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試練

四 試練

 その日は、まるで故人を悼むかの様な雨だった。

 警察による捜査や検死などがあり、康夫が亡くなってから一週間後の通夜となった。

 喪主は真弓の叔父が務めることとなり、本来は外交官ではなかった康夫の、表向きの上司や同僚が、形式的に参列している様子だった。真弓の高校のクラスメイト達にしても同様であった。

 今日までに、何度か紗枝とリカから連絡があった様だったが、あまりにもの慌ただしさに、メールのやり取りさえままならない状況で、もちろん二人とは会えないままだった。その上、式の開始前に来てくれた二人を、マスコミの手前、体裁が悪いと言って、親戚たちが追い返したと言う。真弓は怒りを通り越して、言い様の無い虚しさを感じていた。

 武士からは一度だけ、康夫が死亡したという報道のしばらく後に連絡が入った。何かの間違いかも知れない……詳細を調べてまた連絡する……と。だが、間違いなどではではなかった。あの銃撃戦こそやり過ごせたが、その後、どこかで狙われたのだろう。間違いなく胸に銃で撃たれた傷があった。

 真弓はこの一週間、警察の事情聴取やマスコミの取材により、心身共に疲弊していた。もちろん、武士のことは誰にも話していない。警察へ保護を申し出る様、武士から言われた時も、康夫が何者かに狙われていて、自分にも危険が及ぶ可能性がある、と言われ、保護を求めたい、と言って貫き通した。そしてその後、警察側から康夫はたまたま運悪く、流れ弾に当たって死んだ……と聞かされた。つまり、殺人事件として扱われなかった……ということになる。彼女は理不尽さを感じ、警察に事実確認を依頼したのだが、答えはやはり『不遇な事故だ』と言われただけだった。

 通夜が終わり、参列者達は皆帰って行った。式場には真弓と親戚の一部のみが残された。そして夜も更けると、親戚たちも控室に移動し、祭壇の前に居るのは真弓だけになった。

 その時、入り口に人影が見えた。武士だった。初めて会った時の学生服の様な、黒っぽいスーツ姿だったが、全身雨に濡れていて、以前とは全く印象が違っていた。

 「お焼香をさせて貰うてもええかな……?」

 「……どうぞ。」

 真弓はまるで感情が無い様に、そう答えた。武士は祭壇まで進み、焼香を炉にくべてから、しばらくの間手を合わせていた。そして、真弓の前で頭を下げる。

 「真弓ちゃん、ホンマにごめん、俺が絶対親父さんを守るって言うたのに……。」

 「……。」

 「独りにしてしまって……堪忍な。」

 真弓はその言葉に、弾かれた様に武士の方を見る。彼の頬が濡れていたが、雨に打たれたせいだけではなく、涙を流しているのが分かった。それを見た真弓自身も、康夫が亡くなってから、初めて泣いている事に気付く。

 「どうして?どうしてなの……?お兄ちゃんの馬鹿!もう、怒れないじゃない。」

 「ゴメン、ほんまにゴメンな……。」

 そのまま武士は真弓の前に跪く。

 真弓は泣きながら、武士の頭を包み込むように抱いた。武士もそれに応えるかの様に、真弓の腰に腕を回す。そのまま二人は、しばらくの間抱き合ったままで泣いた。

 その様子を、式場の入り口付近から、興味深げに見ている人物がいた。服装は、普通のビジネスマンの様に背広を着ているが、実は例の刑事だった。

 「小林刑事、こんなところに……」

 小林の部下である平田刑事が、やっと見つけたといった様相で声を掛けてくる。

 「シッ!」

 小林がそう制した時には、武士が二人の存在に気付き、真弓から離れる。そして、彼女に小声で、

 「あの二人、刑事やな。面倒なことになるから、もう行くわ。ゴメンな、また連絡するさかい。」

 と言って、反対側の出口から出て行った。

 「君!待ちたまえ!」

 小林がそう声を掛けながら追いかけた時には、もう武士の姿は無かった。後から、平田刑事も続く。

 小林は、真弓に向かって、頭を下げながら声を掛けた。

 「神村真弓さん、ですね?お邪魔してしまった様で申し訳ない。」

 真弓は涙をぬぐいながら、

 「いえ……。あの、どちら様ですか?」

 武士が刑事だと言っていたが、その通りだったらしく、警察手帳を見せながら、

 「千葉県警の、小林と言います。」

 そう名乗った。隣の男も同じ様に「同じく、千葉県警の平田です。」と答える。

 真弓は分かったという様に頷いたが、同時に、今さら何の用だろう……?と思う。康夫が亡くなったので、まだ真弓が狙われる、と心配したとは考えにくい。それに、殺されたはずの康夫のことを、流れ弾で死んだと言って来たのは、警察の方なのだ。真弓の訝しむ様な視線を感じたのか、小林は「この度はご愁傷様でした。」と、頭を下げながら、

 「私はお父様が亡くなられた真相を知りたいと思って、もう一度お話を伺いに来たのです。」

 「それって、どういうことですか……?」

 「お父様がお亡くなりになられたと連絡があった際、事故死だったと……真弓さんにはその様にお伝えし、実際警察ではその様に捜査が進められているのですが……後から伺ったあなたの話とは矛盾があるので、気になりましてね……。」

 その言葉に、真弓はカッとなって、思わず声を荒げた。

 「私が嘘を吐いているとでも言いたいの!?」

 小林は、真弓の誤解を招いたことに慌てた様子で、

 「そうではありません、逆にあなたの言い分……お父様が何者かに狙われていて、殺された……という方が正しいのでは?と思っています。……と、いうのも、目撃証言がありましてね。」

 「えっ?それってどういう……?」

 真弓は驚きを隠さず、話の続きを促した。

 「割れたリアウインドウから身を乗り出したビジネスマン風の男が、後方から狙撃してくる車に発砲していた……と。状況からおそらく追われていたらしい、といった内容でした。そして、追われていた車を、神村さんと思われる方が運転していた……ということも。」

 「!」

 さらに驚いた表情になった真弓の顔を見つめ、尚も小林は続ける。

 「先程の彼が、その応戦していたという男ではないですか?」

 「……。」

 真弓は口ごもる。武士の事を話せば、康夫が何者かに殺された事がはっきりするのは確かなのだが、武士に迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 「彼の事を庇いたい気持ちは……先程の様子でわかります。でも、お父様の事は単なる事故扱いのままで良いのですか?」

 「お兄ちゃん……武士さんは何も悪くありません!」

 言ってから、真弓はしまったと思ったが、遅かった。同時に、小林も驚いた様に、

 「やはり、彼が川藤か!村山組のヒットマンの……。」

 そう声を上げる。ヒットマン……やはり、警察ではそういう認識なんだ……真弓は、悔しくなった。

 「お兄……武士さんは、父を殺せと言う命令に逆らって、私と父を追手から守ってくれたんです!父はその後一人で行動したから、別の追手に殺されてしまったんだと思う……。だから、お兄ちゃんは何も悪くない!逆に、今はお兄ちゃん自身が危ない目に……」

 真弓は、自分でそう言い掛けてハッとなった。そうだ!お兄ちゃんはきっと、自分が組織を裏切って、父を助けていたことが知れて、逃げ回っていたに違いない。それなのに、今晩通夜が行われることを何かで知って、駆けつけてくれたのだ。自分の身が危険に晒されるというのに……。

 「お兄ちゃん……というのは、川藤のことだね?彼は何故、命令に逆らってまで、君たちの護衛をしたのだろう?」

 小林は先程より幾分か優しげな口調で、そう真弓に問いかけた。

 「初めは、父が持っているという情報が必要なんだと言っていました。でも本当は、私がいつも独りぼっちだと知って……父が亡くなると、天涯孤独の身になる……そうなってしまったらかわいそうだと、そう思ってくれたんだと思います……。」

 そこまで言って、真弓は涙を堪えきれなくなった。泣きながら、訴えかけるかの様に、

 「小林さん、お兄ちゃん……武士さんを助けて下さい!きっと私たちを助けたせいで、危ない目に合っているのだと思います!!」

 小林は、真弓を宥めるかの様に、やさしく問い掛ける。

 「お父さんの持っていた情報というのは、何か知っているかい?」

 「私も詳しいことまでは知りません……。実は父の仕事が、国際的に麻薬の取引を行う組織を取り締まる『国際麻薬取締官』だったらしく、ある組織の機密情報を知ったことで、命を狙われていた、ということしか……。」

 それを聞いた小林は、隣に立っている平田と顔を見合わせ、

 「道理で……。警察庁からの御達しがあったわけだ。」

 「どうします、小林刑事?」

 刑事二人が何やらこそこそと話し出したのを、真弓が訝し気に見ていると、

 「すまないね、お嬢さん。お父様が警察庁の方だったとは知らなくて……とんだご無礼を言いました。」

 真弓は刑事二人の態度に驚きつつも、

 「いえ、私もつい先日まで知りませんでしたから……。」

 そう答えた。さらに小林が、驚きの事実を伝えた。

 「実は……警察庁から神村さんの死に関する捜査はするな、と命じられておりましてね。」

 「え?」

 真弓が驚きの声を上げたのと同時に、小林は彼女の目を見ながら頷く。

 「今のお話で腑に落ちました。ただ、私も天邪鬼なものですから……この事件の真相を知りたくて、お嬢さんにご迷惑が掛かるのを承知で伺ったのです。」

 この人もまた上の命令に逆らって、父の死に関して調べてくれていたのだ、ということが分かり、真弓は、いわば赤の他人である武士や、この刑事の様な人達が助けてくれていることに感謝した。

 小林は、彼女の表情が少し和らいだのを見てとったのか、

 「川藤が組から命を狙われている、というのは、本当にそうかもしれない。情報とやらが手に入らなかった上に、君たちを殺すどころか守っていたとなるとね……。」

 それを聞き、真弓の顔が曇った。だが小林は、彼女に訴えかけるかの様に、続ける。

 「しかし、銃撃戦については我々の管轄だ。目撃情報から、彼を銃刀法違反容疑で逮捕することにはなるが、同時に命は守れる。お嬢さんにも協力して貰えないだろうか?」

 真弓は、武士が仕事上、人を殺していることも知っている。もし逮捕されれば、必ず罪に問われるはずだ……。そう思い悩んでいると、

 「確かに、彼は最終的に法の裁きを受けることに間違いはないが……何らかの情報を持っているはずだ。彼にもしもの事があれば、我々もこの事件の捜査の手立てを失ってしまう。だから私は何としてでも彼の命を守りたい。それでも駄目だろうか?」

 小林は真摯な眼差しで真弓を見つめる。彼女も、この刑事なら信用できるのでは……と思い始めていた。武士の逮捕が目的ではなく、彼の安全と、そして本当に康夫の死の真相を探ろうとしている……その様に思えたからだ。

 「……わかりました。一度連絡を取ってみます。」

 真弓はそう答えて自分の携帯電話を取り出し、武士の番号をコールしたが、『お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。』と、音声が繰り返し言うばかりであった。そうなると、彼女からは連絡の手立てがない。そのことを小林に告げる。

 「わかりました。こちらとしても、とにかく逮捕状を取って、彼を追います。もし、お嬢さんの方に連絡が来たら、私に知らせて貰えますか?」

 そう言って、小林は自分の連絡先を真弓に伝えてから一礼し、平田と共に去って行った。

 二人の刑事は車に乗り込むと、小林が早速口を開いた。

 「平田刑事、川藤武士の逮捕状を至急手配してくれ。我々千葉県警は、この線からしか捜査の糸口を掴め無さそうだ。」

 小林の指示に、平田も

 「分かりました。ただ……公安から何か言ってこないッスかね?」

 平田の、まだ学生気分が抜け切っていない言葉使いに苦笑しながらも、

 「まぁ大丈夫だろう。却って銃撃戦の捜査に夢中になっている、と思わせておける。こちらとしては都合が良いさ。」

 「公安のヤツら……一体何を企んでいるんですかね?」

 「『ヤツら』ってお前……言葉使いには気を付けろよ?」

 平田の不謹慎な物言いに、小林はクギを刺したが、実際不当な要求をしてくる警察庁が気に入らないのは、小林にしても同じだった。何としても、ヤツらが隠していることを暴いてやる……彼はそう意気込んだ。

 その頃真弓は、武士と連絡が取れなくなっていることに、今まで気付かなかった自分自身に怒りを感じていた。いくら大変な時だったとはいえ、武士から連絡が何もないことに、何故違和感を覚えなかったのだろう。早く何とかしなければ……!もし武士に何かあれば……と思うと、居ても立ってもいられなかった。

 ふと、また式場の入り口付近で人の気配を感じる。もしかして武士が、刑事が帰るのをどこかで見届けていて、戻ってきたのかも知れない……そう思い、入り口の方に小走りで向かった。

 「お兄ちゃん?」

 声を掛けながら通路を見回すが、誰も居ない様子だった。気のせいだったのかな?と思い、また式場の中へ戻ろうと踵を返すと、見知らぬ男が目の前に立っていた。細身で一見優男風だが、まるで肉食獣が獲物を追い詰める様な、尋常でない目つきをしている。真弓は短い悲鳴を上げ、一瞬立ち竦んだ。

 「こんばんは、お嬢さん。」

 男は口元をニヤつかせながら、そう声を掛けてくる。真弓は何か言おうとしたが、出来なかった。男が素早い動きで、彼女の首元に手刀を入れたからだ。真弓はそのまま崩れ落ちる。男は軽々と真弓を担ぎ上げ、式場を立ち去ろうとするが、その時彼女の制服のポケットの中で、携帯電話のバイブレーターが振動した。男は無造作にそれを取り出すと、液晶画面に『公衆電話』と表示されていることを見て、電話に出る。

 「武士か?」

 「……何で兄さんが、真弓ちゃんの携帯に?」

 「お前、今どこにいる?」

 兄さんと呼ばれた男は、武士の質問には答えず、そう問いかけた。

 「まさか……真弓ちゃんに何かしたんか!?」

 「まだ何もしていないさ……今は気を失っているだけだ。」

 男は笑いながら、武士にそう答えた。

 「なんぼ兄さんや言うても、真弓ちゃんに何かしてみい!俺が……殺す!」

 武士が電話口で怒鳴った。それでも男は笑うのを止めず、

 「俺もお前と殺し合いをするつもりは無いさ。今じゃあタイマンだと逆にやられそうだしな。」

 相変わらず、兄さんと呼ばれた男はのらりくらりと躱した。武士は男の真意が分からず、苛立った声を上げる。

 「真弓ちゃんをどないするつもりや?」

 「……お前次第だな。」

 「俺のことはボコろうが切り刻もうが、好きにしたらええ。でも、彼女には絶対手を出すな!」

 武士がそう怒鳴ると、男は、「へええ、かっこいいねぇ。」と呟いた後、本題だと言いながら、

 「これから言う場所に来い。お前が来なければ、この子の身の安全は保障出来ない。言っておくが、もちろん丸腰で、だ。」

 男の要求に、武士は頷き、

 「わかった。場所を言うてくれ。」

 ある住所を聞かされる。だが、組と関係のある場所では無いらしい。少なくとも武士は知らない住所だった。

 「では、午前零時までに来い。」

 そう言って、電話が切れる。

 男は、携帯をその場に放置し、真弓を担いだまま式場を立ち去った。

 武士は時間を確認し、指定の場所へと向かう。移動しながら、結果的に真弓を危険な目に合わせてしまった、自分自身の不注意さを呪った。それと同時に九年前、逃亡を図った時の事を思い出す。

 (あの時俺は、兄さんに半殺しの目に合わされたけど、命まで取られることはなかった……でも、ショウ兄は粛清された。)

 だが、初めから真弓自身が目的なら、こんな面倒な事をしないだろう……。とにかく真弓を助け出す、それだけを考える様にし、人目に付くことも憚らずに、街中を疾走した。

 一方真弓は、首筋の痛みに目が覚めた。気を失った時の記憶がフラッシュバックし、慌てて身を起こそうとすると、後ろ手に粘着テープか何かで固定されていることに気付く。声を出そうとして、口も同じ様に塞がれていることが分かった。とにかく首をめぐらせて、今どういう状況なのか確認しようとするが、今居るのは、自分が簡易ベッドに寝かされており、小さな流しがあることから、どこかの事業所の宿直室か何かであるらしい……という事しか分からなかった。

 「気が付いたか?」

 一瞬身体が恐怖で凍りつく。

 先程の男が、真弓の背後に置いてあったらしい椅子に腰かけ、こちらを見て薄ら笑いを浮かべていた。何とか逃れようともがくが、足も同じ様に固定されていて、まったく自由が利かなかった。

 その時、部屋の扉が開いて、また別の男が現れる。

 「アニキ、武士のヤツが来たみたいですぜ。」

 その言葉に、

 「わかった。すぐに行く。」

 男が返答し、椅子から立ち上がると、部屋を出ていった。

 部屋には真弓一人になったところで、状況を理解し始めていた。先程の男たちは、きっと武士と同じ組の人間で、おそらく所在の掴めない彼を呼び出す為に、自分を利用したのだろう。また、武士に迷惑をかけてしまった……真弓はそう思うと、情けなくて涙がこぼれた。

 一方武士は、指示された住所の建屋の前まで来ていたが、想像していたものとは違っていて驚く。九年前、自分が逃亡を図った際に連れて行かれたのは、倉庫の様な建物だったので、そんな先入観があったが、この目の前の古びた建物はどう見ても……既に使われていない様ではあるが、以前は病院もしくは診療所であったらしい……庇に赤色灯らしきものが残っていた。そして、建屋全体が雨に濡れ、不気味ささえ醸し出している。武士は窓の側まで近づき、中の様子を窺おうとしたが、明かりが点いているかどうかすら、わからなかった。

 (まるで肝試しやな……。)

 そんなことを考えながらも、注意深くドアノブを回す。鍵は掛かっておらず、足を踏み入れると、中は真っ暗だった。目を凝らしながら歩を進めると、病院では一般的なリノリウム張りの床では無く、まるで築百年以上の学校の様な板張りだという事に、軋む音で気付いた。

 「兄さん、どこや?」

 ギイギイという、自分の足音に気を取られながらも、とりあえず声を掛けてみる。その時、ガチャリいう音と共に、入ってきたドアの鍵が掛かる音がした。武士は驚いて振り返るが、人の気配はなかった。

 「なかなか面白い演出やけど……お化け屋敷とはちゃうんやろ?」

 武士はそう言って、辺りを見回す。どうやら見た目とは違い、オートロックもしくはリモートコントロールでドアの鍵が掛かるようにするなど、最新式の設備が備わっているらしい。暗くてよくわからないが、暗視カメラもあるのではないかと思い始めたその時、

 「突当りにエレベーターがある。降りて来い。」

 どこからか男の声がする。どうやら、スピーカーも備わっているらしかった。武士はその声に従い、エレベーターと思われる扉の前まで進むと、不気味な音を立てながら勝手に開く。

 「どっかのアトラクションみたいやなぁ。急降下するとか……?」

 訝しみながらも、それに乗る。ゆっくり降りていく感覚があり、間もなく扉が開いた。

 「!」

 目の前の光景を見て、一瞬目を疑う。言うなれば、それまでとは正反対の、真っ白な空間が広がっていた。よく見ると、ガラスを一枚隔てた向こう側に、白衣を着た研究員の様な人間が数名、忙しそうに動き回っていて、最新の研究施設、と言った様相だった。武士が面食らっていると、

 「よう。」

 手を挙げながら、武士が兄さんと呼ぶ男が現れる。それに、武士も見覚えのある男の手下を二人連れていた。

 「まず、上着を脱いでもらおうか。」

 武士は言われた通りにする。すかさず、手下の一人がボディチェックをした。その様子をジッと見ていた、兄さんと呼ばれた男は、口の端を上げながら、

 「殊勝だな、何も持ってないとは。」

 言葉とは裏腹に、まるで馬鹿にするかの様な口調でそう言う。

 「兄さんが丸腰で来い、言うたんやろ。」

 武士は苛立たしげにそう言いながら、周囲を見回し、

 「約束通り来たんや。真弓ちゃんを解放したってくれ。あの子はどこや?」

 男に詰め寄ろうとしたが、手下二人に阻まれた。

 「今、連れてきてやる。」

 そう言って、男は手下の一人に連れて来る様に指示した。

 「ところで……ここは何や?」

 武士は来た時から感じていた疑問をぶつけてみた。少なくとも、ヤクザが出入りする様な場所には見えなかったからだ。彼の質問に、

 「すぐに分かるさ。」

 そう答え、意味深な笑いを浮かべる。

 まさかな……と、思考をめぐらせている間に、手下の一人が真弓を連れて来た。どうやら後ろ手に拘束されているらしい。口も塞がれているのを見て、武士は全身の血が沸騰するような怒りを覚えた。

 「何てことすんねん!」

 武士が動くよりも一瞬早く、兄さんと呼ばれている男が、真弓の喉元にナイフを当てる。

 「お前次第だと言っただろ?」

 男に飛び掛からんばかりの勢いだったが、何とか堪え、

 「俺に何をさせるつもりや……?」

 そう言うだけで精一杯だった。自分でも、怒りで声が上ずっているのがわかる。

 「別に難しいことじゃないさ。ちょっと実験体になってくれればいい。」

 男はまるで天気の話でもするかの様に言ってくる。だが武士は、心臓を鷲掴みにされた様な恐怖感に襲われた。そして九年前、覚せい剤に侵されていた、あの女性の姿が脳裏に浮かぶ。呻く様な声で、

 「……新型の『麻薬』ってヤツの、か?」

 武士の言葉に、男はニヤリと笑いながら、

 「分かっているなら話は早い。」

 そう言うと、手下二人に連れて行けという風に、顔を研究施設の入り口に向ける。

 「その代わり、この先真弓ちゃんには指一本触れんな。わかったか?」

 武士は男を睨みつけながらそう言うと、男は彼女の首元からナイフを外し、

 「わかった。約束するさ。」

 そう言って、武士の方へ突き飛ばした。彼はすばやく真弓を受け止め、口に貼られた粘着テープを外す。そして彼女の身体に異変がないか、確認しながら、

 「真弓ちゃん、大丈夫か!?どっか痛いとこはないか?」

 そう言って、真弓の手首に絡みついたテープも外してやる。

 「お兄ちゃん、ゴメンね……私のせいだね……。」

 彼女はずっと泣いていたらしく、目が赤くなっている。

 「何言うてんねん。俺が巻き込んだんやさかい、真弓ちゃんは何も悪ない。」

 武士はそう言ったが、真弓は武士に抱きついて、ずっと泣いている。武士は宥めるかの様に、彼女の頭を撫でてやった。

 そんな二人の様子をしばらく男は見ていたが、

 「感動の再会のところ悪いが、そろそろ時間だ。」

 そう言って、手下に真弓を引き離させようとするのを、武士が手で制し、

 「ホンマに真弓ちゃんを、無事返したってくれるんやろうな?」

 「大丈夫だ、約束する。弥栄子に任せる、と言ってある。」

 弥栄子というのは、武士が姐さんと呼ぶ女の事だ。姐さんに任せるのなら本当に大丈夫だろう、その答えには満足して、武士は頷く。そして、真弓の肩を掴んでゆっくりと自分から離し、彼女の顔を覗き込んで微笑んだ。

 「ほな、真弓ちゃん、またな。」

 だが、真弓は、

 「ダメ!そんなことをしたら……!!」

 取り乱した様子で、武士の首にしがみつく。武士は真弓の腕をポンポンと叩き、

 「大丈夫や。こう見えて、俺、対薬物訓練も受けてあんねん。」

 そう言っても真弓の不安そうな表情は変わらない。武士は笑いながら、

 「要するにクスリは効かへんってことや。そやさかい、心配せんでええ。」

 何とか真弓を安心させてやろうと、そう言う。だが武士自身も、それは気休めでしかないと分かっていた。対薬物訓練を受けたこと自体は本当だが、自白剤に若干耐性があるという程度だ。正直、ドラッグ類に対しては、何の役にも立たないだろう。

 「弥栄子が来た。」

 男が武士と真弓に向かって、そう言ってくる。真弓はまだ不安そうな顔で、武士の顔を見つめた。

 「大丈夫。真弓ちゃん、一回会うたことのある人や。」

 「え?」

 そう言われて振り返ると、女がエレベーターから降りてくるところだった。

 「真弓ちゃん、だったわね?」

 「そうですけど……?」

 「きっとわかんないわよね……一度会った位じゃあねぇ。」

 真弓の訝しむ表情に苦笑しながらも、

 「じゃあ礼司、この子は私が預かるわね。そういうわけで、武士は安心して。」

 任せて、という様に武士達に手を振る。それを見た武士は、弥栄子に向かって、

 「姐さん、くれぐれもよろしゅう頼んます!」

 そう声をかけると、男とその手下二人に促されて、研究施設内へと入って行った。

 弥栄子は真弓の肩を抱いて、

 「家まで送るわね……それとも、今夜は遅いからウチに来る?」

 そう言われて、弥栄子の方を向くと、髪形や化粧の仕方が違っていて、すぐには分からなかったが、先日武士の部屋に訪れた、水商売風の女と同一人物であることに気付く。

 「あ、あなたは……!?」

 「この前はごめんね。武士に頼まれて、あんなヘタな芝居をしたけど……どちらかと言うと私、あいつの姉貴だから。」

 弥栄子はバツが悪そうに、真弓にそう言った。

 「お兄……武士さんのお姉さん?」

 「血の繋がりはまったく無いけどね。」

 そう言って、舌を出す。そして、弥栄子は表情を引き締め、

 「武士にああ言った以上、あなたには私が責任を持って、他のヤツらに一切手を出させないから、安心して。」

 それを聞いた真弓は、ありがとうございます、と礼を言いながらも、武士が入って行った研究施設の入り口を見ながら、

 「お兄ちゃん、大丈夫かな……?」

 そう言って、また涙を流した。

 「あいつがそう覚悟を決めたんだから、大丈夫よ。」

 弥栄子もまた、この言葉は気休めにしかならないことは分かっていたが、他に真弓に掛けるべき言葉が見つからなかった。

 「不安なら、今晩はウチに来なさい。明日、お父様の葬儀でしょうから、朝送るわ。」

 「はい……。」

 真弓は弥栄子に言われるがまま頷き、二人は寄り添う様にその場から出て行った。

 一方武士は、研究施設の中に足を踏み入れると、中はクリーンルームになった、かなり本格的なつくりであることに舌を巻いた。

 (あの情報はホンマやったってことか……。)

 この一週間、武士はただ逃げ回っていたわけではなく、康夫が殺されなければならなかった機密情報とは一体何だったのか、調べていたのだ。そこで知り得たのが、新型のドラッグを作り出したのは、実は日本の老舗の製薬会社……『帝京製薬』だということだった。そのことについて警察が、何らかの情報から嗅ぎ付ける可能性がないのか不思議に思ったのだが、どうやら情報管制が敷かれているらしく、そう簡単には調査出来ない様になっているらしい……そういう内容だった。

 武士が考えをめぐらせている間に、研究施設の中の、さらにガラスで区切られている部屋に入れられる。簡易ベッドとトイレは備わっており、一見最新式の独房といった感じだった。外からはガラス張りだと思ったが、中からは研究施設側が何も見えず、マジックミラーになっていることが分かった。

 (……てことは、トイレ丸見えやん。)

 などと、今更なことで悩むが、監視カメラも付いていて、どちらにしろプライバシーが守られている環境だとは、御世辞にも言えなかった。

 顔を顰めながら、部屋の内部を見回していると、白衣を着た三十代位の男が入ってきた。まるで入院患者を診て回る医師か看護師の様に、消毒薬の様な匂いが鼻をつく。

 「ベッドに横になってもらえますか?」

 男にそう言われ、ベッドに座ろうとした時、武士は「あっ!」と声を上げた。自分の下半身が雨でびしょ濡れだったことに気付いたからだ。

 「寒いかも知れませんが、これに着替えて下さい。」

 男はそう言って、タオルと手術着のようなものを武士に渡す。裸で居るよりはマシかと思い、それに着替えると、ベッドに横になった。男は続けて体温計を武士に手渡し、脇に挿む様、指示する。

 (ホンマに患者になったみたいやな……。)

 次に男は、武士の左腕の袖を捲って、自動的に血圧を測る機材をセットし、右腕側を駆血帯で縛り、手首付近を消毒してから、点滴の時の様に刺し口をつけ、採血を始める。手馴れているのか、ほとんど痛みは感じなかった。

 「これは万が一の為、ルート確保用として付けたままにしておきます。」

 男はそういって、武士の右手首に刺してある針に、短いチューブを繋いだ状態で、抜けたりしない様にテープで手首に固定した。

 武士は「あんた……」と言いかけて、彼の胸にIDが付いていることに気付く。どうやら「ヤマギシ」という名前らしかった。

 「ヤマギシさん、何でこんなことに荷担してるんや?」

 手際の良さから、医療関係者であることに間違いなさそうな男に、疑問をぶつける。

 「……妻を、人質にとられていましてね。」

 ヤマギシと呼ばれた男は、目を落としたが、ほとんど表情を変えずにそう答えた。

 なるほど……と、納得する。おそらく他の研究員とみられる人達も同じ様に、大事な人を盾にされているのだろうな、と武士は思った。

 「データでは、川藤武士さん、二十五歳、男性、身長一八六センチメートル、体重七十五キログラム、血液型О型……となっていますが、間違いないですか?」

 武士は「そうや。」と頷く。すると、ヤマギシは「では。」と言うと、次は左上腕部を消毒し、例のモノを打った。微かな痛みと共に、打たれた部位から熱くなるのが分かる。間もなく全身に熱いものが駆け巡る感じがするが、悪い気分ではなかった。

 「また一時間後に採血と体温、血圧の測定をします。」

 ヤマギシはそれだけ言って部屋を出ようとするが、腕組みしながら一部始終を見ていた礼司が、

 「こいつ、正気を失うと誰彼構わず襲うぜ。拘束しておいた方が良いんじゃないのか?」

 そう提案する。武士は、

 (誰のせいや思うてるんや!)

 と、心の中で悪態を吐きつつも、ヤマギシの反応を待った。

 「では、医療用の拘束具がありますので、状況によってはそうさせて頂くかも知れません。」

 「その方が良いと思うぜ?暴れ出したら、俺らでも手を焼くからな。」

 「わかりました、いざとなれば鎮静剤を使います。」

 武士はそのやり取りを横で聞いていて、なんだか無性に可笑しくなってきた。

 (俺をどないするって?やれるモンなら、やってみぃや!)

 意味もなく笑いが込み上げる。だが同時に、既にクスリがまわってきているんだろうな……と、どこかで冷静な自分がそう言うのも聞こえた。

 「何か面白いのか?」

 礼司が、武士に向かってそう言ってきた。どうやら口元がニヤついていたらしい。

 「いや……俺、完全に猛獣みたいな扱いやなぁと思うたら、何や面白うなってきて。お望みなら、なんぼでも暴れますよ?まず手始めに、そこの二人を一瞬でのしたるわ。」

 自分でも、(何馬鹿げたこと言うてるんやろ?)と思っていたが、武士の言葉に鼻白み、「こいつ!」と言いながら、手下の一人が腕を伸ばして来る。だが、気付いた時には武士がその腕を捻り上げ、鳩尾に一発入れて黙らせていた。もう一人が武士に襲い掛かって来るのを、横目で確認しながら足払いし、バランスを崩したところで、首に手刀をお見舞いする。おそらく両方を合わせても一分と掛かっていない、早業だっただろう。

 すると、礼司がナイフを取り出し、ヤマギシの首元に当てた。それを見た武士はあからさまに顔を歪ませ、

 「ええ~っ!?さっきからそれ反則やって!俺、兄さんとフツーにケンカしたいねん!ただでさえ兄さんがナイフ持っとったら、『鬼に金棒』やのに……。」

 駄々をこねる子供の様に、ブツブツと文句を言う。

 「今じゃあお前とタイマンはったら、こっちがやられそうだと言っただろ?」

 「そんなもん、やってみなわからんやんか!」

 武士の様子が明らかにおかしい。クスリのせいだろう、と礼司は分かっていたが、それで叩きのめされてはかなわない。ナイフをヤマギシの首元にさらに近づける。それを見た武士は、

 「あーっ!もぉ分かった!俺が悪うございました。だからその人、放したってぇな!」

 拗ねた様にベッドに座り込む。それと同時に、息を吹き返した手下の一人が武士を抑えにかかった。そのまま拘束具を付けられる。

 「あーあ、(おも)()ないなぁ……。」

 ベッドから動けなくなり、武士は不平を漏らした。

 「寝られるのであれば、鎮静剤を打ちましょうか?」

 ヤマギシがそう尋ねてくる。それから申し訳無さそうに、

 「私のせいで……ご迷惑をおかけしました。」

 そう言ってきたので、武士は面食らって、

 「いやいや、ヤマギシさんは何も悪くないです!全部兄さんが悪いんです!」

 動かせる手の平だけを必死で横に振って、

 「ええと、まぁこの状態やとどうせヒマやし……打っといて貰おっかな?」

 するとヤマギシが、用意して来ますね、と言って一旦部屋を出て行った。男が出て行くのを見計らったかの様に、

 「お前はやっぱり同じ選択をしたな。」

 突然、礼司が意味あり気なことを言い出す。

 「?」

 武士は礼司の言っている意味が分からず、相手の眼を見つめていると、

 「お前の父親と、な。」

 と、言ってくる。一体何のことや……?武士が訝しんでいると、

 「九年前、お前の父親が、お前に手を出さないということを条件に、実験体になると言ったのを思い出してな。」

 「何やて?」

 今まで思ってもみなかったことを聞かされ、彼は激しく動揺した。父は事故死ではなかったのか……?武士の疑問に答えるかの様に、

 「そうだ。クスリの副作用で亡くなった。」

 「!」

 「あとお前の母親も、お前を助ける為なら、自分はどうなっても良い、と言っていたそうだぜ。まぁさすがに、旦那も子供も居る人間が失踪したとなれば、色々厄介なことになるから、この線はなかったんだけどな。」

 武士は混乱していた。今まで両親を恨んだことは無かったが、自分は両親に見捨てられた可哀そうな人間だと、頭の片隅でずっとそう思っていたのは確かだ。それなのに本当は、父は自分を助ける為に犠牲になった……母も何とかしようとしてくれていた……そう聞いて、父を死に追いやり、母に辛い選択を迫った者たちへの怒りと共に、熱いものが込み上げてくる。

 「何でや……?何で今頃、そないな話を聞かせるねん!?」

 礼司はニヤリと笑い、

 「正気を保っている間に話しておいてやろう……という、兄ゴコロだ。お前への退職金代わりなんだから、有難く思って欲しいな。」

 「貴様……!勝手な事ばっかり、ぬかしやがって!」

 武士は礼司を罵りながら、身を捩って拘束を解こうとするが、簡単には外れる筈もなく、逆に礼司に首元を押さえられ、

 「恨むなら、クスリを作り出した帝京製薬と、それを黙認し、利用している厚労省、あと、これらのことを調べるどころか隠し通そうとする、警察庁のお偉い方を恨むんだな。」

 武士は驚きに目を見開く。やはり、裏に大物がいたのだ!真弓の父は、内部告発をしようと画策していたが、それを阻まれ、殺されたのだろう。もしかしたら、それこそ真弓の安全と引き換えに、自分が犠牲になる道を選んだのかも知れない。頭の中で、一気に情報が繋がり始める。

 「何をしているんですか!?」

 ヤマギシが戻ってきて、武士の首を締め上げているのを咎める。礼司は武士から手を放し、「じゃあな。」と言いながら、手下二人と部屋を出て行った。

 「ゴホッ、ゴホッ!」

 クスリのせいなのか、あまり苦痛を感じなかったが、身体は酸素を欲していたらしく、咳き込む武士に、ヤマギシが駆け寄り、

 「大丈夫ですか?」

 慌てて拘束を解き、上体を起こして背中をさする。武士は礼を言いながらも、

 「それよりヤマギシさん、奥さんが人質にとられてるって言うてはったな?一体いつから?奥さんは今どこに居てるんや?」

 いきなり矢継ぎ早に聞いてくる、彼の慌てた様子に驚きながらも、

 「都内の療養施設です。九年前に寝たきりになってしまって……。それから、動けないことを利用して人質にされ、私はこうして悪事に手を染めている……といった感じです。」

 やはり、九年前か!武士はヤマギシの肩に手を置き、

 「それ、怪しいで!初めからアンタを利用しようとして、奥さんを無理矢理寝たきりにさせたんとちゃうか!?」

 「え……?」

 ヤマギシは何を言われているのか分からない様子で、瞬きをしている。

 「俺が今までに知り得た情報と、九年前、俺の親父が何かの薬の副作用が原因で死んだってことを合わせて、だいたいわかったんや。九年前に帝京製薬が作り出した新薬……それを投与された患者が相当数、亡くなったんやろうな。命こそ無事やった人らかて、何らかの障害が出たり、寝たきりになってしもうたんやと思う。それを揉み消すのを、兄さん達も含めたヤクザ連中に依頼したんやろ。その見返りとして、『ドラッグ』を作り出してヤクザ側に提供することにした……。そしてまた、新薬を作り上げるための被験体をヤクザに提供させる……。そういう繰り返しになっていったんやと思う。たぶんアンタの奥さんも、その被験体の一人やったんとちゃうやろか?」

 そう一気に武士が話すのを、じっと聞いていたヤマギシだったが、

 「そう言えば……妙だな、と思うことが……ありましたね。」

 と言って、考え込む様な表情をする。

 「妻は、もともとあまり身体が丈夫な方ではなく、よく入退院を繰り返していたのですが……九年前に入院した際、あまりにも病状の改善が見られないので、治療薬について教えてほしい、と主治医にお願いしたことがありました。でもこれ以外に、今の妻には使える薬が無いと言われて……。その時、少し疑問は感じたのですが、私自身も薬品開発の研究員ではなく、医療担当なので……専門では無いですから、それ以上尋ねるのは、不躾かと思ったのですが……。」

 でもまさか、今自分が関わらざるを得なくなっているこの研究自体が、そもそもの原因だとは思いも寄らなかったのであろう、ヤマギシの顔から完全に表情が消えていた。

 武士はヤマギシに、別の質問を投げかける。

 「俺に副作用が出始めるのは、後どれ位や?」

 「早ければ三時間、遅くとも五時間、といったところでしょうか……。」

 三時間か……。武士はさらに情報を集めるには、あまりにも少ない時間だな、と思う。かといって、一旦副作用が出て、それが収まるまで待つとなると、一体どれくらい時間を喰うか分からない上、禁断症状の出方も気になる。それに、今逃げ出したとしても、礼司達がどこかで自分のことを監視しているだろう。仮に三人は何とか出来たとして、先程の様に研究所内の誰かを人質に取られるとなると、今の武士にはなす術がなかった。

 (それに、兄さんのことや……俺がのた打ち回るところは、絶対外さんと見に来るやろ。あの人、根っからのサディストやからなぁ。)

 どうしたものかと考えあぐねている彼に、ヤマギシは意を決した様子で、

 「実は……これは会社側も知らない、私たち研究員達だけの秘密ですが……この『ドラッグ』の精製と並行して、中和剤の研究もしています。」

 「え?」

 武士は驚いて、ヤマギシの顔を見る。

 「まだ研究段階ですので、どの程度の効果があるかは……正直やってみないとわかりません。実際マウスを使っての実験では、ある程度の中和作用が認められたとのことでしたが……。実は今日、被験体を要求したのも、中和剤の効き目を確かめたかったから……というのもあります。」

 ヤマギシは武士の方を向いて、言う。

 「本当なら、被験者本人に確認することは無いのですが……あなたさえ良ければ、それを試してみますか?」

 「うん、試す!試して下さい!!」

 そう目を輝かせて二つ返事をする武士を見て、ヤマギシは苦笑いし、

 「あなたは……ご自分が実験台にされるというのに、そんなに簡単に……。もしかしたら副作用中、正気を失わずに済むかわりに、却って苦しい思いをする……ということになるかも知れませんよ?もともとこの『ドラッグ』は常習性を高めるために、副作用が強く出る傾向があるので、中和剤の効力も特に強く出る副作用に対して、限定的にしか効かないというケースが考えられますので……。もちろん、個人差もあるとは思いますが。」

 「でも、他にどうしようもないやろ?やってみる価値はあるって。それに、俺でデータを取って改良が進めば、他に助けられる人かて居てるかも知れへんし。」

 武士がそう言って、ヤマギシに促す。

 「わかりました。そこまで言って下さるのであれば、遠慮なくやってみましょう。」

 礼司達の手前、武士を元通り拘束し、ヤマギシは中和剤の準備に取り掛かる……と言って部屋を出て行く。

 武士は天井を眺めながら、考えをめぐらせていた。

 『厚労省は利用し、警察庁は隠している』と礼司は言っていた。例の死人を出した最初の『新薬』は、厚生労働省の上の人間が認可した薬だったということだろう。そいつは警察庁にも圧力を掛けることの出来る『大物』だということだ……。一体何者だろう?

 (そう言えば、俺がまだ高校生やった頃に、認可した新薬が原因で複数死者が出たとかで、引責辞任した大臣がおったな……。何て名前やったか……?)

 武士は、それ位のことまでは考えられたが、次第に思考力が失われていくのを感じていた。とにかく身体中が熱い……他に何も考えられない位に。その後、何度も背中が熱くて身体を横たえようとするが、拘束されていて動けないと気付く……それを繰り返していた。

 「お待たせしました……。」

 そう言いながら、ヤマギシが部屋に入ってきた時、武士は頭の天辺を下にして、背中を浮かせていた。それを見たヤマギシが、目を丸くしながら、

 「何を……していますか?」

 「ええと、背中があっついな~と思って……。」

 ヤマギシの肩が震えている。それを見た武士は、

 「ええっ!?何で笑うん?これ、結構しんどいんやで?首なんか相当鍛えられそうやろ?」

 武士にしてみれば、苦肉の策だったのだが。

 「そりゃあ、そうでしょうね。」

 ヤマギシは相当おかしかったらしく、涙を拭きながらそう言い、武士の拘束を解く。そして、

 「先に体温と血圧の測定と、採血をしておきますね。」

 と言って、先程と同じ手順で作業を始める。それが終わると武士に、

 「何か気になることとか、ありますか?」

 ヤマギシが聞いてくる。武士は、襟元をバタバタさせて、

 「気になるっちゅーか、無性に身体が熱いってのと、俺の下半身が元気過ぎて……ヤバいっちゅーか……。」

 それを聞いたヤマギシは、若干考え込み、

 「私で良ければお相手致しましょうか?」

 「……え?」

 「……冗談です。」

 真顔で言ってくるのが、ヤマギシらしい。

 「ヤマギシさん、冗談言えるんや!お陰でちょっと涼しなりましたわ。」

 「それ、スベッたってことですよね……?」

 心なしか傷ついた様子だったが、武士は笑って誤魔化す。ヤマギシは本題に戻し、

 「全てクスリの作用です。今から中和剤を打ちますので、若干は和らぐと思いますが……可能であれば少し休まれて、副作用に備えて頂ければ良いかと思います。」

 武士は頷き、

 「体力温存しといた方がええっちゅーことやな?」

 ヤマギシは「そうですね。」と言って、中和剤を打つ。それが終わると、

 「今、研究所内には彼らの姿は見えませんでしたので……そのままで居て頂いて構わないと思います。どちらにしろあなた一人では、この部屋のドアは開かない仕組みになっていますし……。」

 武士は一瞬、ヤマギシの言っていることが何なのかわからなかったが、自分を拘束しておくかどうか、ということだと気付き、

 「あ、でも、兄さんらはどうでもええんやけど、もしあんたらの内の誰かを、無意識に怪我させたってなったら寝覚めが悪し……俺は動かれへんでも全然かまへんけど?」

 「ではまた一時間後に体温と血圧の測定と採血に来ますので、その時の状況に応じて……という事にしましょう。」

 ヤマギシはそれだけ言うと、部屋を後にする。

 部屋に一人になったところで、今の状態では考えを巡らせることも、眠ることも出来そうに無いし、かといって何もやることがないので、とりあえず腹筋を始めた。その次は腕立て伏せを……と思ったところで、右手首に点滴用の針……と言っても、血管内に入っているのはシリコン製かなにかのチューブだろう……が刺さったままで固定されていることを思い出し、なんとなく左手だけの片腕立て伏せにしておく。どちらも百回ずつ、何セットかし終えたところで、

 (俺アホや。体力温存どころか、逆に使うてしもうたなぁ……。)

 そう思ったが、後の祭りである。

 (ま、ええか。)

 とりあえず、置いてあった水を飲んで、水分補給をすると、今度は窓枠の縁に指を掛けて懸垂を始める。百過ぎまで数えたところで、

 (あんまり身体を動かし過ぎても、データ取りが上手いこといかへんなるかも知れんな……。)

 そう思い、これ以上は止めておくことにする。そして、安静にする為にべッドに寝そべった。そうこうしているうちに、中和剤の効果が表れた始めたのだろう、通常のドラッグ類では考えられない様な睡魔が急激に襲ってくる。

 (アカン、ヤマギシさんが来るまで起きとかんと……。)

 そう思っていたのに、少し微睡んでいたのかも知れない……気が付くと、ヤマギシの手首を持って捻り上げていた。ヤマギシは顔を苦痛で歪め、「やめて下さい……。」と訴えている。

 「だ、大丈夫ですか!痛かったですよね?ホンマ、すんません!……堪忍してもらえますか?」

 武士が必死に謝罪していると、

 「これくらい大丈夫です。ご心配には及びません。」

 ヤマギシは無表情のままそう言い、また武士の採血と体温、血圧の測定をし始めた。それが終わると、

 「次は副作用が出始めた頃に、また同じことをしますので。」

 そう言ってから、ヤマギシにしては珍しく、顔を曇らせ、

 「次は、おそらく私ではない人間が測定に来ますので……申し訳無いですが、拘束させておいて下さい。」

 武士は、それは仕方がないと思い、

 「ヤマギシさんのせいとちゃう、俺が悪いんやから、全然かまへんで?」

 ヤマギシはすみません、と言いながら、武士の手と足を拘束する。そして、

 「もし、なにかあればこれを押して下さい。」

 そう言いながら、ナースコールの様なスイッチを武士の手に握らせる。武士が礼を言うと、ヤマギシは「それでは。」と言って、部屋を出ていった。

 しばらくは手足の拘束に気を取られて眠れなかったが、ここのところ、ほとんど睡眠を取っていなかったのと、中和剤の効き目であろう、やがて睡魔が襲ってきた。

 武士は今の生活になってから、普段も熟睡はほとんど出来ない。せいぜい長くても二、三時間というところだろう。それを思えばかなり長い内に入る、四時間程度眠っていた様だったが、自分自身の唸り声の様なもので目が覚めた。

 ひどく気分が悪かった。しかも頭痛が尋常でない。少し首をめぐらせただけで、鉄の棒か何かで殴られているかの様にガンガンと痛む上、吐き気もする。おまけに、寝入るまでとは全く逆で、自分でも歯がガチガチ鳴っているのがわかる位、寒気がした。手に例のスイッチが握られているのを思い出し、それを押してみると、しばらくして、女性の研究員らしい人が部屋に入って来る。

 「目が覚めたんですね?先に体温と血圧の測定と、採血をしちゃいますねー。」

 女はそう言いながら、ヤマギシがやったのと全く同じことをし始める。武士は苦痛に顔をしかめながら、

 「……それ終わってからで……ええから、コレちょっと……外して貰えへんやろか……?吐きそうやねん……。」

 そう言うと、女性研究員は少し困った様な顔つきをして、

 「えー?どうしようかなぁ……今私一人だからちょっと……。」

 そう言う間にも、武士は「うっ!」と言いながら青ざめる。さすがに気の毒に思ったのか、女は拘束を解いてくれた。

 武士は礼を言うのもそこそこに、トイレに駆け寄る。そして何度か吐くが、幸いなことに、前日にあまり食事を取らなかったせいか、固形の吐瀉物が出ることは無かった。だが、吐き気が治まらず、そのままトイレのところに蹲ってしまう。

 「大丈夫ですか?」

 女性の研究員が武士を気遣う様に声を掛けて来るが、武士は彼女の顔を見て、頷くのが精一杯だった。女は「では、もうちょっと後で様子を見に来ますね……。」と言って、部屋を出て行く。

 武士は、誰も居なくなったところで堪えきれなくなり、呻き声を漏らす。息使いも自然と荒くなり、肩で息をしている様な有様だった。何とか這いつくばって、ベッドのところまで戻ってきたところで、突然部屋のドアが開いたかと思うと、礼司が入って来た。

 「よう。かなり辛そうだな。」

 武士はうんざりとした口調で、「……やっぱり、来た……。」と、弱々しく呟く。

 「あれれ?お前何で自由になっているのかな?患者さんはちゃんと寝ていて下さいよ。」

 礼司はそう言って、薄ら笑いを浮かべながら、武士をベッドに拘束する。

 「鬼や、この人……。」

 今の武士はそう言うのが精一杯で、されるがまま全く抵抗出来ない。せめて礼司を睨みつけようとしたが、呻きながら苦悶の表情を浮かべただけだった。

 「いいねぇ、いい顔をしているよ、武士。」

 礼司は舌なめずりをせんばかりの口調で、そう言ってくる。

 「……この、変態……野郎!」

 必死で罵るが、ほとんど声にならなかった。その様子が礼司にとっては堪らなく楽しいらしく、口元をニヤつかせながら、

 「女がイクところと、男が苦しむところを見るのは良いねぇ……サイコーだ。」

 「……。」

 この男を楽しませていると思うとゾッとするが、武士にはこの苦痛に対して、歯を食いしばり耐えることしか出来なかった。ただ……確かにヤマギシの言った通り、正気を失わなかったということは、ある程度中和剤が効いているということなのか……?と、痛む頭で考える。

 「武士……お前、九年前ならもっと泣き叫んだりして、可愛げがあったのになぁ……。」

 その様子を見ていた礼司は、つまらなさそうに言う。

 (あんたに鍛えられたんや!)

 心の中でそう叫ぶ。自分にとっては、思い出したくも無い様なことばかりだったが。

 「それにしてもお前、何で正気なんだ?」

 武士はギクッとしたが、なるべく平静を保ちつつ、「さぁ……?」とだけ答える。

 「ちょっとクスリの量が足りなかったか……。もう一回打っておくか?」

 それだけは何としても勘弁してもらいたい。武士は首を振って「やめてくれ……。」と弱々しく呟いた。それを見た礼司は、ニヤつきながら、

 「やめて下さい、お願いします、だろ?」

 彼の、完全に面白がっている表情が目に入り、気が滅入る。ただでさえ身体がしんどくてたまらないのに、この男の相手もしなければならないのは、拷問に近かった。だが、仕方なく、

 「……やめて、下さい!お願い、します……。」

 やっとの思いで、途切れ途切れにそう答えた。すると、礼司は、

 「いいねぇ武士、ゾクゾクするよ。」

 顔を近付け、そう言ってくる。

 (アカン、この人めっちゃ面倒くさい……。)

 早く目の前から立ち去ってくれ!と、ひたすら藁にも縋る思いで祈っていたが、願いも虚しく、椅子を持ってきて座り、ベッドの前に陣取った。そして、

 「兄さんが診てあげるから、安心しな。」

 薄ら笑いを浮かべながら、そう言ってくる。武士は喉が焼け付く様な感覚を覚え、

 「水を……下さい……。」

 そう言ったものの、一筋縄ではいかないだろうなぁと思っていると、案の定、

 「え……?何?何だって?」

 耳に手を当てて聞いてくる。

 (おっさん、齢いくつやねん……ええ加減にせえよ!)

 心の中で罵倒しつつも、諦めて仕方なく、

 「水……下さい!」

 そう言うだけで、嘘みたいに息切れがした。すると礼司は、

 「よし、わかった。口移しが良いかな~?」

 と、ものすごく嬉しそうな顔をして、言ってくる。逆に武士はものすごく嫌そうな顔をして、

 (誰でも良いから、早う助けて……!)

 心の中で叫ぶ。すると願いが届いたのか、先程の女性研究員が様子を見に、部屋に戻ってきた。

 「如何です?大丈夫……ですか?」

 そう声を掛けてきたものの、礼司を見て顔が強張る。そして、武士が口を開くよりも先に、

 「俺がついているから、大丈夫だ。」

 と、礼司が女性研究員に向かって声を掛けた。武士は、激しい頭痛がするのを何とか堪えて、必死の形相でイヤイヤする様に首を振ったから、何か只ならぬものを感じ取ってくれた様だったが、どうやら相手が悪かったらしく、彼女は「そうですか……。」とだけ言って立ち去ってしまった。武士は、打ちひしがれながら、女の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。

 「また二人きりになったな、武士。」

 礼司はニヤつきながらそう言って、眼に残忍な光を宿らせる。

 (アカン……兄さんを追っ払う、ええ方法が思いつかへん……。)

 彼は暗澹とした気持ちになった。このまま居すわられると、体力的にも精神的にも参ってしまう……。しかし、意外とあっさり水は飲ませてくれた。武士がちょっとだけ安堵の表情を浮かべたのに気付いたのか、

 「そう言えば、あの子……真弓ちゃんって言ったか?」

 と、話を振ってきた。武士は顔を引きつらせる。まだ何か企んでいるのかも知れない……そう思って身構えていると、

 「お前ら、どこまでいってるんだ?」

 「ぶっ!」

 思わず飲んでいた水を吹き出した。

 「うわっ!汚ったないなぁ、お前……。」

 礼司は不平を洩らしつつ、濡れたところを手で払う。

 「げほっ、何で……そないな、げほっ、話に……なるねんな……?」

 武士は尚もむせながら、苦しそうにそう答える。

 「ええ!?まさか何も無いのに、お前、命がけで守っていたのか?」

 礼司はものすごく意外そうな顔をしながら、そう言ってくる。

 「あの後、『村山んとこの若いのが邪魔して来て……どうしてくれる!?』って文句を言われて、色々大変だったんだぜ?辻褄合わせがなかなか難しくて、上がカンカンになっているってな。俺もお前とあの子が知り合いだとか、その時は知らなかったし……。」

 例の高速での銃撃戦のことを言っているのだろう。そのことで礼司は責任を取らされたのだろうが、まぁそれはお互い様だ、と武士は思った。

 「お前、昔からカタギの女にしか興味がなかったけど、今度は子供かよ!?ってビックリしたんだけれどな。」

 礼司は、まるで鼻で笑うかの様にそう言ってくる。

 (……そう言うアンタは変態やんか。)

 武士は心の中で突っ込みを入れる。

 「そうか……何もないのに守れるって、お前、すごいな。」

 礼司に感心されるのは、初めてと言ってもいい程珍しいことだが、別に嬉しくとも何ともなかった。それと同時に、礼司が次に何を言おうとしているのかを理解する。

 「まぁそれは良いとして、落とし前は付けさせてもらうぜ。俺も今回は責任取って、詰める羽目になったからな。」

 礼司はそう言って、左手を見せる。包帯が巻かれていてよくわからなかったが、おそらく小指の先がなくなっているのであろう。それからナイフを取り出し、お前はどっちにする?という様に左右に振る。

 武士は、それでこいつらと縁が切れるなら、安いものだと思い、「右……」と答えると、礼司は無言で、武士の右手の拘束を解き、台の上に乗せ、小指を切り落とした。

 「……ぐっ!」

 今は体中に鈍痛があるが、それとは別の鋭い痛みが走り、悲鳴を上げそうになったが、何とか堪える。彼の右手付近が血に染まった。

 礼司は武士の小指をつまみ上げ、用意していたとみられる袋に収めた。その後、手の止血をしてやる。止血するのと同時に、点滴用の刺し口から隠し持っていたらしき、容器に入った液体を入れた。武士に気付いた様子は無い。

 「で、カタギに戻ったとして、お前、どうやって生きていくんだ?俺が知っている限りでは、少なくとも二、三人は殺しているだろ?」

 確かに幹部をガード中に、二人は確実に撃ち殺した。武士の銃撃により重傷を負い、その後亡くなったという人間も数に入れると、もっといるかも知れない。最近は、相手に重傷を負わさずに牽制することも出来る様になったが、仕事を始めたばかりの頃の自分は必死で、手加減など全く出来なかったから、どうしようも無かった。

 「……俺も、わからんわ。」

 そうとしか答えようがない。まさか今さら普通の、一般人としての生活は送れないだろう。それは、自分自身が一番良くわかっているつもりだった。

 「ま、がんばれよ。俺もお前を失うのは、結構痛手なんだからな。」

 礼司は口の端を上げる。確かに方法はどうあれ、武士をここまでにしたのは礼司だ。また後身を育てるには時間と労力が必要となるであろうから、その点だけは申し訳なく思った。

 「どちらにしろ、クスリ打たれて禁断症状が出たら、普通に生きていくのは厳しいと思うけどな。」

 礼司は薄ら笑いを浮かべながら、そう言ってくる。

 (やっぱりこの人、イケズやな……。)

 武士は心の中でそう思ったが、黙って目を瞑った。出血のせいか、また睡魔が襲ってくる。意識を失いかけているのかも知れない……自分でもそう思っていると、部屋の入り口から、普段着姿のヤマギシが入ってくる。

 「川藤さん……どうされたのですか?その出血は!大丈夫ですか!?」

 先程の様子を見ていた女性の研究員が、休憩か何かで現場を離れていたヤマギシに連絡を取ってくれたのだろう、かなり慌てて駆けつけてくれた様子だった。

 「じゃあ、俺は退散するとするか。」

 礼司はそれだけ言って、部屋を出て行く。ヤマギシは礼司の方を見ることなく、

 「小指が……。止血はされている様ですが、処置します。」

 そう言って、手際よく手当てを始めた。武士は、消毒の際だけ痛みに顔を歪めたが、意識を保っていられなくなる。何とか礼だけ述べたが、その後、意識が闇に落ちた。

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