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誰が払っていたんだ

二月十八日。


 鐘が鳴る前に、手帖を懐へ入れた。

 抽斗の裁ち紙は、五枚のままだった。


 道の霜柱を、三本踏んだ。

 昨日は五本だった。


 商会街の店は、まだどこも戸を閉めている。

 本館の門だけが、先に開いていた。




 朝の帳合を、いつもどおり済ませた。


 控えの束を三つ、受付へ運んだ。


 行き帰りで七十歩。数えなくても分かる道だった。


 顔を上げると、窓の外に、馬が二頭見えた。


 黒い箱馬車。車輪の泥は、まだ乾いていない。

 馬は二頭とも痩せていた。毛づやが悪く、轡の金具も曇っている。


 扉の脇に、紋があった。

 麦の穂を二本、交差させた紋。


 オルグレン家の紋だった。

 見間違えようが、なかった。


 束を持つ手を止めた。


 通りを行く人が、何人か振り返った。


 紋を見て、何かを言い合っている。


 声までは、届かない。


 隣の卓で、あの帳役も気づいた。


 「あれは」

 「オルグレンの紋です」

 「北の、伯爵家の」

 「はい」

 「先だっての、あの」

 「はい」

 「馬が、痩せておりますね」

 「そう見えます」


 男は、それ以上訊かなかった。




 馬車から降りたのは、お父様だった。


 仕立て直しの上着。二季遅れの、あの上着。

 肩の布が、以前より余っている。


 髪は、記憶より白かった。


 供の姿は無かった。一人で、御者台から降りている。

 手袋は、していなかった。


 御者もいない。手綱を自分で結んでいる。


 誰にも告げずに出たのだろう。

 告げれば、止められる人だ。


 結び方が、ほどけそうだった。

 うちの御者は、二度巻いてから締める。


 受付の書役に、何か告げている。


 声までは届かなかった。


 束を渡して、卓へ戻った。


 控えの写しを続けた。字は、乱れなかった。


 窓口に、客が三人並んでいた。


 いつもどおりの、朝の混み方だった。


 お父様の目が、広間をひとわたり動いた。


 卓は六つある。書役も帳役も、それぞれ席にいる。


 壁際の帳面棚を、見上げた。


 棚の高さに、少し驚いたようだった。


 この建物へ来るのは、初めてなのだろう。


 その目が、わたしの卓の上でも一度止まった。


 止まっただけだった。


 顔までは、見ていない。


 そのまま、隣の卓へ移っていった。




 受付の書役の声が、奥まで届いた。


 「オルグレン様という方が、手形のご相談に」

 「お約束は」

 「ございません」

 「今、参ります」


 しばらくして、番頭が奥から出てきた。


 「お待たせいたしました」

 「構わん」


 「奥に、部屋がございます」

 「ここでいい」

 「人の耳がございますが」

 「長くはかからん」


 番頭が、椅子を勧めた。


 お父様は座らなかった。立ったまま、話し始めた。


 「手形を頼みたい」

 「手形でございますか」

 「掛けが払えない。品が入らなくなった」


 番頭が頷いた。帳面を、片手で支えている。


 お父様の手が、椅子の背をつかんだ。


 座らないと決めた手が、そこだけ支えを探していた。


 「額は、いかほど」

 「薪屋が四十だ。三軒ある」

 「他には」

 「大工が二十八。仕立て屋が十二」

 「八十でございますね」

 「……そうなるか」


 番頭が、帳面の余白に三つ書いて、線を引いた。


 八十は、こちらの手が先に出していた。

 番頭の口が動く前に、指が答えを置いている。


 控えの写しが、そこで一行ぶん遅れた。

 遅れた行に、印を付けた。


 「取次をお立てには」

 「家扶がいない」

 「今は、どなたが差配を」

 「わたしが、自分で来た」


 番頭が、少し間を置いた。


 「使用人の給金は」

 「遅らせている」

 「何月分から」

 「……先月からだ」

 「何人おいででしょう」

 「二十二人だ」

 「今も」

 「減った」

 「何人に」

 「数えておらん」


 二十二から、いくつ引くのか。

 引く数が無ければ、答えは出ない。


 出ないものを、この人は減ったと呼ぶ。


 番頭が、帳面の端を押さえ直した。


 「薪は、どれほど残っておいでです」

 「分からん」

 「厨にはお尋ねに」

 「……いや」

 「三月に、地代の前借りの話が出ます」

 「聞いておらん」


 「一月に、お便りを差し上げております」

 「読んだ」

 「お返事は、届いておりません」

 「書けなかった」

 「なぜ」

 「言葉が、見つからなかった」


 「商会からの、お返事は」

 「届いた。額の確認だけだった」

 「型どおりのものでございます」

 「分からぬままだった」


 「今日はその続きでしょうか」

 「そうだ」

 「お使いでも、事は足りましたが」

 「使いに出せる者がおらん」

 「ご足労、恐れ入ります」

 「他に、方法が無かった」


 「春には、地代が入るのでは」

 「地代は、まだ先だ」

 「手形は、それまでの繋ぎでございますね」

 「そうだ」

 「繋いだあとは、どうなさいます」

 「……考えておらん」

 「では、こちらで案を立てます」

 「頼む」


 その言葉を、この人の口から何度聞いたか数えようとした。


 数えるまでもなかった。

 今のが、はじめてだ。


 頼まれたことは、なかった。

 言われる前に、済ませていたからだ。


 ペン先が、紙の上で止まっていた。

 いつから止まっていたのかは、分からない。


 「承知いたしました。まず、こちらの掛かりを確かめます」


 番頭が、こちらへ歩いてきた。


 わたしの卓の脇で、足を止めた。


 「証文の控えを」

 「こちらに、ございます」

 「二冊とも」

 「二冊とも、揃っております」

 「では、お願いします」


 束から一冊を抜いた。表紙の角が、少し丸くなっている。


 あの帳役が、別の束を運んできた。


 「番頭さん、こちらもお使いになりますか」

 「使います。置いてください」

 「かしこまりました」


 男は一礼して、離れていった。


 番頭が、二冊を持って戻った。


 お父様の前で、開いた。


 頁を、繰った。指先で行を辿っている。


 紙の擦れる音が、静かに続いた。


 番頭の指が、一行ごとに止まる。


 止まる場所は、こちらにも分かった。

 十一年、同じ行を同じ順で見てきた頁だ。


 次に止まる行を、先に思い浮かべた。

 合っていた。


 「千百三年、十二月」

 「そこからでございますね」

 「千八百リーヴル。月に十八」

 「元金は、そのとおりです」

 「それは、覚えている」

 「では」

 「……いや」




 「今日まで、滞りございません」

 「そんなはずはない」

 「百三十五回、二月一日まで」

 「次はいつだ」

 「三月一日でございます」


 お父様の顔が、動いた。


 「誰も払っていない」

 「払っていなければ、この帳面にはなりません」

 「確かなのか」

 「二冊とも、確かめました」


 「なぜ、誰も知らせなかった」

 「口座の話は、商会の外へは出しません」

 「出さない、とは」

 「取り決めでございます」


 「うちの掛は、正月から止まっている」

 「こちらの証文は、別の口座でございます」

 「別だと」

 「はい」

 「初めて聞いた」

 「左様でございますか」


 「では、誰が」


 番頭が、こちらを見た。


 「オルグレンさん」


 お父様の目が、動いた。


 卓のわたしを、見た。


 目が、卓の上のものを見た。


 帳面。ペン。手袋。


 それから、顔を見た。


 しばらく、誰か分からない顔をしていた。


 「……リディア」


 声が、掠れていた。


 目が、帳面へ戻った。それから、また顔へ。


 二度、三度、往復した。


 「誰が払っていたんだ」




 お父様は、立っていた。

 わたしは、座ったままだった。


 番頭が、こちらへ手を出しかけた。


 出しかけて、止めた。

 止めたまま、下ろした。


 抽斗から、手帖を出した。


 十一月の朝、卓に載せなかった一冊だ。

 帳簿も覚書も鍵束も、あの卓に置いてきた。


 これだけを、懐に入れた。

 理由は、そのとき自分にも説明できなかった。


 表紙は、もう十一年分の指の脂で黒ずんでいる。


 開いた。指で、頁を辿った。

 迷わなかった。


 今日は、まだ一度も数え直していない。


 昨日は三度あった。三度とも、出てこなかった。

 この頁だけは、指を置けば出る。


 「百三十五回、納めました」


 一拍、置いた。


 「そのうち百三十二回は、あの家にいるあいだのことです」


 「どなたも、一度も、お気づきになりませんでした」


 お父様は、何も言わなかった。


 数えた。


 一つ、二つ、三つ。


 十まで数えても、誰も動かなかった。


 番頭も、何も言わなかった。


 帳面をめくる音さえ、止まっていた。


 隣の卓で、ペン先の音も止まっている。


 誰も、こちらを見ていなかった。見ないふりを、していた。


 あの帳役の手も、止まったままだった。


 窓の外で、鐘が鳴った。昼の鐘だった。


 六つ、数えるあいだも、誰も動かなかった。


 「日付も金額も、立会人もございます」

 「ご覧になりますか」


 お父様は、答えなかった。


 「わたしは、家を出ただけです」

 「何も持ち出しておりません」


 唇が、動いた。


 「……お前が——」


 そこで、止まった。


 続きは、出てこなかった。


 手帖を、閉じた。

 抽斗へ、戻した。


 番頭の開いた二冊と、この一冊。


 三つとも、同じ数を出していた。


 合っている。


 十一年、合わせるためだけに書いてきた。

 今日はじめて、人の前で合った。


 それを見た人が、この部屋に三人いる。

 三人とも、何も言わなかった。




 戸口の向こうに、会頭が立っていた。


 いつからいたのか、分からない。


 左手が、扉の枠に触れている。


 何も、言わなかった。


 番頭が、口を開いた。


 「手形の件は、日を改めます」

 「承知した」


 お父様は、目を伏せた。


 番頭に、一礼した。


 わたしには、何も言わなかった。


 背を向けて、歩いていった。




 窓から、馬車が見えた。

 麦の紋だけが、遠ざかっていった。


 扉が、静かに閉まった。音は、それだけだった。


 番頭が、束を集めた。

 集めてから、手を止めた。


 「オルグレンさん」

 「はい」

 「先ほどの件は、帳面に残しますか」

 「残す決まりでございましょうか」

 「決まってはおりません」

 「では、残しません」

 「承知しました」


 番頭は、それ以上は訊かなかった。


 「戻ります」

 「はい」




 控えの写しに、戻った。


 字は、最後まで乱れなかった。


 隣の卓で、あの帳役がまたペンを動かし始めた。


 「オルグレンさん」

 「はい」

 「墨、お使いになりますか」

 「いただきます」


 男は、それ以上は言わなかった。


 広間は、いつもの音に戻っていった。


 その日、控えを五束仕上げた。

 いつもと、同じ数だった。


 夕方になって、喉が痛むのに気づいた。


 声を張ったわけではない。

 張らないでいるほうに、力が要ったらしい。


 十一年、その力の使い道を、勘定に入れていなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は、十四話ぶん溜めてきたものを一度だけ表に出す回でした。声を張らせず、立場だけを入れ替えて書こうと決めていました。父を立たせたまま、彼女を座らせたままにする——それだけで場面が決まる気がして、台詞はあとから減らしました。


 「百三十二」という数字は、この作品の背骨です。今回はそこに「百三十五」という現在の数字を並べて出しました。彼女は数を間違えない人なので、古い数字だけを言わせるわけにはいきませんでした。二つの数の差が、そのまま十一年と三月の重みになればと思っています。


 次話、妹が訪ねてきます。


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