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帳簿を見られる人間

奥の戸には、呼び鈴が無かった。


 叩く場所も決まっていない。

 板の真ん中は厚い。端のほうが薄く鳴る。


 薄いほうを二度叩いた。


 昨日、訊きそびれたことが二つある。


 ひとつは、雇うのか雇わないのか。

 もうひとつは、あの段を降りる許しは、どうすれば出るのか。


 二つとも、こちらからは訊きにくい。


 日はまだ出ていない。

 空の端だけが、灰から白に変わりかけている。


 戸が内側から開いた。




 「オルグレン様で」

 「はい」

 「うかがっております。お入りください」


 中は暗かった。

 灯りは奥にひとつだけ点いている。


 通されたのは、昨日の小部屋ではなかった。

 卓が長い。椅子が六脚ある。


 壁の一面が棚で、棚は全部埋まっていた。


 「ヴァレと申します。番頭です」

 「リディア・オルグレンと申します」

 「存じております。会頭から三行だけ聞きました」

 「三行」

 「お名前と年数と、元帳から開くということです」


 五十を過ぎた男だった。

 背は高くない。肩の幅が厚い。


 声が低くて、よく通る。


 「掛けてください。長くなります」

 「どのくらいでしょう」

 「一刻半です」


 この人は、数を添えて話す。


 昨日の会頭は、数を出さなかった。




 「まず、うちの形をお伝えします」

 「うかがいます」

 「会頭がひとり。番頭が二人。帳役ちょうやくが九人。書役が十四人おります」

 「十四人」

 「表に六人。奥に八人です」

 「昨日、表で数えました」

 「六人でしたか」

 「六人でした」


 ヴァレが手を止めた。


 止めただけで、何も言わなかった。


 「帳役は何をなさいます」

 「集めます。書役が書いたものを、勘定ごとに寄せる役です」

 「元帳を立てるのは」

 「帳役です。番頭が検めます」

 「会頭は」

 「検めた先を見ます」


 三段になっている。


 書いて、寄せて、検める。

 うちは三冊とも、わたし一人だった。


 一人で回すのが当たり前だと思っていた。

 当たり前ではなかったらしい。




 「ここからが本題です」


 膝の上で手を重ねた。


 「年に一度、組合の監査が入ります」

 「組合と申しますと」

 「王都商会組合です。加盟しているところへ順に入ります」

 「いつでしょう」

 「締めの済んだあとです」

 「締めは月の末まででしたか」

 「三十日に閉じます」

 「監査は」

 「十二月の四日と聞いております」


 三十日に閉じて、四日に開ける。


 あいだが三日ある。


 「四日に、何をご覧になるのですか」

 「元帳と、証文の控えの数です」

 「数だけですか」

 「合っているかどうかを見ます。中身は見ません」

 「合っていなければ」

 「その年の帳面が通りません」

 「通らないと」

 「加盟が止まります。半年です」


 半年。


 商会の名で為替が振れなくなる。

 振れなければ、荷が動かない。


 表のほうで、戸が開く音がした。

 続けて硬貨の音。三枚ずつ数えている。


 昨日は、この音を聞きながら列に並んでいた。

 今日は、音のこちら側にいる。


 「毎年、通っておいでなのですか」

 「十一年、通しております」

 「十一年」


 同じ数だ。


 こちらの十一年は、誰にも検められなかった。

 あちらの十一年は、毎年検められてきた。


 同じ十一年でも、置き方が違う。




 「それと、覚えていただくことがひとつ」


 ヴァレが立って、棚の前へ行った。

 三つの区画を、左から順に手で示す。


 「なまと、凍結と、償却です」


 左の区画がいちばん厚い。

 右も、それなりにある。


 真ん中だけが薄かった。


 「生は、動いているもの」

 「取り立てて、入って、減っていくものです」

 「凍結は」

 「止めてあるものです。取り立てず、消しもしません」

 「消さずに、置くのですか」

 「置きます」


 筆が止まった。


 消すなら、償却の欄がある。

 取るなら、生の欄がある。


 どちらでもない欄が、なぜ要るのか。


 「どういうときに、そうなさいます」

 「わたくしには分かりません」

 「番頭でも」

 「凍結だけは会頭が決めます。理由は書きません」

 「多いのですか」

 「十年で二つか三つです」


 珍しいものらしい。


 三つとも、書き留めなかった。

 書き留めるほどのことではない。


 うちの掛は、毎月きちんと減っている。

 生の欄のものだ。




 「では、手を見せていただきます」

 「手」

 「書いていただきます」


 ヴァレが棚から一冊抜いた。

 薄い冊子だった。表紙に何も書いていない。


 卓に置いて、こちらへ回す。


 「先月の小口の分です。写しですから汚しても構いません」

 「どこまで」

 「合いません。どこで合わないかを言ってください」

 「いつまでに」

 「わたくしが戻るまでに」


 戸が閉まった。


 灯りを引き寄せた。

 油の匂いが立つ。芯が長い。


 頁を開いた。


 小口が四十二行ある。

 入りが十九、出が二十三。


 まず入りだけを縦に落とした。


 指が滑らかに動く。

 四日ぶりに、指が思ったとおりに動いている。


 昨夜は眠った。

 宿の階段を、今朝は数え直さずに下りた。


 数が止まらなかった。

 止まらないことに気づくのに、少しかかった。




 二度目に落としたとき、差が出た。


 六ソル。


 パンなら二斤買える。

 それだけの額だ。


 少ない。四十二行のうちの六ソルだ。

 見落とされるための額に見える。


 入りの十九行に、六ソルは無い。

 出の二十三行にも無い。


 どの行にも六ソルは無いのに、六ソル足りない。


 行の中には無いということだ。


 なら、行と行のあいだにある。


 合計の行へ戻った。

 繰越の欄を指で押さえて、上の頁をめくった。


 先月の締めの残高が、六ソル違う。


 こちらの頁が写し違えている。

 いや、逆だ。


 上の頁のほうが、後から直してある。

 直した数だけが、下へ降りてきていない。


 戸が開いた。




 「いかがです」

 「合いません」

 「どこで」

 「行では合いません。繰越で六ソル欠けております」

 「繰越」

 「先の頁を直した分が、こちらへ降りておりません」

 「直したとは」

 「上の頁の九の字に、あとから筆が入っております。墨の色が違いますので」


 ヴァレが冊子を引き寄せた。


 頁をめくって、上の頁を見た。

 それから、こちらを見た。


 「どのくらい掛かりましたか」

 「存じません。数えておりませんでした」

 「灯りの芯がこれだけ減っております」


 男が芯を指した。


 言われて、はじめて減っていることに気づいた。


 「短いほうですか」

 「短いほうです」


 それだけ言って、ヴァレは冊子を閉じた。

 褒めもしなかったし、書きつけもしなかった。


 こちらも、そのほうがよかった。




 「条件を申し上げます。二つあります」

 「二つ」

 「通いか、住み込みかです」


 紙を出して、こちらへ向けた。

 二列に分けて、数字が書いてある。


 「通いは日に二リーヴル。月に二十六日出ていただいて、五十二です」

 「借間は」

 「ご自分で。商会街の裏で五、炭が二」

 「食事は」

 「ご自分で。おおよそ十五とお考えください」

 「九で足ります」

 「……九で」

 「四日かけて、そう組んで参りました」


 ヴァレが紙の余白に九と書いた。

 書いてから、こちらの数で引き直した。


 「では、残りは三十六」

 「三十六です」


 指で押さえた。

 もう一列のほうへ移す。


 「住み込みは日に一リーヴル。月に二十六」

 「半分ですね」

 「部屋と、朝と夕の二食が付きます」

 「炭は」

 「部屋ごとに出ます。冬のあいだは商会持ちです」


 紙の上に、二十六と三十六が並んでいる。


 差は十リーヴルだ。

 十リーヴルなら、通いのほうが多い。


 多いほうを取らない理由が、ひとつだけある。


 「帳面は、外へ持ち出せますか」

 「持ち出せません。一頁もです」

 「では、住み込みでお願いします」


 ヴァレが顔を上げた。


 「理由を伺っても」

 「夜に開けますので」

 「十リーヴル、少なくなりますが」

 「十リーヴルでは、夜は買えません」


 男は少し黙った。


 黙ってから、紙の左の列に線を引いた。

 引いただけで、何も言わなかった。




 二十六リーヴル。


 朔日に十八を納めても、八残る。

 部屋も、食事も、そこから出ていかない。


 持参金に手を付けずに、朔日が来る。


 十一年で、はじめてだ。


 六百十八は、六百十八のままで越える。


 指を折らずに済んだ。

 折る前に、答えが出ていた。




 「もうひとつ、申し上げておきます」


 ヴァレが紙を裏返した。


 「これは試用です」

 「存じております」

 「締めまでの十六日で、使えるかどうかを決めます」

 「十六日」

 「二度目はありません」


 二度目はない。


 言われ方が、ずいぶん静かだった。

 脅すつもりで言っていない。数を告げただけだ。


 こちらも、そのほうが分かりやすい。


 「うかがいました」

 「何かお訊きになりますか」

 「ひとつだけ」

 「どうぞ」

 「地下の書庫は、どなたが降りられますか」


 ヴァレの手が、紙の端で止まった。


 「番頭は降ります」

 「わたしは」

 「帳役になってからです」

 「帳役には、いつ」

 「試用が明けて、一年です」

 「ほかに道はございませんか」

 「会頭の許しがあれば、明日でも降ります」

 「許しは、どうすれば出ますか」

 「わたくしは一度も見たことがありません」


 一年のほうが、まだ数えられる。


 朔日が十二回、来るということだ。


 「うかがいました」

 「ほかには」

 「ございません」


 訊きそびれた二つのうち、片方は片づいた。

 もう片方は、片づかないと分かった。


 分かっただけでも、勘定にはなる。




 広間を抜けて、奥の段へ向かった。


 卓のあいだに、昨日の背が見えた。

 書役と話している。


 こちらを見た。

 見てから、また書役のほうを向いた。


 近づいても来なかったし、呼びもしなかった。


 用があるなら、番頭を通す。

 そういう建物なのだろう。




 部屋は三階だった。


 段は二十二。踊り場で二つに折れている。

 途中で数が飛ぶ造りにはなっていない。


 廊下の突き当たりから二つ目の戸だった。


 開けると、卓ひとつ。椅子ひとつ。窓は無い。


 寝台は壁に据え付けてある。

 動かせないものは、勘定に入れなくていい。


 ヴァレが戸口で足を止めた。


 「鍵です」

 「頂戴します」

 「無くされたときは、その日のうちに」

 「その日のうちに」

 「輪はご自分でお付けください。うちでは出しておりません」


 受け取った。


 一本だった。

 金物は薄い。歯が三つしかない。


 冷たさは、腰に下げていたものと同じだった。


 十八本は、どれも人のための鍵だった。

 開けてやるための鍵だ。


 この一本は、内から掛かる。


 十一年、内から掛けたことがない。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第二部「商会編」がはじまりました。ここから十五話、この人は王都で働きます。


 番頭のヴァレは、書きはじめてから口調が決まった人です。最初は会頭と同じように制度の言葉で話させていたのですが、それだと二人が似てしまう。数を添えて話す男にしたら、途端に動きました。「一刻半です」と最初に言わせた時点で、この人は時間を数で持っている人だと分かりました。リディアと同じ側の人間です。だから彼女の手を褒めません。褒める代わりに、灯りの芯が減った長さで測ります。


 小口の六ソルは、行の中ではなく行と行のあいだにありました。この形の穴が好きで、書いていて楽しかったです。上の頁を直した人が、下へ降ろすのを忘れただけの話なので、誰も悪くありません。誰も悪くない穴のほうが、見つけたときに気持ちがいいと思っています。


 条件の場面で、彼女は月に十リーヴル損するほうを選びます。夜に帳面を開きたいからです。この選択がのちのち効いてきます。効きすぎるくらいに効きます。


 次話、締めが明けます。監査まで三日です。


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