ハルヴァ商会
宿の階段は十四段あった。
昨夜は十三段だと思っていた。
暗いうちに下りたので、途中で数え直した。
下から二段目が、ほかより低い。
そこで一度、数が飛ぶ造りになっている。
帳場に灯りが点いていた。
「お早いこと」
「暗いうちに出ます」
「パンは焼けております」
「いただいてまいります」
「今夜もお泊まりで」
「決めてから戻ります」
「決まらなかったら、そのまま戻っておいでなさい」
女将が布巾で卓を拭いた。
拭きながら、こちらを見なかった。
「石の門までは、どう参ればよろしいでしょう」
「川のほうへ下って、二つ目の広い通りを右へ」
「二つ目の広い通り」
「門より高い建物がございませんから、迷いません」
外に出ると、息が白かった。
昨日より濃い。
通りに真っ直ぐな道が一本もない。
二つ目まで数えるのに、四つ曲がった。
栗売りの言ったとおりだった。
石の門を抜けると、硬貨の音がした。
三枚ずつ数えている音だ。
ベルヌの帳場は、五枚ずつだった。
同じ商会でも、数え方は揃わないものらしい。
広間は思っていたより明るい。
高いところに窓があって、光が斜めに落ちている。
日はまだ上がりきっていない。
それなのに、卓はどれも埋まっていた。
女将の言ったとおりでもあった。
窓口は四つある。
左から三人、五人、二人、四人が並んでいる。
いちばん短い列に着いた。
前の男が革の袋を卓に置いた。
置いた音で中身の見当がつく。銀ではない。
息はもう白くない。
建物の中に入ったからだ。
「ご用向きは」
書役は顔を上げなかった。
「オルグレン伯爵家の掛のことで参りました」
「お納めですか」
「今日は納めません」
「では」
「来月の朔日から、こちらで納められるかを伺いに」
書役が帳面を引き寄せた。
角がこちらへ向く。表紙の革が擦れている。
「取次はどちらです」
「ベルヌの帳場です」
「ベルヌのマルタン」
「そちらへ十一年、納めてまいりました」
男の指が頁を落ちていく。
マルタンより速い。数える指ではなく、探す指だった。
「……ございますね」
「ございますか」
「本館でお受けできます。取次を通さずとも構いません」
八日。
王都からベルヌまで四日。戻ってまた四日。
月に一度、八日を道に置かずに済む。
その八日が、まるごと浮いた。
浮いた、と思ったのは十一年ではじめてだ。
「もうひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「総額と、残りの回数を」
書役の指が止まった。
止まった場所を見ていた。
頁の左の端だ。額の欄ではない。もっと外側にある。
「……少々お待ちを」
「お手間でしょうか」
「奥へ伺ってまいります」
男は帳面を閉じた。
閉じてから、両手で持って立った。
窓口には、次の人が入らなかった。
待つあいだに、広間を数えた。
卓が六つ。書役が六人。
二人が立っていて、四人が座っている。
どの卓にも秤がある。
皿の下に布が敷いてあった。音を殺すためだ。
ベルヌの帳場に秤は無い。
マルタンは指だけで数えた。
同じ商会の、同じ受けの場所なのに。
奥の卓で、書役が二人で話していた。
「北の分は、まだ届かんのか」
「継立で止まっとります。雪だそうで」
「締めまで幾日ある」
「十七日で」
「足りんな」
「人を入れると番頭さんが言うておいででした」
十七日。
覚えてしまった。
覚えたところで、使い道はまだ無い。
高い窓の光が、床の目地をひとつ跨いだ。
それだけの時が過ぎたということだ。
うしろで戸が開いた。
戻ってきたのは、さっきの書役ではなかった。
「リディア・オルグレン様でいらっしゃいますね」
振り向いた。
背の高い男が立っている。
平服だった。飾りがひとつも付いていない。
布は広間の誰よりも良い。
仕立ては広間の誰よりも簡素だった。
足が動かなかった。
窓口で申し上げたのは、家名だけだ。
名のほうは、誰にも言っていない。
数えようとした。
この四日で名を言った相手は、継立の帳場と、宿の女将と——
三人目が出てこない。
二人だ。二人しかいない。どちらもここにはいない。
頭から数え直した。同じところで止まった。
もう一度やって、また止まった。
十一年、勘定が途中で止まったことはない。
「……名乗ってはおりませんが」
「うちは債権を全部把握していますので」
男はそう言った。
言ってから、一拍だけ置いた。
「……いえ。そういうことにしておいてください」
何のことか分からなかった。
分からないまま、頭を下げた。
「どちらさまでしょう」
「ジェレド・ハルヴァと申します」
「会頭の」
「ここでは、そう呼ばれています」
「立ったままでは何です。奥へお通りください」
示された戸は、窓口の並びの外にあった。
用のある人だけが通る側だ。
用はある。訊きに来た。
通されたのは小さな部屋だった。
卓がひとつ、椅子が二脚。棚には何も載っていない。
人の話を聞くためだけに空けてある部屋だ。
「お掛けください」
椅子を引いた。座面が硬い。
長く座らせるための椅子ではなかった。
「先ほどのお話です」
「伺います」
「来月の朔日から、本館でお受けします」
「取次には」
「こちらから通します。ご心配は要りません」
「では、そちらへ納めます」
会頭が頷いた。
頷いただけで、書きつけはしなかった。
「十八リーヴルを、月の初めに」
「そうしております」
「日を決めておかれるとよろしい」
「決めております。朔日です」
「王都には市の日がありません」
「朔日のうちに参ります」
紙は出てこない。
ベルヌでは、この話をするあいだに受領証が一枚書けた。
「十一年、一度も欠かしておりません」
「存じています」
顔を上げた。
帳面に載っていることだ。
載っていることを言われて驚くほうが、おかしい。
「あと何回でしょう」
会頭は、すぐには答えなかった。
窓のほうを見たわけではない。
こちらを見たまま、答えなかった。
卓の上で、指が一度だけ動いた。
「……総額と残りの回数は、本館の控えにあると伺っております」
「控えにはございます」
「では」
「今月の末から、帳面が締めに入ります」
「年の締めですね」
「照会は、そのあとということになっています」
「いつごろでしょう」
「年が明けます」
年が明ける。
次の朔日は、そのまま来る。
「では、納めるほうを先に」
「そうしていただけますか」
全部把握していると、この人は言った。
把握しているものを繰るのに、年が明けるらしい。
締めというのは、そういうものだ。
ベルヌでも、来月は混むと言われた。
十一年、この問いに答えが返ったことはない。
今年もそうなった、というだけのことだ。
十二度目になる。
会頭が卓に手を置いた。
左の手だった。
甲に古い痕がある。霜焼けのあとだ。
商人の手にしては、指の付け根が厚い。
目を戻した。
人の手は、どの勘定にも入らない。
「もうひとつ、お尋ねしてよろしいでしょうか」
「お聞かせください」
「こちらでは、帳付けを入れておいでですか」
会頭が顔を上げた。
「どなたのご紹介です」
「紹介はございません」
「どちらでお聞きになりました」
「乗合の馬車で。冬は人が要ると」
「要ります」
「でしたら」
「ただ、字が書けるだけでは使いません」
そうだろうと思った。
字だけなら、この広間に六人いる。
「日記帳と仕訳帳と元帳。合わないものを探すなら、どれから開きますか」
「元帳です」
「なぜです」
「差が出るのは、集めたあとですから」
「日記帳から追う者が多い」
「日記帳では、落ちた一行が落ちたまま流れます」
「元帳なら」
「勘定ごとに残高が立ちます。立たない勘定だけが残ります」
会頭は何も言わなかった。
言わないまま、卓の上で指を組んだ。
組んでから、また解いた。
「どちらで習われました」
「習っておりません」
「では」
「十一歳から書いております」
「では十一年ですね」
「十一年と、少しになります」
窓の外で、荷を下ろす音がした。
重い荷だ。二人がかりで下ろしている。
音がやむまで、どちらも口をきかなかった。
「宿はお決まりですか」
「一晩ずつ取っております」
「部屋をお探しになる」
「探します」
「商会街の裏は、冬に風が抜けます」
「風」
「川からです。うちとしては、南側をお勧めしています」
「商会が、部屋を勧めるのですか」
「……方針として」
会頭が椅子を引いて立った。
わたしも立った。
椅子の脚が床を擦る音が、二つぶん重なった。
部屋を出て、廊下を戻った。
先のほうに、降りる段が見える。
灯りが下から来ている。壁が石だ。
「あちらは」
「書庫です」
「証文の」
「原本を置いております」
「拝見できますでしょうか」
「会頭の許しが要ります」
「あなたが会頭では」
会頭は、こちらを見た。
「……そういうことになっています」
それきり、その話にはならなかった。
わたしも二度は訊かなかった。
二度訊いて出てくる答えなら、一度目に出ている。
広間まで戻った。
列は朝より長い。
左から六人、四人、五人、四人になっている。
「明日の朝、もう一度おいでいただけますか」
「何刻でしょう」
「日の出に」
「伺います」
「表の窓口ではなく、こちらの戸へ」
「こちらの戸ですね」
会頭が頭を下げた。
商人の礼だ。深くはない。
下げた拍子に、襟足が目に入った。
そこだけ刈り残してある。
顔を上げたとき、目は合わなかった。
もう次の書役のほうを向いていた。
石の門を出た。
通りは来たときより人が多い。
荷を担いだ者と、紙を抱えた者が、同じ幅を分けて歩いている。
息が白い。
外に出れば、まだ白くなる。
歩きながら今日を締めた。
出た額が無い。
入った額も無い。
紙も一枚もらっていない。
十一年、月の初めには必ず一枚残った。
日付。額。立会人の名。
紙には、その三つが要る。
今日は三つとも無い。
残ったものが、ひとつだけある。
わたしが言っていない、わたしの名前だ。
懐に手をやった。
手帖は、そこにある。
開かずに、手を離した。
朔日まで、あと十八日。
それまでに、あの人にもう一度会う。訊きそびれたことが、まだ二つ残っている。
どの欄に立てるものか、出てこない。
立てるところの無いものを、十一年で一度も持たなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この話は、会頭が名前を呼ぶところだけ先に決まっていました。彼女はまだ家名しか言っていない。それだけの一行なのに、書くのに一番手間取ったのがそこでした。呼ばれた側が驚きすぎると謎解きの話になりますし、流しすぎると置いていかれる。足が止まって、それでも頭を下げる。そのくらいが彼女の限界だろうと思っています。
「あと何回でしょう」は第二話でベルヌの帳場に置いた問いです。あのとき答えは返りませんでした。今回も返りません。数えると、これで十二度目になります。本館まで来ればさすがに分かるはずだと彼女は思っていて、わたしはそう思わせたまま書きました。書いているあいだ、ずっと後味が悪かったです。
左手の甲の痕は、意味を書かずに置いてあります。彼女は人の手を勘定に入れないので、見ても通り過ぎます。今はそれでいいことにしました。
これで第一部「名義返上編」が終わりです。八話のあいだ、この人は誰とも争いませんでした。次話から第二部「商会編」に入ります。彼女は、あの石の門を働きに来る側としてくぐります。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次話の励みになります。




