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回想~新天地

 五 回想

 真弓は弥栄子と共に、彼女の部屋に居た。

 親戚達には、あなた方が追い払った友人の家に泊まる、とだけ連絡を入れ、有無を言わさなかった。どちらにしろ、携帯は手元に無いので、向こうから連絡の仕様がないのは、真弓にとって好都合であった。

 弥栄子は、布団を二枚並べて敷きながら、

 「今日は疲れたでしょう?ゆっくり休みなさいね。」

 そう声を掛けてくる。

 「ありがとうございます……。」

 「ごめんなさいね……お父様のことだけでも、大変なのに。」

 弥栄子が申し訳なさそうに、そう言ってくる。真弓は彼女の顔を見て、

 「弥栄子さんと……その、お兄……武士さんは姉弟みたいな関係だって言われていましたけど、あの男の人と弥栄子さんは恋人同士なんですか……?」

 真弓は、なんとなく疑問に思ったことを口にする。弥栄子は少し困った様な顔つきで、

 「礼司のこと?そうね、そうとも言うわね……。あたしはただの腐れ縁だと思っているのだけれど……。」

 「『腐れ縁』、ですか?」

 真弓はどういう意味なのか分からず、聞き返す。

 「そう。あいつもあたしも、物心が付く頃には身寄りがなくてね……同じ施設で育ったから、子供の時からずっと一緒なの……だから『腐れ縁』ってわけ。」

 そう言って、苦笑する。

 「この道に入るって言い出した時も、あたしは止めたんだけどね……。だけど、礼司を一人で放っておけなかったから、あたしは彫師になったの。」

 「彫師……?」

 真弓はまた聞き返した。

 「あの子の……武士のもあたしが彫ったんだけど、何か言ってなかった?」

 「そう言えば、逃げようとして、無理やりにって……。」

 それを聞いた弥栄子は、顔を曇らせ、

 「あの子、あの時まだ高校生だったからね……。たぶん今のあなたと変わらない位だったわ。」

 「お兄……武士さんも、そう言っていました。」

 弥栄子は真弓にウインクしながら、

 「武士のこと、『お兄ちゃん』って呼んでいるんでしょ?聞いたわよ?」

 真弓は顔を赤らめながら、

 「そう呼んでもいいって、言ってくれたから……。」

 と、答える。

 (これは……武士にしてみれば、可愛くて堪らないわね、きっと。)

 弥栄子は内心そう思う。真弓は一見気がキツそうな印象だが、本人もおそらく気付いていないだろう、時折見せる表情がいじらしく感じる。

 「あの子、背は今くらいあったと思うけど、どちらかというと華奢でね。あたしはよく知らなかったけど……大阪に居た頃は、公立だけどそこそこ進学校の生徒だったって言っていたから、頭の良い子って皆こんな感じなのかな?って、その時は思ったの。」

 弥栄子は笑いながら、続ける。

 「ただ、うちに連れて来られた時は、礼司にこっぴどくやられた後だったから、顔なんか腫れ上がっていて、よく分からなかったわね……。」

 それを聞いただけで、真弓は泣きそうな顔をした。さらに弥栄子は続ける。

 「それで二、三日、うちで手当てをしたりして、親切にしてあげていたんだけど、礼司から刺青するように言われていたし、この子、今まで誰にも騙されたりしたことないんだろうなぁと思うと、ちょっと意地悪したくなって、上手いこと言って、椅子に反対向きに座らせておいて、縛り付けてね。そうしておいてから彫り始めてみたものの、まだ十六だったから、だんだん可哀想になってきて……。それなのに『痛い!堪忍して……俺、ヤクザにはなりとうない……。』って言いながら泣くもんだから、こっちも好きであんたみたいな子供をいじめているんじゃない、と思うと腹が立ってね、『あんまりうるさいと猿ぐつわ噛ませるよ!』って怒鳴ったの。そうしたら、急に静かになったから不思議に思って、後であの子に聞いたのね。何て言ったと思う?」

 真弓は首を横に振る。それを見た弥栄子は苦笑しながら、

 「そう言ったあたしの方が、ものすごく辛そうな顔をしていたから……って、言われてね……。それで、思ったの。『あたし、この子の姉貴になろう。責任を取って、姉として、この子を守ってやるんだ。』って。でも……結局、守ってあげられなかったけれどね……。」

 そう言う弥栄子の瞳は、少し濡れている様だった。「でも……」と、また話し出す。

 「礼司もね……ああするしか、あの子の命を守る方法が無かったんだと思う。武士は今、色々なところからのお尋ね者だから……。礼司は、あたしなんかよりもっとひねくれているから、たぶん本人も気付いていないと思うけど、武士のことを本当の弟みたいに……ううん、それ以上に思っているはずよ。ただ困ったことに、その表現方法というか、愛情の示し方を、あいつは知らないのよね……。」

 弥栄子の話をじっと聞いていた真弓だったが、武士が「色々なところからのお尋ね者」という言葉に、他の話が耳に入らなくなる。真弓の顔が強張ったのを見て、

 「真弓ちゃん?どうかした?」

 弥栄子が声を掛けると、弾かれたように、

 「『お尋ね者』って、お兄ちゃんがいろんな人から命を狙われているってことでしょ?どうしてなの!?」

 「どうしてって言われても……それは……。」

 弥栄子は、真弓が突然取り乱したのに驚き、言い淀んでいると、

 「何もかも私のせい、よね……。」

 そう言って泣きじゃくり始めた。弥栄子は内心、言ってはいけないことを言ってしまった、と後悔しつつ、

 「真弓ちゃんのせいなんかじゃないわよ。あの子が……武士が自分であなたと、あなたのお父様を守ろうって決めたんだから。」

 そう言われても、真弓は顔を覆って泣き続ける。

 「武士は、九年前から……それこそ礼司達に訓練と称して、とんでもない目に合わされて……あの子が寝ているところを起こされると、相手を襲うのも、その訓練の成果というか後遺症なんだけど……。でも、そんな目に合ったのに、あの子自身が持っている人間性というか、優しさというか……それを失うことは無かったのよね。それが、あの子の良いところでもあり、弱点でもあったというだけのことよ……。」

 弥栄子はそう言いながら、真弓の肩を抱いてやる。

 「だから……言い方は気に入らないかもしれないけど、真弓ちゃんじゃなくても、あの子がいずれ守ろうと思う人が現れた時に、こうなるんじゃないか……今まで自分がいた世界をすべて敵に回すんじゃないか?って、あたしは予感がしていたから……。」

 真弓はようやく涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、弥栄子の方を見た。

 「もし、真弓ちゃんが武士に本当に申し訳無いと思うのなら、あの子があそこを無事に出られたとしても、その後の方がもっと大変だと思う。だから……支えてやってくれるかしら?」

 「……はい。」

 真弓は頷く。具体的にどうすれば良いか、そんな不安はいっぱいあるが、武士の事を何とか助けたい、という気持ちに偽りはなかった。

 「さあ、ほら、明日お父様の葬儀に遅れたりしたら大変だから、もう休みなさい。」

 弥栄子の言葉に、真弓は礼を言うと、布団に潜り込んだ。だが、やはり武士のことが心配で堪らず、しばらく眠れそうになかった。

 

 六 追跡

 次の日、小林と平田の二人の刑事は、同じく千葉県警の応援要員数名と共に、川藤武士の逮捕状を持って、村田組の事務所へと向かっていた。彼自身は逃げ回っているはずだから、事務所に居ないことはほぼ確実だったが、警察が動き出したことをアピールして、抹殺されるのを阻止するのが一番の狙いだった。

 「千葉県警だ。」

 そう言いながら、小林が事務所のドアを叩く。するとしばらくして、中から二十歳位のチンピラ風の男が、寝ぼけ眼で出てきた。

 「こんなに朝早く、刑事さんが何の用?」

 生あくびをしながら、そう尋ねてくる。

 「先日の北関東自動車道での銃撃戦で、目撃情報から、川藤武士が係わっていたことが判明した為、逮捕状が出ている。川藤は居ないのか?」

 「ええ!?武兄の?」

 そのチンピラ風の男は心底驚いた様子で、

 「そう言えば……俺、ここのところ、武兄を見てないッス。……ホントにホント!」

 小林が睨みを効かせたからか、その男はうろたえた様子で答える。本当に何も知らない様だった。やはり、末端の人間にまでは情報が伝わっていないらしい。

 「誰か、川藤の居場所を知っていそうな者はいないのか?」

 「……弥栄子姐さんか、礼司のアニキなら知っているのかな?俺、まだまだ新入りで、上の人らだと、武兄以外とはあんまり話したことも無いんだけど……。」

 男は自信が無い様子で、そう答えた。

 「おいお前、要らんことをペラペラしゃべるなよ。」

 奥からもう一人、強面の男が出て来て、チンピラ風の男を睨みつけた。この男は、礼司が連れていた手下の一人だった。チンピラ風の男は、申し訳なさそうに「ゴメンよ、兄さん……。」と言いながら、すごすごと奥へ戻って行った。小林はその背中に向かって、「君、ありがとうな。」と声を掛ける。それを遮るかの様に、

 「刑事さんよぉ、武士はここ十日程、組には顔を出していない。何かヤバいことに手を出して逃げ回っているらしいって、俺は聞いているけどな。組も、あいつとは縁を切るって話だ。そういう訳で、悪いが他を当たってくれるか?」

 小林は、強面の男の顔をじっと見つめながら話を聞いていたが、先程の男と違って表情が変わらず、感情が読み取りにくい。だが、小林の勘では、この男は川藤の居場所を知っている様に思えた。ただそうなると、既に無事ではない可能性がある。しかし、この男からこれ以上聞き出すのは無理だろう……。小林は相手の眼を見据えながら、

 「わかった。ありがとう。……ところで、先程の彼が言っていた、弥栄子さんと礼司さんというのは?」

 小林がそう尋ねると、強面の男は舌打ちしながら、

 「武士のことを、本当の弟みたいに可愛がっているってだけで、今回のことについては何も関わっちゃいないぜ?」

 「今回のこと?」

 小林がとぼけて聞き直すと、男は渋面になって、

 「銃撃戦のことだろ?あんたがそう言ったんじゃねーか!あれはあいつが勝手にっ……。」

 そこまで言いかけたが、話すとまた追及されると警戒し、口を閉ざす。小林もこれ以上の情報は得られないと判断し、

 「ご協力、感謝する。川藤を見かけたら千葉県警に連絡して欲しい。それでは。」

 そう言って、平田と他の捜査要員を引きつれて、その場を去った。

 強面の男は、刑事たちが立ち去って行くのを確認してから、事務所の中へと戻り、携帯電話を取り出した。

 「……もしもし、アニキ?ヤバいですぜ、サツが武士の野郎の逮捕状を持って来やがった。居場所?……当たり前ですよ、言う訳ない!……わかりました。」

 何やら話し、やり取りし終えると、奥に居たチンピラ風の男に、

 「おい!お前も来い!」

 チンピラ風の男はビクつきながら、問いかける。

 「ど、どこへ行くんっすか?」

 強面の男はニヤリと笑いながら答えた。

 「『病院』だ。」

 その頃、例の研究施設では、ヤマギシが奮闘中だった。武士が意識不明に陥った為だ。

 「細田さん、ストレッチャー持って来て!」

 女性研究員に応援を要請する。

 「どうされたのですか?」

 「急激に意識レベルが下がって、呼吸も浅い。このままでは心停止するかも知れないから、モニターのところまで移動させる!」

 山岸の緊迫した様子に女性研究員は頷き、指示通りストレッチャーを運んでくる。そして、山岸が武士の頭側、細田と呼ばれた女が足側にまわり、「せーの!」と掛け声を掛けながら、武士の身体を持ち上げ、ストレッチャーへ移動させた。そうしている間にも、武士の顔から血の気が引いていく様であった。

 山岸らは一旦武士の居た部屋から出て、モニターが置いてある研究施設内の場所まで移動させ、先程と同じ要領で、今度はストレッチャーから処置台へ移す。そしてモニターをセットするが、間もなくアラームが鳴り響いた。二人の研究員は手慣れた様子で医療機器をセッティングし、山岸は心臓マッサージを始める。だが、彼は内心限界も感じていた。

 (医療的な技術を擁しているのは、ここでは私と細田さんの二人だけだ……この状況を打開出来たとしても、本人の全回復を望むなら、本格程な医療機関で治療を受けさせる必要がある……。)

 考えながらも手は動かしていたが、心停止の状態から回復しない。

 「電気ショックのチャージ、お願いします。」

 「わかりました!」

 程なくチャージが終わり、細田に武士から離れる様指示すると、ショックを与えてみる。それが終わるとまたすぐに心臓マッサージを開始する。しばらくすると、心拍が戻って来た。最も深刻な事態は避けられたので、山岸は胸を撫で下ろす。

 その後、細田が点滴の準備をしていると、「あれ?」と言って首を傾げている。山岸も「どうしました?」と声を掛けながら、手元を覗き込むと、細田が、

 「これ……何か入れられていませんか?」

 武士の手首に刺してある、点滴用の管の中の液体を指さしながら、そう言ってくる。あらかじめ血液の凝固防止剤は入れてあったが、確かにそれとは見た目にも明らかに違っていた。詳しく分析しないと成分までは分からないが、これが武士の容体を急変させた原因に間違い無いだろう。山岸は表情を険しくする。そして、細田に向かって、

 「今から私の独断で、救急に連絡します。もしまた『彼ら』が来たら、細田さん、君は何も知らなかったと言っておきなさい。」

 「え!?でも、そんなことをしたら……。」

 細田は言い淀む。山岸が行動を起こせば、彼の妻が危険に晒されることを知っていたからだ。彼女もまた、寝たきりの父を盾にされているのだが……。

 「妻も、これ以上の犠牲を払ってまで『自分を助けて欲しい』とは言わないはずだ。彼女はそういう人だったからね……。」

 山岸が懐かしそうに眼を細める。彼が妻と会話を交わしたのは、もう九年以上前だった。彼の言葉に、細田は口を閉ざす。いつもほとんど感情を表に出さない山岸が、こんな風に妻の話をすること自体が、彼の決意を物語っている様だった。

 山岸は自分の携帯を取り出すと、そこから救急へ発信した。状況などを説明し、住所を伝える。携帯を切ると、

 「これはあくまで私の独断だから、研究所内を見られるわけにはいかない。外で待つので、ストレッチャーに移すのだけ、お手伝い下さい。」

 そう細田に言うと、彼女は複雑な表情を浮かべながらも、山岸の言う通りに動く。そして山岸は、ストレッチャーを押しながら、武士が下りてきたのとは別の研究所内のエレベーターに乗りこむと、見送る細田に軽く会釈をした。こちらのエレベーターは主に研究員達が使っていて、地上側はまた別の建屋……一見普通のビル……に繋がっている。

 外へ出ると前日からの雨はあがり、既に明るくなっていた。腕時計を確認すると、朝の六時を過ぎた位の時間だった。まだ出勤の時間帯には早く、辺りは静まり返っている。

 その時、見覚えのある人影が近づいてくる。二人いた。一人は初めて見る顔だったが、おそらく『彼ら』の仲間であるのに相違なかった。

 「先生よぉ、武士をどこへ連れて行くんだ?」

 そう聞いてきたのは、先程刑事たちの応対をした強面の男だった。昨日、礼司と共に居た二人組の内の一人でもある。山岸は言い逃れの出来ない状況に、唇を噛んだ。

 「……彼は先程、心停止するまで容体が悪化しました。それで、私の独断で救急へ連絡したのです。」

 「ええっ!?武兄、死んじゃうんッスか!?」

 チンピラ風の男が寝耳に水と言った顔つきをして、武士の側に駆け寄る。

 「いえ、ひとまず命に別状はありません。ただ、この施設ではこれ以上の治療は出来ない……放っておくと、意識が戻らない可能性だってある。だから、救急搬送を要請したのです。」

 山岸の返答に、チンピラ風の男は安堵の表情を浮かべたが、強面の男は違った。

 「あんた、自分の言っていることが分かってんのか?あんたの奥さん、どうなってもいいんだな?」

 「……やむをえません、元はと言えば、私がこのような事に加担した時点で、間違っていたのですから。」

 山岸の覚悟を決めた表情に、強面の男は言葉での交渉を断念した。懐からナイフを取り出し、山岸に向ける。一瞬、山岸の表情が強張るが、すぐに相手の眼を見返した。

 「勝手なことをされては困るんだよ!」

 今にも山岸に飛び掛からんとした、その時、

 「そこまでだ!武器を捨てろ!」

 そう言いながら、若い刑事が拳銃を構えたまま、こちらに向かってくる。平田だった。強面の男の顔が、苦虫を噛み潰したかの様に渋面になる。チンピラ風の男は、一体何が起きたのか分からないという風に、おどおどするばかりだった。

 「申し訳ないが、後を付けさせて貰った。」

 平田に続いて、小林と数名の捜査員とみられる男たちが物陰から出てくる。強面の男は、自分がとんでもない失態をしてしまったことを悟った。

 「午前六時十八分、銃刀法違反容疑で現行犯逮捕。」

 そう言って、平田が強面の男に手錠をかける。そして、捜査員たちが男を取り囲むようにして、連れて行った。チンピラ風の男も何が何だか分からないといった顔つきのまま、捜査員たちに付いていく。

 小林と安田はそれを見送っていたが、小林は、ストレッチャーに乗せられ、明らかに意識の無い男の方を見ると、隣に立つ山岸に声を掛けた。

 「この男は、川藤武士だと思うのだが、あなたは?」

 「……帝京製薬の研究員の山岸と申します。」

 少し間を置いて、そう答える。小林は、それを聞くと「帝京製薬……?」と言って、一瞬考える顔つきになったが、すぐに山岸が、

 「間もなく救急車が到着すると思います。先程私が連絡しましたので。」

 そう言ってきたので、

 「分かりました。私も同行しよう。後でゆっくり状況を説明して頂けますか?」

 山岸の眼を見ながら、そう話しかける。彼は黙って頷いた。そして平田に、

 「君は一度県警へ戻って、今回の事を報告しておいてくれ。川藤の収容先の病院が分かり次第、また私から連絡する。」

 「はい!」

 平田は返事をして、走りながら去っていく。それとほぼ同時に救急車のサイレン音が聞こえて来た。

 

 七 九年前

 「……行ってきます。」

 この四月から高校二年生になった川藤武士は、今日も誰も居ない家の中に向かって、そう言いながら自宅アパートを出る。物心がついた頃から、自分と父、川藤功士の二人暮らしで、功士は仕事柄、週の殆どを家に帰らないという生活だったから、これが武士にとって普通の光景だった。

 そして、いつも通り自転車に跨り、自分の通う高校へと向かう。今日は雲一つない晴天だが、後ひと月もすれば梅雨入りする頃だ。雨の日の自転車通学を思うと、今から気が重かった。

 「よう、武士!」

 武士の後ろから付いてきた自転車が、横並びになったかと思うと、同級生の岡田伸次が声をかけてくる。

 「おう、岡田、おはよー。」

 武士はそう返事をしたものの、生あくびを噛み殺す。

 「何やお前、えらい眠そうやなぁ?夜遅うまでベンキョーでもしてたんか?」

 そう言う伸次の方を見て、武士は苦笑しながら、

 「ちゃうちゃう。珍しく親父からえらい遅い時間に電話が掛かってきて……なんや長々話しよったから、寝られへんかったんや。」

 「何をそんなにしゃべること、あるんかいな?」

 そう、素っ頓狂な顔つきで尋ねる伸次の顔を見ながら、武士も戸惑った表情を浮かべ、

 「いや……それが、全然大したことちゃうねん。インターハイはいつや?とか、志望校には行けそうなんか?とか……そんな感じや。」

 「ふうん……。」

 そのまま何となく会話が続かず、二人は黙ったまま、ひたすら自転車をこいでいたが、武士はいつもより家を出るのが、少し遅くなっていたことを思い出し、

 「ほな俺、朝練遅れそうやから、先行くな。」

 「おう。」

 そう武士が手を挙げながら言うと、伸次も特に気にする風もなく、手を挙げ、そう答えた。

 武士は男子バレーボール部に所属している。先月から始まった予選大会に引き続き、七月の地区大会本選が終わるまでは、部活動漬けの毎日だ。そう強豪校でも無い為、地区大会までで敗退するであろうから、それが済めば三年生は実質引退となり、今後は武士達二年生が部の中心となって活動することとなる。公立だが進学校でもある武士の高校では、余程の例外を除き、三年生達はその先、受験勉強に勤しむのが普通だった。

 「ふぁ……。」

 朝練を終えて教室に入り、授業が始まっても、武士はあくびを繰り返していた。というのも、父から電話が掛かってきたのが、布団に入って一時間も経たない頃だったから、夜中の二時前位ではなかったかと思われる。おまけに、いつもは用件だけさっさと言って、忙しそうに電話を切る父が、珍しく武士に色々尋ねて来たので、一時間近く話した。ところが、今朝もいつも通り朝練があるので、六時までには起きておかなければならなかった為、今になっても眠気がおさまらず、あくびを繰り返す……といった次第である。

 「川藤君、なんやずっと眠そうやね。そんなに部活、忙しいん?」

 二時間目の現国が終わり、休み時間になると、隣の席に座る片岡友香がそう声を掛けて来た。武士は苦笑しながら首を振り、

 「いや、部活やのうて……めっちゃ珍しく、夜中に仕事先の親父から電話が掛かってきて、何や長々と話したさかい……」

 「川藤!ちょっと職員室、来てくれるか?」

 友香にそう言い掛けたところで、担任の吉田が武士を呼びに来た。思わず友香と顔を見合わせ、「俺、何かマズイ事、したんかなぁ?」と呟くと、友香が、頑張れ!とでも言う様に、ガッツポーズをしてくれる。武士は「ほな、行ってくるわ……。」と言いながら、吉田の背中を追った。

 職員室に入ると、吉田は「こっち!」と言って、さらに来客時等に使用するテーブルセットの所へ手招きする。武士は「一体何事だろう……?」と、内心穏やかでは無かった。

 椅子に座る様勧められ、腰掛けたところで、吉田が真顔で話し始めた。

 「さっき、警察庁から電話が掛かってきてな……。」

 (警察庁!?ホンマに何事や?)

 ますます穏やかで無い話に、武士は完全に顔を強張らせる。

 「川藤の親父さん、亡くなられたそうや。」

 吉田が何を言っているのか、全く理解できなかった。「え……?」とだけ声を発したのは自分でも聞こえたのだが、その後しばらく、何の音も聞こえない状態が続いた。

 しばらくの沈黙の末、吉田が

 「誰か親戚の人とかで、何とか助けてくれる人はおらへんのか?」

 そう尋ねてきたが、武士は虚ろな目で、「おらへんと思う……。」とだけ答えた。それが今の自分に出来る精一杯の反応だった。

 「……言いにくいかも知らんけど、お袋さんの方は、どうやろうか?」

 その言葉に、ようやく吉田の目を見返す。だが、頭を振って、

 「母親自身はどうか分からへんけど、きっと祖父が相手にしてくれへんと思います……相当父のことを嫌っていたみたいやから……。」

 「こんなことになって、嫌うとかそんなん言うてる場合ちゃうと思うけどな……。」

 吉田は納得がいかないと言った表情で、そう答えた。

 中学校までとは違い、高校ともなると、担任は形式的なクラス担当者だと、武士にしてみても吉田のことはそのようにしか見ていなかったし、実際こんな風に顔を付き合わせて話すのは、これが初めてだったから、吉田の態度が意外な気がした。

 さらに吉田は、本心から武士の心配をしている様子で、

 「どうしても助けてくれる人がおらん様なら、俺が何とかするから、遠慮せんと言うてな。」

 「おおきに……先生。」

 吉田の気遣いに、武士はそう礼だけ述べ、夢遊病者の様にフラフラと立ち上がると、職員室を後にする。その後、自分でもどの様にして帰ったのか覚えていないが、気が付くと家に居た。

 程なく、吉田から連絡を入れてくれたのであろう、警察庁から家の電話に連絡が入り、父が亡くなった時の状况の説明をされる。それから遺体の引き取りをどうするのか、といったような質問をいくつかされたのだが、正直武士にとっても判断のつかないようなことばかりで、「わかりません……。」としか答えようが無かった。仕方なく母の連絡先を答えたものの、武士にしてみても、父と母が離婚して以来、母と直接話したことすら無い状態だ。もし、母から何らかの連絡が入ったとしても、武士にはどうすればよいのか、全く分からなかった。

 次の日、父功士の遺体が東京から運ばれて来た。結局、親戚関係に頼れる人はおらず、吉田が付き添ってくれることになった。事故死だったと聞かされた父の顔は、武士が想像していたより穏やかではあったが、当たり前のことだが、明らかに生前とは異なっており、言い様のない感情が湧きあがる。

 (そうか……。あの夜中の電話で聞いたのが、親父の最期の声やったんやな……。)

 そうボンヤリと思ったが、思考能力が低下しているのだろう、ただただ功士の顔を見つめているだけだった。それを思えば、やはり吉田は大人だ。武士と違い、テキパキと応対したり、手続きをこなしたりしてくれる。武士にしてみれば、これ以上頼りになる助っ人は居なかった。

 次の日、焼却場で簡単な葬儀を済ませる手筈となり、昨日に引き続き、吉田が駆けつけてくれた。そして、骨だけとなった功士を抱きかかえた武士のことを、吉田が自宅まで送ってくれた。

 自宅までの道中、武士はようやく吉田に礼を述べることが出来た。

 「吉田先生……色々おおきに。先生がおらんかったら、俺、どないしたらええんか分からんと、ずっとオロオロしてたと思うわ……。」

 「ええっ?俺かてオロオロしてたで?川藤、買い被ってるわ。」

 吉田はそう言って苦笑する。武士も吉田の顔を見て、表情を緩めた。

 確かに、吉田はまだ教師になって間もないはずだ。自身の親はまだまだ元気だろうし、身近な人間の死亡関係の手続き等、行ったことはないであろうから、戸惑って当たり前だろう。

 自宅に到着すると、吉田は何を思ったか武士の家に上がり、しばらく武士と今後のこと……今住んでいるアパートは、父の功士が契約している賃貸だから、今月いっぱいで出て行かなければならない、といった現実的なことや、部活動では三年生の引退後、武士がキャプテンを務めることになっている、といった身の回りの出来事を一通り聞いてから、帰って行った。その吉田の気遣いを、武士は有難く思った。

 それから一夜明け、武士自身、まだ忌引き期間ではあるが、これ以上吉田に面倒を掛けられない、という思いと、家に居ても正直仕方がないので、登校することにする。さすがに朝練には行く気になれなかったので、いつもより一時間位遅い出発に合わせて、支度をしていた。

 その時、家の呼び出しチャイムが鳴る。こんなに朝早く、誰だろう?と訝しみながらも、急いで玄関に行って扉を開いた。

 「はい?」

 全身黒ずくめの男が二人、立っていた。如何にもそちらの世界の人達……といった風貌に、思わずたじろぐ。だが、武士の動揺などお構いなしといった様子で、

 「オヤジはおるか?」

 そう尋ねてくる。武士は嘘を吐いても仕方がない、と思い、

 「親父はつい先日、亡くなりました。」

 「お前、ええ加減な事ぬかすと、承知せえへんど!」

 功士の事を尋ねて来た男とは別の、もう一人がそう言って怒鳴ってくる。武士はムッとしながら、

 「じゃあ、骨見せたら納得するんか?」

 思わず、そう言い返した。自覚は無かったが、やはり疲れがピークに達していたのであろう、いきなり尋ねて来て怒鳴り散らす様な輩に、紳士的な対応など、どう考えても出来そうにない。

 「ほんなら兄ちゃん、それ見せて貰うてもええか?」

 今度はもう一人の男がそう聞いてくる。脅し役と宥め役……典型的やな、と武士は内心そう思いながらも、仕方なく二人の男を招き入れる。

 男達は、功士の遺骨の確認をした後、そう広くない家の中をくまなく見て回り、

 「兄ちゃん、あんたの親父さんな、ぎょうさん借金してはってん。」

 宥め役と思われる男がそう言ってくる。その言葉に武士は驚き、思わず「え?」と問い質した。

 「男の二人暮らしやったんやな?そう金に困ってた様には見えんけど、かと言って金目のモンは何も無さそうや。親父さんは死んでしもうたし、このままやったら、わしらもどないしたらええんやろ……お手上げや。」

 「……。」

 そう言われても、武士にはどうしようも無い。自分自身、まだ高校生の身だし、間もなくここを出て行かなければならない。正直自分の事だけで手一杯なのに、父の借金のことなど、まさに寝耳に水である。対応の仕様が無かった。

 「まぁ兄ちゃんのせいや無いし、一旦帰って考えるわな。」

 そう宥め役の男が言ったので、武士は胸を撫で下ろす。そして、気に入らないという顔つきをした脅し役の男と連れ立って、武士のアパートから去って行った。

 高校生に過ぎない自分から、金を搾り取ることなど出来ないと、そう考えるのが普通だ。きっと諦めたに違いない……武士はそう楽観的に考えた。ところがその後、とんでもない事態が自分を襲うことになるとは……この時は夢にも思っていなかった。

 二人組の男をやり過ごし、ひとまず学校へ向かう。教室に入ると、吉田から事情を聞かされたと思われるクラスメイト達が、何人か声を掛けてくれた。その中に岡田の姿もあった。逆に気を遣って、遠巻きに見るだけの同級生もいたが、皆の心遣いが武士には有難かった。それと同時に、吉田の教師としての能力の高さを実感する。

 武士が席につくと、片岡友香が複雑な表情を浮かべながらも、

 「川藤君、おはよう。」

 彼女なりに気を遣ってくれているのであろう、父のことにはふれず、そう挨拶だけしてくる。

 「片岡さん、おおきに。吉田先生が親父の事で走り回ってくれたから、皆に迷惑掛けてしもうたみたいで……堪忍な。」

 「そんなん、誰も気にしてへんよ。それより、川藤君こそ色々大変なんとちゃうん?」

 武士から言い出したこともあって、友香も気になっていたと思われることを尋ねてくる。

 「……せやねん。とりあえず一番は住むとこ、かな?」

 そう苦笑しながら答えた。

 「え?どうなるん?」

 友香は、一体何のことか分からないと言った顔つきで、そう尋ねてくる。

 「今住んでるとこ、今月中に出て行かなアカンねん。まぁ、まだ半月程あるから、月末までには何とかなると思うんやけど……。」

 「そっかぁ……やっぱ大変なんやね。」

 やはり、お互いまだ高校生の身の上だから、普通であれば現実的でない出来事に、今一つ実感が湧かない……といった感じだった。

 「授業、始めるぞ……お、川藤、もうええんか?」

 そう言いながら、吉田が入って来る。今日は金曜日で、一限目が吉田の担当する数Ⅱだったから、それもあって一限目から出席したいという気持ちがあった。

 「はい、すんませんでした。ご迷惑をお掛けしてしもうて。」

 武士の言葉に、吉田はちょっと顔を歪め、

 「川藤、親父さんが亡くなられたんやから、当たり前やろ?それは迷惑とちゃうぞ。だから、謝ることなんか無いんやで。」

 「……。」

 その吉田の言葉に、不覚にも目頭が熱くなる。武士は涙が出そうになるのを何とか堪え、

 「……ありがとうございました。皆も、おおきに。」

 それだけ言うのが精一杯だった。このクラスになってまだ二ヶ月足らずだが、吉田という担任と、このクラスメイト達と巡り逢えたことを、心から良かったと、武士は思った。

 放課後、部活にも顔を出し、家の事でこの先もちょくちょく出られない日があるかも知れない、ということなどを報告した後、家路についた。

 今の時期は夏至をひと月後に控えているから、自宅アパートに辿り着いたのは夜の7時前だというのに、まだ辺りは完全に暗くなっていなかった。

 扉を開け、靴を脱ぎながら、やはり誰も居ない家の中に向かって「ただいま。」と声を掛ける。この家で、「お帰り」という言葉を聞くことは二度とないというのに……この時ばかりは、自分の習慣が恨めしく感じられた。

 そして、玄関の電灯のスイッチに手をやるが、何故か明かりは灯らなかった。何度かオン、オフを繰り返すものの結果は同じだった。電球が切れたのかも知れない……そう考える武士の耳に、「お帰り」と言う声が聞こえる。それは紛れも無く、薄闇に包まれた室内からだった。

 ハッとして声がした方に目を向けると、見知らぬ男が口元をニヤつかせながら、ダイニングの椅子に座っているのが見えた。薄暗くてはっきりとは分からないが、二十代半ばといったところだろうか?一見細身の優男風だが、目つきが尋常ではないらしく、その鋭い眼光だけはっきりと見て取れた。

 武士はまるで射すくめられた獲物の様に、その場に固まった。辛うじて、「あんた……誰や?」とだけ、言葉を発したものの、本能的に危険を感じ、後退りを始める。だが自分の背後に、もう一人居たことにまで気付かなかった。突然、そのもう一人に羽交い絞めにされ、武士は振り返りながら抵抗しようとするが、それよりも早く、さっきまで椅子に座っていたはずの優男が、疾風の様に目の前に現れたかと思うと、キラリと光る物を首元に当てられていた。目を凝らさなくとも、そのヒヤリとした感触で、それが刃物だと理解する。

 「騒ぐとどうなるか、分かるだろう?」

 その言葉に、武士は青ざめながら動きを止めた。すると、男は薄ら笑いを浮かべ、

 「……よし、『買い』だな。」

 謎の言葉を口にした。武士は今、自分の身に一体何が起きているのか、全く分からず、頭の中が真っ白になる。そんな武士の様子にはお構いなしに、男は喉元にナイフを突きつけたまま、

 「これを飲め。」

 半分程度の液体が入ったペットボトルを差し出してきた。見た目は透明だが、今の状況から、水でないことは確かだろう。言い様の無い恐怖感に駆られながらも、武士は頭を振り、「嫌や……。」と、震える声で訴える。すると優男は、

 「何も、命まで取ろうって訳じゃあないさ。」

 肩を竦めながらそう言うと、どうやら背後にもう一人居たらしい、そいつに目配せをして、武士の左腕を、壁に手を広げる様な恰好で押し付けさせた。

 「でも、まあ……こちらとしては、指一本位無くたって、一向に構わないけれどな。」

 そう言いながら、今度は左手の人差し指の付け根辺りにナイフを当てる。武士は、鋭い痛みと同時に手を伝う生暖かい感触で、既に自分には選択の余地が無いことを悟った。

 「止めてくれ……。」

 弱々しい口調で、そう懇願すると、先程のペットボトルを口に捻じ込まれ、

 「それなら、全部飲め。」

 言われるがまま、必死で喉を動かした。予想通り、水とは全く違う後味に顔を顰めていると、その様子を見ていた男は、

 「それでいい。」

 と、薄ら笑いを浮かべながら頷いた。武士は、

 「……何で、こんなことを……するんや?」

 そう言おうとするが、既に呂律が回らなくなっており、目も翳み出す。必死で腕を振り解こうとするものの、全く力が入らなかった。そして、そのまま意識が暗転した。

 ぐったりとして動かなくなった武士を見下ろしながら、優男風の男が、「運んでくれ。」と、武士を羽交い絞めにしていた男に言うと、その男はまるで米俵か何かの様に武士を肩に担ぎ、優男と、もう一人の男と共にアパートを出て行った。

 

 八 新天地

 どの位、時間が経ったのだろう……武士は、何とも言えない気分の悪さに意識を取り戻した。身を起こそうとして、猛烈な吐き気に襲われる。だが、すでに出尽くしていた様で、口からはゲエゲエと言う音しか出なかった。

 恐ろしい程の頭痛と目眩に襲われながらも、何とか首をめぐらせると、常夜灯の様な薄暗い灯りの中に、自分のものと思われる吐瀉物が点在しているのが見える。口元が気持ち悪く、腕で拭おうとするものの、どうやら後ろ手に粘着テープの様なもので拘束されているらしく、動かせなかった。足に目を向けると、やはり両足首も同じ様に固定されている。

 ともあれば、遠退きそうになる意識を何とか繋ぎ止め、必死で今自分がおかれている状況を把握しようとする。ここは、トラックか何かの荷台だろう、車両の走行音がし、時々この中全体が揺さぶられる。その揺れが、さらに武士に吐き気をもよおさせた。

 帰宅した時、見覚えの無い男が部屋に居て、自分の背後に居た人間に羽交い絞めにされ、脅されるまま何らかの薬品を飲まされた。状況から要するに拉致されたということなのだろうが、どうしてこんなことになったのか、全く理解出来なかった。一生懸命考えようとするものの、この何とも言えない気分の悪さに、完全に思考能力を奪われていく。

 子供の頃に見たアニメでは、クロロホルムか何かを嗅がされた主人公の少年探偵は、意識を取り戻すと直ぐに行動を起こせたはずだったが、とてもじゃ無いが、自分には真似出来そうにないな……そう靄の掛かった様な頭で、ボンヤリと考える。身体を起こしていること自体が辛く、再び倒れ込むようにして、床に寝そべってしまった。

 そのまままた意識を失っていたに違いない、身体を蹴られた様な痛みで、再度目が覚める。呻き声を洩らし、身を捩る武士を見て、

 「生きている様だな。」

 先程の優男がそう言う。武士は声のする方を見上げ、

 「何で……何でこんなことをするんや……?」

 意識を失う前に、問い質そうとしていた疑問を投げかける。すると、優男は口元をニヤつかせながら、

 「お前は、俺に売られたんだ。だからさ。」

 「……は?」

 男の答えたことの意味が全く分からず、また問いかける。すると男は物分かりの悪い子供を諭すかの様に、

 「今朝、お前の家にこいつらが来ただろう?」

 そう言われて隣に立つ男を見ると、例の黒づくめの二人組の脅し役で、さらに、もう一人立っているのは、宥め役だった。武士は思わず目を見開く。

 「こいつらが、お前のことを買ってほしいと、持ちかけて来たんだ。だから俺は、実際に見てみないと分からないと言って、わざわざ大阪まで出向いた、というわけさ。」

 優男がそう話すのを聞いていた武士だったが、彼の目線が宥め役の男に向いたので、思わず武士もそちらに顔を向ける。すると、宥め役が、

 「すまんのぉ、兄ちゃん。あんたんとこ、金目のモンが何も無かったさかいに、あんたをこの人に買うて貰うたんや。これでわしらも、首の皮一枚のとこで繋がったわ。そやさかい、堪忍やで。」

 そう話すのを、まだ訳がわからないといった顔つきで聞く武士に、脅し役の男が、

 「あの後、わしらお前の母親ンとこにも行ったんやけどな、そっちにも金は無うて……お前の事は親父共々、『とっくの昔に別れた人らやさかい、煮るなり焼くなり好きにしてくれたらええ』言いよったから、礼司さんにお前を買うて貰うことにしたんや。」

 そう言われて、優男……どうやら『礼司』と言う名前らしい……の方を見ると、

 「そういうことだ。」

 薄ら笑いを浮かべながら、そう言った。礼司と借金取りの二人を見回しながら、

 「そんな、アホなことが……」

 そう武士が言い掛けるが、礼司は、

 「呼び方は……『タケシ』でいいんだよな?」

 尋ねようとするのを遮られた武士は、苛ついた声で、

 「これって『人身売買』ってことやろ!?そんなん、ホンマにあってたまるかいな!」

 そう怒鳴った。すると礼司は、見かけによらない物凄い力で、武士の襟首を掴んで引っ張り上げ、顔を近付けると、

 「何なら『そういう趣向』の男どもに、お前を『転売』したっていいんだぜ?お前まだ若いし、なかなか整った顔立ちをしているから、きっとこいつらから買うのと、変わらん値がつくだろう。さらに童貞なら、向こうからもっと良い値を提示してくれるはずさ。」

 「……。」

 それを聞いた武士は、見るからに青ざめていたに違いない。そこへ畳み掛ける様に、

 「しかももれなくシャブ漬けが待っている。そうなれば、自分の意志を持たない、生きた屍になるだけだ。お前はその方が良いのか?」

 武士は機械仕掛けの人形の様に、ブンブンと首を横に振った。

 「じゃあ、やっぱり俺のモノってわけだ。」

 その言葉に、またしてもぎこちない動きで首を縦に振る。すると、礼司は満足した様にニヤリと笑いながら、

 「そういうことだ、運んでくれ。」

 そう、借金取りらに言った。

 「わかりました!」

 宥め役が意気揚々と返事をすると、脅し役が武士を担ぎ上げ、礼司の指示する通りにトラックの荷台だと思われるところから、外へと運び出す。

 「ここは……?」

 今、初めて外を見た武士は、見慣れない光景に、思わずそう尋ねた。

 「東京や。」武士を担ぐ男がそう答える。「東京!?」武士は思わず驚きの声を上げた。

 「……学校は、どないなんのやろ?」

 こんなことになるとは、今朝……いや、すでに昨日の朝であろう、その時は全く想像していなかった。思わず、吉田の顔が目の前に浮かぶ。不覚にも涙が滲んだ。

 「せやな……兄ちゃん、高校生やったか?何年や?」

 そう宥め役が尋ねてきたので、「二年……。」とだけ、返事をする。少し声が震えていたかも知れない。だが、こいつらには弱みを見せたくなかった。

 そうして、ある建物の前で両足の拘束を解かれ、立たされる。重厚な扉の横に取り付けられた、一枚板で作ったとみられる看板の様なものに、『村山組』と、黒々と書かれているのが見え、

 (やっぱり、そうなんやな……。)

 ある程度の予想はついていたものの、礼司と言う男が間違いなくヤクザだいうことが分かり、武士はげんなりした。虚ろな目つきでそれを見る武士を、脅し役が顔をしかめながら指を差し、

 「こいつ、めっちゃゲロくさいわ。」

 「わかった。あんたらはここまでで良い。」

 そう礼司が言い、どうやら札束が入っているとみられる茶封筒を、借金取りに手渡す。

 「毎度あり!」

 宥め役がそう礼を述べ、二人組の男は去って行った。その様子をじっと見ていた武士に、

 「お前、まさか自分に一千万円の価値があるとでも思っていたのか?三百だ。でも悪くない方だと思うぜ?」

 そう礼司が話しかけてきたので、頭を振り、

 「あの……礼司……さん?」

 「俺のことは、兄さんでいい。」

 すかさず礼司に言われ、武士は言い直しながら、もう一度話し出す。

 「兄さん……一つだけお願いがあるんやけど?」

 「何だ?」

 「親父が死んだとき、俺の担任にえらい世話になったんです。心配掛けとうないから……東京の親戚に引き取られることになった……とでも、連絡しときたいんやけど……。」

 すると、礼司は意外にあっさりと、

 「それは別に構わないぜ。」

 と、許可してくれた。だが、すぐにゾッとするような目つきで、

 「ただ、余計なことを言ったらどうなるか、わかっているな?」

 「はい……一切しゃべりません……。」

 まるで蛇に睨まれたカエルの様に、身を竦ませながら、そう返事をする。武士は身体が小刻みに震えているのを自覚した。それが、恐怖によるものか、クスリの影響なのか、そこまではわからなかったが……。

 そんな武士の様子を見ていた礼司だったが、突然顔を歪ませると、

 「確かにお前、クサい。とにかく、先に風呂に入れ。」

 そう言ってくる。いきなりそんなことを言われても、勝手が全く分からない武士には、どうしようもなかった。すると、「こっちだ。」と言いながら、礼司が建物の裏手に進む。

 武士は、後ろ手に拘束されたままの状態で、あわてて後を追った。すると、裏口とみられる扉を開けて、礼司が手招きする。

 「お邪魔します……。」

 そう言って中に入ろうとすると、「邪魔はするな。」と礼司に凄まれた。

 「すんません……。」

 そう言いながら、頭を下げる武士を見て、礼司は、

 「ここに入るときは、何時でも『おはようございます』と言え。」

 と、真剣な顔つきで言う。

 「わかりました……おはようございます。」

 それで良い、とでも言うように、礼司は頷いた。それから、建物の奥に向かって、

 「おい、ショウ!居るか!?」

 そう大声を出す。間もなく、二十前後だと思われる、チンピラといった風貌の男が現れた。

 「礼司兄キ、おはようございます。」

 見かけによらず、なかなか礼儀正しく挨拶をする。すると礼司は、そのショウと呼んだ男に、

 「こいつ、風呂に入れてやってくれ。」

 「……てか、こいつ、誰ですか?」

 武士の方を見て、訝しむ表情をするショウに、

 「俺のペットだ。」

 そう礼司が言うが早いか、

 「はぁ!?」「ええっ!?」

 ショウと武士、それぞれが同時に素っ頓狂な声を上げる。

 「そうだ。だからお前ら部屋住みの連中で、勝手に『躾』されると困る。必要があれば、俺がその都度指示するから、その通りにしろ。」

 「わ、わかりました……。」

 ショウはさらに戸惑った表情を浮かべ、

 「……てことは、俺がこいつを洗ってやるってことですか?」

 そう礼司に問いかけると、

 「何でそんなことしなきゃならねえんだ。子供じゃあるまいし、自分でそれ位出来るだろう?」

 今度は礼司が、訳が分からないといった表情を浮かべながら、そう答える。

 「そう、ですよね……。」

 どうやらショウは、ペット=犬を連想したらしい。納得のいかない顔つきをしているのを見て、武士は思わず噴き出した。

 「てめぇ、何笑ってんだ!?」

 そう、ショウに凄まれ、「すんません……。」と言いながら、俯く。

 「……てかお前、クサッ!こっちだ、付いてこい!」

 ショウが自分の鼻をつまみながら、武士に向かってそう言う。それと同時に、

 「えっと……兄キはどうします?」

 ショウが、そう礼司に尋ねると、

 「何で俺が、野郎のハダカを見なきゃならないんだ?」

 先程から、二人の会話が一向に噛み合わない。またしても武士は吹き出しそうになったが、必死で堪えた。だが礼司は、そんな武士の様子を気にした風もなく、

 「着替えは適当に見繕ってやれ。」

 そうとだけ言って、また建物の正面側へと戻って行った。

 「おいお前、後ろ向け。」

 武士はショウに言われるがまま、彼に背を向けると、手を拘束していた粘着テープを外してくれた。「おおきに。」と、礼を述べる。そして、建物の中を進みながら、

 「お前、関西人か?てか、それ学ランだよな?名前は?」

 矢継ぎ早に質問してくるショウに、

 「川藤武士、言います。十六……高二です。夕方までは大阪におったんやけど……。」

 戸惑いながらもそう答えると、ショウは「ふうん……。」と言って、

 「俺は中村将太で、もうすぐ二十歳(はたち)だ。兄さんらからはショウって呼ばれている。よろしく……と言いたいところだけど、お前の扱いがどうすりゃ良いのか、分かんねーもんなぁ……礼司兄キのペットって……何だよそれ?初めてだよ、そんなこと言われるヤツを見るのは。」

 将太は訳が分からない……といった風に首を捻る。だが、武士にしてみても何が何だかさっぱり分からず、将太に満足のいく説明をすることなど出来なかった。

 「風呂はここ、な?着替えは何かテキトーに置いておくから。」

 そう言って、将太が立ち去る。一瞬逃げようか……とも考えたが、建物の入口に監視カメラがあったことを思い出し、見つかれば、今の体力では逃げ切れない……と考え、大人しく風呂に入ることにする。ヤクザの風呂、と言えば、大理石で出来た様な豪華なもの……を想像していたが、いたって普通のユニットバスだったので、少し拍子抜けした。部屋住みの下っ端だけが使うものなら、当たり前かも知れないが。

 武士が風呂から上がると、将太が用意してくれたと思われるタオルや着替えなどが脱衣所に置かれていた。やはり彼は見かけによらず、なかなか面倒見が良い人らしい。着替えも想像していた派手なものと違い、普通のスポーツブランドのスウェット上下だったので、胸を撫で下ろす。

 「タケシ……だったか?出たか?」

 脱衣所の外から、将太の声が聞こえた。武士は「今、出ます。」と言って、扉を開ける。

 「お前が着ていた服な……」

 将太がそう言いかけたので、武士は脱衣所内に設置されている洗濯機を指差し、

 「今、ここに置いてある洗濯機、お借りしてます。」

 そう返事すると、将太は目を見開いて、

 「お前、もしかして家事が得意か!?」

 いきなり身を乗り出してくる将太に、武士も驚きながら、

 「得意っちゅーか、他にやってくれる人がおらんかったから仕方なく……まぁ一通り出来ます。」

 そう答えると、将太は相当嬉しそうな顔をして、バンザイをしながら、

 「ぃやっほーっ!これで俺も楽が出来る!!あ、でもお前は礼司兄キの……」

 「俺の、何だ?」

 そこまで言いかけたところで、礼司が奥から現れる。武士はもちろんだが、将太も今までとは違い、緊張の面持ちに変わった。辛うじて、

 「えー、『ペット』なんですよね?」

 と、将太が答えると、礼司は人をくった様な顔つきをして、

 「ショウお前、もしかして言葉通りに取っていたのか?やっぱりバカだなぁ。」

 礼司の言葉に、将太が首を竦める。だが礼司は、そんなことはお構いなしに、

 「武士には、英才教育を施してやろうと思っていてな。」

 そうニヤリとしながら、続けた。

 (何や?英才教育って?)

 武士にしても礼司の言うことは一々不可思議だった。将太も同じ様に、戸惑いを見せる。すると、礼司は歯痒い様子で、

 「組のお抱えヒットマンにするんだ。そのための英才教育だ。決まってんだろ?」

 「はいっ?」「えっ!?」

 またしても将太と武士の驚きの声が被る。

 「だからショウ、礼儀作法程度を教える分には全然構わないが、お前も含めて他の若手連中がする様なことをさせるな、と伝えておけ。必要な場合は俺から言う。じゃあ武士、ちょっと来い。」

 「……はいっ。」

 突然名前を呼ばれて、思わず背筋を伸ばす。将太に礼だけ述べると、礼司の後を追った。

 二人の背中を見送りながら、将太は、

 「そういうことか……タケシ、気の毒にな。」

 誰にも聞こえない程度に、そう呟いた。

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