手帖
十二月三十日まで、あと九日しかない。
商会の帳場は、朝から人の出入りが多かった。
年の締めが近いと、廊下の足音まで速くなる。
窓の外は根雪になっている。
朝、水盤の水が薄く張っていた。
川面の氷は、先月より厚い。
千百七年の束は、裏まで検め終えた。
次の指図を待つあいだ、机の上を片づけた。
廊下で、窓口の書役に会った。
「今日も、忙しそうですね」
「三十日までは、こうです」
「毎年ですか」
「毎年です。慣れても、減りません」
「何が減らないのです」
「書役の足が」
「歩数でお測りですか」
「数えたことは、ございません」
男は笑って、窓口のほうへ戻っていった。
戸口に、番頭のヴァレが立った。
「オルグレン様」
「はい」
「手が空いておいでですか」
「空いております」
「掛けてください」
腰を下ろすと、ヴァレも卓の向かいに座った。
「古い勘定を、年内に洗います」
「古い、と申しますと」
「動きの止まっているものです」
「何年ほど前からでしょう」
「五年ほどです」
「多いのでしょうか」
「十年で、二つか三つです」
少ない、という顔をしなかった。
少なくても、放っておいていい数ではないらしい。
「なぜ、今年のうちにでしょうか」
「年が変われば、五年が六年になります」
「一年で、何か変わりますか」
「変わりません。変わらないことが、よくないのです」
その言い方に、聞き覚えがあった。
二十一日前、番頭が総数だけを三度数えて、年ごとの数を持っていなかったときの声だ。
「そのうちの一つを、オルグレン様にお願いします」
「案件は」
「オルグレン家の分です」
束を、両手で受け取った。
軽い。
十一年が、これだけの目方だった。
表に「オルグレン家」とある。
その名を、他人の書類で見るのは初めてだった。
見慣れているのに、見慣れない字だった。
「何をいたしましょう」
「商会控と元帳の勘定です。残高を出して、書類を揃えてください」
「揃えるとは、何をでしょう」
「残高の写しを三通。日付順に」
「原本は」
「要りません。今回は残高だけです」
「三状態の帳面は」
「別です。番頭以上が持ちます」
「生か、凍結か。あるいは償却か」
「それを決めるのは、わたくしどもの上です」
「わたしには」
「まだです」
「片づくとは、何をもってでしょうか」
「残高を出すところまでです」
「そのあとは」
「番頭以上が決めます」
「わたしの仕事は、そこまでですね」
「そこまでです」
変わらない答えだった。
二十一日前にも、似た形の答えを聞いた。
「年内に、とのことですが」
「三十日までです」
「あと九日です」
「短いですか」
「短くはありません」
「なぜ、わたしに」
「古い束を検めるのに、慣れておいでですから」
それだけだった。
理由に、家名は出てこなかった。
「かしこまりました」
ヴァレが立ち上がった。
束を膝に置いたまま、顔を上げた。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「同じ家の名を、こちらで扱うことになりますが」
「それが何か」
「いえ。何でもございません」
言ってから、余計なことを訊いたと思った。
ヴァレは表情を変えなかった。
「手を止めずに、お願いします」
「止めません」
廊下に出てから、思い出した。
うちの掛は、毎月きちんと納めている。
動きの止まっているものには、見えない。
古い勘定を、まとめて洗う。
その中の一つとして扱われているだけかもしれない。
深くは考えなかった。
千百三年からの控えを探しに、棚の奥へ入った。
若い帳役に会った。
千百七年の束を届けた、あの男だった。
「オルグレン家の控えを」
「これですね」
「早いですね」
「先だってのことがありましたので」
「先だって、とは」
「裏を検める癖が、こちらにも移りました」
男が束を運びながら続けた。
「番頭さんが、古い分から片づけろと」
「わたしもです」
「番頭さんの、同じお指図ですね」
「同じです」
「奇遇でございます」
奇遇ではない。
言わずに、紙束を受け取った。
「利息の欄は、こちらで初めて見ました」
「ベルヌの帳場には、この欄がございませんでした」
「取次では出ません」
「本館だけですか」
「本館だけです。控えには乗せませんので」
「なぜでしょう」
「訊いたことがございません」
男は少し笑って、棚の向こうへ戻っていった。
二日、机を動かなかった。
千百三年から順に、控えと元帳を合わせていく。
千百四年。合っている。
千百五年。狂いがない。
千百六年。同じ。
千百七年だけ、束のほうを二度読み返した。
癖が、まだ抜けていない。
千百八年から千百十二年まで、どこにも欠けが無い。
三日目の朝、ヴァレが様子を見に来た。
「進んでおいでですか」
「千百十三年まで、合っております」
「残りは」
「今年の分だけです」
「今年は、まだ締めておりません」
「締まり次第、加えます」
「急がなくて結構です」
「急いではおりません」
ヴァレが、束の高さを一度見て、頷いた。
十一年ぶんの束は、他の家の三倍あった。
毎月欠かさず納めていた家は、そう多くないらしい。
控えと元帳を並べて、月ごとに突き合わせた。
元本は千八百リーヴル。
月十八の百回で終わる勘定だったと、蔵の帳簿で読んだ覚えがある。
実際は、もう百三十三回入っている。
超えた分は、利息だろうと思っていた。
利息の欄は、こちらの帳面にだけ出ていた。
初めて見る数字だった。数字は、百三十三の払いと綺麗に釣り合っている。
朔日を、一度も外さなかった。
朔日ごとに、十八リーヴルが入っている。
欠けた月を捜すつもりで開いたのに、一つも出てこなかった。
合っている。
うちの掛は、きちんと減っている。
指の強張りが、少しゆるんだ。
安堵という言葉より先に、指がゆるむ。
毛糸の手袋を、卓の脇に置いた。
字を書くには、外さなければならない。
没食子インクを溶いて、裁ち紙を三枚並べた。
書類を、三通ずつ用意する。
債務者の名を書く欄がある。
オルグレンと、十四度書いた。
十五度目、ペン先が意思を持ったように跳ねた。
リ、とだけ余分に乗っていた。
手を止めて、紙を見た。
オルグレン家ではなく、自分の名の頭を書きかけていた。
二重線を引いた。
線の下に、書き直した。
書いた枚数を数えた。
一度目と二度目で、数が違った。
三度目で合った。
消せないのは知っている。
十一年、そう教わってきた。
懐から、自分の手帖を出した。
十一年分、百三十二行。その下に、七行。
今日の数字を、そこへ書き足しかけた。
筆を止めた。
これは、わたしの払いではない。
商会の勘定だ。
行き先を間違えかけたのは、これで二度目だった。
どちらも、今日のことだ。
手帖を閉じて、卓の隅に置いた。
控えを、棚へ返しに行った。
若い帳役がいた。
「終わりましたか」
「残高が出ました」
「早うございますね」
「同じ月を、十一年分見ただけです」
「それだけで、こう早くは参りません」
男が束を受け取って、棚へ戻した。
「お疲れでしょう」
「疲れてはおりません」
「そうですか」
男は、それ以上訊かなかった。
夕方、会頭が顔を出した。
「片づいていますか」
「明日には、揃います」
「早いですね」
「慣れた仕事です」
「番頭から、案件を聞きました」
「オルグレン家の分でございます」
「ご存じの名でしょう」
「はい」
「気が重くはありませんか」
「仕事でございますので」
「そうですか」
そう答えた。
続ける言葉を持っていなかった。
視線が、卓の隅で止まった。
「それは……」
言いさして、止めた。
「……いえ」
会頭が、言いさすのを聞いたのは、初めてだった。
同じことを二度言わない人だと、十八日前に知った。
言い切らないところは、まだ見たことが無かった。
「進み具合は」
「残高は出ました。書類が残っております」
「そうですか」
「うちの帳面は、こちらでお使いください」
言われなくても、そうしている。
わざわざ言うことでもなかった。
短く言って、目を伏せた。
戸口を出ていった。
いつもは、戸口で一度こちらを見てから出ていく。
今日は、見なかった。
言い切らなかった言葉が、机の上に残った気がした。
拾おうとして、拾えなかった。
拾えないものは、記帳できない。
記帳できないものを、放っておく癖が、こちらにもあるらしい。
書類を束に戻した。
オルグレンと書いた表紙も、束の中では他の家と同じ厚さだった。
隣には、聞いたことのない家の名がある。
同じ紐で、同じ強さに結ばれていた。
積み上げれば、上からはどれがどれか分からない。
わたしの家の名前も、その中の一枚になった。
束を、明日の棚へ運んだ。
九日のうち、三日を使った。残りは六日ある。
六日で足りるかは、まだ分からない。
分からないことは、数えても出てこない。
手袋を、また嵌めた。
指の先だけ、まだインクの匂いがした。
三階へ上がって、灯りを点けた。
手帖を出した。
番号のついた行が、百三十三ある。
昼に商会の帳面から出した数と、一つも違わない。
合っている。
番号は、一から順に埋まっている。
指の腹に、墨が残っている。
手帖の字を、上から下まで見た。
十一年ぶんの字が、少しずつ傾いている。
昼に書いたオルグレンは、一枚も傾かなかった。
人の家の名を書く手は、こんなに落ち着くものらしい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、彼女が自分の実家の案件を担当させられる話でした。番頭に悪意はありません。五年動いていない一行が帳面に残っていることが、この人には我慢ならないだけです。何かに気づいたとしても、顔には出ません。訊かないことを礼儀だと思っている人なので。
一箇所だけ「一つだけ、伺ってもよろしいですか」と踏み込みかけて、すぐ引っ込める場面を足しました。あれがあの人の精一杯のつもりです。
書類の名を書き損ねて自分の名の頭文字を書きかけてしまう場面は、今回いちばん書きたかった箇所でした。他人の家の勘定を扱っているつもりでいて、手のほうが先に何かを知っている、という形にしたかったのです。そのあとで枚数を数え直させたのは、いつもの崩れ方に戻しておきたかったからです。
会頭が言いさして止める場面も、彼にしては珍しい失敗のつもりで書きました。彼はいつも言い切る人で、そこが今回だけ崩れます。理由は本人も語りませんし、彼女も深追いしません。
次話、実家から手紙が届きます。彼女は返事を書きません。
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