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自分の勘定

十二月四日の朝は、足音の数が違った。


 いつもの書役の足音に、聞いたことのない足音が三つ混じっていた。

 表の戸を、重い沓の音が通った。


 窓口の外に、荷馬車が一台停まっていた。

 組合の紋が入っている。


 組合の使者は、三人だった。

 数えるまでもなく、戸の前に立てば分かった。




 「組合の方々です」


 ヴァレの声が、廊下の向こうから聞こえた。


 「今日ですね」

 「今日です」

 「何を検めます」

 「元帳と、控えの数だけです」

 「中身は」

 「見ません。いつもどおりです」


 いつもどおりと言うわりに、声が低かった。




 午前のあいだ、机を動かなかった。


 小口の写しを三冊、頼まれた分だけ進めた。

 筆は止まらなかった。


 廊下を人が行き来する音がする。

 声までは聞こえない。


 数えても仕方のない足音を、何度か数えてしまった。




 廊下で、あの帳役に会った。


 千百七年の束を運んできた、背の高い男だった。


 「合いましたか」

 「合いました」

 「あの一枚のおかげですね」

 「おかげ、というほどでは」

 「わたしが数えても、出てきませんでした」

 「同じものを見ていても、出てくる人と出てこない人がおります」

 「……差はなんです」

 「分かりません」


 男は、少し笑って行ってしまった。




 昼を過ぎて、ヴァレが来た。


 「通りました」

 「四百七十一で」

 「四百七十一で、揃いました」


 肩から力が抜けた。抜けたと分かるまで、少し間があった。


 「試用は」

 「今日で終わりです」

 「終わりまして」

 「使えると決まりました」


 「加盟は」

 「今年も止まりません」

 「去年、止まったところは」

 「まだ畳んだままです」


 「お給金は」

 「来月から、二十六のままです」

 「変わりませんか」

 「変わりません」


 朔日に十八を納めて、八が残る。

 家を出たときの持参金には、まだ触れていない。


 六百十八リーヴル。

 三千あったうちの、残りだ。


 十一年で二千三百七十六を納めた。

 残りの六は、道で使った。


 「地下の書庫は」

 「まだです」

 「一年でしょうか」

 「一年です」

 「会頭の許しは」

 「まだ、いただいておりません」


 あと何回で終わるのか。

 十一年で十二度訊いて、十二度とも返っていない。


 原本を見れば分かる。

 原本のある場所には、まだ降りられない。


 ヴァレが、十二月の割り当てを寄越した。


 「年明けまでは、控えの整理を」

 「照会も、そのときに」

 「そのときにです」

 「かしこまりました」


 紙の束が、また増えた。

 増えた分だけ、机に居る時間も増える。


 戸口に、会頭が立っていた。


 「番頭から聞きました」

 「はい」

 「片づいてよかった」


 それだけ言って、下がった。


 夕方、組合の馬車が戸口を出た。

 紋の入った幌が、角を曲がって見えなくなった。


 それで、十二月四日が終わった。




 十二月に入って、王都の川面に薄氷が張った。


 締めのあとの仕事は、地味だった。

 年明けの照会に備え、控えを整える。

 千百七年の束も、裏まで検め直す仕事に回された。


 指は、迷わず動いた。

 三日前のような乱れは、もう無い。


 書役たちは、朝は机の下で手を擦り合わせてから筆を持つ。

 こちらは、擦らずに持った。


 指先が固くて、最初の一行だけ字が歪んだ。


 部屋の炭は、商会が運んでくれる。

 十一年、自分で割っていた炭とは、匂いが違う。


 ハンナから借りた外套は、戸の内側の釘に掛けてある。

 掛け場所は、来た日に決めた。




 王都へ来て、一月が過ぎた。


 あのとき組んだ内訳を、もう一度並べてみる。


 借間五、炭二、食九、雑二。合わせて十八。


 住み込みになって、借間と食と炭は要らなくなった。

 雑の二だけが、まだ生きている。


 糸、灯り、繕い。

 行き先のある二リーヴルだった。




 月々の給金は、月末に渡される。


 二十六枚。数えて確かめた。

 二十枚と六枚に分けて、革の小袋へ入れた。


 十八は、朔日のために。

 八は、繰越のために。


 置き場は、二つとも決まっている。


 前の晩、手帖の余白にも、その月の勘定を並べた。


 二十六から十八を引いて、八。

 八が、四日分と十日分で重なって、少し増えている。


 増えた分に、行き先を書いていない。


 繰越、とだけ書いて、次の頁へ送った。

 繰越で送った月が、もう二度目だった。




 書役の朝の仕事に、市への使いが増えた。

 ヴァレに頼まれて、封蝋とインクを買いに出た。


 文具を商う店で、二つを求めた。


 「封蝋、お使いは商会さんで」

 「はい」

 「では四ソルで」

 「インクは」

 「六ソルです。没食子の、上等のほうで」

 「それで結構です」


 値を払って、包みを受け取った。

 迷うところが、どこにも無かった。




 市は、十一月よりも混んでいた。

 冬支度の品が、通りいっぱいに並んでいる。


 薪、干し豆、毛織、蝋燭。

 値を呼ぶ声が、そこかしこで重なっている。


 息が、白く尾を引いて消える。


 毛織の襟巻きは、十二ソルだった。

 銀の匙は、この市には無かった。


 市の入り口で、名を呼ばれた。


 「リディアさん」


 振り向くと、マノンがいた。


 「マノンさん」

 「まあ、瘦せてないじゃない。安心したわ」

 「働いております」

 「知ってるわよ。冬はこっちで縫い物をするの。毎年よ」


 外套の襟に、針が何本か挿してある。

 仕事の途中で抜けてきたらしい。


 「あの帳付けの口、決まったの」

 「決まりました。商会で働いております」

 「よかったじゃない」

 「はい」

 「続きそうなの」

 「続きそうです」

 「よかった。行き先も決めずに出てきた人だもの」

 「決めておりませんでした」

 「決まったのなら、それがいちばんよ」

 「宿は」

 「住み込みです。部屋と食事が付きます」

 「賢いこと」

 「あなたは」

 「相変わらずよ。今年は先の宿がもう決まってて楽なの」

 「毎年、同じ宿へ」

 「同じ女将のところ。仕事も早く決まったわ」

 「春には、領地へ戻られますか」

 「毎年そうよ。雪解けと一緒に」

 「縫い物は、足りておりますか」

 「冬は仕立て直しが多いの。襟巻きとか、外套の裏地とか」

 「パンの値は、変わりましたか」

 「据え置きよ、まだ。塩は上がったって聞いたけど」

 「北ではもう上がっております」

 「こっちは、年明けかしらね」


 マノンがこちらの手を見た。


 「その手、どうしたの」

 「墨が、よく乾きませんので」

 「荒れてるじゃない」

 「慣れております」

 「手袋は」

 「持っておりません」




 途中、栗売りの声がした。


 「姉さん、また買っておくれよ」


 覚えられていたらしい。


 二ソルを出した。

 袋を受け取って、歩きながら剥いた。


 これは書ける。

 先月も、同じ額で買っている。




 連れて行かれたのは、毛糸を商う店だった。


 灰色の手袋が、五、六双、棚に並んでいる。

 どれも同じ編み方だった。


 「それは八ソルだよ」


 店主が言った。


 八ソルなら、安い。

 今月の残りは八リーヴル、百六十ソルある。

 買えない額ではない。


 手に取って、また置いた。


 「なんで置くのよ」

 「間に合っております」

 「間に合ってないでしょう、その手」

 「他に入り用がございますので」

 「何に」


 答えかけたところで、近くで荷車が傾いだ。


 積んだ薪が崩れて、二つ三つ転がった。

 人が寄って、片づける声が上がる。


 そのあいだ、マノンはこちらを見ていた。


 「危ないところでしたね」

 「怪我人は」

 「無いみたい」


 「それで、何に要るの」

 「決めておりません」

 「決めてないのに、後回しにするの」

 「……そうなるかもしれません」




 マノンが先に、店主へ銅貨を置いた。


 「マノンさん」

 「いいのよ、これは」

 「お返しします」

 「返さなくて、いいの」


 「八ソルです。お返しできます」

 「そういうことじゃないの」


 店主が、ちょっと困った顔をした。


 「……お客さん同士で、決めてくださいな」


 マノンが手袋を、こちらの手に押しつけた。


 「他人のことばっかり、数えてるでしょう」

 「……」

 「自分の勘定は、いつ数えるの」


 答えが出てこなかった。


 数えられないのではない。

 数える場所を、持っていない。


 八ソルだけが、宙に浮いたままだった。


 「お茶でも誘いたいけど、今日は仕事に戻らないと」

 「わたしも、使いの途中です」

 「じゃあ、また」

 「はい」


 マノンは、笑って市の奥へ消えていった。




 封蝋とインクは、ちゃんと買えた。


 四ソルと、六ソル。

 値も、店の名も、すぐに言える。


 手袋の値だけ、頭の中で行き場がなかった。




 商会へ戻る廊下で、会頭と行き合った。


 目が、手袋のほうへ一度だけ動いた。


 「その手袋」

 「頂き物です」

 「そうですか」


 擦れ違った。

 振り向かなかった。




 ヴァレに、包みを渡した。


 「封蝋とインクです」

 「ありがとうございます。おいくらでした」

 「四ソルと、六ソルです」

 「帳面へ」

 「もう控えてございます」


 ヴァレが小さく頷いた。


 用事は、そこで終わった。




 部屋に戻って、手帖を開いた。


 封蝋。インク。手袋。


 封蝋、四ソル。

 インク、六ソル。

 どちらも書けた。


 次の行に、十二月十日とだけ書いた。


 手袋、と書きかけて、止めた。


 値なら言える。八ソルだ。棚に出ていた。


 分からないのは額ではない。

 入りに書くのか、出に書くのかが分からない。


 出ではない。わたしの手からは一ソルも出ていない。

 入りでもない。入ってきたのは、額のつくものではなかった。


 繰越の隣に書こうとして、やめた。

 繰越ではない。


 欄を、空けたまま閉じた。




 廊下の物音が絶えて、夜だと知れた。


 この部屋に、抽斗ひきだしは無い。

 卓と、寝台と、椅子だけだ。


 卓の上に、手帖とインクと、封蝋の余りを並べた。


 手袋は、どこにも寄せなかった。


 しばらくして、部屋の匂いが変わっているのに気づいた。


 毛糸は、インクにも封蝋にも似ていない。


 似ていないものが、この部屋に一つ入った。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話でようやく試用が明けます。数字の上では、彼女の暮らしはうまく回りはじめました。月に八リーヴル残り、持参金にも触れずに済む。数字だけ見れば、悪くない話です。


 今回はマノンを再登場させました。七話まで名前だけ出ていた縫子です。冬のあいだ王都へ出てくる人なので、市で会わせるのは自然だろうと思いました。彼女はリディアの事情を何も知りません。ただ、手袋を持っていないことだけに気づきます。


 手袋の値は言えます。八ソルだと棚に出ていました。書けなかったのは額が分からないからではなく、入りと出のどちらに置くかが分からなかったからです。彼女の帳面には、その二つしか欄がありません。自分のために増えたものを置く場所を、この人はまだ持っていません。


 次話、彼女の記録の癖に、はじめて誰かが気づきます。


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