三日
十一月の三十日は、音のしない日だった。
硬貨を数える音がない。
窓口が閉まっているからだ。
帳場の物音だけが、いつもより高いところで鳴っている。
十六日が、今日で終わる。
わたしの試用も、今日で終わる。
朝から二度、ヴァレの部屋の前を通った。
二度とも、戸は閉まっていた。
二度目に、廊下で書役とすれ違った。
「本日は窓口が閉まっております」
「聞いております」
「お仕事は」
「番頭さんに呼ばれるのを待っております」
「……今日で十六日でございますね」
「はい」
「いえ。数えていたわけでは」
言い方に、続きがあった。
続きは言わずに行ってしまった。
昼を過ぎて、呼ばれた。
卓の上に、束が三つ載っている。
どれも同じ高さに揃えてあった。
「締まりました」
「おめでとうございます」
「締まっただけです」
「……合わなかったのですね」
「合いません」
ヴァレは腰を下ろさなかった。
「元帳の勘定が、四百七十一あります」
「はい」
「証文の控えが、四百七十枚です」
「商会のほうの控えでございますね」
「うちの分です。借りた側の手元にあるものは、数えません」
一つ足りない。
指が動いた。動いてから、動かした覚えがないことに気づいた。
「数え違いでは」
「三人で三度数えました」
「三度とも」
「三度とも四百七十です」
束の紙は、上から見ると全部同じに見える。
厚みで数えられる高さではない。
「いつからそうなっておいでですか」
「分かりません」
「去年は」
「去年は合っております」
去年は合った。今年は合わない。
あいだの一年に、一つある。
「数えたのは、どなたです」
「帳役が三人です」
「三人とも別々に」
「別々に、三度です」
「束の割り方は」
「年ごとに縛ってございます」
「では、年ごとの数はお持ちですか」
ヴァレが口を開いて、閉じた。
「……持っておりません」
「総数だけを」
「総数だけを、三度です」
総数は三度合った。
三度とも、同じところを通っただけかもしれない。
「年ごとに割ったものを、いただけますか」
「今日中に揃えます」
「四日に、組合が参ります」
「存じております」
「合わないまま出せば、通りません」
「通らなかった商会は、どうなりますか」
「去年、一つございました。よそです」
「半年、止まりましたか」
「止まりました」
「今は」
「夏に畳んでおります」
この人はそれを、九日前にわたしに教えた。
教えたときは、数の話だと思って聞いていた。
戸が開いた。
ヴァレが振り向いて、少し身を引いた。
入ってきたのは会頭だった。
「番頭。数はいくつです」
「四百七十一と、四百七十です」
「四日の朝に、組合が門を入ります」
「承知しております」
会頭がこちらを見た。
「三日あります」
それだけ言った。
どうすればいいとは言わなかった。
誰にやらせるとも言わなかった。
言わないまま、戸のほうへ向いた。
「会頭」
「はい」
「わたしの試用は、今日までと伺っておりました」
会頭は足を止めた。
止めただけで、振り向かなかった。
「四日に決めます」
「では、三日ぶん延びたということでしょうか」
「そうは申しません」
戸が閉まった。
ヴァレが束の一つを、こちらへ滑らせた。
「灯りは好きなだけ焚いてください。油は勘定に入れません」
入れなくていい、と言われたのは初めてだ。
夕方に、束が運ばれてきた。
運んできたのは背の高い若い男だった。
十二の山に分けて、縄をかけ直してある。
「年ごとにいたしました」
「ありがとうございます」
「番頭さんのお指図です」
「助かります」
「……総数は四百七十でございます」
「うかがっております」
「三度、数えました」
「番頭さんから聞きました」
「四度目を数えましょうか」
「いえ。四度目は要りません」
男は山の高さを手で撫でて、それから戻っていった。
撫でて減るものではない。
束を部屋へは持って上がれない。
一頁も外へ出せないというのは、そういうことだった。
帳場の隅を借りた。
窓が無いので、外が暗くなったのが分からない。
書役が帰るときに、上着を取る音でそれと知れる。
最後の一人が戸を閉めた。
音が消えて、耳の奥が少し痛くなった。
静かというのは、無いことではなく、あることらしい。
まず、束のほうを数えなかった。
三人が三度数えたものを、四度目に数えても同じ数が出る。
足りないのは束ではない。
足りているはずの勘定のほうに、余りがある。
元帳を開いた。
四百七十一の勘定を、年ごとに割った。
千百三年から千百十四年まで、十二の山ができる。
山ごとに、控えの束も割る。
合わない山が一つあれば、そこだけ見ればいい。
二刻かかった。
千百七年の山だけが、一つ多かった。
千百七年の控えは、三十九枚あった。
勘定は四十ある。
三十九枚を一枚ずつ開いた。
その三つが揃っていない紙は、紙ではない。
九日前にそう言われたばかりだ。
三十九枚とも、三つ揃っている。
揃っているのに、一つ足りない。
灯りの芯を切った。
少ししてから、また切った。一度目のことは頭に無かった。
朔日になっていた。
窓が無いので、書役が入ってくる音で知った。
硬貨の音が始まる。三枚ずつ数える音だ。
段を降りて、表の窓口に並んだ。
「オルグレン伯爵家の掛です」
書役が顔を上げた。
上げてから、少し迷った顔をした。
「……こちらでお働きの方でしたね」
「今日は、納めるほうで参りました」
「奥からでもお受けできますが」
「表で結構です」
「左様で」
奥から納めれば、列に並ばずに済む。
三日のうちの、いくらかは浮く。
けれど十一年、表から納めてきた。
今月だけ裏から入る理由が、わたしには無い。
「十八リーヴルを」
銀貨を出した。
書役が三枚ずつ数えて、秤に載せた。
受領証が一枚出てきた。
「頂戴します」
「……こちらへは、あとどれくらいお納めになります」
「分かりません」
「分からない」
「年が明ければ、分かるそうです」
「そういうものでございましょうか」
「そういうものだと、うかがっております」
要るものは三つとも揃っている。
十一年、一度も欠けたことがない。
百三十三枚目になる。
懐にしまって、また段を上がった。
四半刻もかかっていない。
三日のうちの四半刻を、そこに使った。
惜しいとは思わなかった。
月の初めに納める。それだけは、十一年動かしていない。
二日目の朝、帳役の一人が隅まで来た。
背の高い、若い男だった。
束の前で足を止めて、それからこちらを見た。
「あなたが数え直しておいでだと聞きました」
「束は数えておりません」
「では、何を」
「勘定のほうを」
「勘定は元帳にございます。動きません」
「動かないほうを割っております」
男が束に手を置いた。
すぐに離した。触れた覚えのない手つきだった。
「三度数えました。三人でです」
「うかがいました」
「わたしの数え違いだと、そう」
「違いません」
男の肩が下りた。
「四百七十で、合っております」
「では、どこが」
「束の外です」
男は少し黙った。
「……束の外というのは」
「まだ分かりません」
「分からないのに、外だと」
「中を三度数えて出てこないものは、中にはありません」
「では、何をお探しです」
「紙を」
「紙が束でございましょう」
「束は紙の数です。わたしが数えたいのは、債務の数です」
「同じものです」
「同じなら、合っております」
「……四百七十一と、四百七十でございます」
「はい」
男は何も言わずに戻っていった。
怒らせたかもしれない。
説明はできる。けれど説明している時が無い。
二日目に、墨が切れた。
書役に頼んだら、奥から新しいのを出してくれた。
「まだやっておいでですか」
「やっております」
「番頭さんが、無理はさせるなと」
「無理はしておりません」
「朝も夕も、下りておいでになりません」
「手が離せませんでした」
「厨に言うて、上へ運ばせましょうか」
「けっこうです」
書役は動かなかった。
「二日でございます」
「……いただきます」
「何をお持ちしましょう」
「なんでも」
「なんでもというのが、いちばん困ります」
「……では、温かいものを」
嘘ではなかった。
無理というのは、できないことをすることだ。
これはできる。時が足りないだけで、できないのではない。
右の親指の付け根が、握った形のまま固まっている。
十一月の六日にも、同じところが固まった。
あのときは一晩だった。
夜に、ヴァレが一度だけ降りてきた。
束には触らなかった。
卓の端に手を置いて、山の並びだけを見た。
「どのあたりです」
「千百七年です」
「十二の山のうちの一つに絞られたと」
「四十の勘定に、三十九枚です」
「三十九枚は」
「二度開きました」
「三度目をお開きになる」
「開きます」
「同じ順で」
「順を変えます」
ヴァレが山から目を上げた。
「あと二日です」
「存じております」
「間に合わなかった場合を、伺ってもよろしいですか」
「合わないまま出します」
「通りません」
「通りません」
「では」
「半年、荷が動きません。それだけです」
それだけ、と言える人ではない。
言える人は、夜中に降りてこない。
戻りかけて、戸のところで止まった。
「……油は、まだございます」
それだけ言って、上がっていった。
三十九枚を、もう一度開いた。
同じ順で開くと、同じところを見る。
順を変えた。日付の順から、額の大きい順に並べ替えた。
二十三枚目で手が止まった。
止まった理由が、すぐには出てこない。
その紙だけ、ほかより少し重かった。
厚いのではない。重いのだ。
指の腹に載せると、隣の紙より下がる。
裏を返した。
書いてある。
裏に、もう一枚分が書いてある。
日付。額。立会人の名。
三つとも揃って、表とは別の借主の名で書いてある。
紙が足りなかったのだろう。
千百七年は、こちらの秋も不作だったと聞いている。
一枚の紙に、二つの債務が載っている。
数える者は紙を数えた。
紙は三十九枚だから、三十九と数えた。
誰も裏を見なかった。
七年、誰も。
卓に置いて、しばらく見ていた。
これで四百七十一になる。
元帳と合う。
合ったのに、椅子から立てなかった。
三度数え直した。
一度目は四百七十一。二度目は四百七十。三度目は四百七十二。
三度とも違う数が出た。
止まるのではない。飛ぶのでもない。
数えるたびに、別の数が出てくる。
こうなったのは初めてだ。
目を閉じて、十まで数えた。
十まで行けた。
開けて、四度目を数えた。四百七十一だった。
紙を裏返しのまま、卓の真ん中へ置いた。
戸が開いたのは、朝の前だった。
会頭が立っていた。
外套を着ていない。上から降りてきた人の格好だ。
「まだですか」
「終わりました」
「間に合ったということですか」
「一枚に、二つ載っておりました」
会頭が卓のそばまで来た。
紙を取って、裏を見た。
それから表を見て、また裏を見た。
二度目の裏のほうが、長かった。
「番頭を起こします」
「はい」
言ってから、会頭は動かなかった。
紙を置いて、指で端を揃えた。
揃える必要のない紙だった。
「よく見つけましたね」
息を吸った。
吸って、そのまま止まった。
返す言葉が出てこない。
褒められたときの返し方を、持っていない。
持っていないものは、出てこない。
「……そういうことは、初めて言われました」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
会頭は何も足さなかった。
立派だとも、助かったとも言わなかった。
ただ、少しだけこちらを見ていた。
見られている、という感じがしなかった。
もっと前から見ていた人が、今日はじめて顔を上げた——そういう間だった。
「番頭を起こします」
二度目だった。
同じことを二度言う人ではない。
部屋に戻ったのは、日が上がってからだ。
段は二十二。数えずに上がった。
卓ひとつ。椅子ひとつ。窓は無い。
懐から手帖を出した。
百三十二行がある。
その下に、栗の二ソルがある。
もう一行、下がある。今朝の十八リーヴル。
筆を持って、その次の行に日付だけを書いた。
十二月三日。
額を書く欄に、何も書かなかった。
書くものが無い。
入った額ではないし、出た額でもない。
番号も振らなかった。
十一年、書いた行には全部番号がある。
一から百三十二まで、飛んでいるところは一つも無い。
この行だけ、何番目か分からない。
番号のある行と、無い行と。
同じ帳面に並べて書いていいものではない。
それでも、消さなかった。
番号の無い行が、一つ増えた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は「家族が十一年見なかったものを、他人が三日で見る回」です。第二話で彼女が手帖に百三十二と書いたとき、屋敷の誰もそれを開きませんでした。今回は開かれます。開いたのが家族ではないというところだけが、この作品の意地の悪いところだと思っています。
裏に書いてある一枚は、書いているうちに出てきました。最初は別の穴を用意していたのですが、どうにも作り物めいてしまって捨てました。紙が足りなくて裏に書いた、誰も裏を見なかった、それで七年通ってしまった——という形にしたら、急に息をしはじめました。数える者は紙を数えます。中身は数えません。この作品はずっとその話をしています。
「よく見つけましたね」は、短くすることだけを考えて書きました。前に何も置かず、後ろにも何も足していません。会頭に感想を述べさせると、途端に安くなると思ったからです。彼女のほうも、褒められた経験が無いので受け取れません。「そういうことは、初めて言われました」と言ってしまってから、余計なことを言ったと本人が思っています。喜ばせない解放にしたかったので、そうしました。
最後の行に番号を振らなかったのは、彼女が何番目か分からなかったからです。十一年、番号の飛んだ行は一つもありませんでした。
次話、彼女は自分の勘定を組みます。他人の穴は三日で見つかるのに、自分の欄だけがどうしても埋まりません。
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