三月
二月一日。
窓の外はまだ暗かった。
鐘が鳴るまで、寝床で待った。
鐘の音を数えた。
六つだった。
起きて、水盤の氷を割った。
薄い氷は、指の腹で簡単に割れた。
顔を洗った。
水は、思ったより冷たくなかった。
髪を、いつもの位置で結んだ。
鏡は、持っていない。
王都の川面にはもっと厚い氷が張っている。
朝の光を、鈍く返していた。
毛糸の手袋をはめた。
指の先だけまだ冷たい。
部屋を出る前に、抽斗を検めた。
裁ち紙は、五枚のままだった。
本館へ向かう道を、息を白くしながら歩いた。
奥の戸で、書役の一人に会った。
「今日も、冷えますね」
「毎年、二月がいちばん堪えます」
「一月より、でしょうか」
「一月は、まだ気が張っています」
「二月は」
「気が緩んで、堪えるのだと思います」
男は肩をすくめた。
窓口へ戻っていった。
窓口に並ぶ客は、五人だった。
正月の朝より一人多い。
窓口で、十八リーヴルを出した。
書役が硬貨を三枚ずつ数え、皿に乗せる。
「二月分、確かに」
「お願いします」
受領証を受け取った。
百三十五枚目。
番号は、百三十五。
総額は、二千四百三十リーヴルになる。
元本は千八百だった。
差はとうに、利息のぶんを超えている。
百三十五回。
十一年と、二月になる。
元本を借りたのは、千百三年の十二月だった。
あれから、この日まで数え続けている。
指で桁を辿った。
合っている。
持参金はまだ動いていない。
六百十八のままだ。
住み込みの給金から、返済十八。
残り八は、いつもどおり手元に置いた。
書役が、次の客を呼んだ。
窓口を離れる前に、尋ねた。
「残りの回数を、伺えますでしょうか」
「まだ、確認が済んでおりません」
「今回もですか」
「申し訳ございません」
「原本のほうは」
「動いておりません」
十四度目だった。
答えが返ったことはまだ一度もない。
来年も、同じ問いを立てるだろう。
それだけは、決まっている。
窓口を出ると、書役に呼び止められた。
「これを、棚へ戻していただけますか」
「かしこまりました」
束を受け取った。
去年の分の、控えの写しだった。
卓に戻った。
朝のうちに、写しの続きを進めた。
文字を書く手は乱れていなかった。
十一月八日に、家を出た。
数えれば、じき三月になる。
行き先も決めずに出た日を、指で数えたことはない。
これが初めてだった。
午前は、いつもどおりだった。
控えを写した。
束ねて、棚へ運ぶ。同じ手つきを、繰り返した。
昼の鐘が鳴っても、手を止めなかった。
空腹は慣れている。
窓の桟に、霜が降りていた。
息を吹きかけると、白く曇った。
午後、控えの写しを運んでいた。
廊下の奥で、声がした。
窓口の書役が、二人で立ち話をしていた。
「北の便りは、まだ来ないのか」
「ベルヌの取次から、今朝方」
「良い便りではなさそうだな」
「大工が、代金を待たされていると」
「いつからだ」
「正月を越えてから、だそうです」
「薪屋も、今年は掛けを断ったと聞きました」
「断った、とは」
「品を、卸さなくなったと」
「額は」
「三軒分で、四十リーヴルほどとか」
「使用人の給金も、遅れていると」
「まさか」
「噂です。確かではありません」
「他には」
「仕立て屋も、断ったと聞きます」
「仕立て屋も、か」
「新しい生地は、もう卸さないと」
「継立からの噂か」
「まず継立で。そこからベルヌの帳場へ回って、北の商家からこちらへ」
「うちに、関わりは」
「無くはない。手形の扱いを、頼まれるかもしれません」
「まだ、正式にはでしょう」
「まだです」
「決まれば、どなたが担当を」
「番頭さんの上が、決めます」
足が、止まった。
「その家は、どちらの」
「北の、伯爵家だとか」
「名までは」
「オルグレンと」
指を動かした。
硬貨を数える形に、癖で動いた。
いくつ数えたのか、出てこなかった。
もう一度、動かしてみた。
やはり、出てこなかった。
初めてだった。
数字がひとつも浮かばない。
二人はこちらに気づかなかった。
束を持ち直して、通り過ぎた。
手の中の束を、もう一度持ち直した。
重さは、変わっていない。
歩き出した。
足の運びだけは、崩さなかった。
棚まで、歩数を数えながら歩いた。
いつもの数と同じだった。
指の先が、少し落ち着いた。
落ち着いた、と思っただけかもしれない。
確かめる術は無かった。
棚の前で、あの帳役に会った。
「オルグレン家の一件、また動きそうです」
「動く、とは」
「北の取次から、催促の便りが来ているそうで」
「催促、ですか」
「掛けの分だとか。うちの扱いではありませんが」
「うちの扱いでは、ない」
「手形にはなっていない掛けです。大工や、薪屋の」
「締めは、済んだのでしょうか」
「十二月の、ですか」
「はい」
「済んでいない、と聞きました」
「誰からです」
「取次の噂です。確かではありません」
「うちの締めは、とうに終わりました」
「あちらは、まだのようです」
「なぜ、済まなかったのでしょう」
「さあ。締める方が、いらっしゃらなかったのでは」
「今までは」
「先代の頃からの、家扶がいたそうです」
「家の帳面を、束ねる方ですね」
「さようで。掛けの支払いも、その方が」
「今は」
「聞いておりません」
「代わりは」
「まだ、立っていないようです」
「取次には、家扶宛の書状も出したそうです」
「返りは」
「無いままだと聞きました」
「いつ出したものですか」
「十二月の、はじめだったかと」
「二度目は」
「出していないはずです」
「なぜ」
「宛先が、代わっていないからでは」
「北の商いは、狭うございますから」
「狭い、と」
「一軒の噂が、すぐに回ります。手形も、掛けも」
「二月に入って、はっきり止まったと」
「止まった、というのは」
「品が、入らなくなったと。掛けが利かないので」
「それだけで、家は」
「回らなくなります。すぐには潰れませんが」
男は口をつぐんだ。
束を抱え直した。
「オルグレン様には、お聞かせするような話でも」
「いえ」
男は一礼して、棚の向こうへ戻っていった。
棚の奥に、見慣れた表紙があった。
角度を変えると、見えなくなった。
束の紐は、他の家のものと同じ結び方だった。
特別に、固く結ばれているわけではない。
催促の便りが来ても、棚の位置は変わらない。
紙は、動かないところだけ動かない。
戸口で、番頭に会った。
「例の一件が、また動くかもしれません」
「わたしは、まだ関わりますか」
「いいえ。残高までで、終わっております」
「そうでしたね」
「こうした便りは、月に一つあるかないかです」
「多いのでしょうか」
「多くはありません」
「今年は、何件でしょう」
「二件です」
「少ないですね」
「少のうございます」
「うち一件が、こちらでしたか」
「もう一件は、まだ表に出ておりません」
「この先、どうなりますか」
「わたくしどもの上が、決めます」
「わたしには」
「まだです」
「気になりますか」
「仕事の上では、いいえ」
戸口で、会頭と行き会った。
「北の便りは、お聞きになりましたか」
「うわさの程度に」
「そうですか」
返す言葉が、それ以上出てこなかった。
いつもより、短かった。
言葉の数を、数える癖がある。
今日は、いつもの半分だった。
夕方、外へ出た。
雪が、ちらついていた。
積もるほどではない。
すぐに止むだろう。
宿までの道を、いつもより遠く感じた。
歩幅は変えていない。
通りの店は、もう閉まっていた。
灯りの色だけが、窓に残っていた。
橋を渡った。
欄干に、霜が白く付いていた。
三階へ戻った。
灯りを点けた。
手帖を出した。
二月一日、十八リーヴル。
番号、百三十五。
これで、百四十二行になった。
番号のついた行は、百三十五。
合っている。
受領証を、指でなぞった。
角の丸みで、古いものと見分けがつく。
日付だけは、迷いなく書ける。
紙の角はまだ鋭い。
古い受領証は、もう丸くなっている。
十一年分の受領証を、束ねたことは無い。
束ねれば、どれほどの厚みになるだろう。
棚に積まれた紐束と、同じ高さになるだろうか。
比べたことは、まだ無い。
数えれば、すぐに出る。
今は、数えないでおいた。
あの家がいつ止まったかは、まだ誰も言えない。
数える人がもういないからだ。
十二月も一月も、誰も締めなかった。
それだけは噂だけで分かった。
覚書には、年の締めは十二月と書いた。
読んだ人が、いたかどうかは分からない。
いつ止まったかは、噂には無い。
わたしの受領証には、いつも日付がある。
噂は、四日遅れで届く。
今日聞いた話も、もう古いのかもしれない。
今この時、あの家がどうなっているかは分からない。
分からないことは、数えても出てこない。
合う数と、合わない数がある。
今日初めて両方を見た。
ペン先を布で拭いた。
インクの壺に、蓋をした。
灯りの芯を少し切った。
部屋が静かになった。
手帖を閉じた。
手袋を外した。
もう一度、指を動かしてみた。
昼と同じ、硬貨を数える形に。
やはり、何も出てこない。
手袋のせいではなかった。
寒さのせいでもない。
灯りを消した。
消してからも、指はしばらく動いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、彼女が自分の払いを一枚も欠かさず続けている同じ日に、実家の掛けが止まっているという噂を聞く話でした。二つは別の勘定です。彼女が納め続けているものと、屋敷の職人たちが受け取れなくなったものは、そもそも扱う先すら違います。だからこそ、彼女自身がまだそこに自分を結びつけていません。
噂を運んできたのは、以前にも一度、彼女の手元に裏面の書き損じを見つけられて驚いた、あの帳役です。悪意はありません。ただ、聞いた話をそのまま口にしただけです。言いかけて止める癖は、この作品の男たちに共通のものですが、今回は彼のほうがそれをやりました。
指を動かしても数字が出てこない場面は、今回いちばん書きたかったところです。取り乱すのではなく、いつもできることが一瞬だけできなくなる。そのほうが、彼女らしい崩れ方だと思っています。
次話、実家の誰かが商会を訪ねてきます。
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