阪弁が、彼らの蔑みの対象になったに違いない。あからさまに馬鹿にした様な顔つきになる者もいた。
大阪の高校のあのクラスのことを思うと、武士は落胆したが、ずっと礼司の言うままに扱われることを思えば、これくらいのことは何でもなかった。とにかく勉強に没頭しよう、そう思うことにする。
だが、思っていた以上に、レベルが低かった。ドラマに出てくる様な、絵に描いた不良ばかりが集まった学校……と、そこまで悪くは無さそうだが、ある程度の授業を受けた時点で、もう大阪では習い終えた範囲ばかりだったからだ。道理で編入試験を免除された訳やなぁと、武士はやや失望する。既に習った範囲の授業を聞くのも億劫になり、なんとなく窓の外に目をやると、例のいかにもヤクザな一人が、校門の外に立ったままになっているのが見え、思わず席を立ち上がりそうになる程、驚いた。もう午後の講義に入っているから、少なくとも五時間は経っているはずだ。
(兄さんの言ったことは、ホンマにホンマのことやったんや……。)
武士が内心舌を巻いていると、その様子を見ていたらしい、数Ⅱの授業をしている先生……名前は東と言うらしい……が、
「君は……編入生だったか?そんなに答えたいのかね?」
そう、からかう様な口調で、武士に話しかけてくる。
「それなら君、ここから先を答えて下さい。」
そう言って、黒板を指差し、手招きする。この学校のレベルでは、今、東が示した問題は、塾などに通っているならともかく、この授業の進捗状況で答えることの出来る生徒など、いないだろう。クラスの生徒たちの中には、相変わらず蔑みの視線を送ってくるヤツもいるが、気の毒そうに武士を見る同級生も何人かいた。きっとこの先生の常套手段に違いない、今までに犠牲になったことのある生徒が何人もいるのに違いなかった。
武士は無言のまま前に出て、スラスラと続きの数式を書き始めたが、
「先生、このXの値、おかしないですか?X>Yなんですよね?それやのに、このまま続けたらYの値の方が大きなりますけど?」
そう指摘すると、東は顔を上気させ、
「それなら、そこまでで良いです!」
そう言いながら、武士からチョークをひったくり、「今日はここまで!」と叫ぶ様にして、教室から出て行った。東が姿を消すと、教室中に、
「おお~っ!」という、どよめきが起こった。
「俺、ちょースッキリした!」「君、なかなかやるねぇ!」などと口々に言われ、何人かの男子生徒に囲まれる。
「いや……前の学校ではもう習ってたとこやったさかい、そんな大したことちゃうねん。」
そう、両手を広げて弁解していると、女子生徒が何人か輪に加わり、
「武士君だっけ?大阪弁、カワイイね!」
と、いきなりファーストネームで呼ばれ、おそらく顔を赤らめながら「お、おおきに……。」と答えると、
「やだっ!カワイイじゃん!!」
と、言いながら、思いっきり背中を叩かれる。結構な痛みに顔をしかめながらも、
(なんだかんだ、ノリは大阪の高校と変わらんなぁ……。)
そう思い、武士は嬉しくなった。中には、蔑みから敵意丸出しの視線に変わったヤツもいるようだったが……。
その日の授業をすべて終え、武士は意気揚々と帰路につく。校門を出たところで、皆が何かを除けながら通っているなぁと思っていると、例のいかにもヤクザな一人が校門の少し先で立っていた。武士は思わずたじろぐ。しかし、相手はそんなことお構いなしに、武士の姿を見つけると、「お疲れ。」と声を掛けて来た。
「お、お疲れさまです……。」
武士もそう答え、前を通り過ぎようとするが、後ろにピタリと付いて来られた。武士は遠慮がちに、「あの……?」と声をかけると、『いかにもヤクザ』は「何だ?」と返事をし、有無を言わさない様な視線を武士に向けてくる。
「いえ、何でもないです……。」
武士は仕方なくそう言うと、なるべく同じクラスの連中に見られない様に、帰りを急いだ。だが、武士は気付いていなかったが、武士に敵意むき出しの視線を向けていた一人が、その様子を見ていた。
「あいつ……一体何者だ?」
十一 逃亡
それから数日は、武士にとって穏やかな日々だった。帰る場所がヤクザの事務所だということと、毎日校門のところで、礼司の手下が見張っている、ということを除けば……だが。
そして、六月に入り、武士の東京での生活も半月が経とうとしていた。こちらの生活にもやや慣れ、その後、あの『部屋』に入れられることがなかった為、体重もかなり回復した。いつあの『部屋』に入れられるかもしれない……という恐怖は常々あったが、もともと楽観的に考える性格だからか、今ならそれも乗り越えられる様な気がした。
だが、礼司から呼ばれると、やはり(次は何をされるんやろう?)と、身構えてしまうのは、致し方ないだろう。その時もそうだった。武士と、将太を含めた部屋住みの若手三人を呼び出し、
「じゃあ武士、こいつらと喧嘩しろ。」
いつもの如く、唐突にそう切り出す。
「へっ!?」「はぁ!?」
またしても、武士と将太の素っ頓狂な声が被った。
「とりあえず、将太から行け。」
そう言われて、仕方なく武士と将太は向き合って、構える。武士自身、柔道の心得はあるが、それは格闘技かと問われれば、限りなくスポーツに近いだろう。将太には、本格的な柔道や空手といった競技の経験は無さそうだが、構えを見ると、それなりに喧嘩慣れしている感じがした。
案の定、動きが読めない。スポーツとは違い、喧嘩にはルールなど無いからだ。いきなり拳が飛んできたかと思えば、足で蹴られそうになったりと、将太のトリッキーな動きに苦戦しつつ、なんとか抑え込む事に成功する。
「タケシ、次は手加減しねぇからな!」
将太が、息を切らしながらそう言ってニヤリとする。武士も同じ様に息を切らし、頷いた。
残りの二人についても、それなりに苦戦はしたが、投げ技、関節技を駆使して何とか凌ぐ。やはり、将太が三人の中では一番年長者と言うのもあるが、手強い様に武士は感じた。彼に本気を出されていたら、恐らく勝てなかったであろう。
礼司は、自分がけし掛けておいたのに、武士達の『喧嘩』には全く興味が無い様子で、一通り終わると欠伸をしながら、「つまんねーなぁ……。」と一言呟き、
「おい武士、ショウ、お前らどちらかが死ぬまで殺し合え。」
「……。」「……。」
あまりの過激な物言いに、武士と将太は黙り込んだまま、お互いの目を見た。他の二人も青ざめているのが分かる。そんなことは全くお構いなしに、
「あぁ、死なれると色々面倒だから、死ぬ手前位で止めておけ。」
そう言う礼司に、将太が、
「でも兄キ、タケシをヒットマンにするんじゃなかったんッスか……?」
そう遠慮がちに言ったのを、一瞥し、
「こんなところで死ぬ様なヤツには、ハナから務まらねぇだろ?」
「……。」
そう言われてしまえば、身も蓋もない。再び将太が黙り込んだ。そこへ、礼司は自分の懐から、折り畳み式のナイフを取り出すと、将太に向かって投げ、
「ショウお前、それを使え。武士はどうせ握ったことも無ぇだろうから、例え持ったとしても役には立たない。そのまま素手で行け。」
将太の眼つきが変わり、礼司から受け取ったナイフを手に武士の方を向く。これ以上、礼司を説得するのは無駄だと考えたのかもしれない。そして、
「タケシ、すまん。行くぞ。」
そう言った。
「え……?」
武士は戸惑いながらも、今自分が相当危機的な状況に置かれている、ということを理解した。その瞬間、将太のナイフが風を切る。武士の出来ることと言えば、とにかく逃げるしか無かった。だが、将太にジリジリと距離を詰められる。とにかく避け続けながら、この場を逃げ出そうと辺りを見回しつつ、壁際に置かれた棒の様なものが目に入り、それを目指して走る。だが、辿り着く寸前に、右上腕部に切りつけられていた。
「あ……っつ!」
痛みというより、火傷をしたと勘違いする位、腕が熱くなった。なんとか棒を手にし、それを闇雲に振り回す。それを避けようと、将太が武士から少し離れたところで、部屋の出口に向かって一目散に走りだした。ところが完全に礼司に読まれていたらしい、目にもとまらぬ素早い動きで、扉の前に立ちふさがる。
(しまった!)
そう思った時には、またしても将太がナイフを閃かせ、武士はとっさに身を捩りながら、庇う様に振り上げた右腕の、手首から肘に掛けて切られていた。
「うわっ!」
あまりの痛みに悲鳴の様な上ずった声を上げる。思わず切られた個所を見ると、先に切られた上腕部のキズから流れ出る血と合わさって、血まみれになっていた。そして、自分の血が床に落ちる、ボタボタという音を聞きながら……武士は失神した。
気が付くと、また布団に寝かされており、右腕全体がミイラの様に包帯でぐるぐる巻きになっていた。後から聞いたのだが、例のヤミ医者が、武士のキズの縫合をしてくれた、とのことだった。処置を施しながら、「縫うの、苦手なんだよなぁ……。」と、ブツブツ言っていたらしい。ヤミ医者のしかめっ面を想像し、武士は心の中で謝りつつも、あの人らしいなぁと、おかしく思った。
次の日の朝、出来上がって来たこちらの高校の制服が、ネクタイを締めるタイプのものだった為、将太に着替えを手伝ってもらった。将太は武士の腕を痛々しそうに見て、
「タケシ、すまん。それ位やっておかないと、礼司の兄キが納得しないだろうと思って……。」
武士は将太に向かって頷きながら、
「俺かて、もっと上手く立ち回れると思うとったんやけど……。」
そう言うと、将太は苦笑いし、武士の背中を叩いた。
そして、右腕を三角巾で首から吊り下げ、学校へ行った。案の定、クラスメイト達から、
「それ、どうしたんだい?」とか「大丈夫?」と、尋ねられたが、
「ちょっと、うっかりしてて、怪我してしもうて……。」
と、言葉少なに誤魔化し続けることしか出来なかった。
中には、「右手が使えないと大変でしょ?ノート、取ってあげる。」と、申し出てくれた女子もいたが、
「おおきに。でも俺、左利きやから、全然大丈夫やで?」
そう丁重に断ると、いかにも残念と言った態度を見せた。武士はどうしたものかなぁと、戸惑いながらも、自分の席に着く。すると、例の武士のことを気に入らないといった態度を取っている奴……確か名前は、小西と言ったか……が、
「さすが、ヤクザと知り合いの方は、女のあしらい方もお上手ですね。」
そう声を掛けてくる。武士は一瞬ぎくりとしたが、「お知り合い」という言い方で、おそらく校門のところで立つ、礼司の手下に声を掛けられているところを見られたのだろう……と言うことが分かり、冷静さを取り戻すと、
「何や俺にえらい興味があんねんな?ずーっと見られてるんや思うたら、照れるわ。」
そう言い返した。すると、顔を上気させながら、自分の席へと戻って行った。武士は胸を撫で下ろしつつ、
(やっぱり、気ぃつけなアカンな……。)
そう、気を引き締め直した。
武士のキズがようやく癒えた七月初旬、また礼司の呼び出しが掛かった。今度は武士一人に対してだったから、よもや『殺し合え』などという理不尽なことは言われないだろう、と思いつつ、礼司に来る様に言われた部屋の扉をノックすると、「入れ。」という声がする。緊張しながらドアノブを回し、「失礼します……。」と言って、部屋の中に足を踏み入れた。
(「失礼はするな。」って言われるんかなぁ?)
などと思っていると、礼司は入り口に背を向けて、椅子に座っていた。礼司の向こう側は簡易ベッドらしいが、横たわった人のものと思われる白い足が、武士の眼に鮮明に飛び込んでくる。
(女!?)
武士は驚く。礼司は部屋住みの者たちに、外では一向に構わないが、ここに連れ込むことを厳しく戒めているからだ。恐る恐る側まで近寄ると、二十代位の、派手なスーツを身に纏った、ぐったりとして動かない女の姿が目に入った。両足は何故か簡易ベッドの柱に、手錠の様なもので括り付けられている。
「シャブだ。」と、礼司は一言発した。武士は一瞬何を言われているのか理解出来なかった。武士の唖然とした表情を見ると、礼司は、苦虫を噛み潰したかの様に渋面になり、
「うちのシマで働いていたホステスだ。馬鹿が……シャブに手ぇ出しやがったんだろ。こんなことされたら、使い物にならねぇ。」
そう、吐き捨てる様に言う。武士は、まるで汚いものでも見る様な礼司に向かって、
「モノって……いくらなんでもそんな言い草、ヒドないですか?」
そう言うと、礼司は例のゾッとする様な目で武士を睨みつけ、
「ヒドい?ヒドいのはこの女だ。武士、この女もお前と同じで、借金抱えて苦しんでいたから、俺が買ってやったんだ。その分働いて返す……こいつがそう言ったからな。それなのに、このザマだ。それでも俺がヒドいって言うのか?」
「……。」武士は黙り込んだ。同時に、何故自分が呼ばれたのかが、全く分からない。武士の訝しむ様な顔つきに気付いたのか、礼司は、
「武士、この女の面倒を見てやれ。」
「え……?」
武士は、ますます訳が分からないと言った表情になる。すると、礼司はいつもの人をくった様な表情で、
「お前が一番『安全』そうだからな。見境なく女襲ったりしねえだろう?」
「……。」武士が黙っていると、どうやら不服に思っていると受け取ったらしく、
「まぁヤりたけりゃ、別にヤッても良いんだぜ?ただ、シャブ抜きの間は止めておけ。暴れて手に負えないっていうのもあるが、完全に抜きたけりゃ、逆効果になる。」
「いや、そうじゃなくて……。」
「?」今度は礼司の方が訳が分からないと言った顔つきになり、
「え?お前、意外だな。童貞じゃないのか?」
やっぱり話が噛み合わない。将太の苦労が良く分かった。確かに童貞で無い、というのはそうなのだが……。
「俺、覚せい剤を使うた人の介抱なんて、やったこと無いんで、どないしたらええんかわからんなぁ、思うて……。」
「そんなの簡単だ。とにかくシャブを使わせないようにする、それに尽きる。」
そう言いながら、礼司はニヤリと笑い、
「だが、こいつらはあの手この手を使って、シャブを手に入れようとするから、気を付けろ。」
礼司はそれだけ言うと、頼んだぞ、とでも言う様に武士の肩を叩き、部屋から出て行った。
武士は、どうしたら良いのか全く分からず……仕方なく礼司の座っていた椅子に腰掛けた。ベッドの方に目をやるが、先程から女はピクリとも動かない。
(そもそも、生きてるんやろか、この人……?)
そう思い、口元に手を近づけると、微かな空気の流れを感じる。どうやら息はしている様子だ。武士は胸をなでおろす。
そのまま、どれ位時間が経ったのだろうか?武士も椅子に座った状態で少し微睡んでいた様だったが、ベッドの軋む音でハッとする。武士が気付いたのと同時に、
「いやぁぁぁぁぁ~っ!!」
悲鳴を上げながら、女が目を覚ました。上半身を起こしたものの、足は固定されていて動かせないから、パニックに陥っているのか、身を捩りながら、必死で何かから逃れようとしている様に、武士には見えた。
「お姉さん、大丈夫、大丈夫やで!」
武士は女の両肩を掴んで揺さ振り、そう呼び掛けたが、
「ひいぃ、来ないで!こっちに来ないで!!」
全く目の焦点が合わないまま、しばらく悲鳴を上げながら、訳のわからない事を叫び続けた。恐らく幻覚が見えているのであろう。今の武士には、これ以上なす術が無く、ただ茫然と、女の何かに怯える様子を傍観することしか出来なかった。
しばらくすると、女は糸が切れた操り人形の様に、パタリと倒れたかと思うと、また動かなくなった。思わず武士は安堵し、長い息を吐き出す。それと同時に、覚せい剤という麻薬の恐ろしさを、身をもって理解した。
それから小一時間程して、女が身を起こした時には、どうやら正気を取り戻したらしく、
「ここは……?」と、武士に向かって、そう尋ねてきた。
「村山組の事務所です。」
武士がそう答えると、女は青ざめ、
「私、何かしたのかな……?」
さらにそう尋ねてくる。とぼけているのか、それとも本当に記憶が無いのか、そこまでは武士には判らなかったが、
「……覚せい剤を使うたんですよね?」
そう言うと、女は口元に手をやり、嗚咽し始めた。
(あーあ……。)
武士は内心冷汗をかく。これまでのやり取りで、自分には全く非が無いと思うが、かと言って、目の前で泣かれると、なんとなく罪悪感を持ってしまう。どうしたものかなぁと困惑していると、しばらくして女は泣き止み、若干落ち着きを取り戻したらしく、
「ところで、君は?ずいぶん若そうだけど……てか、子供?」
そう尋ねてきた。さっきまで取り乱したり、泣いたりしていたのに、急に大人ぶった態度を取られ、武士は憮然としながらも、
「川藤武士……高二です。」
そう答えると、女は目を見開いて、
「ええ!?何で君みたいな子がここに居るの?」
驚きとも蔑みともつかない様な口調で、さらに質問を重ねてくる。武士は礼司の言っていたことを思い出し、
「あんたと同じで、俺も礼司兄さんに売られたんや。親父の借金のカタに、な。」
そう答えると、女は驚いた様に「えっ!?」と短い声を出し、少し考え込む表情になったが、どうやら切り替えは早いらしい。武士の顔を覗き込むと、
「じゃあ一緒だね、私たち。あ、私は紫帆。紫色に船の帆で、シホ。よろしくね、武士君。」
紫帆と名乗った女はそう言って、右手を差し出す。武士はその手に、自分の手を重ねた。紫帆の手は冷たく華奢で、少し力を込めるとすぐに壊れてしまいそうに、武士は思った。
「てか……私、何で足を繋がれているのかな?」
紫帆は自分の足元に目をやり、そう呟いた。だが、武士にしてみても、礼司から何も聞かされていない。恐らく、先程の様な幻覚症状に陥った際に、暴れない様にする為なのだろうが……。
「俺かて礼司兄さんに、あんたの面倒を見てやれって言われただけやから……。」
武士がそう答えるや否や、紫帆はあの華奢な手だとは思えない様な力で、武士の腕を掴んで引き寄せると、武士はバランスを崩し、紫帆の横たわるベッドに彼女を跨いだ状態で、膝をつく格好になる。
「ほーら、こんなんじゃあ、君だって私と何も出来ないじゃない?」
紫帆は、武士に顔を近付け、そう言いながら微笑む。
「だから、早く外してよ。そうしたらお姉さんが、良いことしてあげるから……ね?」
「……。」
武士は紫帆の言ったことを聞いた時、突然、約二年前の光景がフラッシュバックした。
あれは、中三の夏休みだった。武士の同級生二人が、自分たちは高校生だと偽り、女子大生と名乗る女数人をナンパしたと言う。そして、武士の家庭環境に付け込み、部屋を貸してほしい、もちろんお前にも『分け前』をやる、そう言って話を持ちかけて来た。特に断る理由も無かった武士は、あまり深く考えずにその話をのんだ。
そうして、友人二人と共に、彼女達と関係を持つことになったのだが、二度目の逢瀬の時に、敢え無く自分たちが中学生だということがバレて、その後、彼女達とは連絡が取れなくなった為、このことは自分たちだけの秘密になる……はずだった。ところが、何故か父の功士の知るところとなり、友人二人と共に集められた。功士は、三人を目の前に正座させると、
「あのなぁ……彼女らとそういうことになったんは、お互いに同意があった上やろうから、それに関しては、まぁええ。けれども、もし彼女らに子供が出来たら……お前ら、責任取るつもりはあるんか?」
「……。」
三人は黙り込んだまま、俯く。武士自身は、功士の顔を見ることすら出来なかった。
「さらに言わせて貰うとやな、彼女らも年齢詐称していた……まだ高校生やったんや。もし、子供が出来たら、彼女らは高校を休むか辞めるかせなあかんなるやろ?まぁ大袈裟に言うたら、彼女らの人生をお前らが狂わせることになるわけや。その責任をお前ら中坊に取れるんか?高校へ行くのを諦めて、働いて金稼いで……結婚せえへんとしても、養育費を支払ってやるつもりがあるんか?俺は、お前らからそれを聞きたい。どうなんや?」
三人は何も言えないままだった。そこへ、功士が畳み掛ける。
「そんな覚悟も無いガキには、ハナから女を抱く資格なんか無い。」
「でもよ……」武士の同級生の一人が、初めて口を開き、
「俺らだけ悪者なん?それやったら、高校を中退せなあかんようなことをした、女の方かて自業自得なんとちゃうんか?」
そう言うと、功士は鼻でせせら笑い、
「お前、アホやな?男は子供を孕んだりせえへんやろ?女は子供を孕んだ時点で、その命に対する責任を、自動的に持つことになる。だけど、男は例えガキが出来ても、自分には何の変化も無い。知らぬ存ぜぬで通せば、何もなかったことに出来る……お前らは、そんな恥知らずな、無責任な人間なんか?それを俺は聞きたい、言うてんねん。わかったか?」
「……はい。すんません……。」
同級生の一人はそう言って謝ったが、武士たち三人共、功士がそう口調を荒げている訳でも無いのに、小さくなるしかなかった。すると功士は、そんな三人の様子を見て、
「お前らやったら、ホンマに惚れた女が出来たら……きっとその女の事を大事にしたい、そう思う筈や。俺はそない信じてる。もし責任取りたく無いのにムラムラ来たらな、そういう商売のとこへ行け。どっちにしろ、自分でアルバイトでも何でもええから、金を稼げるようになってから、やな。お前ら、ちょっと焦りすぎたんや。」
そう言って、相好を崩した。その時の功士の顔を見て、我が父ながら恰好良いと思った覚えが、武士には残っていた。武士の動きが完全に止まっているのを見て、
「……武士君、どうしたの?」
紫帆がそう尋ねる。その声を聞いた武士は我に返り、
「えっと……兄さんに鍵、貰うてきます。あの、別に紫帆さんと何したいっていうことや無うて……。」
そう、しどろもどろ答えると、紫帆は可笑しくて堪らないという風に吹き出し、
「はいはい、分かったわ。」
そう言って、満面の笑みを浮かべた。その笑顔の彼女はとても綺麗だと、武士は思った。
一旦部屋を出て、礼司を探すものの見つからなかった。仕方なく、将太に相談してみることにする。一部始終を報告すると、将太は困ったような顔つきをして、
「たぶん鍵が無くても、俺なら外せると思うけど……でもそれ、シャブを探しに逃げられない様にしてんじゃねーのか?」
「でも……ほら、そのうちトイレなんかも困るんちゃうかなぁ、思うて。」
武士がそう言うと、将太は仕方がないという風に、
「分かった分かった、一回様子を見に行ってやるよ。」
そう言って、肩を竦めた。武士は将太の前を行き、紫帆の居る部屋まで案内する。武士と将太が部屋に入ってきたことに気付き、身を起こした紫帆に向かって、
「すんません、礼司兄さんが見つからなくて……別の兄さんを……」
そう言いながら将太の方を見ると、目を見開き、物凄く驚いた様な表情をしていた。そして、
「……紫帆姉ちゃん?」
愕然としたまま、そう呼びかける。すると、紫帆も驚いた様子で、
「え……もしかして、将ちゃん……なの?」
「知り合いですか!?」
武士も驚いた様に、そう声を上げる。すると、将太が真顔で、
「タケシ、悪いけど……ちょっと二人にして貰えるか?」
将太の気迫に押されながらも、武士は、
「構いませんけど……もし礼司兄さんが来たら……?」
そう答えると、「大丈夫だ、すぐ終わるから。」と言いながら、まるで武士を追い出すかの様に、背中を押してくるので、仕方なく扉の外に出る。部屋の中から何やら二人の話し声が聞こえて来たものの、いつ礼司が戻ってくるかも知れないと思うと、そちらの方が気掛かりで、話の内容まで聞き取ることは出来なかった。
しばらくして、将太は紫帆の足を外してやったらしく、二人で部屋の外へ出て来た。いつになく緊張の面持ちをした将太を見て、武士は胸騒ぎを覚えたが、なるべく平静を装い、声を掛ける。
「紫帆さんを、どないするんですか?」
「ここから逃がす……俺も一緒に行く。」
「えっ!?」
ある程度の覚悟はしていたつもりだったが、やはり将太の言葉に衝撃を受け、思わず驚きの声を上げると、将太は慌てた様子で、
「シッ!声がデカい!」
そう小声で言いながら、武士の口を塞いだ。武士はわかったと言う様に頷き、将太の手を除けると、
「でも……そんなん礼司兄さんに見つかったら、ショウ兄、殺されますよ!?見逃したってなったら、俺かて只では済まへんやろうけど……。」
そう言いながら口ごもると、将太は、
「じゃあタケシ、お前も逃げろ。今は礼司兄さん、居ないはずだ。」
「え……?」
「お前だって、このままヒットマンにさせられるのはゴメンなんだろう?」
武士には、将太の言うことがとても魅力的に聞こえた。将太の眼を見返し、思わず頷き返す自分に驚きつつも、「ショウ兄、紫帆さんって……?」と、疑問を口にする。
「俺ん家は、俺がガキの頃に崩壊していたから、食いモンもロクに与えて貰えなかった。その頃、同じアパートに住んでいた紫帆姉ちゃん……俺が小学校低学年位だったから、姉ちゃんは中学生だったはずだ……いつも腹を空かせていた俺に、飯作って食わしてくれていたんだ。」
「せやったんですか……。」
そう言って、しんみりする武士に、
「とにかく急ごう。俺達は後から行くから、タケシ、お前が先に抜け出せ。もし、誰かに見咎められたら、俺に使いを頼まれた、とでも言っておけ。」
将太は緊張の面持ちのまま、早口にそう捲し立て、
「じゃあな、タケシ……とりあえずこれだけしか渡してやれねーけど、頑張れよ!」
そう言って、武士に現金を手渡す。
武士も将太に向かって、
「おおきに。ショウ兄も……元気で。」
そう言いながら、貰った現金だけを握りしめ、組事務所から抜け出した。
十二 烙印
とにかく大阪へ戻ろうと、東京駅方面を目指し、歩き始める。将太がくれた現金は一万円だけだったので、新幹線には乗れないが、将太自身も紫帆を連れての逃亡……しかも部屋住みの下っ端に過ぎない身だったから、持ち合わせはほとんどなかったはずだ。それでも武士の為にこれだけ用意してくれた彼へ、心から感謝した。
こちらへ連れて来られて二か月余りが経つものの、いざ東京駅まで歩いて向かおうとすると、土地勘が無い為、何度も迷いそうになった。線路沿いの道を通れば簡単なのだが、逃亡中の身としては、そんな目立つところを通る訳にはいかない。腕時計を見ると、もうすぐ午前四時を指していた。組を抜け出してきた時間が夜中の三時頃だったから、一時間近く歩いて来たことになる。ここまでくれば、流石にすぐには見つからないだろう……そう思い、二十四時間営業のコンビニに入って、書籍コーナーで地図を物色し始めた。
しばらくして、ふと顔を上げると、ウィンドウの外に黒い人影が見える。いつも武士のことを見張っている、礼司の手下だった。武士は自分の血の気が引く音を、初めて聞いた。
とっさに武士が取った行動は、やはり店の外へ逃げることだった。だがもう一人、礼司がボディガードだと言っていた男も現れ、二人の男に挟まれる格好になる。そして、ナイフの切っ先を向けられた為、武士は硬直することしか出来なかった。
「手を頭の後ろで組んで、車の所まで行け。」
そう、男が言葉を発する。武士は言われた通りに手を頭の後ろに組み、ぎこちない動きのまま、後ずさった。コンビニの店員が気付いてくれないだろうか?そんな期待も抱いたが、丁度カウンターからは死角の位置だ。おまけに今の時間帯は、他に客の一人も居なかったから、店員から見て死角で無かったとしても、店の外にまで気を配っていたりしないだろう……。なら、大声を出すか?などと、色々頭の中で考えを廻らせていたが、武士の考えなどお見通しなのであろう、いつも武士を見張っている男に、
「騒ぐなら、クスリを使うぞ。」
そうクギを刺される。武士は、あの何とも言えない気分の悪い思いをするのは二度とご免だった為、「騒いだりしません……。」と、蚊の鳴く様な声で、弱々しく答えることしか出来なかった。すると男は満足げに笑い、武士はナイフの切っ先で脅されたまま、車のトランクの前で「入れ。」と命令され、仕方なく自分から中に入った。そして、もう一人の男に手錠を掛けられ、すぐトランクの扉を閉じられる。大阪から連れて来られた時とはまた別の恐怖感に駆られ、震えが止まらないまま、トランクの中に寝そべることしか、武士には出来なかった。
しばらく走った後、車が止まったかと思うと、トランクの扉が開き、今度は「出ろ。」と命じられる。空を見上げると、やや白み始めていた。
武士は、てっきり組事務所に連れ戻されたのだと思っていたが、目の前には見覚えの無い建物……どうやら何かの倉庫らしい……が立っていた。そうしてまたナイフの切っ先を向けられ、その中に入る様、促される。中は完全なる闇だったが、すぐに一部の蛍光灯が灯った。もっと雑然とした内部を想像していたのだが、思いのほか何もなく、ガランとしていた。そして一区画へ連れて行かれ、天井からぶら下がるリフトのチェーンに手錠ごと繋がれると、そのまま上に引っ張り上げられ、爪先立ちの状態にされた。床には、以前付いたとみられる血痕の様なシミが所々、残っているのが見える。
武士の顔は、能面の様に血の気が無かった。これから行われるであろう、世にも恐ろしい仕打ちに身の毛がよだつ。自分でも、過呼吸を起こしているのかと思う程、息が荒くなった。だが意外にも、男二人は武士をそのままの状態で放置し、立ち去ってしまった。
それからどのくらいの時間が経ったのであろう、武士はすでに手の感覚が無くなっていた。手が……というより、無理な体勢のまま吊り下げられている為、体中が悲鳴を上げている。もう限界かも知れない……そう思い始めた時、礼司が現れた。
天井から吊り下げられ、青ざめる武士を見て、目に残忍な光を宿した礼司は、
「どうして、あの女を逃がしたりした?」
そう武士に詰問する。武士は黙ったまま礼司から目を逸らせた。すると、ものすごい力で首元を掴まれ、
「……で、何でお前まで逃げようとした?」
礼司はそう尋ねて来るが、武士は首を絞められている為、だんだん意識が遠退く。すると、次の瞬間には、頬を張られていた。その痛みにハッとなり、若干咳き込んだが、相変わらず黙りこくったまま俯いた。すると、礼司は口の端を上げ、
「ショウのヤツに何か言われたんだろう?」
そう尋ねてくる礼司の言葉に、もしかして将太と紫帆も捕まったのだろうか……?と、不安を覚えたが、とにかく首を横に振る。将太に「逃げたらいい」と言われたのは確かだが、そうしたのはあくまで自分の意志だったからだ。
「ほぉ……庇うのか?」
礼司がそう言ってくるので、絶望的な気持ちになった。やはり二人は捕まり、こことは別の場所へ連れて行かれたのだ……武士は唇を噛む。
「あいつらは、『お前にそそのかされた』と言っていたぜ?俺は逆に、お前は利用されたんだろうな、と思っている。あいつらが逃げやすい様に、隠れ蓑に使われたんじゃねぇかと、な。」
礼司の言ったことに耳を疑った。自分が彼らに逃げる様、勧めたわけでは無い。しかもそうなると、将太は初めから武士も逃げれば、自分たちの方に目が向き難くなると計算していた……ということになる。武士の顔が引きつるのを見て取ったのか、
「素直に認めろ。自分は悪くない、とな。」
そう言う礼司の声音は、気味が悪い程優しかった。だが、武士は首を横に振り、
「……ショウ兄は、何も悪ない……俺が、勝手に……逃げよう、思うたんや……。」
もし、将太たちがまだ捕まっておらず、礼司が自分を試しているのだとしたら……望みはある。武士は、これで将太に恩返しが出来るのであれば満足だと思い、騙された恨みは感じなかった。
武士の答えを聞き、礼司は内心、
(こんなところは、こいつの親父にそっくりだな……。)
武士の父、功士の言っていたことを思い出す。彼は、何故か自分の事を買い被っていた……。
「礼司君、君は……自分で思うてる程、悪い人間やないはずや。俺の勝手やねんけど、君を見込んで頼みがある……。息子……武士を、頼むわ。」
そう言って、真っ直ぐに自分を見つめる功士から、思わず目を逸らし、
「……俺に頼むってことを、わかっているのか?」
苦笑する。いつもの軽口が上手く叩けない自分がもどかしい。
「親バカや、思うてくれたらええ。あの子は……命さえ無事やったら、自分で自分の道を切り開いて行ける強い子や。だから……無駄死にだけはさせとうないねん。」
やはり、自分の目をジッと見つめながら、そう話す功士に、少し口の端を上げながら、
「死んだ方がマシだと思う様な目に合わせるかも知れないぜ?ヤクザに……なるんだからな。」
そう言う礼司の事を気遣うかの様な、そんな複雑な表情を浮かべながら、功士は、
「それでも、生きていて欲しい……思うんは、親のエゴかな……?」
最期は、そう呟く様に言い、微笑みながら……逝った。
物思いを振り払うかの様に、再び残忍な顔つきで武士を見ると、
「嘘を吐く子は嫌いじゃない……だが、お仕置きは必要だな。」
そう言いながら、リフトのチェーンを引いて、武士を下した。ポカンとする武士を尻目に、手錠も外してやると、
「お前の勇気に免じて、俺とタイマン張らせてやる。万が一にでも、お前が勝てば、全員無罪放免……晴れて自由の身だ。だが、俺が勝てば武士、お前は俺に絶対服従しろ。その上で、あの女の分も働いてもらう……あ、将太はクビにするから、その分も、な。」
「……。」
武士は腕の感覚を取り戻そうと、必死でさすりながら、礼司の眼を黙って見返した。礼司は、いつもの人をくった様な表情をしており、真意は分からなかったが、要するに自分が勝っても負けても、将太たちのことは自由にする、と言っているも同然だ。礼司に勝てるわけが無いが、それを聞いて少し安堵する。武士は分かったという様に、大きく頷いた。
「来い、武士。」
そう言って、礼司が身構える。
あの時、礼司に「殺し合え」と言われて、将太のナイフの前になす術が無かった武士だったが、その後、将太に乞うて特訓をしてもらったから、あの時よりは上手く立ち回れる様になっているだろう……そう考えていたが、甘かった。礼司の動きは将太の比で無く、全く読めない。しかも、一体この身体のどこに、こんな力が隠されているのか?と不思議な位、パンチにしろ蹴りにしろ、重かった。もともと吊られていたことで、感覚があまり残っていなかった武士の腕は、ガードするにつれ完全に痺れてしまい、もはや自分のものとは思えない代物と化していた。
礼司は、それを見越しているかの様に、
「へえ……?思っていたより頑張れるんだな。だが、もう限界だろう?」
獲物を追い詰めたハンターの様に、残忍な笑みを浮かべながら、武士にそう言う。
「……くそっ!」
何とかして礼司に掴みかかろうとするが、無駄だった。腕に感覚が無い上、握力が無くなっている。どうやっても、自分に有利に持って行くのは不可能だ。それどころか抵抗することもすでに限界で、いとも簡単に礼司に両腕を掴まれ、壁に押し付けられたかと思うと、身体を蹴り上げられていた。
「かはっ!」
武士は唾液と胃液が入り混じった液体を吐きながら、もんどりうって倒れる。そこからは、滅茶苦茶に蹴られたり殴られたりしたが、途中からの記憶は無く、気が付いた時には布団の上に寝かされていた。
「……うっ!」
身を起こそうとするものの、全身が剣山に囲まれているかの様に痛む。脂汗を流しながら、呻き声を上げることしか出来なかった。そのまままた気を失うかの様に眠っていたらしい、何度かすぐ近くに人の気配を感じながらも、それが一体誰なのか、全く認識出来なかった。
「気が付いた?」
そう尋ねられて、初めて自分が目を開けているのだと分かった。
声のする方を見ているはずなのに、全体的にボンヤリとした輪郭しか見えず、声音から、女だということだけ理解する。武士はまた身を起こそうとするが、やはり全身に激痛が走り、呻きながら、苦悶の表情を浮かべることしか出来なかった。
「まだ無理しちゃダメよ!ここはあたしの家だから、安全よ。ゆっくりしていなさい。」
そう言う女の顔が、ようやく見えてきた。だが、武士は知らない人だった。
「あんたは……?」
呻く以外の言葉を初めて発したに違いない、女は少し驚いた様子で、
「弥栄子よ。一応、『礼司の女』ってとこかしらね?」
そう自虐的な笑みを浮かべながら名乗った。武士は『礼司』という名前に条件反射するかの様に、いきなり身を起こしたが、全身を蝕む痛みに、思わず前屈みになる。
「あ、ほら、そんな急に動いちゃダメじゃない!」
礼司の女だと名乗った弥栄子という女は、そう言って武士の背中をさする。武士は荒い息を吐きながらも、
「俺……どれ位寝てました……?」
そう尋ねると、弥栄子は、
「そうねぇ、半日ってとこかしら?」
そう答え、武士を気遣う様に、横たえてくれた。武士は自分の顔のそこここに湿布が張られている感覚があることに気付き、自身に目をやると、腕には包帯が巻かれていた。弥栄子は武士の様子に気付いたのか、
「礼司のヤツ……あなたみたいな子に、何もここまでしなくても……ね?」
そう言いながら視線を落とす。武士は、
「あんた……弥栄子さんが、手当してくれはったんですか?」
そう尋ねると、弥栄子は苦笑いし、
「あたし、看護士の資格を持っているの。時々新庄さんの手伝いもしているのよ?」
「新庄さん……?」
そう訝しむ様に尋ねる武士に、弥栄子は、
「まだ会ったことないかしら?ヤミ医者のオヤジ。」
そう茶目っ気たっぷりの表情で答える。武士はあのヤミ医者の顔を思い出し、
「あぁ……その人やったら、もう何度かお世話になってます。」
そう答えると、弥栄子は頷きながら微笑んだ。
それから二日程度、武士は弥栄子の家で手当てをしてもらいながら、久し振りに家でゆっくり過ごす生活を送った。この怪我ではどちらにしろ学校に行けず、期末試験を受けることが出来なかった為、後日、追試を受けることが決まっている。
さすがに二日も経てば、身体を動かせる様になったので、弥栄子の家の手伝いをしたりしていると、礼司がやって来た。武士の姿を見つけると、薄ら笑いを浮かべ、
「弥栄子に手ぇ出すなよ?どうなるか、解るだろう?」
そう言って来たので、ぎこちなく首を縦に振る。そんな恐ろしいことを考える男が、この世に存在するだろうか?
「何、馬鹿な事を言ってるんだか……。」
隣の部屋で聞いていたらしい、弥栄子が現れる。すると礼司は、今まで武士が見たことも無い様な目で弥栄子を見つめ、
「今、いいか?」と、これまた聞いたことの無い様な口調で、弥栄子に話しかける。
「大丈夫だけど?」と、弥栄子が返事をし、武士の方を向いて「ゴメン、後、お願いね。」と、言うと、二人は武士の前から去って行った。
武士はやや呆然と、そんな二人の姿を見送る。礼司の態度がとても意外だったからだ。自分や将太たちに見せる態度とは一線を画している。冷徹なイメージしかなかったが、本当はもっと人間らしい一面を持った人なのかもしれない……そう武士は思った。
それと同時に、将太達はどうなったのだろう?そのことも思い出す。紫帆は覚せい剤の中毒症状を起していたから、すぐに普通の生活を送るのは難しいだろう。だが、世話焼きな将太の事だ、必ず彼女を支えてやるに違いない。何年か先の話にはなるが、二人が幸せに暮らしていてくれたら……。そう武士は祈っていたが、その自分の考えが、激しく自己嫌悪に陥る程甘かったこと、そしてヤクザの本当の恐ろしさを、思い知ることとなる。
程無く、弥栄子が一人で戻って来た。心なしか沈んだ顔つきをしている。武士は、
「どないしたんですか……?」
と、尋ねると、弥栄子は苦笑いしながら、
「将太クン、粛清されたんだってね……良い子だったのになぁ、あの子。あたし、お気に入りだったのに……。」
シュクセイ……?武士は、その言葉の意味をとっさに理解出来なかった。頭の中でパニックを起こしたのだろう、完全に動きが止まり、身じろぎひとつしなくなった武士の顔を、弥栄子は心配そうに覗き込み、
「武士クン……?」
そう尋ねて来たが、武士には何も見えず、また、聞こえなくなっていた。
その放心状態が、しばらく続いていたらしい、揺さぶられるような感覚がし、我に返る。
「ちょっと……大丈夫?」
そう言う弥栄子の声が聞こえた。武士はハッとなり、
「じゃあ、紫帆さんは!?あの人はどないなったんですか!?」
そう勢い込んで尋ねると、弥栄子はやや面食らいながらも、
「紫帆……?あぁ、将太クンと一緒に逃げた、クスリをやってたっていう女?」
思い出したかの様にそう言って来たので、武士は頷くと、
「あたしが言うのも憚られるけど……そういうクスリ漬けのオンナが好みだっていう男のところに、売られたんじゃないかしらね……。」
やはり、アイツは恐ろしい人でなしだった……武士は今更ながら、礼司の恐ろしさを再認識した。
(『ショウ兄はクビ』って、そういう意味やったんや……。)
虚ろな目つきで、何もない空間を見つめる武士に、
「でも君は、将太クン達に利用されたんでしょう?」
そう尋ねてくる弥栄子の顔を見て、頭を振り、
「ショウ兄は、いつも俺の事を助けてくれた……。そのショウ兄は子供の時、自分を助けてくれた紫帆さんに恩義を感じていて、何とか助けてやろうとしたんや。だから俺かてそれに応えたかったんやけど……。」
だが、まるで感情を失ったかの様に、涙が出なかった。何もかも楽観的に考えた、自分に対する憤りが沸々と湧き上がってくる。
手のひらから血が滲むほど、拳を握りしめる武士の様子を見て、
(この子……きっと親や周りの人から大事にされて育って来たのね。人から騙されて、酷い目に合ったことなんて、今まで無かったんだわ……。)
弥栄子は、軽い嫉妬の様な感情を覚えた。それに比べ、自分は……物心がつく頃には、既に庇護してくれるべき親は居なかった。自分と同じ様に、礼司にも親は無く、二人は同じ施設で生活を共にした。他にも似た様な境遇の子供たちばかりが集まるその施設が、自分たちの生活のすべてだった。
施設の職員の中には、親切なオトナももちろん居たが、世間一般のオトナ達の中にはロクなヤツがいなかった。時々、学校の友人のオヤで親切にしてくれるオトナもいたが、大抵は同情から……少しでも自分たちが気に入らない事をすると、「これだから施設の子は困るのよ。」とか「親がいないから、仕方がないのね。」などと言われる。酷い時は、友人の男親からわいせつ行為をされた。でも、こちらの弱みに付け込み、「君だって困るんじゃないの?」などと言って脅される……そんな地獄の様な子供時代を過ごした弥栄子にとって、武士の純粋な人を信じる態度が、言い様の無い感情を呼び覚まさせたのだろう、ちょっと意地悪をしてみたくなった。
「そう……将太クンも、君みたいな子を利用したことを、きっと後悔しているわね……。」
そう言って、武士の頭を撫でてやった。すると、一瞬弥栄子の方を、驚いた様な表情で見たが、今にも泣きそうになったらしく、すぐに顔を背けた。弥栄子は内心、ほくそ笑みながら、
「そうだ、身体に貼ってある湿布を取り替えるから、シャツを脱いでそこの椅子に座って貰えるかしら?」
そう言うと、武士は涙を見せたくないのだろう、俯いたまま、それでも大人しく言う通りにする。胸や腹に貼ってあった湿布を外すと、まだどす黒い内出血の跡が、痛々しく残っている個所もあったので、前に貼ってあったものより小さな湿布と取り替えてやる。武士は消え入りそうな声で、俯いたまま「おおきに……。」と、弥栄子に礼を言った。その時弥栄子は、おそらく礼司が時々見せる様な、残忍な目つきをしていたのだが、武士は全く気付いていなかった。
「じゃあ、今度は背中の方ね。反対向きに座ってくれる?」
そう弥栄子が言うと、武士は椅子の背もたれを跨いで、座り直す。その直後、ビリッと電気の走る感覚がしたかと思うと、身体が硬直した。そのままの格好で、指一本動かせない。それと同時に、口の中が痺れた様な変な味がし、気持ちが悪かった。
(今の何や!?スタンガン……か?)
弥栄子に問い質そうとするものの、声を出せなかった。そんな状態の武士の顔を覗きこみ、
「ゴメンね、武士くん。」
そう言って謝る弥栄子の顔を見て、慄く。まるで礼司の様な、薄ら笑いを浮かべていたからだ。
弥栄子は、身体が硬直した状態のままの武士の足を椅子の足に、腕は腕組みをする様な恰好で椅子の背に、それぞれ括り付けると、一度部屋を出て行った。
しばらくして、身体の感覚が戻って来たが、手足は椅子に括り付けられているので、動かせる首だけをめぐらせていると、部屋の扉が開き、何やら色々な道具を下げた弥栄子が戻ってきた。そして、武士の背中側に、椅子などを運び、セッティングを始める。武士は一体何が行われようとしているのかが全く分からず、
「弥栄子さん……何をしてはるんですか?」
そう尋ねると、弥栄子はクスッと悪戯っ子の様な笑い方をして、
「武士クンには言ってなかったんだけど……あたしの本職は『彫師』なの。」
「彫師……?」
まだ訝しげに尋ねてくる武士の背中に、黙ったまま消毒液を塗ると、その冷たさに驚いた身体が、ビクッと痙攣するかの様に動いた。
「ジッとしていなさい、動くと余計に痛いから。」
弥栄子の口調がそれまでのものと違い、厳しくなる。
「な、何を……?」
武士は必死で首を動かし、背中の方を振り返って見ようとするものの、両手足が拘束されていて、ある程度までしか見ることが出来ない。弥栄子が握る何かを背中に押し当てられた時、激痛が走った。
「い、痛いっ!何や、コレ!?弥栄子さん、頼む、止めて……!」
「仕方ないでしょ?刺青ってのは痛いものなの!君、男なんだから、我慢しなさい。」
その弥栄子の言葉を聞いて、武士は愕然とする。刺青……?それではまるで『ヤクザ』だ。
「……つッ!」
痛みで思考能力が上手く働かない。だが、必死で考えようとする。
(そうや、兄さんは俺を『ヒットマン』にするつもりなんやから……要するに俺は『ヤクザ』になるってことや。何で今まで気付かんかったんやろ……?)
そう思うと、悔しさと情けなさと……それに将太を失った悲しみと……色々な感情が渦を巻き、自分でもどうしようもない程、とめどなく涙が溢れて来た。
「うぅ、弥栄子さん……後生や、堪忍して。俺、ヤクザにはなりとうない……。」
「駄目よ!あたしだって、礼司にやれって言われているんだから……!」
憚りもせず、涙を流して泣く武士を見て、弥栄子にしてみても、先程までのドロドロした感情が嘘の様に、だんだん可哀想になり始めた。よく考えれば、まだ十六歳だと聞いている……背は高い方だと思うし、運動部に所属していたと言っていたので、それなりに筋肉も付いている様だが、明らかに二十代の男の身体つきとは違い、華奢さは否めない。
「痛い!堪忍して、頼んます……。」
「それ以上騒ぐなら、猿ぐつわを噛ませるよ!」
泣きながら、止める様懇願する武士の顔を睨みつけながら、弥栄子がそう怒鳴ると、武士は涙に濡れた目を見開き、何かを言おうとする様に口を開きかけたが……結局そのまま黙り込んだ。
その後は、今まで痛い痛いと言って泣いていたのが嘘の様に、武士は時々呻く程度しか声を出さなくなった。
その日は、取り返しのつかなくなる程度まで彫っておく様、礼司に言われていた通り、弥栄子はほぼ徹夜でアウトラインを完成させた。ずっと痛みに耐えていた武士もそうだろうが、彼女自身も疲れ果ててしまっていた。とにかく、武士の手足の拘束を解き、全体が熱をもって腫れ上がった上、血が入り混じった体液が滲み出ている彼の背中を手当てしてやりながら、ふと、疑問に思ったことを口にした。
「どうして、急に『痛い』とか、何も言わなくなったの……?」
ようやく痛みから解放され、ボンヤリしていた武士は、不意を突かれたかの様に一瞬考え込んだが、
「何でって……あの時、『猿ぐつわを噛ませる』って、そんなヒドイことを言うた弥栄子さんの方が、めっちゃ辛そうにしてはったから……。」
「……そう。」
弥栄子は、返事しか出来なかった。このくすぐったくなる様な感覚は一体何なのだろう?武士の、礼司に痛みつけられた傷の手当てをしてやったことに対して、こんな騙し討ちの様なやり方で、酷いことをする自分の様な人間にでも、彼は恩義を感じているのだろうか?そうでなければ、余程余裕のある状況ならともかく、彼のこの態度の説明がつかない。だが同時に、泣きたくなる様な懐かしさというか、嘘だったのかもしれないが、オトナから親切にされた時の、子供の頃の嬉しかった記憶が蘇ってくる。
武士は椅子から立ち上がると、そのまま布団にうつ伏せに倒れ込み、そうしてすぐに寝息を立て始めた。熱が出ているであろうから、無理もない……そう弥栄子は思い、眠っている武士の額に手を当て、そこにも湿布をしてやりながら、
(あたし、この子の姉貴になろう。きっとこの先、礼司からとんでもない仕打ちを受けるでしょうから、あたしだけでも、この子の味方になってあげなきゃ。そうして、この子の身体に『印』を刻んだ責任を取ろう。)
そう、心に誓った。




