滞り
十二月三十日。
残高の写しは、三通とも棚へ収まった。
ヴァレが、束の高さを確かめに来た。
「今年のうちに、片づきましたか」
「片づきました」
「オルグレン家の分も」
「残高までは」
「そこまでで、結構です」
「あとは」
「わたくしどもが引き継ぎます」
「早いですね」
「今年のうちにと、言われておりましたので」
「そのとおりです」
「片づいたあとは、どうなりますか」
「残高の動いていない案件には、確認の状を出すことがあります」
「先方へ、ですか」
「今の残高を知らせるだけのものです」
「今年は」
「まとめて出るはずです」
「宛先は、どちらに」
「家名のある先へ、商会から出します」
束を、両手で渡した。
軽さは、前と変わらない。
これで、今年の仕事は終わったはずだった。
棚へ戻る束の背に、オルグレンの文字がまだ見えた。
角度を変えると、見えなくなった。
橋の下の氷は、渡れそうなほど厚くなっている。
書役たちが、口々にそう噂していた。
一月一日。
窓の外は、まだ暗かった。
三階の部屋で一人、年を越した。
鐘の音を、寝床の中で数えた。十二まで、迷わなかった。
本館の表に並ぶ客は、四人だけだった。
いつもの月初めより、ずっと少ない。
窓口で、十八リーヴルを出した。
書役が硬貨を三枚ずつ数え、皿に乗せる。
「新年、最初のお客様です」
「そうですか」
「毎年、一番乗りは同じ方なんですが」
「今年もそうだったでしょうか」
「あなたです」
「毎年、覚えていてくださるのですか」
「帳面に、残っておりますので」
窓口の脇に、柊の枝が一本、飾られていた。
商会も、年越しの支度をするらしい。
受領証を受け取った。
百三十四枚目。
番号は、百三十四。
総額は、二千四百十二リーヴルになる。
元本は千八百だった。とうに超えている。
指で桁を辿って、確かめた。
合っている。
去年と、変わらない。
それだけで、十分だった。
持参金には、今日も触れていない。
六百十八のままだ。
窓口を離れる前に、もう一つ尋ねた。
「残りの回数を伺いたいのですが」
「年が明けてから、とのことでしたね」
「はい」
「今しばらく、お待ちください」
「いつ頃になりますでしょう」
「原本との突き合わせが要りますので、会頭の確認を経ます」
「お時間はかかりますでしょうか」
「案件によります」
原本になら、答えがある。
地下の書庫の話だ。
まだ、降りたことがない。
十三度目だった。
答えが返ってきたためしは、まだ一度もない。
来年も、同じことを尋ねるだろう。
それだけは、決まっている。
夜、手帖に書いた。
一月一日、十八リーヴル。
番号、百三十四。
百四十行目になった。
三が日は、商会も表を閉じていた。
奥では、帳役が数人、いつもどおり机に着いていた。
千百七年の束は、もう棚に戻っている。
次の指図が来るまで、控えの写しを進めた。
昼、書役の一人が塩の値の話をした。
「王都の塩も、とうとう上がりました」
「四リーヴルにでしょうか」
「そうです。北と、同じ値になりました」
「年明けからでしたね」
「そのとおりです」
北の値上がりから、二月遅れだった。
差が縮まったのは、これで初めてだ。
年が明けて、部屋の顔ぶれは変わらなかった。
廊下で、あの帳役に会った。
「今年もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「正月から並んでらしたそうで」
「一番でした」
「例年どおりですね」
「例年どおりです」
男が、少し笑った。
窓の桟に、霜が降りていた。
指で触れると、すぐに溶けた。
「今年は、地下に降りられそうですか」
「まだ分かりません」
「許しは、まだ誰にも出ていないのですよね」
「聞いたかぎりでは」
「不思議な決まりです」
「決まりですから」
「早く、降りられるといいですね」
男は窓口へ戻った。
こちらは机へ戻った。
一月十日。
午後、あの帳役が来た。
千百七年の束を運んできた、あの男だ。
「オルグレン様にお渡しするものが」
「わたしにですか」
「商会宛の手紙です。中に、オルグレン家とありましたので」
「宛先は」
「ハルヴァ商会、とだけ」
差し出されたのは、封筒だった。
もう開いている。
「開封済みで、失礼しました」
「決まりですから」
「差出人は」
「そちらに書いてございます」
礼を言って、受け取った。
「案件が片づいたと思っていたので、少し驚きました」
「片づいたのは、残高までです」
「そうでしたね」
「こういう手紙は、よくあるのですか」
「古い案件が動くと、たまにございます」
「今回のような形で」
「似たものは、何度か見ております」
「返事は」
「番頭さんの領分です。わたくしどもは、お渡しするだけで」
男は一礼して、窓口へ戻った。
封筒の端に、蝋の欠片が残っていた。
欠けた印だが、形は分かる。
うちの印章だ。
書斎の隣の、あの金庫の中にある。
指先が、止まった。
窓際の卓に、封筒を置いた。
誰もいない、応接の小部屋だった。
中の紙を、開いた。
字を見た瞬間に、分かった。
お父様の字だ。
崩れていない。
癖のある「オ」の払いだけが、昔のままだった。
ハルヴァ商会御中
近頃、納めが止まっているように見える。
当方に、覚えはない。
誤りであれば、知らせてほしい。
これまでのことは、いずれ——
オルグレン
文面は、四行だった。
数えるまでもない。
なのに、二度読んで、二度とも五行になった。
三度目、指で辿って、四に戻った。
止まってなど、いない。
今日も納めた。百三十四回目だった。
なぜ、お父様にはそう見えるのか。
わからない。
お父様は、いつもこうだった。
多くを書かない人だ。
封筒を持って、窓口の書役に尋ねた。
「この便は、いつの発でしょう」
「継立の控えでは、一月六日です」
「北からの便でしょうか」
「間違いございません。雪でひと晩遅れております」
「ありがとうございます」
一月六日。
王都まで、ちょうど四日だった。
確認の状。
ヴァレの言葉が、頭に戻ってきた。
残高の動いていない案件には、確認の状を出す。
今年は、まとめて出る。
家名のある先へ、商会から出す。
三通の写しを揃えて出したのは、十一日前だった。
あの束が、その一件になったのかもしれない。
揃えてから、そう気づいた。
一月六日にお父様が書いたのなら、逆算できる。
商会からの通知は、さらに数日前に出ている。
馬車便は、片道四日。
年が明けて、すぐの発だった勘定になる。
何が書かれていたのかは、聞いていない。
残高の写し三通は、番頭より上へ渡しただけだ。
その先で、何が起きたのか。
こちらからは、見えない。
束を渡した先は、番頭より上だ。
会頭の机まで、届いていたのかもしれない。
お父様は、ご存知ない。
だから、こう書いてこられた。
返事を書けば、済むことだ。
説明はできる。三十秒あれば足りた。けれど説明すれば、お父様の名前が出る。
だから、書かない。
封筒を持って、番頭のところへ行った。
「オルグレン家の件で、手紙が」
「拝見します」
ヴァレが、文面に目を通した。
「お返事は」
「商会として、必要でしょうか」
「必要です。ただし」
「担当した者の私信では出せません」
「では」
「窓口を通じて、事務のお返事を出します。型どおりのものです」
型どおり、ということは、名指しでは出ないということだ。
差出人は、商会になる。
「わたしは何を」
「受け取った旨を記録してください」
「それだけで」
「それだけです」
「型どおりの返事は、いつ頃」
「今週のうちには」
「馬車の便は」
「早ければ、四日で届きます」
「四ソルの便でしょうか」
「同じです」
「文面には、何を」
「残高の確認と、受領のみです」
「それだけで、よろしいのですか」
「それで、十分です」
北の領まで、四日と四ソル。
行きも帰りも、同じ額だった。
記録用の紙に、一行書いた。
一月十日。オルグレン家より書状受領。差出人へ、事務にて返答予定。
私信の欄は、無い。
書く場所が無いのだから、書きようもなかった。
部屋を出るとき、会頭とすれ違った。
目が、封筒のほうへ一度だけ動いた。
「その手紙、片づきましたか」
「記録いたしました」
「そうですか」
それ以上は、訊かれなかった。
夜、机の抽斗を開けた。
封蝋もインクも、朝から動いていない。
抽斗の中身は、昼と同じ並びだった。
裁ち紙は、五枚あった。
朝も、五枚だった。
手紙を書けば、四枚になる。
書かなかったので、五枚のままだ。
手帖に、今日の日付だけを書いた。
一月十日。
額も、番号も、書かなかった。
書かなかったことを、書いた。
これで、百四十一行になった。
番号のついた行は、百三十四のままだ。
十一年前は、百で終わる勘定だった。
番号だけで、もう百三十四ある。
紙は、減っていない。
増えもしない。
明日も、五枚あるはずだ。
窓の外で、鐘が鳴った。
一月十日の、最後の鐘だった。
抽斗を閉めた。
鍵は、掛けなかった。掛ける決まりの抽斗ではない。
灯りを、まだ消さなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、実家から手紙が届く回でした。宛先を伯爵個人ではなく商会にしたのは、案件の担当者になった彼女の机に、否応なく乗せるための仕掛けです。十一日前に自分で仕上げた書類が、巡り巡って手紙を呼んだのかもしれない——その因果に、彼女自身、途中で気づきます。
お父様の手紙は、最初はもう少し長く書いていたのですが、削って四行にしました。言葉の少ない人だからです。「これまでのことは、いずれ——」で止める一文だけは、最後まで残しました。
紙を五枚、減らさずに終える場面はあとから足しました。返事を書かなかったことをどう記録するか迷って、行を増やす代わりに枚数の話にしています。書かなかったことも、書けば記録になる。そういう人です。
次話、実家の暮らしが立ち行かなくなります。
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